高島先生の言う「和語に漢字を当てはめるのは無意味」
とまったく正反対のことを言っているのが白川静である。

 世は「漢字ブーム」、すなわちそれは「白川静ブーム」である。
 すこしばかり「白川本」をかじってみた。



島さんが「和語はひらかなで充分。漢字を当てはめるのは無意味」と主張される感覚はよくわかる。いやわかっていなかったから初めて読んだとき目から鱗で感嘆したのだった。

 島さんの主張を端的な例で言うとこうなる。

「日本語のうつす≠ニはあっちのものをこっちに動かすことである。だから和語のうつす≠ヘうつす≠ナしかなく、それを写真を写す、映画を映す、物を移すのように漢字を使い分けることは無意味」というものだ。

 これを『お言葉ですが…』に書いたら、読者から「移すと写すは違う意味だ」と抗議が来たとか。島先生、怒った。あっちのものをこっちに動かすうつす≠ノは、移すも写すも含まれている。それをわからないひとはバカとしか言いようがないと。

 私は島先生のこの意見を初めて読んだとき感嘆した。私もこの抗議した読者と同じレヴェルなので、ものを動かす移すと写真を写すはちがうかのように思っていた。でもたしかに「あちらのものをこちらに動かす」のが日本語のうつす≠ネら、写真を写すこともまた対象とする映像をカメラの中に移動させることであるし、写すも移すも映すもみな日本語の「うつす」に含まれているのだった。

 だけどまた多くの読者も同感であろうが、日本人は様々な漢字のうつす≠使い分けることを楽しみとしているから、それを「無意味だ、やめろ」と言っても無理だろうなあ、とも思った。

---------------

日本語入力装置のATOKは、それを売り物にしてきた。すなわち「写真を撮る」「ペンを執る」「ものを盗る」「テレビ番組を録る」等を自動で判断してくれるのである。いまここに書いたものもそのままひらかなで入力したら「とる」の字を自動で使い分けて変換してくれた。それが売り物になるのだから、世の中にはそれを気にする人が多いのだろう。というか日本語の特徴であり楽しみである。

 そういうことは無意味であり、「とる」は「とる」がただしい。どうしても漢字を使いたいならすべてのとる≠いちばん普及している取る≠ノしちまえと言っている島先生がこんなことを知ったら、なんと小賢しいとお怒りになるだろう。

 会社で「写真を取る」と書いたら叱られるのか? 学校の試験では×か?
 よくわからんが、かくいう私も島先生に心酔しつつ、提出する商業原稿では「写真を撮る」「テレビ番組を録る」「野草を採る」「ペンを執る」のように使い分けている。「取る」と書いてもゲラの段階で直される。書きまちがいと判断されて。そう思われるのもしゃくなので、その辺は割り切らねばしょうがない。

 ちなみに「ふでをおく」を変換してみると「筆を擱く」になる。すごいねえATOK。これなど漢語の「擱筆」を知っていないと出来ないことでやりすぎとさえ思う。荷物を置くのように筆を置くにはしないのだ。「筆をとる」は「執筆」の熟語があるように「筆を執る」である。筆は執って擱く。
「筆を取る」「筆を置く」と書いたら無教養と嗤われるのだろうか。もっとも電子メール時代の今、そんなことばすら使わなくなっているが。

 まあATOKの場合「やりすぎ」は、異常な差別用語等の削除だ。とにかくもう変換できないので「気違い」「屠殺」を始めぜんぶ単語登録してきた。他人様に気違いと言ってはいけないのかも知れない。テレビではタブーだ。でもそのこととIMEが最初から変換できないようにしていることは意味が違う。長年のATOK愛用者だがこのことだけは納得できない。

---------------

  テレビのクイズ番組で漢字がブームになった。まあそもそも「なぜクイズ番組がブームになったか」の理由は、不景気であり、低予算で作れるからなのだが、それはともかく。とにかくまあ毎日毎日漢字の問題が出ている。

 最初はよくある当て字の外国都市名、桑港、倫敦とか、あるいは植物名の無花果とか生物の海鼠とか、そういうものだったが、番組も多発されネタが尽きてくると放送作家もあれこれ出題ネタを探しまくる。

 なんという番組だったか、ある日「道という漢字にはなぜ首があるか!?」が出題された。だれも応えられない。むかしは悪霊を退散させるために切りとった敵の首を掲げて道を歩いていったから、との正解が示されると、会場および解答者から感嘆の声が漏れる。

 たまたま白川先生の本を読んでいてそれを知っていた私は、問題を作る放送作家はあれを読んだのだなと思ったものだった。こりゃ白川ブームが来ると予感した。

 案の定それからは白川的漢字解釈からの問題があちこちで出題されるようになった。漢字問題に餓えていた放送作家にとって宝の山だから当然だった。

---------------


 白川さんの考えは高島先生とはまったく逆である。
 高島先生の考えは東大で教えを受けた師匠のものらしい。博識なかたがその先生のお名前も書かれていたが無学な私がそんなしったかぶりをしてもしょうがないのでそこにはつっこまない。
 ただ最高権力を誇る東大一派が関西の私学立命館での白川研究を否定しているとなると、白川さんに東大の権威に負けるなとエールを送りたくなる。でも私ごときがそんなことをしなくてもこの件に関しては圧倒的に白川さんの考えが世間の支持を受けているから問題ない。ひらかな優先の高島理論は圧倒的に不利である。

 高島先生の考えは、おもう≠ナ言うなら、和語のおもう≠ノはすべての意味が含まれており、それにあれこれ異なった漢字を当てはめたりするのはナンセンスとなる。

 白川さんは逆のことを言う。日本語のおもう≠ノはちいさな狭い意味しかない。ところがそこに漢字を当てはめ、思う、想う、憶う、念う、懐う、と使い分けることによって様々な意味が生じ拡がり、日本語は大きな可能性を得た、というものだ。

 どちらが正しいだろう。私は高島先生を支持するものだが、一般的には圧倒的に白川派の大勝だろう。和語にどの漢字を当てはめるかというのは日本語の漢字カナ交じり文章を書くときの大いなる楽しみである。

 だが同時にまた究極の、といったらへんだが、自分のこのおもい≠どう表記しようかと悩み始めたら、それは思うでも想うでも憶うでもなく、けっきょくはおもう≠セったというのも文学的によくある形だ。
 それは空の青さを表現するのに、青いでも蒼いでもなくあおい≠ノするのも同じ。白川世界では漢字のしたに和語があるようだが、漢字を超えた世界に和語があるのも事実なのだ。

 浅田次郎さんなんかも、これでもかというぐらい漢字知識を多用して難しい漢語を連発したあと、いきなりすかすようにしてひらかなを使ったりする。いくらでも漢字で書けるのになぜかそこがひらかなだから目立つ。そこはひらかなでなければならないという身交わしが巧いなと思う。



 テレビ番組のクイズで出題された白川問題といえば、「取る」もあった。
取るは何故耳偏なのか!?」である。これは有名な話だが、戦のとき敵の耳を切りとって集め、殺した相手の数を数えたのだ。だからとる≠漢字にすると「耳を切りとる」で取る≠ノなる。

 すべての和語のとる≠取る≠ノしてしまえという高島さんの考えは、取るが一番簡単な漢字で誰もが知っているからである。このことに関してもしも「取るは相手の耳を切りとることで残酷な漢字ですから」と言ったりしたら、それは白川理論だと高島先生はお怒りになるのだろう。そんなことはどうでもいいのだと。

 白川先生の本を楽しみつつ、私は高島先生の感覚で生きて行きたいと思うのだが、凡人が波風立てずに生きて行くには、世間に併せた漢字使いをせねばならない。俗人がひっそり生きるのはけっこうむずかしいものだ。

------------------------------



 2010年1月号「ユリイカ 白川静特集号」に、高島先生が文章を書かれた。そこで高島さんは白川さんや、高島さんの師匠のように言われている藤堂明保さんにも触れている。上の文にあるまちがいを確認できたので補稿した。
 ぜひ続篇として以下の文を読んでいただきたい。

 「ユリイカ 白川静特集号」の高島さんの文章

============================================
inserted by FC2 system