2010年1月号のユリイカは白川静特集。
それに高島さんも文を寄せている。
広告に高島さんのお名前は載っていない。ファンとしては、名を入れてほしいと願う。ないと見逃してしまう。
しかし中身を読めば入ってなくて当然と納得する。

高島さんの文章タイトルは
「両雄倶には立たず――白川静と藤堂明保の『論争』 」



 高島さんがこの「ユリイカ」に寄稿するまでの経緯が興味深い。高島ファンである私には、テーマの「白川藤堂事件」よりそのことのほうがおもしろかった。



「白川静特集号」を作るにあたり、「ユリイカ」の編輯者が高島さんに手紙で原稿を依頼してきた。白川静先生に関して書いて欲しいと。
 電話ではなく手紙での原稿依頼というのが、いかにも先々まで企劃の決まっている趣味の月刊誌らしくていい雰囲気だ。私も学生時代、一時期熱心に「ユリイカ」を買い揃えていたことがある。「谷河俊太郎特集」「鮎川信夫特集」とか。いまも保っている。

 依頼内容はかなりへんである。
 その編輯者の手紙は、

・1970年に岩波新書として発刊された白川静の本『漢字──生い立ちとその背景』の書評を東京大学教授の藤堂明保が書いた。

・藤堂はその解説で白川を全否定した。

・白川は後日それに反論し、藤堂の意見をこれまた全否定した。

・それに対して藤堂は沈黙した。

・藤堂は白川に論破された。

・その辺のことをテーマに白川さんについて書いて欲しい。


 というものだった。

 へんと思うのは、世間的に、高島さんは東大でこの藤堂さんに教わり、漢字に関して師匠と同じ意見(=アンチ白川)と思われているからである。私のような無学な俗物高島ファンでも、高島さんの漢字に対する考えが白川さんと対極にあることは理解している。



 《『お言葉ですが…』論考》「高島対白川」

 その高島さんに、「今度白川静特集号を作ることになった。そこに、むかし藤堂って東大教授が白川さんに完全論破された事件に関してなんか書いてくれ」と原稿依頼するのはズれている。
 特集するぐらいであるから、編輯部の基本姿勢は白川寄りである。全面的白川漢字学肯定だ。それはその後その「ユリイカ」を読んで確認した。白川さんを支持するひとたちの白川礼讃本である。

 高島さんが紹介している編輯者の手紙内容から忖度するに、この編輯者は「白川さんが完全に藤堂を論破した。勝った。それは歴史的事実。めでたしめでたし。というわけでこの痛快な出来事を下敷きに、あんたにも白川さんの魅力について一筆書いて欲しい」という感じである。

 この編輯者は高島さんの漢字に対する考えかたを知らない。高島さんの著書を読んでいない。知っていての意地悪い依頼ならまだわかる。「あんたの師匠がノックアウトされたあの試合の感想を聞かせてくれ。師匠の仇が討ちたいなら、それでもいいよ」なら。

 だが流れからしてそうではないようなのだ。高島さんを漢字に関して著書のある白川支持者と思い込んでいる。好意的に解釈してもニュートラルだと思っている。藤堂との関係もしらないのだろう。これは編輯者として問題ありだ。写真の「漢字と日本人」に限らず、『お言葉ですが…』シリーズでも、それ以前の著書でも、高島さんは一貫して御自分の漢字に対する考えを表明している。それは白川漢字学とは対立するものだ。白川礼讃の原稿を高島さんに依頼する感覚は、一冊でも読んだことがあれば絶対に出て来ない発想になる。

 短気な高島さんだから、この的外れな依頼を即座に断ってもおかしくない。藤堂教授との関係はともかく、高島さんの読者であり、すこしでも高島さんの考えを理解しているなら、こんな依頼をしてくるはずがない。高島さんはそういうルールに厳しい。本来なら断っていたろう。
 結果として高島さんは受ける。それはこの依頼が「あまりに的外れ」だったからだ。ただの的外れだと断っていた。「あまりに」ズれでいたので受けることになる。
 私はこの編輯者に感謝する。この依頼によって、高島ファンとしてはひさしぶりに高島さんの文章に触れることが出来たからだ。



 
 ここで三人の年齢を比べてみる。すでに白川さんが藤堂さんより年上であることはわかっていた。このふたりの論争はその筋の人たちにとってはとても有名な事件らしく、「私立立命館の教授が、年下の東大助教授に全面否定された」という私立対東大の対決の話としてネットにもあった。

 藤堂さんは1915-1985、白川さんは1910-2006、高島さんは1937年生まれだから、事件のあった1970年に白川さんは60歳、全面否定した藤堂さんは55歳。高島さんは33歳。

 藤堂さんは1963年、48歳の時に東大教授になっている。
 ネットにあった「白川は、年下の、しかもそのときはまだ助教授だった藤堂に全面否定されたのだから腹が立ったろう」という文章は誤り
になる。ほんと、ネットはあぶない。間違いだらけ。私はおふたりの年齢を調べ、若くからその方面の権威であった藤堂さんが55歳で助教授ということはあるまいと気づき、正しい経歴を確認出来たが、あやうく「助教授」を受け売りのまま書くところだった。ほんとにネットはいいかげん。

 高島さんは東大卒業後五年間サラリーマンをして、もういちど東大に入学した。藤堂さんに教えてもらった(とされている)のは28歳ぐらいの時、1965年ぐらい。この論争が起きた1970年には33歳。すでに大学院を卒業して高校の講師をやっていたころだ。いやぎりぎりまだ大学院か。いずれにせよ好きな道で生きて行くためにがんばっていたころだから、この「事件」を知らなかったというのは事実と思う。これは学問的にはかなりの「大事件」だが、コップの中の嵐でもあり、高島さんがそのコップからもう出ていたのなら知らないだろう。でも高島さんが本当に「藤堂の弟子」なら、たとえ東大を離れていても同じ「コップの中」にいるのだから知っているはず、となる。狭い業界≠フ中の有名な事件なのだから。




 これはこの論争が起きる1970年時に、藤堂さんがすでに出版していた本の一覧。これだけの実績を持つ漢字学の学者だった。有名人。東大教授。55歳。

 対して白川さんはこの岩波新書がメジャーデビュウになる60歳の新人。立命館大学教授。無名。
 両者の知名度、象牙の塔における差は明白だ。



 高島さんからすれば、自分の著書を読んでいるひとなら、自分が白川さんとは縁遠いひとだとわかるはず、となる。なのになぜ自分にそんな原稿を依頼してくるのだろう。ましてそれはどうやら「白川絶賛号」らしい。自分は白川さんのことなどなにも知らない。なにも書けない。しかしそれ以前に、この編輯者の言っている「藤堂白川論争」ってなんだろう。怒るよりも先に高島さんには疑問が湧いたようだ。頭の中にハテナマークがいっぱい浮かんだことだろう。その辺の流れが高島ファンにはなんとも楽しい。

 高島さんは白川さんの著作をなにひとつ読んでいないのだという。それどころか世間的に師匠とされている藤堂さんと白川さんのこの有名な確執も知らなかった。
 もとより高島さんは白川支持者ではないので、というより白川さんのことをなにも知らないので、白川礼賛の特集号に文を寄せる立場にはない。書くか書かないかはともかく、この「白川静と藤堂明保論争」には興味を持った。それで高島さんは編輯者からの手紙に、「このやりとりを教えてくれませんか」と返事する。

 すると編輯者は、岩波新書の白川さんの『漢字』と、1970年に岩波書店の雑誌「文学」に掲載された藤堂さんの書評、二ヶ月後、同じく「文学」に掲載された白川さんの反論(「文字逍遥」に収録されている文章)のコピーを送ってくれた。




 それを読んだ高島さんは、自分は白川さんのことをまったく知らないので白川特集号になにかを書く資格はないのだが、とした上で、それでもせっかく依頼を受けたのだから、このふたりの「論争」に関する感想でいいのなら書かせてもらうことにした、というのである。それが高島さんが筆を執るまでの経緯。

 本来なら編輯者の勘違い依頼であり、表に出ることもなくボツになっている話だ。私のような高島さんの文章をすこしでも多く読みたいファンには瓢箪から駒となった。勘違い編輯者に感謝である。

 高島さんの筆は、そういう経緯から抑え気味だが、ファンには充分に行間の読める濃い内容になっている。



 そこからは高島さんの、「白川静と藤堂明保論争」に関する感想と、藤堂、白川、それぞれの漢字解釈に対するご自身の意見、になる。

 まず最初に高島さんは、初めて読むこの白川さんのデビュウ作「漢字」が、1970年の初版から今でも版を重ねている超ロングセラーであることに驚嘆する。息の長いベストセラーなんだなあ、と。ほんとに読んでいないらしい。



 ここで私は、ここのところ何冊か白川さんの著書を読み、図書館でも折に触れ「字通」を読むようにしていたのだが、このデビュー作「漢字」を読んでいないことに気づいた。これはまずい。この文を書く前に読破したい。そう思うと続きを書く気が急速に萎えた。まずは読んでからだ。

 そのとき早朝だった。午前10時に開店する本屋を何軒か訪ねれば、どこかにはありそうだ。それだけのロングセラーだから岩波新書を揃えている本屋ならあるだろう。いや西東京の田舎だし、地味な本だからないかな……。

 と、そこで、それよりも早く9時に開館する図書館はどうだと思いつき検索した。すると市内にいくつかある図書館の中で、片道で3キロぐらい離れている分館にあることがわかった。そのとき朝の八時半。今から行けばちょうどいいかと寒風をついて出かけることにした。その顛末を書いたのが下記の文。

 上り坂下り坂



 次いで高島さんは、問題の「藤堂明保の書評」に触れる。岩波新書の新刊「漢字」でデビュウした60歳の無名の新人白川静の作品に箔をつけようと、当時すでに漢字学の権威であった55歳の東大教授に岩波の編輯者が書評を依頼し、それに応えて書かれた文である。

 この文章はすごい。なんとここで藤堂さんという東大教授は、書評を頼まれた「漢字」に対し、「著者の漢字解釈を全否定」するのである。しかしそれはまだいいかもしれない。同じ漢字学をやる学者として、自分とまったく意見の異なる学者の否定はあってもおかしくない。だけど藤堂教授は、「こんなひとにこんな本を書く資格はない」とし、さらには、「(権威ある岩波新書に)こんな本を企劃し、書かせた、編輯者、出版社の誤りだ」とまで書いているのだそうな。なんともすさまじい(笑)。いくらなんでも。



 白川さんの漢字解釈は藤堂さんの気に入るものではなかった。よって藤堂さんは一から十までことこまかに全否定し、さらにはこんな本を企劃した編輯者の罪とまで書いた。藤堂さんにとってそれは、無名の人間によって書かれた自分の漢字論とは正反対の、漢字をすべて呪術や祭礼と関連づけた今で言うなら「トンデモ本」だったのだろう。気持ちはわかるがこの書評はあまりに感情的だ。書評の範疇を逸脱している。

「常識的」に言ってこの書評はへんである。岩波の雑誌に岩波の新刊を誉めることを前提に岩波の編輯者から頼まれたのだから誉めるべきだ。それが無理とわかったら書評を断ればいい。藤堂さんというひとは全学連支持のかなりエキセントリックなかたのようだが、それでもまともな心境だったらそうしたろう。それぐらいの分別はあると信じたい。なのに実績のある自分の立場と東大の権威をかざして新人のデビュウ作を完全踏み潰しに走ったのは、それほど白川理論が藤堂理論とは水と油であり、無視できないほどの怒りだったのだろう。こんな解釈は許せん! と顔を真っ赤にするほどの。

 この藤堂さんの著書「漢字の起源」が出たのは1965年。論争の5年前である。白川さんの「漢字」とは、漢字の起源に関して明らかにちがっている。対立している。白川さんを担当した(ある意味、発掘した)岩波の編輯者は当然これを読んでいたろう。ならお二人が対立する、というか白川さんのスタンスが「アンチ藤堂」であることはわかっていたはずだ。

 とするなら、藤堂さんは「こんな本を企劃した編輯者がおかしい」と言っているわけだが、島さんに白川讚歌を依頼してきた「ユリイカ」の見当違いの編輯者と同じく、藤堂さんに書評を頼んだ岩波新書の編輯者が不見識、となる。

 それともこの編輯者は「漢字の起源」を読んでいなかったのか。これを読んでいず、単なるこの分野の有名人ということで藤堂さんに書評を依頼したのか。それならすんなり納得できる。しかしそれはそれで岩波新書から白川さんの「漢字」をプロデュースする編輯者としては勉強不足となる。

 餘談ながら、現在講談社学術文庫から出ているこの「漢字の起源」は、当初徳間書店から出ていた。その他の藤堂教授の著書も徳間である。娯楽本が主の徳間は当時はこんなカタいことをしていたのかと感心した。



 藤堂さんの辞書類は学研から。左が代表作。

 後に白川さんの反論を読んだ。
「自分の意見が異なる考えの藤堂さんに否定されるのはかまわないが、編輯者まで否定されるのはたまらない、何年も一緒に企劃し発刊に努力してきたひとなのだ」と書いている。「藤堂氏の書評は書評としての礼節を缺いている」と。当然の感覚だ。

 だけどその編輯者が、白川さんの漢字理論を世に出そうと何年も一緒に苦労してきたひとなら、藤堂理論が白川理論を受けつけないと理解できなかったのか!? この点が不思議でならない。すでに藤堂さんというかたは前記のように、この時点で10冊以上の漢字の本を出している権威だった。いわば「藤堂漢字学」は世に流布され認識されていた。その編輯者が本当に白川理論を理解し惚れこんだなら、それが藤堂理論と相反することぐらい解りそうだが……。



 別項で書いたことだが、ここでもまた「編輯者ってなんだろう!?」と考えてしまう。無名の白川漢字解釈に惚れこみ、権威ある岩波新書に書かせてやろうと企劃したぐらいの岩波の編輯者なら、白川理論が藤堂理論と合っていないことぐらいわかるだろう。依頼通り誉めたたえてくれる学者は他にいくらでもいたはずだ。藤堂さんほど売れっ子ではなかったとしても。なぜそういうひとたちに頼まなかったのか。不見識としか思えない。猪木絶讃を馬場に依頼したようなものだ。

 好意的に解釈するなら、「この編輯者は学者の気質を知らなかった」となる。じつは私も知らなかったので、このふたりの凄まじいケンカを見て震えあがった。震えあがって物陰に隠れたが、そこからそっと顔を出し、熱心に見た。だって迫力満点のガチンコでおもしろかったから(笑)。

 ネット検索したら、「まあ、いつでも学者のケンカはおもしろいよね」というのがいくつかあった。そういうものらしい。私は知らなかった。この編輯者もきっとそうなのだろう。(年下だけど)先輩が新人に対して、「注目に値するすばらしい新説である」とかなんとか誉めたたえてくれると思ったのか。いくらなんでも甘い。



 この「論争」に関して面白いのは、おふたりの支持者の昂奮度合である。白川派は反論によって完膚なきまでにたたきつぶしたと快哉を叫び高笑いしている。ぐうの音も出まい。反論に対する反論がなかったことが何よりの証明だと。
 一方、藤堂派は、「白川ごときを藤堂先生は相手にしなかったのだ」と解釈している。たがいに譲らない。

 おおまかには、白川派の熱狂的な信者が藤堂明保に立腹しているのが目立つ。これは今でこそ最も人気のある白川漢字解釈だが、長いあいだ東大的権威にいじめられてきたという鬱憤もあるようだ。当然そういう人たちは私学卒で国立大学に怨みがあるらしい。「白川先生が国立大の教授だったらもっとずっとまえに文化勲章だった」という書きこみをいくつも見た。たぶんこれは事実だろう。世の中そんなものだ。東大と立命館では厳然たる差がある。その種の勲章ウンヌンでは。
 とはいえ白川さんと一緒に苦労してきた学者や、無名の白川さんを長年支持してきた年輩の読者ならともかく、ただの若い読者と思われるひとが過激に怒っていたりして、なんだかよくわからない(笑)。猪木の現役時代を知らない若い新日ファンが、知りもしないむかしのことを引き合いに出して全日を嫌うみたいで不思議だった。



 白川説は漢字の形と意味重視であり藤堂説は音韻重視である。もっと単純に言えば(そんな雑な言いかたをしたらおふたりのファンに叱られるか)、白川説は「最初に漢字ありき」であり、藤堂説は「最初に発音あり。漢字は後から着いてきた」である。藤堂さんは書評の際、なんでもかんでも宗教に結びつけ、漢字はそこから生まれたとする白川理論を否定しボロクソに貶した。

 この「ユリイカ」に文章を書き、広告にも載っている松岡正剛さんというかたは大の白川支持者である。このひとの書かれた白川漢字に関する本(いわゆる白川漢字学入門書のような本)は私も読んだ。わかりやすい。テレビのクイズ番組の白川ブームは松岡さんの入門書によるところが大きい。
 松岡さんはブログの中で藤堂書評に関し「無名の者を岩波新書に起用するとは何事かという非難だったようだ」と書いている。松岡さんは白川派だから、これは「ようだ」とあることからも全面的に信頼できない気もしたが、今回藤堂書評を入手して読んだ高島さんが、やはり「(権威があり良心的である)岩波新書になんでこんなのを書かせたんだという藤堂の怒り」という解釈をしているからそうなのだろう。たまらん話である。



高島流解釈その1「藤堂書評の肯定」

 この藤堂教授の「とんでもない書評」に関し、高島さんは「そんな書評もあり」としている。世の流れは、私のような凡人と同じく、「誉めるための書評を頼まれたのだからそれなりに誉める。それが出来なければ断る」であったらしい。当時も。

 白川さんを売りだしたい編輯者は、よろしくお願いしますと藤堂教授に頭を下げたことだろう。誉めてくれる書評は暗黙の約束だった。なのに前代未聞のボロクソ否定をやり、藤堂教授は書評内容以前にひととしての礼儀を問われた。世の流れは藤堂教授のやりかたを「東大の権威にふんぞりかえった嫌味なやりかた」とした。白川さん本人も「反論」の中で、そういう指摘と批判をしている。私は1970年当時にこれを読んでいないわけだけれど、そのころも世間は「日本の常識」としてそうであったろうと思う。藤堂教授がいかに権威と実績のあるひとだったとしても、日本人の良識は、「いくらなんでもこれは」と思ったはずである。

 それに対して高島先生は、さすがへそ曲がりらしく、「この本の書評をしてくれと頼まれ、引き受けたなら、こんな書評もありだろう」と、藤堂教授のやりかたを支持している。
 高島さんも『お言葉ですが…』の中で、自分で見つけたり、友人に勧められたりしたあまりにつまらない本を、「なにもそこまでしなくても」というぐらいボロクソに書いたりしている。もしもかつて書評をしていた新聞社からそういう本の書評を頼まれたなら、「内容に納得できないので否定するがそれでもいいか」と言って、書くだろう。そのことで世間から批判を受けても高島さんは動じない。信念だから。ただし波風を起こしたくない新聞の担当記者がそれはまずいと高島さんが誉めるような本に対象を変えるだろう。藤堂教授の書評姿勢を肯定するのはいかにも高島さんらしい。

 この件に関しての私の意見は、「安易に権威に縋り、意見の違う藤堂教授に書評を頼んだ岩波新書の編輯者が愚か」になる。



 というところで探していた「文字逍遥」をやっと入手。いまその「反論部分」を読んでいる。
 おもしろい。めちゃくちゃおもしろい。私に漢字の成立に関するむずかしい話はわからない。なのにわくわくするのは、それはもうリアルファイト、ガチンコ勝負だからだ。

 上記、私は「藤堂教授の白川批判」をひどいものだと断じた。そのことに変りはない。ただそのときの私には、「温厚な白川さんを東大の権威を笠に着た藤堂教授がボロクソに言った」のようなかってに描いたイメージがあった。強圧的な藤堂、温和な白川、だ。そうじゃなかった。考えればすぐにわかることだが、白川さんは、あれだけ長年研究に没頭しあれだけの業績を残したかたである。半端であるはずがない。私が白川静という名を初めて知ったのは学生時代に読んだ高橋和己の「我が闘争」だった。その中に、あのような学園紛争のときにも白川教授の研究室はいつも深夜まで明かりが灯っていたとあり、白川教授がなにをやっているひとかも知らなかったが、名前だけはそのとき覚えた。

 白川さんのここでの反論というか、藤堂全否定もまたすさまじい。藤堂が白川の両手両足の指を一本ずつ踏んづけたとするなら、白川はその藤堂の両手両足の指を一本ずつ折り返している。
 学者のケンカってのはこんなにすごいのか。元々藤堂が全否定してきたから白川も全否定の反論に行ったのだろうし、そもそも溶けあう部分のないふたりなのだからケンカは当然としても、寒気のするような激しい論戦である。
 
「論争」を成している三つの文章の内、白川さんの「漢字」を読み、次いで「文字逍遥」に収められている「藤堂書評に対する反論」を読んだ。1970年の岩波の「文学」は入手できなかったので「藤堂書評」は読んでいない。これを読むには国会図書館まで行かねばならないが、雰囲気はもう充分なので読まなくてもいい。もともとむずかしい字源の話などわかる頭ではない。知りたいのは闘いの雰囲気だ。
 高島さんの引用と感想があり、「文字逍遥」では、論破のために藤堂の意見を白川がこまめに引用して反論しているので、とてもわかりやすかった。どちらが正しいかはともかく、藤堂さんというひとの東大的権威での押し潰し感覚はもう充分にわかった。



 さて本題の高島さんの話。白川説、藤堂説のどちらも自分の理解出来る範囲で自分なりに接してゆこうと思っている低レベルの私には、本来の漢字の生い立ちに関する話はどうでもいい。高島ファンとして、高島さんがおふたりのどっちにどれぐらいシンパシーを示すかが興味の対象になる。

 高島さんは、白川さんの有名な作品をなにも読んでいないという。この1970年のやりとりもなにも知らなかったとのこと。
 また自分は東大時代、藤堂さんと比較的近い位置にいたと言うに留めている。

 Wikipediaには 「高島俊男」の項目に《藤堂は大学院時代の指導教官であり(高島は弟子筋にあたる》とある。その他にも今までネット上で、「高島俊男のアンチ白川は師匠の藤堂ゆずり」という書き込みをいくつか見かけてきた。私は藤堂教授の辞書を使ったこともなければ著書を読んだこともなかったが、それらのことから高島さんの師匠としてその名を記憶していた。

 一方白川さんもまた高島ファンのあいだでは、高島さんが「ああいう漢字解釈はまったくナンセンス」のようなことを書くたびに、「あれは白川静批判だろう」と話題になったりした。高島さんの漢字に対する考えかたが白川さんとちがうのは間違いない。いやもっときつく、「高島さんは白川的漢字解釈に否定的だ」と言ってさしつかえない。

「勉強しまっせ」(『お言葉ですが…(7) 漢字語源の筋ちがい』)に、藤堂教授の授業のようすと、「漢字の話をするのに、この字はこういうさまをかいた絵だ、だからこういう意味だ、と字(図柄)と意味だけを説く人があるが、あれはいけない。ことばは、人が口から発する、意味をもった音である。のちにそれを視覚化したのが文字である。文字は第二次のものだ。だから、かんじんの音を閑却したのではことばの説明にならない」とある。

 ここからも高島さんが「藤堂的漢字解釈」の流れにあるのは確かなのだが、興味あるのは、この「授業のようす」は「論争」の前後どちらなのだろう。藤堂教授が否定している「最初に形ありき」としている敵は白川さんなのだろうか。私はちがうと思う。白川さんの「漢字」に関する「論争」は1970年。このとき高島さんは33歳。この授業はそれ以前のものだろう。1970年の「論争」を高島さんが知らなかったのは事実であり、そのときは学外にいた、と私は解釈することにする。



 世間では「弟子」のように言われているが、高島さんは「ユリイカ」の中で、比較的近くにいたとのようなあっさりした書きかたをしている。それこそ教えを受けた多くの教授の中のひとりであり、すくなくとも「恩師」という表現ではない。私はこういうことに関して高島さんは嘘を吐く人ではないと思っている。
 しかし今回に限り、それを考慮すべきかもしれない。もしかしたら高島先生、すこしだけ嘘をついているかも知れない。

 というのは、結果的に高島さんの意見は完全な「藤堂寄り」だからである。白川讃歌一色の「ユリイカ」の中でひとりだけ浮いている。まあ結果的にというより、そうなることは私なんかでも解っていたことだけど。

 高島さんがWikipediaにあったように藤堂教授の「弟子筋」であるかどうかは知らない。たしかなことは、高島さんの漢字に対する考えかたは、白川さんとは違うということだ。

 そのことは果てしなくむずかしい話であるが、ごくごく簡単にもまとめられる。要は「なにがかっこいいか!?」である。私の人生の基本姿勢だ(笑)。そんな下衆な感覚を高名なおふたりに当てはめるのはまことに失礼だけど、同じである。つまり、「白川さんは、和語にいろんな漢字を当てはめることは日本語の表現が拡がりすばらしい」であり、高島さんは「和語は和語でありカナで書くのが正当。どんな漢字を当てはめるのが正しいかと悩むなんてバッカじゃないの」なのである。それだけだ。わたしらの日常レヴェルで言えば、「筆を執る」「写真を撮る」「野草を採る」「他人のものを盗る」「音楽を録る」のようにATOKあたりが得意にしている漢字の使い分けが白川流。「そんなものぜんぶ〃とる〃でいい。和語の〃とる〃にはそれら漢字のすべての意味が含まれている」が高島流である。言うまでもなく今の世の中は白川流が主流だ。



 おもしろい例を高島さんが書いていた。「伏」の字についてだ。人と犬だ。人に犬が寄りそって「ふせる」だ。藤堂流だと、この場合、「ひとに動物が寄りそっている形だから犬でなくもかまわない」となるのだとか。馬でも牛でも猫でもいいのだ。そう解釈することによって「ふせる」の意味を持つ漢字をひとつにまとめられる。漢字を汚さない字数制限に繋がる。白川流はもちろん字源からして人により添うのは犬でなければならないのだろう。



高島流解釈その2「論争はなかった」

 一般に、現在では、「白川を罵倒した藤堂だが、その後白川に激しく反論され、論破されて黙ってしまった。白川の勝ち」ということになっているらしい。すくなくとも白川支持者はそう判断し凱歌を挙げている。
 それに対して今回この経緯を知った高島さんは別解釈だ。「あまりに考えが違うので、触れ合う部分がなく、最初から論争は成りたたなかった。藤堂氏は論破されたというより、論争は成立しないと判断して反論を書かなかったのではないか」としている。

 高島さんの書かれた文のタイトル「両雄倶には立たず――白川静と藤堂明保の『論争』 」は、「論争」とカギカッコがつけられている。それが「論争などはそもそも成立していなかったのだ」ということらしい。これは高島ファンがみなそう解釈していた。

 つまり「藤堂おとな説」である。あれだけエキセントリックに激しく他者を全面否定した藤堂教授が、それ以上に激しい反論を受けたのに、いきなり穏和なおとなになるとも思えないのだが、両者に接点がなく論争が不毛なのは私にもわかる。なにしろ漢字の生いたちに関してまったく違うのだ。たとえば「士」という字は藤堂説だと「勃起した男根」であり(藤堂さんは陰茎と書いていた)、「牡」は「牛に勃起した男根」でオスになるのだという説を、白川さんは「士が勃起した男根? そんなバカな」と反論する。すでにこういう根幹漢字の成立に関する意見からして違うのである。一事が万事そうであり、これではたしかに論争は成りたたない。接点がない。



「白川特集号」なのでことばは穏やかだが、その他の論調も高島さんは藤堂支持である。それは藤堂教授の薫陶を受けたからかどうかはともかく、ふだんの高島さんの漢字に対する考えかたが白川さんとは異なるのだから自然な流れである。

 岩波書店の文芸雑誌に、岩波新書新刊の書評を頼まれた(=暗黙の好意的書評了解)のに、全面否定の文章を書いた藤堂教授。常軌を逸した行動である。だが高島さんは「そんな書評もあり」と肯定した。
 そしてこの一般的には「白川の論破勝ち。藤堂、敵前逃亡」とされている「論争」も、高島さんは「勝った負けた以前に、そもそも論争ではなかった。論争が成立していない」としたのである。今の世は「白川圧勝説」が大半なので、高島さんが「ユリイカ」に書いたこの推論は、早速藤堂派が取りあげ、「さすがにわかるひとはわかる」と怪気炎を上げていた。いわば異種格闘技戦。藤堂さんはボクシングの試合だと思ってリングに上がったが、相手がレスラーとわかり、戦わずにリングを降りた、というのが高島さんの解釈。

 前記「もしかしたら今回に限り高島さんは嘘をついているかも知れない」と書いたのは、この辺のことを思うからである。もしも高島さんがWikipediaにあったように「藤堂教授の弟子筋」であるとしたら、この文章は藤堂教授の弟子筋からの40年遅れの反論になる。高島さんはそう思われることを避けるために、藤堂教授を「比較的近しい」と他人事風に表し、この「論争」も知らない、白川さんの著書はまったく読んでいないと、「自分はニュートラルな立場だ」と強調したのではないか。

「白川静特集号」にそのような意見を書くことは、高島さんなりに戸惑ったことと思う。しかし「全員一致は危険」とする考えがあるように、全編歯の浮くような礼讃ばかりではつまらない。客観的に見て、高島さんの異色の寄稿はいい意味でのスパイスになっていた。ぜんたいのバランスとしてよかったように思う。もっともひたすら甘いお菓子を食べたかったひとは、「なんでこんなところにパクチー(香菜)が!?」と怒ったかも知れない(笑)。



 冒頭に「広告に高島さんのお名前は載っていない。ファンとしては、名を入れてほしいと願う。ないと見逃してしまう。しかし中身を読めば入ってなくて当然と納得する」と書いた。それはこの意味である。前記松岡さんのような熱心な白川派が礼讃の文章を並べている中、高島さんの文章は異色なのだ。1970年に白川が圧勝したとされている「論争」に対し、「そもそも論争はなかった。成立していない」と解釈しているのである。その他いくつか、白川理論に対し、「私はそうは思わない」という意見も書いている。

 この「論争」を、「そうだそうだ、白川先生はさすがだった。完全論破だった。『文字逍遥』を読みかえすたびにスッキリする」と思っている白川支持者(ネット上にも多数存在する)は、高島さんの文章を読み、「なんだこいつは!?」と思ったことだろう。それこそ藤堂が『漢字』に対して、「こんなひとにこんな本を書かせた編輯者の問題」としたように、「白川先生の特集号になんでこんなヤツを載せたんだ。編集部はどんな人選をしているんだ」と立腹したにちがいない。社民党的バカ女の本を私が腹立って読めないように、熱烈な白川支持者は高島さんの漢字に関するエッセイは不快で読めないはずである。まったく立地点が違う。ごくごく単純に、前記したように、「白川さんは和語に色んな漢字を当てはめるのは楽しい。日本語の可能性が広がる」としているのに対し、高島さんはそういうことを「和語はカナがベスト。それだけ。漢字を当てはめるなんてばっかじゃないの」としているのだから。



 高島さんの考えはいつも通りだったし、私淑しているものとしては、明快でわかりやすい話だった。なにひとつ不満はない。私がこの「ユリイカ」に高島さんが書いていると知ったのは、2ちゃんねるの文芸欄にある「高島俊男はいい」というスレでだった。まことに同好の士はありがたい。これがなかったら読み逃していた。なにしろ広告には名前が出ていない。見つかるはずがない。これまたインターネット時代の恩恵である。

 そういう流れで書いた、そういう内容だったから、高島さんの立場は、一冊の中で唯一のいわゆる「アウェー」であり、あの高島さんが波風立てないよう筆先を抑えつつ書いているのがおかしかった。遠慮しつつも、しっかり主張し、一歩も譲らないのはさすがだったが。

 藤堂教授と高島さんの関係はじっさいのところどうなのだろう。どれぐらい親しかったのだろう。

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 12月にこの本のことを知り、年末に読み、1月から書き始めたのに、あれこれ調べ物をしたりして書きあがったのは2月半ばになってしまった。(2010/2/15)


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お言葉ですが…別巻B『漢字検定のアホらしさ』2010年5月20日発売の「あとがき」より

『ユリイカ』に書いたものの「両雄倶には立たず」という題は、『ユリイカ』の編集者がつけたものである。
ぼくは、白川静氏も藤堂明保氏も別に「雄」とは思わないし、そもそも、現存の人やごく最近の人を「何々の雄」と表現する発想がない。なおこの原稿は、人にえこひいきと思われるのはイヤだから、白川・藤堂両人の言い分を均等に紹介してぼく自身の評価はさしはさまなかったが、率直に言って、白川氏の書いたものは二つともいたって程度の低いものであった。


 これは非常に興味深い発言だ。私は当然高島さんがつけたタイトルだと思っていた。なんとなくそれらしい雰囲気もあったし。ただ「倶には」なんて漢字の使いかたを高島さんがするのかなあとも思った。
 今回の「あとがき」で真相がわかった。書いてくれてありがたい。私も私の書いた長文なのだがタイトルは編集長が決める(=こちらでは決められない)という経験が何度もあるので、こういう流れそのものはわかる。でも今回の文章は中身が中身だから高島さんも自分でタイトルを決めると主張すればよかったのに、とも思う。「ユリイカ」しか読まない人は高島さんが「両雄」と書いたと思い込むし、読者のほとんどは「ユリイカ」しか読まない。白川ファンのための特集であり、高島さんはアンチ白川が明白なのだから。
 多くの白川ファンは「こいつは白川先生と意見が違うようだが、それでもいちおう雄とは認めているのか」と思ったろう。高島さんが強硬に御自分のタイトルを主張すれば編集部も反対できなかったと思う。残念なミスである。

 この「あとがき」で助かったのは、この短文から、高島さんにとって藤堂さんが決して恩師のような大きな存在ではないと知れることだ。白川か藤堂かとなったら、高島さんの漢字に対する考えは明らかに藤堂寄りである。アンチ白川だ。それはこの「あとがき」からもわかる。「率直に言って、白川氏の書いたものは二つともいたって程度の低いものであった」に、白川信者は激昂することであろう。

 だが私は同時に、学生運動の支持者だったエキセントリックな藤堂教授と高島さんにそれほどの絆があるとは思えなかった。あるいは意見の対立による決裂もあったのではないかと愚考していた。この「あとがき」を読むことでずいぶんとすっきりできた。
(2010/5/24)

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