六一○ハップのこと

 第何巻のどこだったか、『お言葉ですが…』に「ムトーハップ」のことが書いてある。いま手元の全巻を調べたが見出しにはないようだ。見つからない。文庫本なら巻末の索引で調べられるのだが。でもまあいいや、内容は覚えている。あとで気づいたら記入しよう。
(【後日記】第8卷「百年のことば」の「ムトウハップは生きていた」に収録されている。)

 ムトーハップとは入浴剤である。この話をよく覚えているのは、ふたつのことが印象的だったからだ。

 ひとつは、子供のころの入浴ではいつもこれを使っていたという高島さんが、ひょんなことから何十年ぶり──それこそ半世紀ぶりか──で入手し、入浴したとき、その硫黄の香りの懐かしさに泣いてしまったということ。幼い時代の父と一緒に入っていた風呂を思い出したのだ。
 高島さんが涙を流したと書くことはめったにない。

 心に残ったのはその原因が「香り」だったことだ。思わず懐かしさに泣いてしまうにおいの思い出である。
 長年外国に住んでいる友人は、桜を見ると涙が止まらなくなると言っていた。これは視覚。
『美味しんぼ』には、やはり外国住まいの長い人が、何かが足りないと郷愁の味を追い求め、それが薬味の茗荷だとたどりつく一篇があった。これは味覚。
 この場合は匂い=嗅覚である。

 私はここで、高島さんを泣かせてしまった「ムトーハップ」なるものに強い興味を持ったのだった。

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 印象的だったその二は、子供時代には缺かさず使っていたが、何十年も縁遠くなっていたそれを高島さんに贈ったのが、私の地元である鹿島の人だったことだ。
 話の流れとしては、『お言葉ですが…』の熱心な読者である鹿島在住のがんこじいさん(とは高島さんの表現)が、ムトーハップを勧めてくる。高島さんは、「そういえばこども時代に使っていた。なつかしい」と近所の薬局に走る。だがない。取りよせてもらうことにした。その旨を鹿島のがんこじいさんに知らせる。だが短気ながんこじいさんは鹿島で購入し、高島さんのところに送ってきた。
 そうして何十年ぶりか(【後日記】60年ぶりとか!)でムトーハップを使った高島さんは、硫黄の湯気の向こうに父の姿を見て落涙する。

 入浴剤好きなのに、私はそのムトーハップなるものをまったく知らなかった。周囲からも聞いたことがなかった。それこそ高島さんの故郷である岡山の方では一般的でも関東では無縁のものと思っていた。
 なのに近所の鹿島の人が登場し、そこには地元の××薬局で買ったと名前まで入っていたのである。鹿島神宮まで家から15キロ程度、頻繁にドライヴしている。すぐにでも出かけようかと思ったほどだった。その後の調べで、基本的に関西とか北陸の人が好むとわかった。茨城や千葉でも、好きな人は愛用していたようだ。

 このとき電話帳で調べて、この鹿島の薬局に行かなかったことは今も悔いている。きつい硫黄の臭いの、好きな人には最高な、嫌いな人にはたまらない強烈な個性のものらしいが、私も父もそれを嫌いではない。これを入れて父の背中を流したかった。

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 ネットにあった六一○ハップの古い広告

 それから数年が過ぎる。父が死んだ。
 私は田舎を引き払いまた東京にもどってきた。たまに入浴剤を買うとき、ムトーハップという名を思い出したりした。しかしどの薬局でも見かけたことがなかった。どんな外観のモノかも知らなかった。

 引っ越した先は知人の縁から住ませてもらうことになったマンションなので、持ち主の人がいろんなものを残していってくれた。助かったものもあれば、たとえば旧型の電子レンジのように、電気ばっかり食って能力が低いので使い物にならず、有料の粗大ゴミとして捨てねばならず、ありがた迷惑のものも多かった。

 風呂に地味なボトルが置いてあった。風呂洗いの洗剤かと思った。なんだか今時トイレの洗滌剤ですらこんな地味な格好の瓶はないぞと思う茶色のプラボトルに入った見かけの悪いものである。捨てようとした。
 私の古い感覚で言うと、むかし農薬の瓶にこんなのが多かった。非常に強烈な害虫を殺す農薬である。そんな感じの瓶だった。

 まだ半分入っているそれを捨てようとして、ラベルを見る。「六一○ハップ」なる奇妙な名前だ。なんて読むのだろうと考え、ハップからの連想で当て字が読めた。長年探し求めてきたムトーハップであることにやっと気づいた。ムトーを六一○と当て字しているのだったと、思い出した。なんとも不思議な出会いだった。
(後に創業者の武藤さんが自分の苗字のムトーに六一○を当て、ハッピーからハップとしたと知る。610とアラビア数字でないのがなんともいい。)
 ふたを開けて嗅いでみる。強烈な硫黄の臭いがした。

 前の住人(持ち主)は三十代の男性である。その人がなぜこんな渋い好みなのか不思議だった。
 昨年亡くなった作家のお父さんが和歌山出身だから、そちらの趣味だったのかも知れない。この住まいは彼が親子三人で育った場である。お母さんが亡くなり、八年前、お父さんは再婚して後妻と同居する。彼は思い出のあるここにひとりで住んでいた。今年結婚して新居に移り、田舎を離れる私がここに住ませてもらうことになった。
 彼も高島さんと同じく、お父さんと一緒に入った子供時代の夢を見ていたのだろうか。皮膚病に効果があるらしいので、単にそんなことが理由かも知れないが。
 ともあれそんな形で私はムトーハップと遭遇した。

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 さて肝腎の使い心地だが、これがもう強烈な硫黄の臭いで、まるで温泉に入っているよう。
 ここで大事なのは好き嫌いだ。私はいかにも山奥の温泉のようなこの濁り湯と臭い硫黄のにおいが好きなので、最高である。でも、とても耐えられないという人も多いだろう。

 入浴剤を使い始めたのはパイオニアであるバスクリンからだった。定番は緑色だった。
 やがて商品が多様になり、ラベンダーの香りや、紫色や蜜柑色の湯も愛好した。夏は涼しそうな水色も使った。冬はユズの香りの蜜柑色を好んだ。発泡剤入りのバブも愛用した。

 いつの間にか好みが偏ってきた。
 チェンマイや云南に出かけるとき持参する入浴剤は、各種の湯が楽しめる詰め合わせセットだ。貴重品だから大切に大切に、それこそ週に一度ぐらいの割合で使うのだが、いつしか真っ先に「乳白色の湯」を選んでいる自分に気づく。どうやら色は白が好きとわかる。この辺は好き嫌いだ。私の父は白の濁り湯が嫌いだった。

 この種の入浴剤は花の香りのさわやか系が多い。あまり好きではない。私が好むのは、檜の香りとかゆずぐらいだが、次第にそういうわざとらしいものもいらないなと感じるようになっていた。菖蒲湯もゆず湯も、自分の家で本物をたてるから、そんな合成品はいらないのである。檜風呂も杉風呂も知っているが、本物のそれとはちがっている。
 やがてもってゆく入浴剤は「乳白色の湯」ばかりになっていた。色だけの好みである。わざとらしい花の匂いがじゃまだが、それしかないのだからしょうがない。

 という時期に、前住人が残していってくれたこれと出会ったのだった。
 早速使ってみる。キャップ二杯を風呂に入れると、最初は緑色で溶けてゆく。やがてそれが緑白色の濁り湯になる。硫黄の匂いが強烈なのは言うまでもない。
 温泉気分だった。

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 とはいえこれにばかり夢中になったわけでもなかった。夏場はオーソドックスなバスクリンの緑色も使うことが多かった。暑いときはさわやか系がいい。意識したわけでもないが、ムトーハップは珍品としてたまにしか使わなかった。いや意識していたに違いない。大切にしていた。だって無くなったらどこで買うか知らないのだ。すくなくとも出入りしている近所の薬局にはおいてない。残り三分の一ぐらいになってからは、硫黄の匂いが恋しくなるこれぞという日にしか使わなくなっていた。値段はもっている他のどの入浴剤よりも安いが、入手方法がわからないのだから貴重品である。

 冬場になると濁り湯の硫黄泉は、ますます味わい深くなってきた。そしてとうとう最後の一風呂となった。

 それでもそのときは、それほど深刻でもなかった。ないならないで諦められるだろうと思っていた。
 ところが無くなってから手持ちの入浴剤を使っても満足できない。なにかいい物はないかと薬局に行っては目新しい入浴剤を探す日が続く。そうして、すべての不満はムトーハップさえ買えれば解決するのだと気づく。

 通信販売! と思いついてネットで調べた。
 そうして知ったのは、「440g入り450円を10年間値上げしていない」ということ、名古屋の会社が作っているということだった。(恥ずかしながらそのことを調べてみようと思ったことがなかった。どこか関西の会社だろうとは思ったが。)
 1回の風呂に入れるのが15g程度。だから450円で一ヶ月分ある。1日分15円。これは今の泡が出るヤツなんて1個100円するのがざらだから格段に安い。3個で百円の百円ショップの製品よりも断然安い。
 餘談ながら百円ショップの入浴剤はダメである。百円ショップには心から感謝していて悪口は言いたくないのだが入浴剤はペケ。

 名古屋の武藤製薬はウェブサイトももっていなかった。それも好ましい。昔気質の値上げもせず、地味なパッケージでやっている会社だ。ますます応援したくなる。
 下記の「洗いの殿堂」というサイトで情報を得る。昭和2年発売のロングセラーであるという。いろいろ勉強になったが相変わらず入手方法がないことに変わりはない。なんとかしないと。

切れて一週間、真剣に欲しくなって走り回った。そして街外れの薬局でやっと売れ残っていた1本を見つけたのである。今後も入荷することを確認して帰ってきた。これからはここで買える。一週間ぶりに硫黄泉に入れる。うれしい。スキップ気分である。
 今日はたっぷりとムトーハップのお湯を楽しんだ。
 ウェブサイトもなく、当然写真もないので、ひさしぶりにデジカメを取り出して写真を撮った。これはいつ以来だろう。最近は本の写真もAmazonからもらってくることが多い。以前はぜんぶ自分でスキャンして作っていた。

 今度チェンマイに一ヶ月以上遊びに行くことがあったら(あるのかどうか不明だが)、これを一本買って持ってゆこう。

 この話は、このホームページの分類では「小物話」に入れるべきか。でも高島さんの文章から知ったことなのでここに収録した。入浴剤ムトーハップへの興味よりも、高島さんの落涙ということから注目した製品だったから。(05/12/4)

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参考サイト
「洗いの殿堂」
http://www.arainodendo.com/akinai/610.html

 六一○ハップ製造中止──硫化水素自殺による餘波




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