2009
 山崎朋子まとめ読み

 デヴィ夫人のブログからデヴィ夫人批判をしている山崎朋子というノンフィクションライターを知り、雑誌「世界」を探しだしてその文章を読んだ。

 「デヴィ夫人と山崎朋子論争」

 「あらためて山崎朋子批判」

 逆上したヒステリックな女特有の矛盾した無茶苦茶な手法に呆れ、彼女の自伝を読んでみることにした。「週刊朝日」に連載したものをまとめたもの。まず今の私の接することのないアサヒシンブンの本だった(笑)。
 その屈折した人生が痛々しく、おもしろく、興味津々で、私は自伝の感想文を書いた。それが以下になる。
 いやあおもしろかった。ここ何年かに読んだ本の中でいちばんおもしろかった。

 かといって自伝だけでこのひとを評したら失礼になる。だから代表作と言われる「サンダカン八番娼館」を始め、手に出来る何冊かを読んでみることにした。

 そのことから今年の春の私の読書は「山崎朋子体験」一色になってしまった。
 まずは自伝「サンダカンまで」の話から。これがもうめちゃくちゃおもしろい本だった。ただしそれは私の感覚であり、もしかしたら「こんなもののどこがおもしろいんだ?」と思うひともいるかもしれない。でもおもしろかった。未読のかたにはぜひとも勧めたい一冊である。

4/10
 
  「サンダカンまで--わたしの生きた道」


暴漢に顔を切り裂かれたモデル時代、在日民族運動家の青年との純愛と別離、アジア女性交流史研究会の私設と活動など、大ベストセラー『サンダカン八番娼館』の著者が満を持して描ききった驚愕の人生秘話。 朝日新聞社 (2001/11)

Amazonのレヴュウより
 
美貌に恵まれながら、思いもかけない体験をなさり、それにめげずに底辺に生きる女性の運命を書かれた姿に感動しました。

 
人生観、生きていく上での考え方に触れるつれ、人間として尊敬できる人と思いました。すばらしい感動ありがとう!


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入手までの意外な苦労

 デヴィ夫人のブログからの流れで山崎朋子の自伝「サンダカンまで──わたしの生きた道」を読んでみることにした。

 どこにあるのかと図書館の資料を調べてみると、私の住まいからは最も遠い分館にあった。こういうことがたまにある。私の読みたい本が大きな中央図書館ではなくちいさな分館にだけあるのだ。そういう分館は片道3キロ程度のことが多い。自転車で出かける。本を捜し求めて初めての図書館を訪ねるのは楽しいものだ。図書館の係もはるばるやって来たと告げるとみな喜んでくれる。
 しかし今回のこれは電車の駅で7つも離れているところだった。細長い市の端と端。自転車では無理。電車で出かけた。桜の季節だった。



 山あいの鄙びた駅に着く。図書館の場所はネットで確認し、駅から徒歩3分とわかっていた。すぐに行けると思った。が行けない。これは私が方向音痴だからだ。勘のいい人なら一発か。

 桜の花びらが舞っている。早くも夏日だった。暑い。シャツを脱ぎティーシャツ一枚になって歩きまわる。でも見つからない。
 通り掛かりに酒蔵があった。風に乗って強烈に日本酒が香った。飲んべえの私にはいい匂いだが奈良漬けでも酔ってしまう下戸はくらくらするのではないかと心配するほど強い薫りだった。

 駅から3分のはずなのに10分以上歩きまわって見つからない。路上にいた五十年輩のひとに問うたら「そんなものはない」と言われる。ここに引っ越してきて10年住んでいるという。医者の運転手をしているのだとか。そのひとが知らない図書館とは何だろう。でも図書館は行かないひとにとっては近くにあっても無縁なものでもある。
 そのひととしばらく世間話をした。私は今のところからもっと奥まったこの辺の山あいにも住んでみたいと思っている。その辺のことを問うた。人口は減る一方だとか。やはり不便かも知れない。そうか、インターネットで苦労しそうだ。ブロードバンドに慣れたらもう元にはもどれない。

 往診に出かける先生が出て来た。運転手氏が先生に問うてくれる。医者、即答。「この辺に図書館はないよ。あるのは街中」と、私の住んでいる地域のことを言う。そこの図書館になくて、ここの分館にある本を探してやって来たのだが。
「あそこの郵便局で尋いてみたら」と言って医者と運転手は去る。駅前のちいさな郵便局で尋く。ここでも即答。「この辺に図書館はありません」。

 彼らは私を「引っ越してきたばかりのなにも知らないひと」と思っている。そうではなく、ついさっき私はインターネットで調べてここにきたのだ、確実にここには図書館の分館があるのだとアピールする。
 するとおばさん局員が、この先に公民館がある。もしかしたらその一角にあるのかも知れないと教えてくれた。

 路上に出て来て、50メートルほど先を指差し、あの踏み切りの所から下って、と教えてくれた。やっとたどり着けると安心する。なのにそこからもまた苦労した。そこまで行っても、その後どう行くかわからないのである。踏み切りを渡って歩いている内、いくらなんでも来すぎたのではないかと思い、ひなたぼっこをしていたおばあさんに尋くと、この先に図書館なんてものはないと言われる。また踏み切りのあたりまでもどる。
 結局正解は、郵便局のおばさんが指差してくれた踏み切りの手前に、幅1メートルほどの急坂があり、そこを下ることだった。



 そうしてやっとたどりつく。行ってみれば、たしかにそこは駅から3分だった。だけど複雑な地形の細道の先にあり、知らないと来られない場所でもあった。一度覚えれば次は迷わない。でももう行くことはないだろう。もしもこの分館にしかない本があったとしても取りよせてもらえる。それは知っていた。今回はもの珍しさで来てみただけだ。
 
 山峡のちいさな公民館。その二階に図書館と呼べるのかどうか、田舎の小学校の図書室のような場所があった。地元のひとが「図書館はない」と断言するぐらいだから誰も利用していないのだろう、係員もいなかった。ひっそりとした図書室に入り、ひとりで本を探しているとなんだか他人の家に泥棒に入ったようで落ちつかない。目的の本がどこにあるかもわからず探すのに苦労した。大きな図書館だとコンピュータで本のある場所を教えてくれるのだが、そんなものはもちろんなく、逆にちいさいからこそ分野別に整理されているわけでもなく探すのに苦労する。私もまたそういう探し物が下手である。

 10分ほどもかかったろうか、やっと写真の「サンダカンまで」を見つけた。するとそこにタイミングよく、図書館員を兼ねているのだろう女職員が通りかかり無事借りられた。たどり着くまで苦労しましたとすこし世間話。あちらも電車にまで乗って本を借りに来たひとがいると知っておどろいていた。
 返すのは近くでも出来る。苦労したけれど、春の一日、楽しい体験だった。一冊の本を借りるのに4時間も費やしたのは無益だろうか。予約して取り寄せれば一切の無駄はない。でもこんな時間もあっていいだろう。山崎サンの本をここまで苦労して借りたのもそうはいまい。


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あの世代のひとだった(笑)

 借りるまで苦労はしたが楽しい経験でもあった。それでもそうして借りた本がほんの数ページを読んだだけで投げだしたくなる駄本だったら「楽しい経験」と言ってもいられない。
 ところがこの本、案に相違してめちゃくちゃおもしろかったのである。帰りの電車の中で夢中で読み、最寄り駅で降りて家まで歩いているときも、天気がいいからその辺の公園で続きを読もうかと思ったほど先が読みたかった。

 といって、それが私好みの大傑作だったというわけではない。それどころかまったく逆、信じがたい中身のとんでもない本、いわゆる「トンデモ本」だった。だが夢中になって読みすすめる「トンデモ本」があることは、好きなひとならわかってくれるだろう。いやはやおもしろかった。



 
 ひとことで言うと、この山崎朋子というひとは、戦前の暮らしと、敗戦による激変という極端な体験のために狂ってしまったオオエケンザブローやイノウエヒサシと同世代、同感覚のサヨクだった。フェミニストである。

 で、オオエやイノウエは小難しいことを言って判りづらい。右翼「一水会」の鈴木邦男が思想的に対立するイノウエヒサシに電話をして何度も彼と論争したが、どの方面から絡んでも論破されてしまい白旗を揚げたという逸話がある。

 その点この山崎朋子というひとは、私と同じぐらいのレヴェルなので、言っていることがものすごく分かり易いのである。
 この本は山崎朋子のいわば「余はいかにしてサヨクになりしか」を克明に綴ったものである。私は、「ああ、なるほど、こういう体験をするとこんな考えになるのか」「これに関してこういうひとはこんな解釈をするのか」と、この種のひとたちの考え、発想がとてもよくわかり、しばし茫然とするほど感激した。
 言っていることにはまったく同調しないのだが、自分とは感覚のちがうひとの発想を理解させてくれたという意味で、これは忘れられない貴重な一冊になる。ここ数年で読んだ本としては、最大の収穫だったとすら言える。

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山崎朋子サンの人生ダイジェスト

 と書いてひとりで納得し、何も書かないうちに二週間経過。返却日が来てしまった。

 急いで必要と思われる部分を書いておこう。波瀾万丈のノンフィクションライター山崎朋子サンの人生ダイジェストである。
 他人のそんなものを書いてもつまらないのだが、なぜか私はこのひとに関しては書いてみたい。まことにまことに興味深い人生である。

 この「サンダカンへの道」という山崎朋子自伝は「週刊朝日」に連載されたものらしい。今は東山紀之の自伝的エッセイが話題の週刊誌だ。
 自慢話をした後、場面転換に何度も同じ表現「それは兎に角として」が出て来るのは週刊誌連載だからだろう。週に一度週刊誌で読むのなら気にならないのだろうが単行本だと連発が見苦しい。



後日「サンダカン八番娼館」「サンダカンの墓」「あめゆきさんの歌」「わたしがわたしであるために」等を読むと、どの作品でもこの「それは兎に角として」がシーン替えに多用されていた。つまりこれは週刊誌連載ゆえの連発ではなく彼女の筆癖だった。ファンにはお馴染みの表現なのだろう。初めての私が戸惑っただけで。

 読み親しんだ今はそれを否定する気はない。何ページか読みすすんでこれが出て来ると、「お、また出て来たか」と彼女の文を読んでいる安心感にひたれるほどだ。最近は「兎に角」を漢字ではなく「とにかく」とひらかなで書いている。些少ではあるが時の流れを感じる。

 私の母はこの種の当て字が好きなひとで、末っ子の私はその薫陶?を受けたから、「とにかくは漢字で書くと兎に角」「うるさいは五月蠅」等を小学生のときから知っていた。亡母を偲ぶ意味では懐かしい。だがこどものころからそんなものに親しんでいた私はいま逆にそういう当て字を毛嫌いするタイプになってしまった。それは兎に角として(笑)。



 まず山崎サンの生いたちから。
 軍人、それも潜水艦の艦長の長女として恵まれた幼少時代を送る。「恵まれた」というのは私の感想ではなく、彼女自身がそう書いている。その辺の庶民と比べて食卓から服装までいかに自分達の暮らしが恵まれていたかという自慢たらしい記述もある。重要な幼児体験である。父が勤務する軍港の長崎や広島で暮らす。

 ところが9歳のときにこの御父君が潜水艦事故で亡くなる。名誉の戦死ならその後の彼女一家の人生も変ってきたろうが、これは訓練中の事故だった。よって心無い連中から「天皇陛下の船を沈めてしまった非国民」のような言われかたもする。恵まれた家庭から環境が激変した。それが1940年。太平洋戦争開戦の1年前。
 母親の実家のある福井に行く。陽光眩しい長崎広島から雪深い福井である。人生が暗転した。念のため、この場合の陽光眩しい地から雪深い田舎に行くことになって人生が暗転したというのは私の感想ではない。彼女の主観である。

 この父親の死は山崎サンの人生に大きく影響している。もしも軍人である父が存命のまま終戦を迎えていたなら、今のようなサヨク・ノンフィクションライター山崎朋子は絶対に存在しなかった。平凡に結婚し、父からの影響で日本を愛するまともな女だったはずだ。
 デヴィ夫人に関する岩波書店発行の雑誌「世界」で、山崎サンは皇后陛下を「天皇夫人」と呼び、決して皇后陛下とは書かない。この辺の屈折もこのあたりから生まれているのだろう。

 この年齢のサヨクの特徴は、戦前はむしろ愛国派だったことにある。絶対的な天皇の存在を終戦で根底から覆されて混乱し、あらたな絶対を求めてヒダリに走るのだ。すがるものがないと生きられないのである。それであのくだらない憲法を神聖視したりする。その意味では敗戦によって心を病んだ犠牲者である。
 山崎サンも幼くして父を失い人生が捩れる。父の死は死体のない死だった。山崎サンをかわいがってくれた父は、ある日突然39歳のまま消えた。山崎サンにとっては永遠に39歳のままである。彼女が重度のファザコンであるのはいくつもの箇所からもわかる。



 父を亡くし母の実家のある福井に移る。母、山崎サン、1歳下の妹の母子家庭となり、母はお茶や活花を教えて生計を支える。後家の踏んばりである。
 ここでまた山崎サンを語る上で重要なこと、もしかして最重要なことが語られる。

 母が妹を溺愛し、山崎サンには辛く当たるのである。これは成人してからも母親が死ぬまで、ずっと続く。母とふたりの娘の三人家族。なのになぜか母親は下の娘のみ溺愛し長女を毛嫌いする。なぜだろう。もうこの辺わくわくしながら読みすすんだ(笑)。やめられないとまらない。まるでミステリィ。

 東京の大学に行き自立した女になりたい山崎サンだが行かせてもらえない。せめて四年制大学をと願ったがそれも却下。やっと行かせてもらったのは地元福井の短大だった。父親の実家(農家)の屋根裏部屋(鼠が出入りし、冬は雪が吹きこみ、朝起きると髪が雪で真っ白になっているようなひどい環境)に住ませてもらい、家事を手伝いつつそこから通う。苦学する。それでもこれで小学校教員の資格を得た。「二年制の教育二部」とある。夜間だったのか?
 母に愛されている妹は東京の私大明治大学に進む。入学金授業料も山崎サンとは桁違いだった。この後も母は妹を溺愛し山崎サンを嫌い続ける。



 では溺愛した下の娘と母親の関係は良好だったのかというとそうでもないようなのだ。これがまた奇妙である。母親は晩年に、福井を出て東京でこの妹と住もうとする。東京の家の購入資金は母親が出そうとした。なのに妹は拒否し、山崎サンに、とてもあの母親とは住めたものではないと語ったとか。

 山崎サンは、26歳の時につき合っていた男に顔を切られて大怪我をする。そのときも福井の実家で療養したいと願うが、「治療費は出してやるが、男との痴情沙汰で顔を切られた娘は世間体が悪いから帰ってこないでくれ」と母に拒まれる。それほど母親に嫌われていた山崎サンと母の不仲は理解できるが、母と妹の仲は不可解である。母が愛したほど妹は母を愛していない。
 そういう流れの結果なのか、この妹は生涯獨身で実業界に生き、中でも十代後半から一切スカートをはかなかったというエピソードが異様だ。フェミニストの山崎サンと同じく女を否定したのだろうか。

 とにかくこの母子三人の捩れた関係は山崎サンを語る上で最重要課題だろう。すべての答はここにあるように思う。

 これを読んで私も、私のひねくれている部分、捩れた感覚もまた、みな親子関係から来ているのだと確認し、しばし回想にひたった。親の存在は大きい。こどもの運命を決める。

 この本を読んだら誰もが山崎サン母子の異様な関係に驚く。誰もがなんと痛々しい親子関係だと同情する。母からの差別、いじめと、それに対する憎しみを事細かく書いたのだから、これはとても勇気のある一冊と言える。
 ただし、基本は山崎サンの母親批判批難である。いわば攻撃。母を批難し自分は被害者だとするなら誰でも書ける。まして死んじまった母親は反論できない。難しいのは加害者の自分を書くことだ。だからたいして評価すべき事ではないのかも知れない。
 しかし異常である。ひどい関係だ。



 そのことの答として山崎サンは今、自分は母の子ではなかったのではないか、と推論している。父親がよその女に生ませ、本妻に育てさせたこどもだったと。
 8歳のときに39歳で亡くなっている父親だから、山崎サンは父が31歳のときのこどもになる。むかしでいうとかなり遅い。本妻はなかなかこどもが出来なかったのだろう。それでよそで作ったこどもを連れてきて育てさせる。すると本妻も懐妊した。よくある話である。それが妹。そして亭主の死。そうなると母親は自分のお腹を痛めたこどもばかりを溺愛する。

 それは山崎サンさんの推測なのだが、今際の際の母親のひとこと「他人にはなにもやらん」や、こどものない叔父(母の弟)が死んだとき、遺言状により甥姪八人に財産が分与されたが、唯一山崎サンにだけ何も残さなかったこととか、どうやら正解らしい。この叔父も山崎サンは他人だというようなことを口にしていたそうな。母方だから血の繋がりはない。

 母親の「他人にはなにもやらん」も凄い話だ。語ったのではない。晩年、入院して躰の自由が利かず、間もなく亡くなる母親は、頭脳は正常だが声が出なくなっていた。それで「ひらがなボード」を指差しつつ山崎サンにそれを伝えるのである。「た・に・ん・に・は・な・に・も・や・ら・ん」と。鬼気迫るシーンだ。

 なんともすさまじい母子三人の関係である。こんな中で育ったらねじれる。この件に関しては私は山崎サンに同情的である。

 母との仲がそうだったから当然山崎サンは父を慕う。父は山崎サンが8歳の時に39歳で死んだ。優しかった父、父がいるときはまともだった家庭。いま老境に達した山崎サンだが、「父は生きていればことし百歳、でも私の中では三十九歳のままだ」と書いたりする。ファザコンである。せつない。親はせめて子が成人するまで生きているべきと切に思う。

 もうひとつ不可解なのは父方の存在だ。父方の祖父母、叔父叔母は、亡き息子の忘れ形見をかわいがると思うのだが、まったく登場しない。かわいがられない。短大時代には住ませてもらっているのにだ。それに出生の秘密も、つい親戚の誰かが漏らしてしまうものなのだが、それもなく、上記はあくまでも山崎サンの推測なのである。不可解だ。つまり山崎さんは実の母を知らないことになる。探そうともしていない。不思議なひとである。

 母子三人の暮らし。愛情に恵まれたこども時代とは言い難い。不幸な少女期である。



 夜間短大を出て、福井の田舎で小学校教師をしていた山崎サンは、東京の教員募集に応募する。なんとしても東京に出たい。高校時代の文化祭で演劇に目覚めていた山崎サンは役者になりたかった。東京に出て憧れの役者になりたい。難関の東京都教員試験は無理かと思っていたのに書類審査で運よく合格し、これからが本当の私の人生と意気揚々と上京する。

 山崎サンの夢は役者になることだ。小学校教員をしつつ、スタニフラフスキー・システム(註・演劇用語)をよりよく理解するためロシア語を学ぼうとする。家庭教師として雇った東京大学大学院生と知りあう。日本名を名乗っていてもちろん日本語はペラペラだか彼は朝鮮人だった。社会主義革命に命を懸けていた。ふたりは恋に落ち同棲する。山崎サンは、彼が朝鮮籍だったので籍は入れなかったが、結婚生活であり、事実婚であるとする。後の回想でも「最初の結婚」「当時の夫は」と彼との暮らしを結婚扱いしている。

 彼の革命仲間たちと熱く語る夜。山崎サンは彼らから「朝鮮名」をもらったりする。それは誇りだったらしく、「我が名は羅敦香(ラ・ドンヒャン)」と一章のタイトルにもなっている。もう洗脳されて真っ赤っかである。彼と一緒にいるために教師も辞めてしまった。サヨク路線一直線。
 彼は朝鮮人だから東大を出ていても仕事がないのだとか。出来るのは「パチンコの玉を景品に替えることだけ」と山崎サンは書く。ふたりの生活を支えるために、昼は事務職、夜はウェイトレスと山崎サンは働きまくる。



 日本が朝鮮を支配していた当時の「創氏改名」に関して「日本人は朝鮮人から苗字を奪おうとした。歴史的な文化的残虐行為である」とする流れがある。くだらん話だ。日本の同一国化政策は欧米の植民地化とはちがった。だから支配している朝鮮人も自分達と同じ日本名にしようとした。むろん自分の名前が大好きな朝鮮人にとっては大きな迷惑だったことはまちがいない。

 しかし絶対的な強制ではないし(現にそれに逆らい日本名を拒んだ朝鮮人はいくらでもいる)、支配されている側が支配している側に溶けこめる同じ感覚の名前になれるのなら、いくつもの利便と特権を考えて、支配されている側がぜひにもそうなりたいと願うのは自然であろう。事実、朝鮮人が我も我もと望んで改名したのが実態である。むろん中には自分の意思で拒んだひともいる。それもそれでいい。支配被支配の関係はそういうものだ。大事なことは、それは絶対的な強制ではなく、拒めたということ、当時の流れとしては、無理矢理力尽くでではなく、より楽に生きて行くために我も我もの状況だったということだ。そのこととロシアとの力関係から朝鮮進出、併合をしたことの是否はまた別問題になる。力のある国に挟まれた弱国は人間の歴史でいつもこんな目に遭ってきた。
 それもこれも敗戦すれば勝った側の論理で、いやいや泣き叫ぶ朝鮮人から力尽くで朝鮮名を奪った文化的略奪行為になってしまう。そこは正しく理解しておきたい。

 インドネシアを支配していたオランダは、逆にインドネシア人がオランダ人と結婚しても、必ずインドネシア名を残すようにした。日本とは逆に支配しているインドネシア人がオランダ人になることを拒んだのである。インドネシア名を残しておくと出自が一目瞭然だからだ。出世して金持ちになって貴族社会に出入りしようとしたら、祖母の名前等から出自を判断され、インドネシア人の血が入っているからと拒まれた事例がある。これが真っ当な、というと語弊があるが、殖民地管理の政策になる。差別側は被差別側が自分達と区別できなくなることを嫌う。それこそが植民地支配の基本であり、だからこその「差別」なのである。

 支配している民族にも自分達と同じ姓名を与え、同等の天皇の赤子であるとする日本の政策がいかに特殊であったことか。改名させず朝鮮名を名乗らせておけばいつでも自由に明確に被支配民族の出であることがわかり差別できたのだ。島国根性の勘違いである。創氏改名に対する私の意見はサヨクとはまったく異なるが、「愚策だった」では一致する。あんなよけいなことをしなければ出自がわからなくてこんがらがる今のような混沌は起きなかった。

 かつて例を見ない奇妙に友愛的な政策も敗戦国になれば鬼畜の所業のように言われる。負ければすべて勝者の論理に従わねばならない。ひとは負けてはならないのだと痛感する。この世はみな勝者の論理で動いている。



 朝鮮人が日本名を名乗る一方、山崎サンや仲間のように自ら朝鮮名を名乗ったり、朝鮮名をつけてもらって喜ぶひとたちもいたわけである。
 この他、山崎サンが朝鮮人と結婚したこと(実際は同棲だが)により、喫茶店を経営している夫婦に「あんたは朝鮮人と結婚したからやめてくれ」とウェイトレスをクビになるくだりがある。朝鮮人差別、いや朝鮮人の身内差別である。この夫婦が日本名を名乗っている帰化した朝鮮人というのがたのしい。ねじくれた差別。

 愛する東大大学院生の兄に挨拶に行くと、「あんたが日本人じゃなかったら……」と言われる。つまり弟の嫁として人柄は合格なのだが日本人であることだけが残念だと言われるのである。差別にもいろいろある。こんなことを繰り返していればおかしくなってゆくよねえ。



 ところで素朴な疑問なのだが、この朝鮮青年の活動する社会主義革命とは何をどうすることだったのだろう。韓国に革命を起こして社会主義国家にするという活動なのだろうか。最初私は彼を北朝鮮人だと思って理解していたのだが、「済州島出身」とあるからそうではないようだ。

 最愛の彼だが一緒にいては彼の革命のじゃまになると山崎サンは身を引き、事実婚を解消するのである。この辺がよくわからん。その後この連中が革命を起こしたという話も聞かない。
(後日註・「日本人の妻」が、仲間うちで問題になり嫌われ、彼の足を引っぱるということから、山崎サンが自ら去った、と書いている。)

 よほどこの朝鮮人が好きだったらしく当時のことを語る山崎サンの筆は熱い。その後この彼は北朝鮮の諜報活動に従事しヨーロッパに住んでいたらしいと語られている。彼のイメージもまた父と同じく別れたときの二十代半ばで停まっている。

 山崎サンは自分の人生の第一部は、この朝鮮青年との別れで終ったとする。その後の今に至る時間が第二部になる。
 思想的傾向、今後の生きる方向を決めたのだからたしかに大きな出会いであり別れであったろう。人生唯一の大恋愛である。私には、父の死、母との軋轢から、この出会いも思想方向も必然であったように思える。この青年や仲間から受けた影響がいかに大きくても、それは軍人である父の死、敗戦、母との不仲から、轢かれたレールだったと。

 ただしこの今も熱く語る朝鮮人東大大学院生との仲に関しては疑問だ。それはこのあとの随筆集「生きて生きて」の感想文に書いた。リンクを張る。


 「朝鮮人東大大学院生の仕事について」




 最愛の東大大学院生朝鮮人革命家と別れたあと、彼との熱愛生活のためにすでに小学校教師も辞めてしまっていた山崎サンは喫茶店に勤めて生計を立てる。心は腑抜けのままである。最愛のひとと、彼の革命成就を願って自ら身を引いたのだ(笑)。と、笑ったら失礼だけどどうにもここの部分が理解できない。朝鮮名までもらったんだからだったら一緒に革命路線に走ればいいのに。なぜ身を引いたのか、朝鮮人に成り切って一緒に革命のための工作活動をすればよかったではないか。この後の人生はすべてこれを引きずってのものである。

 引用する気にもならないし、したくないのでしないけど、この辺のことは大仰に綴ってあって笑える。やたらカッコを多用したクサい文章だ。社会主義革命に命を懸ける朝鮮人東京大学大学院生と悲劇の美貌の日本人ヒロインの別れという物語に酔っているらしい。

 そのあと最大の悲劇が起きる。
 山崎サンの務める新宿の喫茶店に足繁く通い山崎サンを口説く美男の男。最愛のひとと別れたさびしさをまぎらわすため山崎サンはその男とつき合う。二個月間のつきあい。「その間にいわゆるデートを何度かした」と書いてある。よくわからんが肉体関係はあったのだろう。男の家に行き、婚約者として両親にも会っているし。そうでなければ男も刃傷沙汰には及ぶまい。

 しかし次第に男の正体が分かってくる。美男で優しそうだったがつい先日ムショから出て来たばかりの前科者、ろくでなしだった。家族に寄生して生きている害虫。家族もみな持てあましている。やがて山崎サンにも金銭的にたかってくるようになる。山崎サンは別れの手紙を書く。

 深夜、喫茶店の務めから帰ってくると駅前にその男が待ちぶせていた。いきなり顔を張ってくる。顔が熱くなった。それまで誰からも顔を張られた経験のない山崎サンは、他人に顔を張られるとこんなに熱いものなのだろうかと思いつつ、こんなことでこの男と縁が切れるならと逃げずに張られ続ける。
 だがそれは張っているのではなく、手に持ったナイフで山崎サンさんの顔を切りきざんでいたのだった。

 周囲のひとが血塗れの山崎サンに気づく。男は逃げる。山崎サンは失神する。救急車で運ばれる。顔だけで7ヵ所、合計68針も縫う大怪我だった。その他、首にも切りつけられている。このとき26歳。それまで喫茶店務めと併行して写真のモデルもやったりしていた美貌はずたずたにされてしまった。
 山崎サンの夢は役者である。その夢が消えた。

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 後にネットでこの本の感想を探したら、あるひとがストーリィダイジェストで「今で言うストーカーに顔を切られた」と書いていた。山崎朋子を敬愛しているひとのようだ。山崎シンパとしてはシンプルでわかりやすい解説になる。

 だがそうではあるまい。山崎サンは男の実家にも行き両親と会っている。嫁候補を連れてきたかと両親が喜ぶのかと思ったら、なぜか自分を見る父親の妙にかなしそうな顔が印象的だったと山崎サンは書いている。その理由を、男は美男だが働かないろくでなしであり、ムショ帰りであり、またそれにひっかかった被害者が出るのかと、最大の被害者である父親は自分を見て憂いていたのだろうと後々推測している。山崎サンは交際相手の本性が現れ、男に金をたかられるようになったから別れを決意し手紙を書いたのだ。

 顔を切られて入院している病院には、当時は高価であった鶏卵を土産に男の姉が訪れ弟のことを詫び長話をしている。
 また当時のことを苦々しく回顧する文なのに、それでも何度か男のことを美男と書いているから、かなりのハンサムだったのだろう。美男を武器にしてのダニ稼業だ。自分の美貌に自信のある山崎サンが醜男とつきあうはずもない。

 それらから解釈すれば、ふたりにそれなりの交際があったのは事実であり、金をねだったら覿面に冷たくなった山崎サンに、男は美しい顔を傷つけ醜くすれば、自分だけのものになると思って犯行に及んだのだ。それを一方的につきまとう加害者=ストーカーなどという今風の表現にすることは、たとえネットの感想文であれ安易にしてはならない。

 山崎サンを襲ったのは、山崎サンは「数ヵ月間に今で言うデートを何度かした程度の仲」と、恋人未満であることを強調しているが、男の実家に行き両親と会うほどのつきあいはあったのだ。断じて「今で言うストーカー」ではない。


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 この単行本の最初の章、「週刊朝日」の連載1回目は、この顔を切りつけられた事件から始まる。自伝を書くに当たり、「今まで触れないようにしてきた過去のこの一件を真正面から見ないことには何も始まらない」という決意からである。

 裁判所で当時の裁判の資料を見せてもらおうとする。門前払いをくう。役所仕事は上意下達だと、山崎サンは、知りあいの法律系大学教授から法曹系の大臣に頼んでもらう。一発でOKが出た。この辺、権力が大嫌いのはずなのに上手に利用している。

 その裁判資料を読んで山崎サンは逆上する。それは「男性」である「犯人」の目線で語られ、「男性」の裁判官や「男性」の検事が判断した、「男性」による記録だった。
 と、ここのところカッコつきでやたら「男性」が強調される。山崎サンは強調したいことがあるとカッコをつけて連発する。けっこうビックリマーク!も使う。
 当時は判事にも検事にも女性はほとんどいなかったからこんな裁判になったと山崎サンは激昂する。フェミニストの面目躍如だ。

 でもそれはおかしい。
 ろくでなしに女の命である顔(とは山崎さんの表現である)を切りきざまれた山崎サンが、40年以上前の裁判記録を読んだら、そこには山崎サンからすると事実ではないことが犯人の男・吉田の語ったとおりに記述され、それをもとに判決が言いわたされていた。1年半の実刑だった。男は、自分と別れようとする山崎サンの顔に怪我を負わせて醜い顔にすれば自分だけのものになると思っていたとか。
 山崎サンは怒る。いかにも恋人同士の痴情の縺れのように書かれているが自分はほんの二ヵ月つき合っただけでしかない、あっちもこっちも事実と違う、すべて犯人の言うがままに記録されている、と。

 気持ちはわかる。だけどそもそも山崎サン本人が、あんな裁判に関わっても無駄、あたらしい人生を生きるために関わらない方がいい、関わらなければあの男と縁が切れる、早く忘れたい、だから出ない、と決断して出廷しなかったのである。一切関わらなかったのだ。

 だったら裁判が犯人の発言によって構成されるのは当然である。犯人の述べるまま、犯人の都合のいいようになってしまうのはしかたない。だって現場の状況や当人達の気持ちを知っているのは、犯人と被害者だけであり、その被害者が裁判に関わっていないのだ。だったらもう一方の当事者である犯人の述べることだけで裁判が進行して行くのは当然だ。それがいやなら出廷して自分の意見を述べるしかない。

 山崎サンは当時は女性の検事や判事もいず、すべては男性が仕切っていた」「もしも女性の判事や検事がいたら、若い女性にとって顔がいかに大事なものかを代弁してくれたと男女同権の立場からこの裁判の流れを批判する。でも時代は関係ない。これは詭辯だ。すべては出廷していない山崎サンの責任である。

 時代性が関係あるとしたら、それは山崎サンが出廷して意見を述べたのに、それが男性の判事や検事によって受けいれられず、犯人の男に都合のいい結論になったときだろう。だがそうではない。
 山崎サンは出廷しなかったのだから文字通りの缺席裁判になるのはしかたない。それを当時の時代に結びつけ、男性社会であり女性が社会に進出していなかったからこんな裁判になったとするのは詭辯である。フェミニストの牽強附会ぶりがよく出ている箇所だ。

 男に顔を何個所もナイフで切られた忌わしい事件。思い出したくもないと今まで避けていた40年以上も前の出来事。自伝を書くにあたり勇気を持ってその裁判記録を読んでみたら事実とは違うことが書かれていた。憤るのはわかる。でもそれは裁判に出なかった山崎サンの責任であり、当時の裁判関係者が男性ばかりだったこととは無関係である。

「このひと、かなり自分に都合良く解釈するひとだな」と思った最初だった。後々、読めば読むほど感じるこのひとのいいかげんさを最初に感じたときだった。



 山崎サンは、自分の人生を台なしにしたそのくだらない男とは関わらないことにしたのだ。一時の気の迷いとはいえ、元亭主の東大大学院生朝鮮人とはあらゆる面で比較にならない低俗で無能な男だったと山崎サンの文からも察せられる。でもいくら最愛の男と別れ心淋しかったとはいえ、そんなのとつきあったのは山崎サンの責任だ。だから、もういい、もう関わらない、忘れるのだ、と山崎サンは裁判を缺席した。それも正しい判断と思う。出廷したなら顔を切りきざまれた女として好奇の目に晒されたろう。また当然「肉体関係はあったのか」のような訊問もされたはずである。私はあったろうと読んでいる。なかったかも知れない。なかったことをあったろうと思われたら不愉快だろう。でもそれもこれも、それらを避けて出廷しなかったのは山崎サンの決断であり責任だ。だったらそれによる結果も甘んじて受けいれねばならない。

 なのに40年後に裁判記録を見たら事実と違う部分がある、それは当時が男性社会だったからだ、と決めつけて憤るのはおかしい。基本は裁判を缺席した山崎サンにある。缺席した時点で語る資格を失しているのだ。

 その意見にせめて、「すべてはその男と係わりあいたくないと裁判を缺席した私の責任である。だがそれにしても」とでもあっての反論ならまたこちらの心証もちがってくる。残念ながらそういう自分側の反省はまったくない。ひたすら激昂して当時の「男性社会」を責めるのみである。やはり「このひと、おかしいよ」と思わざるを得ない。

 その思いはこのあと彼女の作品をいくつか読むことでさらにまた強くなる。このひと、気に入らないものに対する攻撃力はA級なのだが、自身の反省、冷静な全体判断に関しては、覿面に無能、いいかげん、雑、しらんふりになる。それもこれも〝おんな〟だからであろうか。

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 このあと山崎サンは児童文学に興味を持っている年下の男性と結婚する。それが今の亭主である。このひとは筆名で活動しているが本名は山崎。つまり山崎朋子とは結婚した彼女の本名になる。フクシマミズホのように「夫婦別姓」とまではいってないようだ。
 彼の影響を受け、亭主を師匠として文章を書きはじめる。
 女児をひとりもうける。亭主は男女同権主義で育児や炊事にも理解のあるひとだった。

 多くの友人が山崎サンに、あなたは夫に恵まれていると言う。今も言う。そのことに対して山崎サンさんは、夫に感謝しつつも、たまたま結婚した男が運よくそういうひとだったのではない、私がそういうひとを選んだのだと主張している。

 夫が理解あるひとで助かったという感謝の念は随所に溢れていて、この本で唯一私には救われるところである。
 ただ同時に私には同じ男としてこの夫という人物が理解できず、このひとはなにを考えているのだろうとたびたび思った。感謝のことばは述べられているが、顔のない亭主である。山崎サンから迸る亡き父と最初の夫である朝鮮人革命家への熱い想いのようなものは、この亭主には向けられていない。まったくない。むしろ人生のパートナーとしては認めているが男としては見ていないかのようだ。

 山崎サンは女性史に興味をもち、アジア女性史研究会を始める。この辺もみな最愛のひとであった朝鮮人革命家からの流れである。研究会仲間も日本人なのに朝鮮名をもつような女たちばかりだったとか。いわば日本の中の朝鮮フリークスが集ったのだ。いろんな女がいる。
 この場合のアジアとは朝鮮であろう。いわゆる今の従軍慰安婦問題に繋がる流れである。慰安婦はいたが、従軍慰安婦とはもっとずっと後の造語なのでこの当時は影も形もないことばだ。



 

 夫は児童文学者、妻はノンフィクションライターとして頑張る。
(が、それでは喰えなくて実は賄いつき下宿屋経営が本業だったとは別の本で知る。)

 やがて取材先の長崎の天草で「おサキさん」と出会う。廃屋で暮らす老女はかつて異国で出稼ぎ売春婦をしていた「からゆきさん」だった。貧しく学校にも行っていない文盲の彼女は9歳のときマレーシアのボルネオ島に売られてゆく。最初は下働き。やがて13歳から売春婦になる。
 その彼女の人生を聞き書きで綴ったのが「サンダカン八番娼館─底辺女性史序章」。それが大宅賞を受賞し、今の私があるのだ、というのが「サンダカンまで──わたしの生きた道」という本の中身。このとき山崎サンは41歳。人生ががらっと変った。

 本が出来上がったとき、山崎サンは一冊をおサキさんに送るのだが、おサキさんは文盲なので自分のことが書かれた本を読めないという話が哀しい。
 この長崎行も、苦しい家計と幼い娘がいる環境なのに、こどもの面倒は自分が見るから行ってこいと言ってくれた亭主のお蔭である。たしかに亭主に恵まれている。もっともすべては自己申告だが。



 もう関係者も死んでしまったのでと初めて明かされる出版までの裏話はおもしろい。当初、幸運にも縁があって当時の大手であった中央公論が出してくれることになったのだという。山崎サンは驚喜する。だがその出版部長は、この本は売れる、でもこんな固いタイトルでは売れない、タイトルは「ある海外売春婦の告白」がいい、中身ももっと性的な話を多くして、と原稿にむちゃくちゃな量の赤を挿れてきた。

 悩んだ末、ぎりぎりになって山崎サンはこの話を断る。せっかくの世に出るチャンスをつぶしてしまうが、そんなのは私の作品ではないと。

 しかしまあこの中央公論の部長の感覚もひどい。「ある海外売春婦の告白」って、なにを考えているのやら(笑)。もっとも山崎サンの「底辺女性史序章」ってのも、それと同じぐらいひどい。いくら底辺の女性の苦労話を書いたとしても、タイトルにそんなものはつけられないけどねえ、ふつうは。すくなくとも自分を「底辺女性」と思っている人はこんなタイトルはつけない。

 そうして一度つぶれた話だったが、後に筑摩書房からそのままのタイトル、内容で出してもらえることになる。



 出版は昭和47年。この本のことも、その後の話題になった映画もよく覚えている。映画の出来はよかったようだ。激賞されていたのを覚えている。今も「望郷──サンダカン八番娼館」の題でDVD化されている。

 映画で山崎サンの役をやるのは当時最高級の美人女優であった栗原小巻。おサキさんの役は若いときが髙橋洋子、年老いてからは田中絹代。共に演技派として名高い。最高の布陣と言える。

 この映画を見た夫が言ったそうだ。「栗原小巻を見たとき朋子かと思ったよ。歩き方とかそっくりだね」と。当代一の美人女優に対してよくもまあヌケヌケと(笑)。言う亭主も凄いがそれを平然と再録する山崎サンもすごい。この夫はよほど山崎サンに惚れこんでいるらしく、なんとも従順に尽くしている。山崎サンにとっては最高の夫だろう。だが私はこの夫がちっとも魅力的に見えない。世の中にこういう男がいることはわかる。主夫の先駆者である。今は増えた。私は嫌いだ。

 実は私はこの話題の本を買っている。学生時代だ。先日、突如思い出した。当時ヒダリがかった学生には必読の書のように言われた。あのころは私もオオエケンザブローもイノウエヒサシもみな読んでいた。それどころか本棚に誇り高く並べていた。必読と言われた左翼系の本はみな読んだ。読んだ上での今である。食わず嫌いではない。
「サンダカン八番娼館」は、手をつけることなくツンドクのまま、その後の整理で捨ててしまった。今度図書館で読んでみよう。今なら読めるのだろうか。



 本が売れ、賞をもらい、映画もヒットし、山崎サンは売れっ子になる。テレビにも何度も出た。その後もレギュラーとして出てくれと言われる。売れっ子有名評論家になるチャンスだ。でも山崎サンは断る。その理由は、「テレビに出て顔が売れ有名になることは底辺女性史とは矛盾しているし、顔が売れると底辺の女性は自分に心を開いてくれなくなるからなのだそうな。以来顔のでないラジオは別にして30年以上それを守っているとか。テレビに出ると稼ぎがよくなり家計が楽になると期待した亭主は残念がった、もうしわけないとおどけている。

 なんだかこの辺のスターぶっているところもまたけっこう笑える。いや、私が知らないだけで、山崎サンは「そっち方面」では大家なのだろう。この「サンダカンまで」というタイトルも、「わたし、大物山崎朋子が〝サンダカン〟で成功するまでの道のり」ということであり、「サンダカン」で一発当てた山崎サンは、これで大成功し順当な道を歩んできたのだ。ただそれをまったく知らない私には、売り出し中の藝人が、こちらはあちらを知らないのに、マスクとキャップで顔を隠しているようで滑稽に見える。

 山崎サンは「テレビに出ている有名人では、おサキさん(「サンダカン八番娼館」の主人公)は心は開かなかったろう」と言っている。そうだろうか。
 山崎サンの顔の傷は晩年になってだいぶ薄くなり化粧で隠せるようになったが、おサキさんと会ったころはかなりのものであったろう。「顔に7ヵ所、68針を縫う」という怪我は疵痕もすごいものだったはずだ。山崎サンがテレビを嫌ったのは顔の傷のせいと私は解釈している。



 山崎サンは、自分なんか自伝を書くような大物じゃないんだ、私の人生はたいしたことはなかったんだと言いつつ、その割りには芥川賞、直木賞と並ぶ文藝春秋社の大宅賞を受賞したとか、本はベストセラー、映画はヒットと自慢したり、北朝鮮革命家青年との恋愛を大仰に語ったり、謙遜しつつ威張っている。

 そういう自分自慢のあと、とってつけたように、私の亭主もこんな本を出しているし、こんな大学から招かれたこともあると亭主自慢をするのがわざとらしい。でも亭主にはほんとに感謝しているのだろう、亭主が男女同権主義者で理解あるひとだったという表記はなんども出て来る。まあ簡単に言えば、この亭主は炊事掃除洗濯をいやがらずにやってくれるひとだったのだ。珍しい男である。

 それをする男自体は珍しくない。かくいう私もなんでもやるけれど、この亭主は、女房を自由に出かけさせ、自分が留守を守ってそれをするのだ。いわゆる主夫の先駈けか。私にそれはできない。「おれもやるけどおまえもやれ」になってしまう。

 なのに顔が見えない。キャラがない。山崎サンは亭主を人生のパートナーとして掛け替えのないひととは思っているようだ。だが男としてアイシテイルのだろうか。どうにもそれが伝わってこない。朝鮮人革命家への愛は溢れんばかりなのに。

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娘の謎

 ここでまた大きな不自然に気づく。誰も知らない亭主の地味な著書の名まで連綿と書いたりしている長文の自伝なのに、ひとり娘のことに関してはなにもないのである。娘が登場するのは、亭主が育児や炊事に理解があったことを語るときの添え物としてだけである。幼い娘を残して取材に行くのはたいへんだったが、夫が心配ないから行ってこいと言ってくれた、のように。

 決意をもって長崎に出かけたとき、1960年生まれの娘は小学校の三年生。以降登場しない。小学校三年生のままだ。よって亭主と同じく娘にも顔がない。のっぺらぼうだ。性格もない。成人してどんな人生を歩んだかも一切記録がない。まことに不自然である。この娘ももう50になり、こどもはもちろん孫(山崎サンには曾孫)がいてもおかしくない年齢だ。なのに娘のことも孫のこともまったく出て来ない。触れない。書かない。不自然である。

 あまりに不自然なので、私はもしかしたら早世したのか、私が読み洩らしたのかと何度もページをたぐった。そんなことはない。この娘は生きている。なのになぜか小学校三年生以降、山崎サンの「自伝」にまったく登場しないのである。



 そこで私は推理する。
 母から愛されなかった山崎サンは、娘を愛せなかったのではないか。母としての能力が缺けていたのではないか、と。
 彼女はくどいほど「金もコネも学歴もない私達夫婦だが、こうしてここまで頑張ってこられた」と書いている。夫が専門学校卒で学歴がないと何度も書いている。よほど前夫の東京大学大学院生を引きずっているらしい。当然そこには明治大学に行かせてもらった妹と、福井大学の夜間短期にしか行かせてもらえなかった自分という差別をした母への怨みがある。

 そんなことまでたっぷり書いているのだから、美々(みみ)と名づけたひとり娘の話がなければおかしい。彼女が優秀で有名大学に進学したならそう書くだろうし、自分達の影響を受けて娘もこういう方面に進んでいるとか、結婚してこどもが出来、夫は孫を溺愛しているとか、である。それが一切ない。こどもは幼い頃、妻の仕事に対する夫の理解度を示す添え物として登場するだけなのだ。
 もしも娘が山崎サンの願うのと違う方向に進んでしまったとしても、触れていてふつうである。一切書いてないというのが異常だ。

 この不自然さは読者なら誰でも気づくだろう。この本には「山崎サンと母親」という母子の話はたっぷりあるのに、「山崎サンと娘」という母子の話がまったくないのである。美々という名前と幼児期のことだけだ。それすらも、幼いこどもをおいて取材に行かねばならない、それを夫が自分が面倒を見るからと許してくれた、と、自分に対する夫の理解度を語る素材として登場するのみだ。まったく顔のないこどもである。



 あまりに不自然なこの部分を推測すると、山崎サンは娘と絶縁しているのではないか。それも娘の方が母を嫌い、去っていったのではないか。と、私は想像する。母を嫌う娘は、自分が母になったとき娘に嫌われる。そういう母にしかなれないのだ。まことによく出来た話である。山崎家はそれではないのか。

 ただ、この娘は父親好きのはずだ。「うちは外出ばかりなので家内ではなく家外です」と亭主は冗談めかして他者に言っている。山崎家は「父娘家庭」だった。娘は母親嫌いでも父親は好きなはずなのだ。母とは絶縁状態でも父とはつきあいがあるのか。おそらく、山崎サンとは違う傾向の人生を歩んでいると思う。自分好みの娘に育ったなら、山崎サンは娘自慢を延々と書いているはずだ。娘は、「育児も炊事もせず外出ばかり、自分への愛情も足りなかった母親を、なにが底辺女性史だ、そんなものを研究する前に女として母親として女房として、やるべきことがあろだろう」と思っているのではないか。もしもそうなら、そういう母の言いなりである父とも絶縁しているのかも知れない。

 女性史を研究する山崎サンなら、働く女性と家庭について書かねばならない。
 山崎サンは母という働く女性と、その母に嫌われた自分、母を嫌った自分のことは書いている。だが自分という働く女性と、その母を嫌った娘(推測)、娘を嫌った母(推測)という自分に関してはなにも書いていない。それは片手落ちであり、よりストレートに言えば、物書きとして狡い。卑怯である。



 山崎さんの母が妹と差別待遇をするいかにひどい母親だったかは書いた。なら、自分も娘に対してどんな母親だったかも書くべきだ。書かねばならない。それでこそ女性史研究家だろう。

 顔を切られた裁判の箇所にも書いたが、このひとの文には、「わたしにも問題はあったが」のような一歩引く姿勢が一切ない。自分に関してはひたすら正義の押し売り、前進するのみである。それが巧みなら私のような頭の悪いのは簡単にだまされてしまうのだが、そうでないからおかしい(笑)。へたな押し売りである。
 いくらなんだってこれだけひとり娘の話題を避けたら誰だって不思議がる。

 裁判のところで「すべては出廷しなかったわたしが悪いのだが」とあったら、多くの支持者は「いやいやそんなことはない、あんたは悪くない、ひどい目に遭ったんだから」と思うだろう。
 娘に対して、「女性史研究に打ちこみ、日々の取材や講演で留守がちだったため娘はわたしを嫌った」と書いたなら、支持者は、「なんと痛々しい、でもあれだけの作品を残したのだから」と言ってくれたろう。
 しらんふりして触れないから異常なのだ。触れていればなんてことなく看過できるのに、触れないから不自然さが際立つ。

 でも「底辺女性史研究家」としては、自分の家庭がまともでないとは口が裂けても言えなかったのか。たしかにそれでは「底辺女性」の研究以前である。まともな家庭も営めない女に底辺女性の研究なんて出来るはずがないのだから。

 ノンフィクションライターとして働く女だった山崎サンは、母親としてどうだったのか。その事と働く女であることは関係があったのか。ぜひとも尋いてみたい。

 娘・山崎美々さんの書く「母山崎朋子」を読んでみたい。

 なにはともあれ、とにかくおもしろい「トンデモ本」だった。

Amazonのレヴュウより

 
美貌に恵まれながら、思いもかけない体験をなさり、それにめげずに底辺に生きる女性の運命を書かれた姿に感動しました。
 人生観、生きていく上での考え方に触れるつれ、
人間として尊敬できる人と思いました。すばらしい感動ありがとう!

 この本を読んで下線部分のような感想を持つひともいる。世の中、様々である。人間として尊敬し、すばらしい感動をありがとうはいいけれど、私の指摘したように「娘のことが出て来ない」とか、そういう不自然な部分にこういうひとは気づいているのだろうか。信じがたい感想である。

 さらにその前の部分で指摘するなら、「それにもめげずに」とあるが、そうではない。そんな「思いもかけない体験」をしたから、「底辺に生きる女性」にシフトチェンジしたのである。このひとが美貌のままだったら高慢な厭な役者になっていただろうことはまちがいない(笑)。

 


 いつしかこんな長文になってしまい、ファイルが重くなった。訂正削除にタイムラグがあるほどに。でもこの程度のファイルで重くなる『ホームページビルダー』もおかしいとは思う。最新版の13だ。OSはVistaとWindows7RC版の64bit版をデュアルで使いメモリは6GB積んでいる。それでなぜ重くなるのだろう。わからん。

 よって以降の「サンダカン八番娼館」等の他の感想文は別ファイルに分けることにした。

 「山崎朋子まとめ読み・2」に続きます。



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