漢字を使うな!



ぼくは日本語IMEにATOKを使っている。IMEがFEPと呼ばれていたころからの愛用者になる。そのいちばんの理由はMS-IMEよりもATOKのほうがよく出来ていて使いやすいからだが、実のところ今ではもうこれはたいした意味を持っていない。その利点をぼくは利用していないからだ。

 一時マイクロソフトの露骨なJustSystemつぶしに、ATOK側もタレントを起用したテレビコマーシャルを連発して対抗していた。あのときのタレントって内田有紀だったか。
 今じゃJustSystemも赤字に転落したとかですっかりおとなしい。昨年、JustNetがSo-netに身売りしてSo-netが国内何番めかの大プロバイダーに躍進したとか話題になっていた。四国阿波徳島から勃興したヴェンチャー企業も盛りを過ぎたということだろう。「ATOK(えーとっく)」という名は「あわ・とくしま」から取ったという説がある。ほんとうなのかどうか。

 そのテレビコマーシャルでアピールしていたのは、「変換能力の差」だった。なんだっけ? 他社の−−この場合、敵が今では唯一のライバルであるMS-IMEであるのはたしかだ−−製品だと「熱い」になってしまうのがATOKだと正しく「厚い」だか「暑い」だかに換わるという内容だった。ここでテーマになっているのも日本語の致命的缺陥(最大の特徴)である「同音異義語」の問題である。

 ATOKを使い続けてはいるが、その理由として機能はあまり関係ないといったのもこのことに関係がある。「記者が汽車で貴社に帰社する」というようなことを一発で間違いなく変換したとして(いまやってみたらATOK14はきれいに変換した。そうなるように作ってあるのだから当然だが、初めて試したのでちょいとした感激)、果たしてそのことになんの意味があるのだろうということだ。そんな奇妙な変換をすることなんてあるはずもないのだから。

 タイ語の「マイ・マイ・マイ・マイ」が日本人にとって難解であるように、外国人にとってこの「きしゃがきしゃできしゃにきしゃする」のようなことほど難しいことはないだろう。「字を見ないと意味がわからない日本語」の特殊性である。


タイ語抄-ポムその壱

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 その種の変換に関してATOKはまだMS-IMEより遥かにすぐれている。生き残るために最大の努力をそこにつぎ込んできたのだから当然だろう。でもそれはぼくにとって今ではどうでもいいことだ。あまりに教科書然とした画一的なそれらにぼくは反発を抱き、自分流にするため、こまめな変換を使っているからである。

 これはパソコン歴の長さにも因る。あまりに愚かなFEP時代からのつきあいだから、最近のものは目を見張るほどの進化を遂げているらしいが、かなりの文字数(50字以上)を入力して一気に変換のようなことをぼくはしない。IMEを信じていない。こまめに変換する。上記の「きしゃ」で例えるなら、「きしゃ」をひとつずつ変換する。誤変換されてやりなおすなら、ひとつずつ順に確実に変換したほうがストレスはたまらない。JustSystemの人が見たら、「もっと我が社の製品を信頼してください」と言うかもしれない。

 ATOKの秀でた能力を役立てないなら、なぜ使うかとなる。なにしろ「一太郎&ATOK」が一万円以上する市販ソフトウェアであるのに対し(ぼくはVersionUp版だから最安値でありほんとうはもっと高い)、MS-IMEはWINDOWSを買えば無料で附いてくるものなのである。細かな変換能力の差などどうでもいいのならただがいちばんだ。実際IMEの能力にこだわらない今のぼくにとって、ATOKもMS-IMEも同じようなものだろう。使い勝手が長年ATOKなので慣れるまではたいへんだろうが。

 その意味ではATOKとMS-IMEはライバルではあるがライバル関係は成立していないことになる。そう言えたのは、まだOSにIMEが附いてこない時代、「一太郎&ATOK」と「WORD&MS-IME」が対立していた時期のことになる。
 無料でついてくるMS-IMEがあり、今では機能差はどうでもいいと言っているのに、なぜあえてATOKを購入するかの理由はもうすでに書いている。「マイクロソフトの露骨なJustSystemつぶし」に対する義憤なのだ。

 世界を席巻したビル・ゲイツ帝国の思い通りにならない数少ないものとして、日本における一太郎がある。「WORD」が思うように売れない。どうやらそれは、同音異義語というものから成り立つ複雑怪奇な日本語変換に関して、ATOKというIMEがすぐれていると支持する熱心な信者がいるからだと判明する。だったらまずは、そんなことをなにも考えていない購入者を自分たちの色に染めてしまえとマイクロソフトは無料でIMEを配布し始めた。
 これはWINDOWS使用者とっては朗報だったがJustSystem関係者には驚天動地の出来事だったろう。それまでの闘いの基盤はよりよいIME作りにあった。有料を前提とした上での内容勝負だった。それを相手はいきなり無料にしてしまったのである。まあこの時点で決着はついている。無料でMS-IMEがついてくるのに、さらにまた一万円以上を出してATOKを買うなんて酔狂をするのはそんなにはいない。さらにマイクロソフトはATOKを作っていた技術者をJustSystemから引き抜き、MS-IMEの充実を図った。(このへんの感覚は、一所懸命無名の選手を育て上げたリングスから金の力で選手を引き抜き、リングスをつぶしたPrideの関係と似ている。とまあかようにワタシの場合、発想の根幹にプロレスがあるわけです。)

 これは気分が悪い。なぜなら、マイクロソフトが一太郎&ATOKをつぶした後、「これからまたIMEは有料になります。別途購入していただきます」とやられても、それに従うしかないからだ。ぼくにとってJustSystemの抵抗は世界制覇を目指す元軍に立ち向かう鎌倉武士のようなものだった。それも今、風前の灯火となったが……。



 まあこんなことも「IME? ああ、OSについてくるやつね」と思う人には通じない話だ。MS-DOSの時代、ぼくはほんとにこれはもう「バカ!」としか言いようのない誤変換ばかりする当時のFEPに愛想を尽かし、白紙辞書まで作っていたほうなので、とりわけIMEに関しては思い入れが深い。「WXG」という市販FEPも好みだった。なにしろあのころは、パソコンを買ってもOSがついてこなかったのである。うんともすんとも言わないただの箱だったのだ。フロッピー二枚程度のMSーDOSを別途三万で買わされ、それでやっと起動したのである。で、起動はしたが別途にソフトウェアを買わないとまたなにもできなかったのだ。そしてまた、お粗末なワープロソフトが四万も五万もした。ひどい時代だった。あの頃と比べると今は夢のような時代である。

 餘談ながら、ぼくがMacに走らなかったのは、あそこの日本語FEPがどうしようもなかったからだ。最新のものでもかなりひどい。当時のものはお話にならない。「NECと一太郎」というのが日本語入力に関して最先端であったのは間違いない。やはりマックはアメリカから来た(DOS/Vだってそうだけどさ)音楽や画像を作るもので、日本語を書く機械ではないのだろう。

 長い前置きになってしまった。でもこれはこれで必須のマエフリだな。ここからが本題。

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ATOKや、それには敵わないものの追いつき追い越せとばかり内容充実を図るMS-IMEなどが努力精進しているものが、「同音異義語の正確変換」である。ここで取り上げるのは「同音異義の動詞あてはめ」になる。たとえば近年のFEPは、どの製品でも、「しゃしんをとる」とタイピングしたなら「写真を撮る」と出るようになっている。これが実現したときは大進歩だったのだ。初めて経験したとき、ぼくは思わず゜「おぁ!」とジャンボ鶴田のような声を出したものだった。

 それどころか最近じゃかなづかいに対し「それは誤用」だとか、熟語の誤読まで教えてくれる。たとえば「荘厳」という熟語を出そうと「そうげん」と打つと、「荘厳」を表示し、「そうごんの誤読」と教えてくれる。まるでもう国語の先生である。
 ぼくは以前、十手を出そうと「じゅって」と打っても出てこないので、「ダメなIMEだ」と嘆き、仕方なくそれを単語登録した。いや、正しくはしようとして、もしかして……と思い「じって」と打ってみたらすぐに「十手」と出たのだった。こちらがバカだったわけである。恥ずかしかった。どうせならこれも「じゅって」で変換してくれて「じって」が正しいと教えて欲しいと思ったものだ。

 「じ」と「ぢ」とか「ず」と「づ」の使いかたにまで口を出してくる。これらはぼくがいま使っているATOK14の場合である。MS-IMEがどうであるのかは知らない。なにしろぼくは、Win-2k等のOSをインストールしたら、真っ先にMS-IMEを削除する。それぐらいかってに敵視している。

 これらの機能はありがたいともいえるが、文部省の画一的指導そのままなので、かつてその画一的指導を受け、それを鵜呑みにして生きてきて、いまやっとそれに反発出来るようになったぼくには、とうてい承伏しがたいことばかりなのである。思わずATOKの指摘に、「それは違うよ」と反論してしまうこともしばしばだ。
 それでもその「校正機能」とかをぼくはオンにしている。毎回毎回しつこいほどに指摘されて、「そうかね!? おれはそうは思わんよ」と反発することも大事だと思っている。実際「"の"が連続しています」と注意されて読み返すと、たしかにそうだったりするから軽視も出来ない。

 この「写真を撮る」のような漢字の使い分けは、文章を書く人なら−−いや日本人ならだれでも−−こだわってきたことだろう。常識とも言える。それどころか写真を「取る」なんて書いたら間違いとされる。ぼく自身、そう書いた人がいたら字を知らない人だと思ったろう。


「とる」を例にすると、ぼくが使い分けているのは、
「ものを取る」
「写真を撮る」
「事務を執る」
「盗人を捕る」
「意味を採る」
「ヴィデオを録る」
「まつりごとを摂る」ぐらいだろうか。
 あるいは「万馬券を獲る」なんて使ったりもする。



ところが、ところがである。漢字に精通した中国文学者の高島さんは「そんなことはな〜んも意味がない。やらないほうがいいよ」と言い切ってしまうのである。あまりに凄い意見なので、ぼくは、かっこいいと拍手を送るどころか、今まで立っていた脚もとが崩れ落ち、おろおろしてしまった。

 もともと高島さんの文章にはひらがなが多い。それは初めて読んだ時から感じていた。中国故事などの難しい漢字がたっぷりと使われているのに、だれもが漢字を使うような簡単なことばがひらがななのである。これはかなり奇妙に感じた。目立った。
 そのことに関して、ぼくが初めて読んだ高島さんの著書になる「本が好き、……。」にはこんな説明がなされていた。「文章を出版社に提出するとひらがなの部分が漢字に直されてくる。中国に関する私の文章にはやたら漢字が多いので、ひらがなでよい部分はなるべくひらがなにするようにしている」と。そして高島さんの文章を出版社的画一的マニュアルで漢字に直してしまい、やめてくれと言ってもこれが規則だと通じないところからは、原稿を引き上げてしまうそうなのである。かっこいい。まさに孤高の文学者である。ぼくごときでもけっこうこの出版社のマニュアルに沿った「画一的手直し」とはぶつかっているから、高島さんぐらいになったら、とても譲れない線なのだろう。

 上述の「とる」に関して、高島さんは「とるという日本語は、あっちのものをこっちにもってくるという意である。その日本語に、なんの関係もない支那文字を当てはめることは意味がない。ひらがなの『とる』が最適だ。どうしても漢字を使いたかったら『取る』ひとつにでも統一してしまえばいい」とまで言うのである。すごいよなあ。半端インテリだと、それぞれの「とる」に当たる漢字を解説し、なんでも「取る」にする愚かさを嗤うところだ。それがその上に突き抜けると、「ひらがなの『とる』がいちばん。どうしても漢字にしたいなら『取る』に統一してしまえ」と言い切れてしまうのである。凄すぎて凡人のぼくにはついてゆけない世界である。

 あまりに過激な意見だから読者から反論が届く。たとえば「『移る』と『写る』はまったくべつのことではないか。それを『うつる』に統一するのはおかしい」と。高島さんは言う。「そんなことはない。それもおなじなのだ」と。日本語の「うつる」は、「こっちのものがあっちに、またはあっちのものがこっちに移動すること」だから、写るも移るも漢字を当てはめただけで、同じ事なのだと。なるほどねえ、「写真を写す」というが、この場合も、写真という機械、およびその能力にこだわって「写す」としているが、「そこにある風景をフィルムというものの中にうつす」という意味では、日本語の「うつす」から逸脱しているわけではないのである。「写す」と「移す」の使い分けは、いわば「漢字ごっこ」であり、遊びとしてはかまわないけれど、それが知的なことと一途に思いこむのは痴的なことなのですね。


 ここでこの拙文に登場した漢字を、ぼくが使い分けるレヴェルで拾ってみる。

なおす→直す、治す
つく→附く、付く、憑く、着く、突く、就く、衝く
わらう→嗤う、笑う
みる→見る、観る、看る、視る、診る
かなわない→敵わない、叶わない、適わない
はかる→計る、図る、測る、謀る、量る、諮る
うつる→移る、写る、映る、遷る
つかう→使う、遣う

 ぼくの場合はこれぐらいだ。
 さてここにおける結論である。

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高島さんの信奉者であるぼくは、先生の言うとおり、むやみに漢字にこだわる姿勢はやめようと思っている。「やめよう」と書いたが、今までは「止めよう」と書いていた。これまた高島さんの意見にあるが、「止めよう」と書いて、「"やめよう"なのか"とめよう"なのかと迷わせることなどはまったく無意味」なのだ。
 ぼくが高島さんから薫陶を受けた最大のものは「未だに漢字崇拝の日本人の意識=英語崇拝となんら変りないのではないか」にある。これは別項で書く。このコーナーの核心になる。今後、難しい漢字を使って粋がるようなことからは脱却したい。

 ただし高島さんのように学者ではなく、しがない売文業者のぼくは、「読みやすい文章」を提供してゆかねばならないという使命がある。その意味で、「出版社マニュアル的漢字使い」が効果的であるのは確かなのだ。なにより日本国民すべてが新聞や雑誌でそういう使いかたに慣らされてしまっている。
 たとえば、先日使ったばかりなので印象的なのだが「きたいはずれ」ということばがある。ぼくとしては「期待はずれ」と書きたい。「はずれ」を「外れ」とするのは漢字のあてはめである。だけどそれだと「期待は」「ずれ」にも意識が行き、それから「きたいはずれ」にもどってくる。一回読者によけいな脳みそを使わせる。それを「期待外れ」とすれば、こちらの意図したとおりの「きたいはずれ」に一回で通じる。この場合、「期待外」に言ってしまってから「はずれ」にもどってくる人はそんなにはいないだろう。

 ということで、この件に関しては、ぼくは全面的に高島さんと同じ文字使用法にするわけには行かない。たとえるなら、高島さんは果汁百パーセントにしなさい、防腐剤の使用はやめなさい、と言っているのに対し、商人のぼくは、飲みやすい果汁20パーセントも売らねばならないし、輸送の問題から防腐剤も使わざるを得ないと言っているようなものである。高島さんの考えが正しいと思う。だけどぼくにとっての使命は、読者のよみやすい文章だから、こういう妥協もまた仕方のないことだと思っている。
 目から鱗という意味ではまことに衝撃的な意見だった。(02/1/4)







この数日後、外国にもって行くため最新の『お言葉ですが…』を買った。するとそこに「当然はたちすぎの青年が」という高島さんの文があった。ぼくは「当然は」「たちすぎの」と読み、それからそれが「当然二十歳過ぎの」であることに気づいた。二十歳という文字は「はたち」を単に当てはめただけで本来は「にじっさい」でしかない。だから「はたち」は「はたち」と書くのが正しい。でもぼくはこれからも「はたち」と読んで欲しいのに「にじっさい」と読まれてしまう危険を冒してでも、「当然二十歳過ぎ」と書こうと思う。そのほうが読みやすいからだ。

 高島さんの場合はそういうことを論じている文章であるからそれでいいのだが、ぼくなどの場合は、そこで文章の流れがとまり、読者に不快に思われてしまうマイナスのほうが大きい。こういう場合、多くの読者が、「なんだよ、当然は、たち、と読んじゃったじゃないか。はたちぐらい漢字で書けよ。読みづらい文章だな!」と思うはずなのである。ぼくにはそういう人を啓蒙するほどの力はないし、そういう形の闘いをする気もない。読みやすさを優先したい。

 ぼくが日常で書く文章でも、「手にはいる」というのがあり、これをぼくは「手に入る」と書くようにしている。「入る」は「はいる」と「いる」の二種類の読みかたがあるから、高島さんの理論だと、ひらがなで書くほうがよいのだろう。だけどぼくは前例と同じように「手には・いる」になるのがいやなので、こういう場合は漢字を使うことにしている。

 高島さんの近著にも「ひらがなが多くて読みづらい」という読者からの意見があったそうだ。ご本人もすこしそれを気にしているようなことを書いていた。まあ高島先生は学者だから、思いっきりご自分の筋を通して欲しい。ぼくはこれからも「読みやすさ」を第一義に考えてゆきたい。ぼくが「ひらがな漢字交じり熟語−−たとえば「ら致」−−を嫌いなのも、醜悪であり意味不明という以上に、なによりも読みにくいからなのである。
(02/1/9)






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