チェンマイ日記-2002秋 11月
    

      
2002年11月
11月1日(金)   私の嫌いなものに「タイに住んでいる日本人が言うタイの悪口」がある。旅行者ならまだしも定住者ならわかったような悪口を言うなよと思うのだ。それはつきあいの浅い友人に女房の悪口を言っているようなもので、夫婦だからいろんなことがあるだろうとは思うものの、聞いてあまり気分のいいものではない。のろけを聞くほうがまだましだ。

 Tさんがタイ人の悪口を言うのは毎度のことなのだが、たまに会ったときは聞き流せても、こう毎日朝から晩まで一緒にいる中で、したり顔で何度も何度も言われると腹が立ってくる。そのリクツを私は容認していない。たとえばこうだ。
「タイ人てのは英語に丁寧語を附けない。先日もノースモーキングと言われて腹が立った。なぜノースモーキング・プリーズと言えないのか。プリーズがつけば全然ニュアンスが違ってくる。いくらタイ語でカップやカーをつけても英語につけられないんじゃ意味がない。そもそもタイ人はウンヌン」と。

 これだけ聞けばまともな意見のようだ。だけどこれ、銜え煙草で街を歩き、空調の効いた狭い部屋の両替所に、そのまま入っていって係員に言われた言葉なのである。タイではめったに見かけない最低のマナーである銜え煙草をしていたことや、クーラーの効いているノースモーキングと書かれている部屋にそのまま入って行った自分の無礼は棚に上げ、タイ人の英会話マナーを批判しているのである。盗人(ぬすっと)猛々しい、盗人(ぬすびと)にも三分の理なんてのは、こんな時に使う言葉だろう。あきれて口もきけない。タイ人の英語能力を批判する前に、タイの女に子供を産んでもらい、もうタイに三年以上定住しているのに、未だにタイ語を全然話せない自分のことを反省すべきであろう。それを素直に反省する気持ちがあれば、こんな筋違いの批判などとても言えたものではないはずだ。と、私は腹立ってしまう。
2日(土)  景洪滞在中はずいぶんとこのホームページのファイルを作ったが、チェンマイにもどってきてからは一つしか作っていない。それは毎日がTさんの面倒を見る時間になっているからだ。深夜にひとりになっても、日記を附けるのがせいぜいで、ファイル用の文章を書いている時間などない。こちらももう会えなくなるから喜んでやっていることではあるのだが、最近のTさんは同じ事を何度も何度も言うようになってきて、ちと毎日朝から晩まで付き合うのはしんどい。
 種々の手続きも無事済んで、いよいよ明日Tさんは現在の住まいを引き払い田舎に引っ込む。やっと一区切りだ。今回、初めて会った頃のTさんと今のつまらないTさんの差を考えていたらチェンマイというものが見えてきた。決してTさんが特別なのではなく、人とはそういうものなのだ。そんな結論である。それは「チェンマイ雑記帳」にでもまとめよう。
 明日のランパーンへの引っ越し手伝いはKさん夫婦に任せてきょう、明日は仕事に専念することにした。いくららなんでもこれほど何もしていない毎日が続くと、おれはいったいなにをしているんだ、と焦ってくる。二日ほどTさんと離れていれば、明後日にはまた佛心が起きて仲良くつきあえるはずである。
3日(日)  きょうの讀賣新聞によると、Microsoftの獨禁法違反による分割は、ビル・ゲイツの望むようにうまく調停されたらしい。新聞はマイクソフトの"勝利"と伝えている。ブッシュ政権になった時点で勝ちは決まっていたとも言われている。1981年の共和党レーガン政権誕生により、司法省がそれまで12年間争ってきたIBMの分割案を取り下げた前例があるからだ。あの裁判は覚えている。あれからもう二十年も経つのかと思う。

 昨年の『SAPIO』だったか、大前研一さんが「マイクソフトは分割されるべし」と書いていた。内容は「かつての石油メジャーのように分割されたほうが企業は活性化する。もしもIBMが分割されていたら、OS部門の関連企業が誕生し獨自のOSで世界を席巻していただろう。動きののろい巨大企業ゆえ、OS部門を下請け会社に依頼した。それが現在のマイクロソフトであり、もしもIBMが分割されてていたらきょうのマイクロソフトはなかった。今後のためにもマイクソフトは分割されたほうがいい」というものだった。

 自分が手塩に掛けて作った会社だから、今や世界一の大金持ちとなったビル・ゲイツも、それを分割されることはいやだったのだろう。今後も「マイクソフト帝国」というものを維持したいのなら、大前さんの言うように、各部門に分割し関連グループの長となったほうが帝国は長続きすると私も思うのだが。

 コンピュータ時代になることは誰でもわかっていた。それを制するものが長者になるであろうことも。世界一のメイカがIBMであることも誰もが知っていた。だから私はこれから世界一の金持ちになるのはIBMの社長なのだと思っていた。そうじゃなかった。ハードはOSがなけりゃ動かない。ハードはいろんな会社が作るが、すぐれたOSはどの会社のパソコンでも使われる。利益の上がるのはパソコンを作るところではなく、その中に収めるものを作るところだった。
 パソコンはOSがなければ動かない。実際に三十万円出してうんともすんとも言わないパソコンを買い、フロッピーディスク二枚のOSを三万円で別途に買って動かという経験をしてきたから、その価値はわかる。そのOSがMS-Dos。マイクロソフト・ディスク・オペレイティング・システム。ずいぶんと金を払ってきた。これでビルさんは儲けたんだよね。

 今のところWin2000を四台のパソコンに入れて使っているが、「一台一OS」のXPで味を占めたマイクロソフトは、やがてすべてのOSを「一台一OS」にしてくるだろう。気分の悪い話だ。今後も複数台のパソコンを気分次第で使いたい私だが、それに従う気はない。後何年か過ぎ、Win2kでは時代遅れという時代になってきたらどうしよう。今のところWin-2kはマニアの間じゃXPよりも評価が高い。安定度は随一だ。未だにWIN-95を使って問題なく作業をしている人も多い。その伝で行くならWin-2kもあと五年ぐらいは安泰か。これと心中気分で行くつもりでいる。なにひとつ不満はないし。

 Linuxにすればいいんだけどソフトウェアおたくとしては対応しているソフトウェアがねえ……。まあLINUXは日本語を書くものじゃないからなあ。
 きょうもまた一日中雨が降り続き、センターン(セントラルデパート)方面など一部の道路は二十センチ以上も冠水した。れいによってバイクで走っていたが、いつ停まってしまうかと冷や汗ものである。センターン前を轟々とまるで川のように水が流れているのでデジカメで撮ろうかとカメラマン魂(笑)がふと疼く。しかし大雨の降り続く中を走り回り、部屋に帰り、凍えた体でふるえていたら、とてももういちどカメラをもって出かける気にはなれなかった。たぶんカメラも濡らして壊してしまうだろうし。
 長年住んでいたナティコート近辺、チェンマイランド通りの洪水は何度も経験しているが、センターンが川になるというのは初体験だった。

 夜も降り続く。思ったよりもホテルの窓の遮蔽度があり、本を読んでいると、ザーッというノイズのような音がしているだけなのだが、窓を開けると、轟音と言えるほどの音を伴って激しい雨が降っている。かなりの量なのだが、かといって怒り狂ったような激しさでもない。「雨期の終りに、天が最後の水をすべて吐き出すように」という表現が当たっている。ただひたすら天上から水が落ちてくるという感じだ。


 夜食を食いに行く。カッパを着てバイクで走り、この雨に打たれると、体は冷え、熱いシャワー(あまり熱くないのが難点だが)がありがたい。毎回バスタブ附きのホテルに泊まり、それでいてほとんど風呂に入らない。今回のように体が冷え、切実に風呂が恋しいときにはすこしばかりの金を惜しみシャワーしかないところに泊まっている。相変わらず間抜けだ。

 チェンマイの洪水は颱風シーズンの八月に何度も経験していたが、十一月初旬のこの時期にもあるとは──雨期の終りの大雨は噂には聞いていたが──新鮮な体験だった。
 この十月終盤から十一月初旬というのは、この十余年のチェンマイ体験で、一年を通して、私の唯一知らない季節だった。八月なんてのは十年以上連続で知っているのだが。
 これでチェンマイの一年をすべて経験したことになる。なんだかそのことでも、チェンマイに一区切りという気がする。逆にまた、天皇賞・秋を競馬場で見なかったというのは二十数年ぶりの出来事となった。これはこれで感慨深い。
4日(月)  午後三時、所用を済ませバイクで帰ってくると、ホテルの前にTさんが立っていた。昨日田舎に引っ越しをしたが、その後の電話の撤去の事務手続きのために、そのままKさんのクルマに乗ってもどってくる予定だった。先日一緒に電話局に出かけ、必要な書類はもらってきてあったので事務手続きは無事済んだようだ。ちょうど48時間ぶりのご対面である。見事に佛心は芽生え、雨上がりの薄ら寒い日に半袖半ズボンでふるえているTさんを見たら、思わず自分のジャンパーを肩に掛けてあげてしまった。

 バンライ支店に行きステーキを奢る。私の携帯電話からkiwiさんに電話をする。Kiwiさんは昨日チェンマイに来たのだが、Tさんの出発とはすれ違いになってしまい会えなかった。今朝帰った。ちょうどバンコクに着いたところだった。とりあえず電話でも二人が話せてよかった。これからTさんは電話連絡のつかない世界に行く。
 私とkiwiさんの縁は、後藤さんのホームページ(チェンマイのさくらと宇宙堂)に書いた(チェンマイ日記-1999夏「やっと夏休み」)のTさんに関する部分にkiwiさんが感想をくれたのがきっかけだったのだ。いわばTさんは、私とkiwiさんの仲を取り持ってくれた結びの神である。現在バンコクで仕事をしているkiwiさんは、休日にランパーンのTさんの家にまで出かけると言っている。実現することを祈る。

 その後『サクラ』に行き、奥のテーブルでTさんの知り合いを交えて盛り上がる。いい形の送別会になった。
 丸テーブルではシーちゃんのお姉さんでフランスに嫁いでいるチャーさん達がフランスから来た友人と盛り上がっていた。私はフランスでチャーさんの家に一週間以上も世話になっている。彼女ももうすぐ帰国するのでいいタイミングだった。このときシーちゃんに最近バンライ支店に毎日のように行っている事を話し、あそこはシーちゃんと一緒に見に行った新『サクラ』の候補地だったことなどを懐かしく語り合った。あそこが新サクラの候補地であることを知っている日本人は私一人であるとシーちゃんからお墨付きをもらった。珍しくシーちゃんもお酒を飲み陽気に騒いでいた。どうやらフランスから来ている連中が、今夏シーちゃんが一ヶ月ほどフランスに遊びに行っていたときに会った連中のようだった。
 それからSさん、Mさんを交え、四人でオープンバーに流れる。Tさんも気持ちよく酔っているようだ。

 深夜。田舎での晩酌用にとシーバスをTさんにプレゼントし、私のホテルの部屋で、明け方まで二人で語り明かした。田舎にこもるTさんが、週に一度ぐらい嘗めるように飲む予定のシーバスを、贈り主が半分も飲んでしまっちゃいけないな。
 
 シーバス12年ものは980バーツした。10年前は650バーツぐらいで買っていたからバーツ下落をあらためて実感する。今もその程度の値段で買えると思っていた。他の項目で書いているが、私はチェンマイでは「アイリッシュウイスキー・ジェイムソン」ばかりなので、ジョニ黒もシーバスも飲まないので知らなかったのである。
5日(火)  朝八時にTさんのところに行き、一緒に『サクラ』へ行く。私のほうは昨夜ひさしぶりにウイスキーを飲んだので「深酒の翌朝の早起き」である。Tさんが早起きなのは知っている。予想通りすでに起きて本を読んでいた。

 『サクラ』は朝の八時から飯を食える店でもある。なぜ『サクラ』に来たかというとシーちゃん姉妹の長姉であるライさんに別れの挨拶をするため。私はサンサイ(チェンマイ郊外)にあるライさんの家にもおじゃまして家族揃って酒を飲んだりしている。ライさんは『サクラ』の朝番なのである。シーちゃんの実家であるチェンライの家にも泊めてもらっているし、もちろんご両親とも顔なじみである。トゥクトゥクの運転手をしていた末弟も知っている。シーちゃん一家といちばん親しい日本人は、パパを別格にすれば、私だと言い切っても過言ではないだろう。パパでさえサンサイやフランスは行っていない。

 会いたくない在日朝鮮人のK(今は在タイ朝鮮人か)に遭ってしまい、ああそうだった、この時間はこいつがいたんだったと後悔する。Kは今の時間、誰もいない『サクラ』で、丸テーブルにふんぞりかえって、昨日の新聞を読みながら朝飯を食っているのだ。深酒した翌朝、早起きをしたとき、早朝の『サクラ』に来るのが楽しみだったのだが、一年ほどまえからチェンマイに居着いたこいつが来るようになってから避けていた。ひさしぶりなのですっかり忘れていた。義理堅くて礼儀正しい朝鮮人が大好きだったのに、こいつと出会ってから私の朝鮮人にたいする好感度はだいぶ目減りした。
 一瞬躊躇したが、そのために来たのだ。無視してTさんと奥の席に行く。ライさんと話し、挨拶を交わし、スパゲッティを食べる。


 それからきょうでチェンマイを去るTさんをバイクの後ろに乗せ、午後一時過ぎまで、市内の思い出の地を訪ね歩いた。さすがにしんみりする。

 ワロンロット市場に行き、Tさんが田舎じゃ売っていないジャックフルーツ等の果物を何キロも買い込む。大荷物になった。その間私は路上で果物を売っている「水商売を引退したオカマ」としゃべっていた。おもしろおかしい顛末は「チェンマイ日記」に書こう。話すきっかけとなったのは写真の猫。私がこの猫を抱き上げていたら彼(彼女?)が話しかけてきた。齢を取ったのでもう店は引退したのだそうな。

 午後一時半、銀行でキャッシングしてきた餞別を無理矢理Tさんに握らせる。なんのかんの言っても田舎で役立つのは現金だ。形見にとっておいてくれと二十年愛用していたという「壊れた腕時計」をもらう。なんだかこれもせつない。
 バス停まで送る。三つ荷物になったからトゥクトゥクで行けというのに、何とか行けそうだとTさんが乗り込んできて無理矢理バイクに二人乗り。かなり危ない。

 これは永久の別れではあるまい。もういちど会うはずだ。そう私の勘は言っている。動物的に生きている私は、自分のそういう勘に絶対的な自信がある。先月中国に行くとき、Tさんの心のきしみが聞こえていた。命のカウントダウンが始まっていた。消えかかっているロウソクが見えた。私が中国から帰ってくる22日までTさんは生きていないと感じた。だから言った。私が帰ってくる22日まではとりあえず生きていてくれと。死ぬのはそれからにしてくれと。Tさんもそのときが永久の別れと覚悟していたらしい。だが別れ際に私に22日までは絶対生きていろと言われ、ともかくその日までと自分を励ましていたという。

 そうして私が帰ってきた翌日の23日に、今度はTさんに、がんばって生きねばならない事情が生じた。だから今、Tさんは生きる。そう決めた。すると見事なほどTさんの全身から死の影が消えた。命というのは見えるものだ。もういちど、会えるはずである。
 最後の日だからといつものタイ式マッサージの店に行く。いつものようクーラーが効き過ぎ、寒くて震え上がる。なぜこんなに効かせるのか。他の客もみな全身にバスタオルを何枚もかぶり蓑虫状態で受けている。その蓑虫状態の中から、左足を揉むときは左足部分のバスタオルだけをはぎ取り、露出させて揉むというようなことをやっている。異常なのだ。クーラーとはそんな使いかたをする機械ではあるまい。なんでこんなことをするのだ。

 雨期が開けた時期、一時急速に冷え込むらしいが、その典型的な気候となり、日本の晩秋並みの冷え込みである。みな長袖の上着を着て町を歩いているという状態なのに(バイクで走る私はTシャツに長袖シャツ、厚地のジャンパーという持っている限りの最厚着をしていた)、クーラーをがんがん効かせ、客がみな寒いと言っているのに切りはしないのである。揉むほうは重労働だからちょうどいいらしいが。
 二時間後には景洪出発前日と同じように体が冷え切り具合が悪くなった。その後も悪寒が続き気分が悪い。熱が出てきた。
 午後九時。チェンマイインターナショナル空港でチェック・イン。
 チェンマイにいるうちはまだよかったが、バンコクに着く頃には高熱が出て、日本へ向かう飛行機の中で、初めて薬をもらうというみっともない事態となった。私はやせ我慢の男なのだがそれすら出来ないほどの状況なのである。スチュワーデスが熱を計れと言う。38.5分あった。私はタイマッサージでの事情を説明し、前にもなったことがあり、確実に自力で直るから大丈夫だと説明した。全日空(タイ航空との相互乗り入れらしい)のスチュワーデスは何度も状態を聞きに来てくれて親切だと感激していたのだが、どうやら熱を計れと言ったのは私を心配してくれたというより、マラリア患者(のような伝染病患者)だったら大変だという職業上の危機感からだったらしい。そういえば私が熱を計る必要などないと言って拒んでも、「バンコクからのお客様ですから申しわけないですが計ってください」と言って譲らなかった。寒くて寒くて何枚もブランケットを体に巻きつける。顔はほてっていて熱くてたまらず火のような息が出る。景洪に行く前に同じ店のマッサージにかかり、同じくクーラーで苦しい状態になったのとまったく同じ事になった。「普段一切の薬類を飲まないのでたまに飲むと原始人並みに効く」体質のお蔭で、朝方には平熱にもどり「ルル」をCM通りの三錠飲んで直ったが、なんともひどい体験だった。

 景洪に行く前にそうなったときは、私の中に疲れがたまっていて、そういう状態になったのだろうと判断していた。今回のことでそうではないとわかった。すべてはあのクーラーが原因なのだ。体を冷やすという状態の中で二時間、薄着のまま体をもまれることによって反って具合が悪くなるのだ。
 そういえば昔から『サクラ』常連も、パパを筆頭に年配のかたは「あの店はクーラーが効き過ぎていて嫌だ。反って調子が悪くなる」とクーラーのある店を嫌い、わざと扇風機しかない店に行っていた。その当時の私は、がんがんクーラーの効いた涼しい場所でマッサージを受けることのほうがずっと快適だと思っていた。今回連続してひどい目に遭い、年齢とともに体力がそれだけ落ちているということも実感したが、クーラーの害というものも痛感した。冷やすということを悪とし、冷たいものを飲むことすら否定する中国医療なら、体を冷やしつつマッサージをするという矛盾は絶対にしないだろう。体を冷やして凝りがほぐれるはずがない。私はよくタイ式マッサージの最中に脚がつって(タイ語で言うタキウである)苦しんでいた。これも理論的に言うなら、冷たい場所で体を冷やし、それを無理矢理伸ばしたり引っ張ったりするのだから起きて当然となる。なにしろ普段は起きないのだから。
 長年通ったあの店を変わらねばならないとしたら気が重い。とはいえどっちをとるかといえば、それはもう体にいいほうをとるしかない。何事も貴重な体験と割り切るようにしているが、いやはやひどい目にあった。
 『サクラ』に行きパパに挨拶をする。
 バイクを返し、スッタッに空港まで送ってもらう。
 今の懸念はバンコク・成田の便が来るときと違った飛行機であるようにだ。とにかくあれでは眠れない。
 今回のチェンマイは、ひさしぶりに妻と会う雲南旅行のついでのようなものだった。なのに結局帰国を延ばしチェンマイに一週間ほど長く滞在した。チェンマイ好きも困ったものである。とはいえ「私のチェンマイ」がもうすぐ終ることもまた確実なのだ。



チェンマイ日記-02年秋(完)──《云南でじかめ日記──02秋》に続く
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