2009──山崎朋子まとめ読み・2
 5/1   「サンダカン八番娼館」山崎朋子──を読む

 というわけで、山崎朋子の代表作「サンダカン八番娼館」を読みたいと思った。学生時代に一度購入しながらも読まずに投げてしまった一冊だ。

 出来るなら1973年発行の写真のオリジナル単行本で読みたい。さすがにそれはもうないだろうと諦めていた。新装や文庫本になって内容が変るわけでもないがオリジナル本は時代の雰囲気を映している。
 このオリジナル本の表紙には、著者山崎朋子サンのこだわりの副題「底辺女性史序章」が印刷されている。

 オリジナルどころか図書館には文庫本もなかった。その代わり文春発行の「柳田邦男責任編集 同時代ノンフィンクション選集4──女たちの証言」というのに収録されていると知る。たすかった。この本も図書館の本棚にはなく奧の倉庫に保管されているものだった。普通には閲覧できない本である。

 この辺の図書館事情はよくわからないのだが、あまり読まれることのない古い本は保護をかねてこういう処置をするようだ。山崎サンの本はみなそうだった。「底辺女性史」はあまり人気がないらしい。希望の旨を書類に記入して申請し出してきてもらった。いろいろ手続が面倒だ。



 そういえばものはついでと山崎サンのライヴァル(笑)デヴィ夫人の本、といっても山崎サンが「世界」で引用している古い自伝等はなかったので、彼女の藝能活動の一環であるいわゆるタレント本を今回二冊読んでみた。これも山崎さんと同じく奧の倉庫に入れられていた。ふたりの本は奧の倉庫で睨みあっているようだ。

 このデヴィ夫人のタレント本は発刊されたころ立ち読みしたことがあり、当時のバラエティ番組におけるあれやこれやの舌戦を覚えていたので、彼女が気の合う浅香光代を絶讃したり、対立した野村沙知代を批判しているのがけっこう懐かしかった。

 これに関しても、私は浅香光代が正しかったと思うし野村沙知代は嫌いである。尋常小学校しか出ていず戦後のドサクサ時代、アメリカ兵相手のパンパンをやっていた(実弟の証言)のに、その空白の期間をごまかすためにコロンビア大学留学は笑わせる。

 私は尋常小学校卒という学歴やパンパンという過去にこだわっているのではない。彼女の生きてきた道であり他者が意見をいうべきことではない。それどころか戦後の混乱期を生きぬくためにたいへんな道を歩んだひとだと、そのことはむしろ尊敬しているぐらいだ。パンパンを侮蔑したら山崎朋子と同じになってしまう。私にそういう感覚はない。

 問題はそれを隠し、そんなとんでもない架空のエリート経歴を捏造しようとする感覚にある。私は野村沙知代のようなキャラは、「わたしは小学校しか出ていません。ひとに言えないような商売をせざるを得なかった時期もあります」と前置きして意見を言ったなら、より説得力を持ち世間は好意的に受けとめるように思う。それをコロンビア大学留学にしようとするあたりがかなしい。だけどそういう苦労をしてきたらそんな感覚が芽ばえるのだろう。親の金で大学に行かせてもらった私にそれ以上のことを言う資格はない。
 野村沙知代はぜひとも山崎朋子サンに「底辺女性史」として書いて欲しい素材だ。

 小沢一郎という政治家は自由党時代、票欲しさに野村沙知代を立候補させたというだけで、政治というもの、選挙というもの、民衆というものに対してどう考えているかが明白になる。あれはしてはならないことだった。



 この本で印象的だったのはビューティクリニックでおなじみの高野友梨がこれから売りだそうとしている藝能界デビュー前の叶姉妹に会ったデヴィ夫人が、彼女らをボロクソに言っていたことだ。その気持ちは判る。山崎朋子の書く「インドネシア大統領夫人と言っても第4か第3とかですよ」ではあっても、一応彼女は本物の、彼女を嫌う連中が言うように本物でなかったとしても、それなりに本物に近い西洋の社交界に接してきている。
 対して叶姉妹は経歴から肉体まですべてまがいものの偽セレブである。嫌って当然だ。苦労して成り上がったひとだからこそニセモノ成り上がりは絶対認めないだろう。

 印象的というのは、なのになぜか最近はお互いに認めあい仲がよいのである(笑)。なにか通じあうものがあったのだろう。だからこそ最初はこの本にあるように、「ウソつきコンコンキツネさんは山にお帰りなさい」と嫌ってたんだよねえと、今は昔で思った。



 本題にもどって。
「柳田邦男責任編集 同時代ノンフィンクション選集4──女たちの証言」。左の写真である。スキャンした。

 しかしまあヤなタイトルだな「女たちの証言」なんて。出来るなら手にしたくないタイトルの本である。もうすこしまともなタイトルを思いつかなかったのか。いやいやそうじゃなく、こういう本を作るひとにとっては、これはお気に入りの最高のタイトルなのだろう。それこそ最初にタイトルありきで、真っ先に決まった題かも知れない。たとえば「戦争に反対する女たちの会」とか、そんな名前の集団がある。こういうひとたちは「女」を前面に出すのが好きなのだろう。

 下にある現在発売されている新装文庫本のタイトルからは、山崎サンにとってたいせつな副題「底辺女性史序章」が削られている。不本意と思われる(笑)。無神経な副題をよくぞ削った。文藝春秋関係者の英断に拍手拍手。(←原田泰夫風)

 私がこの山崎朋子というノンフィクションライターを信じられない根本がここにある。もしも山崎サン御自身が「底辺女性」の出身であったなら、決して「底辺女性」なんて不快なことばは使わない。そもそも「底辺女性」ってなんだよ、この人の造語か。初めて聴いた。なら「上辺女性」もいるのか。

 このひとの語り口はいわゆる「上から目線」である。それが不快だ。この作品も自分は底辺ではないとしたうえで、底辺の取材に向かっている。気分の悪い話である。
 かといってむろん自分を「上辺」とはしていない。してはいないが、「わたしは絶世の美人とは思わないが、そこそこの美人、ふつうよりはかなり上。決してブスではない」いうような、どうでもいい誇りが見えかくれして鼻白む。このひとの本は、そういう視点からのドブス取材なのである。「絶世の美人--上辺女性」「ブス--底辺女性」であり、私はどちらでもない中間(でもあえてどちらかといえば上寄り)というそこはかとない主張が醜い。

 むしろこれが元華族とかの書かれたものだったらどれほど素直に受けとめられたことだろう。それこそ世間的には「元華族のお姫さまがほんのすこし貧乏人と同居しただけで貧しい庶民の暮らしをわかったふうに書いた」とボロクソに貶されるだろうが、それはそれで視点がわかりやすい。どう考えてもお姫さまではない山崎の中のお姫さま的視点が不快でならない。



 文庫本といい、この選集といい、筑摩書房から出た本がなんで文春なのだろうと一瞬考えた。大宅賞で山崎を世に出したのは主催の文春なのだからその後の版権は取ったのか。直木賞が文春以外の本で受賞すると話題になる(たとえば浅田次郎の「鉄道員」集英社)が、大宅賞は賞の性質から文春以外が多いのだろう。調べる気もないが、ほとんどが他社の本、それも地道な本を出すマイナーな出版社が多いと思われる。

 大宅賞以後の、彼女が「サンダカン八番娼館」と並んで「三部作」と呼ぶ「サンダカンの墓」「あめゆきさんの歌」の二冊は文藝春秋社刊である。文春は自分のところの賞をあげた彼女を売りだそうとしたようだ。残念ながら「サンダカン八番娼館」ほどのヒットにはならなかった。

 合計4篇が収められたこの本は分厚い一冊である。平成4年発刊で値段は2900円。個人が買うというよりいかにも資料的な本だ。考えようによっては写真にある新装文庫本よりこんな地味なノンフィクション選集で読めたのは良かったのかも知れない。

 暗く地味な物語であろうし、山崎サンのヒダリ巻全開なのだろうから、果たして私が読みすすむことが出来るだろうかと心配した。なにしろ学生時代に購入したものの読まずに捨てている。ところが意外にスラスラ読めた。もしかして私は山崎サンと相性がいいのか(笑)。というのは他のかたには申し訳ないがあとの三作は読む気になれず返却してしまったからである。読んだのは「サンダカン八番娼館」だけだった。

 すんなり読めた理由は、その他の作品も読んだあとだから言えることなのだが、すでに2冊を出版しているとはいえ、世に出ることになる実質的デビュー作のこの本ではまだ遠慮していて居丈高なサヨク全開になっていないからだった。だから私にも読めた。このあと読み進むほどに彼女の極論についてゆけず読み辛くなっていく。

 一作目のこれと二年後に出された二作目の「サンダカンの墓」は、姉妹作でありテーマも同じなのだが、そこにおける主張の烈しさはまったくちがっている。それはそちらで書くけれど、二年という月日の重さを感じた。その間に彼女は無名人から有名人になっている。取材交通費にも苦労する身分から目黒に自宅を建てるほどになっている。この変化は大きい。



 左の写真は現在発売されている「サンダカン八番娼館」の新装文庫本。文春。昨年からの発売とか。
 後に知るのだが、これには続篇の「サンダカンの墓」も収録してあるらしい。一度に二冊が読めるようになったことになる。便利になった。

 しかし上記しているように、「サンダカン八番娼館」は、まだ作者が文壇での評価を得ていないことから、左翼思想、フェミニズムを抑え気味に書いているので読みやすいのだが、それがベストセラーになり、映画化され、これもヒットし、一躍時の人となって書いた二年後の「サンダカンの墓」は、極左とでも言うべき激しい意見を吐いている。そのあまりの違いに「サンダカン八番娼館」を支持した人も覚めてしまうのではないだろうかと思えるほどだ。

 とはいえそれは「サンダカン八番娼館」だけを読んだのでは気づかないことだ。続篇を一冊にまとめたことは、いいことかも知れない。
 私にとってこの二冊で最も興味深かったのは、そういう「メジャーになった山崎サンの変化」だった。一冊の中にまだサヨク思想を抑え気味の「サンダカン八番娼館」と、全開となった「サンダカンの墓」が同時収録されたのはよいことだろう。山崎朋子の本音がよく見える。



出版社/著者からの内容紹介

近代日本の底辺に生きた海外売春婦「からゆきさん」をたずね、その胸深くたたみこまれた異国での体験と心の複雑なひだとをこまやかに聞き出す。
底辺女性史の試みに体当りした感動的な大宅賞作品。



Amazonのレヴュウ1

インターネットや自費出版など執筆をする人が増えていますが、書くことの責任や痛みや志し姿勢などすべて参考になると思います。発表の場が多くなればなるほど匿名に自己責任を隠したり裏つける充分な情報もなく臆測を流したりしがちですが、物を書き発表するということはこの本を手本にして欲しいと思います。

Amazonのレヴュウ2

近代日本の貧しさや女性差別の犠牲者・・・ともいえるおサキさん。しかし想像を絶するような苛酷な人生を送ってきたにもかかわらず、彼女が保ち続けている赤ん坊のように無垢で純真な美しい心に感動した。作者との心の交流が、晩年のおサキさんの孤獨な人生に、ひとすじの明かりを灯したのなら、素晴らしいことだと思う。

---------------

 この本はとてもおもしろい。一気に読めた。フォローするような形で書かれたあとがきもまあまあ納得である。

「おもしろい」理由は明解だ。「おサキさん」やそれにまつわる人びとの人生が波瀾万丈だからだ。おサキさんをきっかけとして、そこから芋蔓を手繰るようにして関係者を取材した山崎の努力もある程度は認めねばならないが、この作品は素材がすべて。山崎がおサキさんに出会った瞬間、その後の山崎の人生を決める話題作の誕生は決まっていた。

 私はそこにある著者の視点や意見に全面的に賛同ではない。なんとなく苦いものが残った。その理由がこのときはわからなかった。数日経ってわかる。それは後に書くとして、まずは「サンダカン八番娼館」のストーリィを追う。



 なんといっても興味深くおもしろいのは「おサキさんに身分を隠す山崎サンの立場」である。
 天草の田舎でもかつて異国に渡って売春をしていた女達のことはタブーであり、誰も触れたがらない。そこにいかにも「都会人風」の謎の女・山崎がやってくる。警戒される。

 ここでの山崎の自意識過剰も笑える。どこから見ても自分は都会者だからと、それを隠すためにわざとくたびれたスラックスに亭主の傷んだシャツを着ていったりするのである。そのことを何度も書く。でもどうしても垢抜けている山崎は目立ってしまうのだ、とか。その辺にある「見下し感覚」がなんともたまらない。

 とはいえそれはそれで本当だと思う。山崎が垢抜けているか都会者かはともかく、閉鎖された田舎のひとは「よそ者」のにおいを敏感に嗅ぎとる。山崎が異分子として警戒されたのは事実だろう。それは私のような凡庸なものでもアジアの田舎にいると異国人として目立ってしまうのと同じだ。

 ふたりの出会いは島に一軒だけある食堂。メニューは長崎チャンポンと焼飯しかない。ふたつしかメニュウのない食堂で何を食おうかと迷う山崎に、目の前の老婆が焼飯にしなと勧めてくれる。腹持ちがいいと。
 焼飯を食い終り、吸い殻入れからシンセイのシケモクを拾い集めている老婆に山崎がハイライトを1本差しだす。高級タバコ(老婆にはそうだった)のハイライトをいきなり差しだされた老婆は恐縮し、喜んで恵んでもらう。老婆はタバコだけが生きがいなのだと語る。吸い殻を拾っては喫いまくる重度のヤニ中だった。



 この「ハイライトを喫う山崎朋子」というのも当時を知っている身にはけっこう笑える。当時強いタバコの王者は今と変らずショートピースだった。ハイライトはサラリーマン向けのちょいしゃれた銘柄。私の記憶だと一箱70円。いつも通った大好きな札幌味噌ラーメンが120円の時代。
 ちょうどこのころタバコ葉をブレンドしたという新タイプのタバコとしてチェリーとセブンスターが発売になり、日本のタバコはあたらしい時代に入る。それらよりニコチンタールが強いハイライトは旧世代の代表になる。

 あのころ突っぱっていた女はみな煙草を喫っていた。私の周囲のヒダリがかった女もみな喫っていた。銘柄はハイライトだった。つまり、新銘柄のチェリーやセブンスターは新顔であり軽佻浮薄なのだ。軽い。ハイライトには誠実で木訥な重厚さ?があった。

(くだらない餘談。タクローはハイライトを喫い、セブンスターに代表される軽いタバコを嗤い、あんなのはタバコじゃない、おれはこれからもずっとハイライトを喫うと言っていたのだとか。それがひさしぶりにあったら平然とマイルドセブンを喫っていたので、話が違うじゃないですかと「さんまのまんま」でさんまが絡んでいた。ハイライトにはこういう話が付きまとう。)

 このとき三十代後半の「底辺女性史研究家」を自称するサヨクの山崎がハイライトを喫っていた感覚がとてもよくわかる。
 でも意識して「底辺女性」の研究に出かけるのだから、山崎もタバコをハイライトからシンセイに落とすぐらいの心遣いがあったらね、とも思う。せっかくわざと「亭主のくたびれたシャツ」を着たりして「都会的美貌」を隠していったのだから(笑)。

 山崎サンは今も喫煙家なのだろうか。聞いてみたい。(この後に読む本にもたびたびタバコのことは出て来る。「サンダカン八番娼館」で41歳で世に出た山崎サンが、喜寿を迎えたいま現在は知らないが、50代でも喫っていたのはまちがいない。)



 その老婆のことばに、山崎サンは地元訛とは違う何かを感じる。山崎は、彼女は長年異国に渡っていた「元からゆきさん」ではないかと勘働き(池波風表現)をする。捜し求めていた取材対象についに出逢えたのではないかと胸が震える。それがおサキさんとの出会いだった。

 そこからふたりの物語が始まる。山崎は自分がノンフィクションライターであり、底辺女性史(笑)の取材で「からゆきさん」を探しているのだとは言えない。そりゃ言えないよなあ、底辺女性に対して底辺女性の取材をしているのだとは。

 山崎にとって売春経験者は一様に最底辺女性であるらしいから、この当時だとトルコ風呂に務めている女もそれになる。もしも取材対象をそれにしたなら彼女達は「底辺女性史研究家」と名乗る女をことごとく拒んだろうから、そうなると底辺女性史研究家山崎朋子は誕生していなかった。だが彼女は賢く運が良かった。底辺女性であるおサキさんは学校に行けず文盲であり、底辺という意味すら知らなかったのである。じつに幸運な出会いだ。



 食堂で飯を食い終り家に帰るおサキさんに、山崎はそっち方面に用事があるふりをして同行する。極貧生活のおサキさんが村の一軒だけの岬の食堂に来て食事をしていたのは、息子からの仕送りが届いた月に一度の贅沢な日だったかもしれない。それとシケモク拾いだ。そうは書いてないのだがおサキさんは外食出来るような生活はしていない。とするなら山崎サンがおサキさんにここで会えたのはまことに運が良かった。「からゆきさん三部作」について言えることだが、山崎朋子というライターは、ひととの出会い、そこからの展開において、極めて運が良いように感じる。それはきっと不幸な生いたちや顔を切りきざまれるような事件を見て神様が運をくれたのだろう。私にはそう思える。彼女は無神論者だというからこんなことを言われたら気分を害するだろうが。

 道々世間話をし、運よくおサキさんに気に入ってもらえる。というかおサキさんは誰でもいいから話し相手が欲しかったのだろう。話し相手もいないひとりぼっちの生活だ。
 廃屋に入り、茶を御馳走になる。ただしくは白湯。極貧の暮らしゆえ茶はない。山崎は、百足が這いでてくる腐った畳を気味悪いと思いつつも、長旅の疲れからついそこで昼寝をしてしまう。そのことから、こんな村の連中ですら近寄らない汚いところでこの都会女はいやがらず昼寝をしてくれた、とおサキさんに気に入られることになる。

 昼寝から覚めて夕方。山崎はまだ宿は決まってないと言い、おサキさんから、だったら泊まって行くかと誘われる。おサキさんが押し入れから出してくれた湿った布団は、どうやらボルネオの娼館から持ち帰ったものらしい。この布団の上でおサキさんはいくつもの国々の男を何千人、何万人と相手をしてきたのかと思うと山崎はまんじりとも出来ない。

 後々この布団は、おサキさんがボルネオに9歳で売られて行くとき、なにひとつ娘にしてやれなかった母親が、近所から布切れをもらい受け徹夜で縫ってくれた着物地だと知る。おサキさんにとって亡き母親からもらった唯一のものだ。ボルネオに着いたら、そんな地味な着物では客がつかないとすぐに脱がされ派手な着物を着せられる。それでも唯一母がくれたものだからと、おサキさんはそれを布団地にし、帰国するときも大切に持ってきたという涙なくしては読めないいわくつきの品である。

 一度東京にもどった山崎は、もういちどおサキさんを訪ね、三週間寝泊まりして作品の取材を完成させる。おサキさんのあばら屋に泊まり続け、おサキさんの用意してくれる飯の世話になる。金を出すのは容易だ。だがそうしてはならないと極貧のおサキさんの世話になる。
 都会者の美人(笑)なのに、村のものですら近寄らない汚い廃屋に泊まってくれ、自分と同じものを飲み食いして暮らす山崎に、次第におサキさんは心を開いて行く。



 山崎は異国での売春の実態をそれとなく聞きだそうとする。
 その話題になると話をごまかしていたおサキさんだったが、次第に心を開き、問われるままボルネオ時代のことを話し始める。9歳で売られ、売春宿の下働きをし、13歳で娼婦の仕事を始める。初潮を迎えるのがそのずっと後、二十歳というのがなんともかなしい。ただしおサキさんの戸籍は提出が遅れかなりいいかげんだった。へたしたら戸籍のない人生になっていた。この売られた9歳という年齢も実際は13歳ぐらいだった可能性も高い。いずれにせよまだ初潮も迎えていない少女が売春せねばならなかった現実に変りはない。

 取材とバレてはならないのでメモは取れない。山崎は一言一句聞きもらすまいと真剣に聞き、眠るときも忘れないよう布団の中でその日聞いたことを反芻し、翌日おサキさんの目を盗んでノートに書き記し、それを東京に郵送する、という形で取材を勧めた、とか。あくまでも本人申告だが。

 それだけの文章をノートに書くのには時間が掛かったろう。いったいいつどこで書いたのか。その辺には触れられていない。すべて内証で行われことになっているがおサキさんはその現場を目にしていたことだろう。他者を取材して文章にし、それで金を得るという職業をおサキさんが理解できなかっただけだ。



 おサキさんはひとりぼっちの淋しい暮らしをしている。人恋しい。そんな自分のところに都会風の三十女が飛びこんできた。正体不明だがひとり暮らしのおサキさんにとっては話し相手がいるだけで楽しい。存在をあやしんだ周囲の人に彼女の正体を誰何されると大阪にいる息子の嫁だと自慢気に紹介する。実際の息子の嫁はただの一度もおサキさんに会いに来ていない。村人は首を傾げつつもとりあえずは信用する。正体不明の山崎を庇っての嘘だが、これまた息子の嫁との関係を思うと、せつない。
 女は自分のむかしのことを聞きたがる。おサキさんはあまり語りたくない。でもそれがこの女をここに留め置くことになるのであればと次第に語り始める。

 ということになっているが、これに関しては意見がある。読者の解釈も「山崎の態度におサキさんが次第に心を開いてきた」になるだろうが、私は「おサキさんもしゃべりたかった」と思う。しゃべれるような人生ではない。しゃべったこともない。しゃべりたくない。
 と同時にひとはみな、あれやこれやの苦労、苦労ばかりの中にたまにあった楽しみ、死に別れたひと、生き別れたひと、しゃべりたい気持ちもあるのだ。語りだしたら止まらないほどおサキさんがしゃべりたかったのも事実なのだ。要は水門を開けるきっかけである。

 私は、日本を捨て、異国の片隅で蟄居しているひとにずいぶんと会った。今までの人生、日本でのことなどすべて忘れた、思い出したくない、話したくないという彼らは、なにかのきっかけで話し始めると、滔々と尽きることなく自身の一代記を語った。「絶対に語りたくないと思うと同時に、おサキさんの中にも誰かに語りたくてたまらないという気持ちがあった」は、私の譲れない一線である。

 語ることによっておサキさんは山崎を世に出してやった。功徳である。
 同時に、おサキさんもにまた教会での懺悔のように、自身の人生を語ることによって体内に溜まっていた毒素を吐きだすような効果があったはずである。ぜんぶしゃべってスッキリしたはずだ。

 だから私は、山崎朋子というノンフィクションライターが、おサキさんの生を書くことによって一方的に理を得たとは思っていない。ふたりの友情とかうるわしい関係などと気持ち悪いことを言うつもりもない。ただ、この本の成功から「気どらない山崎の態度が甲の中に縮こまっているおサキさんの心を溶かした」のような解釈ばかりが横行し意外に忘れられていることだが、「おサキさんもしゃべりたかった。しゃべることによって楽になった効果」を記しておきたい。



 山崎はおサキさんの世話になる。極貧のおサキさんが出してくれる食事を食べさせてもらう。それは米よりも麦の多い飯だ。料理を覚える前に売られたおサキさんは料理がまったく出来ない。おかずは一品。息子からの仕送りの月4千円で暮らすおサキさんだから質素このうえない。山崎の筆によるとその当時の生活保護が9千円だというから半額だ。自分で金を出して米や魚を買いたい、まともな布団を手にしたいと思うが、じっと耐える。おサキさんのそのままの生活を受けいれねばならないのだと。

 ここのところは興味深い。こういう形でひとと関わると金を出したくなるものだ。
 私はいくつかの発展途上国でこういう形でひとと関わってきた。最初は相手の世話になり、泊めてもらい、彼らと同じ生活をするが、そういうことが出来ると相手に認めてもらったら、今度は自分で金を出して御馳走を購入し宴会をした。私はただの旅人であるからそれでいい。しかし山崎は「底辺女性史研究家」である。おサキさんを取材するためにはおサキさんの生活そのままにせねばならないのだと自分に言いきかせ、金を出してうまいものを食い、家の中を修理したい気持ちを抑える。
 極貧のおサキさんに飯を作らせ、飯代を負担させて、そのまま世話になるのはつらいことだ。金を出す方が楽である。だが出してはならない。おサキさんと同じ暮らしをすることが大事なのだ。

 とここまできて、私はこの「サンダカン八番娼館」を読んでいて感じたことの正体にやっと気づいたのだった。


---------------


  この本を読んで、「感動し、時には涙ぐみ、だけどまた心の奥底で納得できない苦いものも感じ、あとがき※でほんのすこし救われた気がして、でもやっぱりなんとなく後ろめたい後味の悪さ」が何かに似ていると考えた。

 そうしてそれがTBSの「世界ウルルン滞在記」なのだと気づいた。この番組が始まる二十年前に書かれた本だからこちらが大先輩。「サンダカン八番娼館」の感動と、後味の悪さは「世界ウルルン滞在記」なのである。



 タレントが南米やアフリカの原住民の村を訪ねる。その地で短期の滞在を試みる。
 そこに溶けこむために、裸族の村であったならこちらもそれに近い格好をする。あちらのひとと同じ食事をする。蛋白質のとれるご馳走と言われれば、おっかなびっくり昆虫の幼虫を食ったりする。風呂代わりに川で水浴びをする。土間で寝る。
「日本で世界中のおいしいものを食べ、大きなバスタブでくつろぎ、トイレはウォシュレットのタレントが、なんとこんな世界を初体験!」というギャップの世界。それをカメラが逐一お茶の間にいるこちらに見せてくれる。

 こどもたちを集め日本の歌を教えたりする。村の女達と一緒に農業をしたりする。
 別れの日は涙涙。こどもたちは帰らないでと泣き叫ぶ。
 長老もまた涙を浮かべ、「ここはもうおまえの村だ。いつでも帰ってきなさい。私達はいつまでも待っている」と述べる。
 何度も振り返り、手を振りながらの別れの日。

 一転してスタジオ。今の日本。体験タレントの神妙な顔。ヴィデオを見ていたコメンテータの目に涙。
「勉強になりました。いろいろ考えさせられました」とタレントの感想。「ひとの心は世界共通なんだと知りました」。「日本に帰ってきて、日本の生活を見て、これでいいんだろうかと考えました」。



 私は日曜午後十時からのこの番組を長年見ていた。Wikipediaによると、放送は1995年4月に始まり2007年4月で一時終了、リニューアルして延命を図ったが失敗し2008年9月で完全終了とある。
 90年代は毎週見ていた。私も一年の半分を海外で過ごし、そういうことに興味のあった時期である。東京と茨城の住まいにヴィデオデッキ合計8台を有して、二ヵ月ほど海外に出る際もテレビ番組を録りまくっていた。話題の番組を見ないと遅れてしまうかのように思っていた。この番組もしっかり毎週録画予約して行くひとつだった。

 21世紀になり一時の渡航熱が冷め冷静になった。この番組も興味ある訪問国の時のみ見るようになった。月に一度ほどか。時には見ない月もあった。歯茎の出た下品な女がレギュラになってからは一切見なくなった。

 決して後つけではなく、毎週缺かさず録画して見ているときから「その想い」はあった。
 いまの日本に暮らす日本人が、いまの日本人の視点で他人の生活を覗き見る後ろめたさである。
 そしてまた覗き見のあとの「いまの日本&日本人批判」といういかにもTBSらしい〝表面的〟な反省がたまらなかった。

 前述のような未開の地、あるいは欧州でも、頑なに素朴に昔からの生活を続けているひとたちに短期間接し、彼らの生活を覗き見るだけで安易に語られる日本批判。これがそのままそちらに住んでいるひとのドキュメンタリならまだしも、そうではなく「ひとときの体験話」なのである。一週間で帰るとわかっていての体験談なのだ。ひとときなら誰でも出来る。なんでも出来る。それは自分の経験でもわかっていた。
 川を風呂にする。川をトイレにする。それはそれで楽しい。珍しい。だけど蛇口を撚るといくらでもお湯の出て来るバスタブが、お尻を洗ってくれるウォシュレットが、やっぱり快適だ。そこにもどれるという保証があるからこその未開地遊園地。後ろめたくもなる。



 おサキさんの取材をするのだからおサキさんと同じ暮らしをせねばならないと山崎は、百足の這いでてくる腐った畳の上で生活する。おサキさんの作ってくれる一汁一菜の粗末な食事を一緒に食する。それこそがおサキさんと真にわかりあうために必要なのだと。この辺、もろに「ウルルン滞在記」である。

 おサキさんの人生を語ってもらい、おサキさんと同じようなことをしてきた友人達のところへもおサキさんの案内で出かけて行く。そうして次第に原稿内容は埋まって行く。

 数日一緒にいて一度帰京する。どうしてももっと話を聞きたいと再訪し三週間一緒にい、取材も完了したので辞することになる。別れの涙。これまた「ウルルン」である。
 このときあの感動的な、「なぜ自分の正体を尋かなかったのか」「おまえが言わんことをなぜわしが訊ける」がある。

 この取材から本が出来上がるまで4年間かかっている。それはその後の裏づけ取材もあったろうが、それ以上に山崎なりの他者の隠された人生を明らかにすることに対する戸惑いだったと好意的に解釈したい。
 ともあれ「サンダカンまで」にあるように、中央公論から出る予定がいちど御破算になりつつも、筑摩から出してもらい、ベストセラーが誕生した。田中絹代の名演がいまも語りつがれる映画も大ヒットした。

 本が出来上がったとき、山崎はまっさきにおサキさんに送ったとあとがきで書いている。おサキさんは文盲なので自分のことが書かれた本を読めない。それでも真っ先に送ったと。まあ当然のことだが。



 この本を読んだら誰もが思うだろう、「山崎はおサキさんのことを書いてベストセラーを出した。大宅賞を受賞した。映画にもなり一躍時の人となった。金もたっぷり入った。だがそれをおサキさんに還元したのだろうか。おサキさんとのその後の関係はどうなったのだろう」と。

 それは山崎も意識していたようだ。読者に対する弁明として、あとがき※で上手に処理している。
 取材のあともおサキさんとは交流しており、受賞後の今では文盲のおサキさんに代わって近所の小学生の女の子が代筆してくれる手紙でやりとりしているのだと、その手紙を原文で紹介している。こちらからもものを送ったり、時にはおサキさんもあちらの名産を送ってくれたりするつきあいがあると。

 その小学生が代筆してくれた手紙は、いきなり「おかねはいつもありがとう」と始まる。これは「お金を」のまちがいではない。「おかねは」という言いかたを意識して原文のまま載せているのである。そのことから山崎が少額ではあれたびたび送金しておサキさんの生活を補助してきたことがわかる。巧みである。

 そのあと「わたしは朋子をじぶんの娘だとおもっているのでこれからも朋子と呼びます」とおサキさんとの親密な関係を匂わせている。これらのことから、山崎サンも他人の秘された人生を赤裸々に書くことで自分が世に出たことに対する多少の引け目はあったのだなと感じてほっとする。それが前記の「あとがきで救われた」になる。



 それでもやはり「世界ウルルン滞在記」を見て、別れのシーンでは思わず貰い泣きしていたのに、番組が終ったあと、泣いてしまった自分が気恥ずかしく、なんとも言えない気まずさを感じるのと同じように、この本の読後感としてスッキリしないものが残るのは、「ウルルン」の裸族生活と同じく、「百足の這いでてくるジュクジュクした腐った畳」は、あくまでも話を聞きだすまでの都会者の短期体験生活でしかなく、さらに悪い言いかたをするなら話を聞きだすための「手段」であり、その後のタレント=山崎サンとは無縁のものだからだろう。感動は感動なのだが、他者の生活を覗き見してのチープな感覚と「その場限り」に後ろめたさを引きずるのだ。

 しかしそれは取材の在り方、やり方、取材者の立場、ノンフィクションとは等あれこれ考えるからであって、別項で書いているが、「不幸な人の登場するご対面番組を滂沱の涙で観賞し、この人みたいに不幸でなくて良かったと感想を述べる感覚」で読むなら、すなおに楽しめるだろう。「おサキさん、かわいそうにかわいそうに。ああわたしはおサキさんでなくてよかった」であり、「むかしの日本にはこんなこともあったのか。よかったよかった今は豊かになって」であるなら。



 映画の評判が高い。まだ<TSUTAYA>あたりにもあるらしいから、ぜひ探して観てみよう。

 推測だが、映画の方が本よりも後味が良いように思う。なぜなら本の方は、著者が正体を隠したままおサキさんに近づき、過去の話を聞きだして行く流れが、ある種おサキさんの人生と並ぶぐらい重要なテーマになっている(私はこれがおもしろかった)のに対し、映画の方はそれは簡略にし、栗原小巻演じる山崎サンは、過去と今が交錯する世界の司会進行役に撤し、若い頃を髙橋洋子、晩年を田中絹代が演じる「おサキさんの人生」を主にしているようだからだ。これだと本から感じるような覗き見的後ろめたさと直面せずにすむ。

 個人的には、なんで山崎サン役に当時人気ナンバーワンの美人女優栗原小巻をキャスティングしたのか不満だ。(本を読んだ栗原小巻が自ら名乗りを挙げたのだったか。そんな話を聞いた憶えがある。最近だと車谷長吉の小説「赤目四十八瀧心中未遂」を読んで感動した寺嶋しのぶが、自ら車谷に「映画化の際は私を使ってください」と手紙を書き、実現した話が有名だ。)

 もっと地味な役者にすることはできなかったのか。だが山崎サンの亭主は、「もう朋子にそっくりだったよ。歩いている姿なんか朋子かと思ったよ」と喜んだそうだ(山崎サン記)からよしとするか(笑)。亭主はよほどこの年上の女房に惚れているらしい。当代一の美人女優と比して女房を絶讃するなんてなかなか出来ない。それを書く本人も凄いが。
 残念なのは亭主が好いているほどこの亭主は女房からあいされていないらしいってことだ。それは別項で書こう。(09/5/1)


============================================


 サンダカンだけではない話──おサキさんの後半生について

 と、感想を書いて納得していた。
 しかしこのあと他の本で山崎が、「娼婦の末路はみな狂死か自死。まともな人間になろうとしても世間の良識が許さなかった」と書いているのを読んで反発を感じた。山崎サンの取材した、おサキさんと「サンダカンの墓」でのふたりの合計三人の結末から、おサキさんは孤獨な極貧、他の二人は自死と狂死、娼婦の末路はみんなそんなもの、と山崎は結論づける。

 それに対して私は、「お江戸のむかしから娼婦のほとんどはしあわせな結婚をしている」と反論を書いた。みんながしあわせだったかどうかはともかく、結婚してこどもを産み、そのこどもに見とられて死んだ元娼婦は、すくなくとも「狂死と自死」よりも多いだろう。男性社会を憎む山崎の推論は極端だ。



 上記の「サンダカン八番娼館」感想でも、私はボルネオ島サンダカン市でのおサキさんのことを書き、それで満足してしまった。すべてを書いたような勘違いで……。
 多くの読者のイメージもそこにあると思う。タイトルもそうであるし。私も、後に山崎が書いているそれがみなそんな感じだから、知らず知らずのうちに彼女に踊らされていた。

 でもそうじゃない。彼女の意見に反撥することによってちがうことが見えてきた。
 以下はほとんど自分に言いきかせるようなものである。

 上記の「サンダカン八番娼館」感想文は、自伝「サンダカンまで」を読んだあと、二冊目に読んだ「サンダカン八番娼館」の感想として書いた。この「附記」は、その後「サンダカンの墓」「あめゆきさんの歌」「わたしがわたしになるために」を読み、特に「あめゆきさんの歌」で、「娼婦はみな狂死か自死」という山崎理論を読んだあと、反発を感じて書き足したものである。



 そういうふうに山崎サンに娼婦の老後をまとめられてしまったので、思わず私も「おサキさんの人生=ボルネオ島サンダカンで売春婦→帰国して極貧の生活」と思ってしまったのだが、そうではない。そうなるまでにはもっといくつもの山あり谷ありだった。
 9歳で売られたおサキさんは13歳から娼婦となり、二十年ほどを過ごして帰国している。それから今度は満洲に行き、そこで出逢った男と結婚して子供を産み、と人生を重ねて行く。山崎と出逢ったときは70歳前後だろうか、毎月4千円の仕送りをしてくれる大阪在住の息子は、満洲時代に結婚した男とのあいだに出来たこどもである。
 おサキさんの人生を語るとき、「サンダカン時代は人生の三分の一でしかない」のだ。それがおサキさんの人生のすべてを決めたとしても、サンダカン時代だけでおサキさんを語るのは、おサキさんの人生に対して失礼だろう。すくなくとも「結婚と出産」という人生の大事は、その後に行われている。



 まず重要なのは、サンダカン時代、おサキさんは幸運にもイギリス人金持ちの妾になっている。「幸運」ということばは不適切かも知れないが、娼館で売春をしている女にとって、金持ちのオンリーさんになるのは大きな幸運だろう。
 その旦那から、彼が帰国している間おまえも帰国してこいと大金をもらって凱旋帰国をする。あちらで売春婦をしつつ親兄弟に仕送りをし、病気になり帰国も適わず朽ち果てる娼婦と比べたら、おサキさんの人生は決してまっ暗やみではない。

 大金をもって帰国し、おサキさんの人生はハッピーエンドになるはずだった。だがおサキさんは毎晩町で芸者を上げてのどんちゃん騒ぎをし、その大金をくだらない遊興費で使ってしまう。そのことを責めるつもりはない。むしろかなしい。おサキさんは身を売りながら兄宛に送金をしてきた。兄が家を建てたのも、田畑を買ったのも、みんなおサキさんの送金だ。兄のこどもたちもおサキさんの送金で育ったようなものだ。だが兄も兄嫁も甥姪もおサキさんを疎み、帰国したおサキさんには居場所がなかった。無意味な散財は、いわばやけくそだった。無学なおサキさんにはそんな形でしか憂さを晴らす手段を知らなかった。



あめゆきさんの歌」の山田わかは、山田嘉吉というふた回りも年上の亭主と一緒になることにより、文字の読み書きから外国語まで教えてもらい、砂地に水で吸収し、やがて女性評論家になる。
 おサキさんはそういう男と出逢えなかった。せっかく帰国し、大金を持っていても、それでなにをしたらいいかわからなかった。学校に行っていず文盲だし、あまりに幼くして売られたから料理ひとつできない。でもここで「おサキさんの山田嘉吉」と出逢っていれば、おサキさんだって山田わかになれたと私は信じる。山田わかにはなれなくても、しあわせな後半生があったろう。そういう出会いがなかっただけだ。

 すべての悪の根源は「男社会」であり、「女はみな犠牲者」というのが山崎朋子のリクツだが、山田わかを救ったのは男だった。おサキさんはそういう「いい男」に出逢えなかった。かくいう山崎サンも、飯を作り洗濯をしこどもの面倒を見てくれる亭主に恵まれたから、好き勝手な活動をしてこられたのだ。どうにもこのひとはそういうことに関するまっとうな解釈と感謝に鈍感である。なぜそんなに男が憎いのだろう?



 このあとまだまだ他の本の感想文が続くのでここはこれまでにする。
 このあとの「サンダカンの墓」から、一気に山崎朋子の本性が迸る。

 ここで言いたいのは、ついつい忘れがちだが、「おサキさんの人生は、サンダカン以降のほうがずっと長いのだ」ということである。(09/6/20)

 山崎朋子まとめ読み.3に続く。



inserted by FC2 system