チェンマイ日記1999夏
             

             やっと夏休み
       

       



たどり着くまで

 オーストラリア、北海道、雲南省、ロサンゼルスと飛び回って仕事をこなし、やっと待望の夏休み。一ヶ月のチェンマイ暮らしだ。うれしい。この日のために頑張ってきた。

 何でも屋物書きの実態を知らない人は、あちこちタダで行けて羨ましいと言うが、現実はそれほど気楽なものではない。オーストラリアを例に取るなら、政府観光局のプレス招待旅行だから、往復とも快適なアンタック航空のビジネスシートだったし、ホテルもみな五つ星(ただしオーストラリア獨自の認定だからバンコク・オリエンタルや香港ペニンシュラなどの本物の五つ星と比べたらだいぶ落ちる)で、毎日毎晩ご馳走責めではあったが、現実のおれの実入りということになると、帰国してから雑誌に書く原稿の十万円(源泉を徴収されて九万円)でしかない。しかも振り込まれるのは何ヶ月も先になる。一週間の取材旅行というのは、一日一万五千円の日当で働いているようなものだ。この一ヶ月、世界を股に掛けて飛び回ったというと聞こえはいいが、その割には五十万円も稼いでいない。レギュラーの仕事があるからなんとかなっているものの、とてもとてもこれでは食って行けない(いや、馬券さえやらなければ十分に食っていけるんだけどね、ほんとは)。

 だってオーストラリアで一週間夜の自由時間があったら、誰だって十万円ぐらいは使ってしまうだろう。酒場もあればカジノだってある。おれの場合、メルボルンになぜか古いBLUESのレコードが揃っている店が何軒かあったので、大量にLPレコードを買い込んでしまった。イギリス人のBLUES好き、フランス人のJazz好きは有名だが、イギリス人の作った国だからか、オーストラリア人もBLUES好きであるようだ。滅多に見かけることのないデルタブルースの珍盤が揃っていたりして、ついつい手を出してしまった。こんな出費もあるから、この手の仕事はタダで旅行出来るだけで実質的な実入りはないと思った方がよい。旅行好きでないおれとしては、同じ十万を稼ぐなら、部屋にこもって好きかってな文章を書いている方がずっと気楽で楽しい。

 かといってこの種の取材仕事は何度も断っていると来なくなってしまうから、それなりに編集部との関係を繋いでおくために「よろこんでやらしていただきます」という姿勢も見せておかねばならない。極楽とんぼみたいなフリーランス・ライターもこれはこれでたいへんなのである。今回、行きたくもないロスにまで素直に行ってきたのはおれなりの計算があったからだった。


 数年前、チェンマイの郊外メーリムにリージェント・リゾートというホテルが出来た。それまでの最高級ホテル、ウェスティン・チェンマイを遙かに凌ぐ超高級ホテルのオープンだった。その取材の仕事が飛び込んできた。これなんかは楽しい仕事だ。だって自腹を切って通っているチェンマイに、タイ航空のビジネスクラスで来れるのだ。TGのビジネスはいい。よすぎる。昼間からカメラマンと二人、ワインを飲みまくり、チェンマイに着く前にもう出来上がってしまっていた。仕事の合間、レンタカーを借りてファンからドイ・メーサロン、チェンライへと走り回ったが、それらもすべて経費で落ちる。いいことづくめである。

 問題はこういう経験をしているとエア・インディアなどに乗りたくなくなってしまうことで、実際あれ以来おれは乗っていない。金もないくせにTGやJALに背伸びしている。人間は分不相応な体験をすると不幸になる。初心忘れるべからずというが初心ほど忘れやすいものはない。思えば、ビーマン・バングラディシュ航空やパキスタン航空、そんなものに乗ってはせっせとタイに通っていたのだった。

 その時リージェント・リゾートでおれ達が泊まったのは(タダで泊めてもらったのは)一泊八千バーツという一番安い部屋だった。それでももう十分豪華なのに、更に一泊三万五千バーツ、五万バーツという部屋を見ると、ため息が出るだけである。窓からは農夫が籾を手蒔きし、水牛が田を耕す水田風景が見える。これも演出である。農夫も水牛も従業員だ。従業員が作り出す嘘ののどかさだ。意図的な借景からして日本人なら苦笑してしまうような過剰なオリエンタル・ムードの演出なのだが、家具調度品から、ざっくりと織った一枚布のコットンのカーテンまで、そこには本物の贅沢があった。だけどこんな部屋に泊まる奴がいるのだろうかと貧乏人らしい疑問を抱く。しかし一泊二十万円の部屋に一ヶ月もロングステイする白人はそれなりにいるのだった。でっぷりと太ったアメリカ人の夫婦が多かった。

「いいわよねえ、最高よねえ、ロマンチックよねえ。もう安物のホテルには泊まれないわ!」と騒ぎ立てるけたたましい日本人おばちゃんのグループにも出会ったが、彼女たちはおれ達と同じ八千バーツの部屋に、しかも二人一部屋で泊まっていたのだからあまり威張れない。おれを正規の客と勘違いして登録したのか、今でもこのホテルはクリスマスカードやら何やらこまめにフォローしてくるのだが、こんなところに泊まりに行くほどワタシャ金持ちじゃない。一ヶ月三千バーツのアパートで十分です。


 なお、このリージェント・リゾートに泊まってみたいと思う方のためにもうすこし詳しく説明しておくと、ここの部屋はすべてバンガロー形式です。一軒一部屋という感じですね。例えば一泊三万五千バーツの部屋は、十人以上で会食出来そうな、民芸品的フォルムのでっかい木製のテーブルと椅子が揃えられた広々としたリビングルームが真ん中にあり、その左右に、トリプルキングサイズのベッドルームと、ジェットシャワー付きのバスルームが二つずつあります。小さいですが、各部屋毎にプライベート・プールもあります。ここから見る夕暮れは、たっぷりと金を使い、計算尽くで作ったホテルだけあって、文句なしの絶品でした。カナダの有名な風景カメラマンが撮影に来ていましたが、彼もかなりのものと誉めていました。二組の夫婦でも泊まれるし、一家四人が二組、八人で泊まったりすることも可能です。元々そういう部屋なのでしょう。頭割りすればそれほど高くもありません。旅を思い出作りと考える人には、ちょっと贅沢ですがお薦めのホテルと言えるかも知れません。と、お世話になったリージェントの宣伝をしてみました。


 それで、何で行きたくもないロスの仕事までおれがこなして来たかという理由だが、なんでもサムイ島に豪華ホテルが出来たらしく、今年から本格的にその宣伝を始めるらしいのだ。その取材に行く気はあるかと誘われたのである。年内らしい。編集長もおれのタイ好きを知っていて、サムイ島に行かせてあげてもいいからアメリカの仕事もこなしてねと言っていることになる。

 サムイ島といえば、その昔はクスリ好き白人バックパッカーの天国だった(らしい)。それが飛行機が就航して俗化した。もうここはダメだと彼らはパンガン島だかピーピー島だかの次なる未開の島へと移って行った(らしい)。サムイ島には豪華ホテルが建ち並び、ポスト・プーケットとして本格的な開発が始まるというから、船で渡るしかなかった時代から知っている人には隔世の感があることだろう。

 タイ好きは三つに別れる。バンコク組、北組、南組だ。こういう場合、おれも物書きなのだから、バンコク沈没組、北方ロリータ執着組、南の島ドラッグ狂組のように、もうすこし気の利いた表現をすべきなのかも知れないが、なるべくそういうつまらないエネルギーは使わないようにしては生きている。
 北組であるおれが自費で島に行くことはなかった。これからもないだろう。暑いのは嫌いだし泳ぎたくもないし日に焼けたくもない。おれが理想としているのは「クーラーのがんがん利いた部屋で、お寺に降る雨、あるいは雨に煙るドイ・ステープを眺めつつ、ステレオからショパンを流し、パソコンで仕事をすること」なのだ。それがチェンマイで実現しているのに、好きでもない南の島になど行くはずがない。が、TGのビジネスシートと豪華ホテル付きで、タダで行けるとなると話はまた違ってくる。自費で行くほどのところでもないが、取材で行けるなら、一度ぐらい行っておいてもいいんじゃあないのという感じだ。サムイ島行きの話が来るようにと、おれは取引の気分でロス行きの仕事を受けたのだった。だいじょうぶだろうな。行きたくもないアメリカまで行ったのだからサムイ島には行かしてもらわんと。後でそれらしい催促のFAXを送っておこう。
 そうしてあれこれと仕事をこなし、やっとやっとの夏休みとなったのだった。

 今回のエアチケットは春にチェンマイで買ったANAだった。掘り出し物を見つけて二万二千バーツぐらいで買えたように記憶している。エコノミー席のANAに取り立てて利点はないが、半ズボンにサンダル履きで鼻輪などつけて、心はもうインドに飛んでいるアブナイあんちゃんが隣に座っていないだけでもほっとする。やはりエア・インディアにはもうもどれない。



 バンコクに二泊した。昨年の春、ケンタッキー・ダービーを観戦に行く予定で、バンコク・東京(ストップ・オーバー)・アメリカ(レキシントン)という往復チケットを四万バーツで買った。ところがとんでもない事(このことはまた改めて書くことがあるだろう)が起きてキャンセルせざるを得なくなったのだ。そのキャンセルしたチケットの代金をまだ受け取っていなかった。マレーシアホテルの近くにある「Where Travel」という一部の通には有名な店である。
 ちょいとタイ慣れした人が「あそこの旅行会社は日本語も通じるしチケットも安い」などと訳知り顔で言ったりするが、日本語の通じる店で安い店はない。それは日本語が通じるという附加価値が売り物なのだから当然だろう。「あそこの店は高いが日本語が通じて便利だ」と言うべきである。「Where Travel」は日本語は通じないがチケットの安い店である。昨春から何度か訪ねているのだが夫婦だけでやっているせいか、旅行に出かけていたりしてうまく会えない。払いもどし経験者は「タイでは二割しかもどってこない」などと脅かす。二割でも八千バーツだからそれなりの遊び金にはなる。そう思い諦めきれず今回もまた来てみた。空港から電話して居ることを確認する。やっと会うことが出来た。金は明日渡すと言われる。二万四千バーツもどってくることになった。六割か。もどってこない金だと思っていたのでボーナスをもらった気分になる。早速バンコクの夜に繰り出し派手に散財した。

 チェンマイに着く。空港からの送迎タクシーが百バーツに値上がりしていた。前回は九十バーツだった。その前は八十だった。初めて来た頃はいくらだったっけ。忘れた。いつも百を出して残りをチップにしてきたが、百になってしまうと新たに二十をチップに出すというのも煩わしい。
 日本からFAXで予約しておいたアパートに向かう。これから一ヶ月、チェンマイ暮らしだ。うれしいなあ。

仕事の終った朝




 六時に起きる。日本に昼までにFAXを送らなければならない。八月から週刊誌に競馬コラムを書き始めたので慌ただしい。放送原稿でもおれは二週間まとめて録音するようにしてもらっていたので今までなんとかやってこれたようなものだ。厳密には、タイで一ヶ月も休暇を取るような物書きに週刊誌の仕事は無理なのである。解ってはいるが、発注があり、受けた以上は完璧を期さねばならない。他のライターは内容を予想に絞っているが、おれの場合は、それらしきコラムを書き、予想は最後の数行だけにしてもらう。夏の福島・新潟競馬の予想を、十日前の想定出馬でするなんてのは、競馬を知っている人間からしたらほとんどキチガイ沙汰である。何の意味もない。不可能なのだ。どうにもやる気が起きないので予想の部分は日本にいる友人に頼んだ。

 快適な仕事の環境というのをチェンマイに築こうと、もう何年も前から試行錯誤していて、牛歩のごとくではあるが毎年前進してきたつもりだった。なのに積み上げた積み木がいいところで崩れるように、いつも不測の事態が出現して苦労することになる。今回は変圧器やプリンターを預かってもらっているチェンマイ在住の服部氏が帰国して居ないという事件が起きた。毎年彼は帰国しても一週間ほどで帰ってくるのだが、今年に限って二ヶ月も日本にいるのだという。困った。ラップトップは、VAIO PCG-C1Rを持ってきた。本体は世界電圧対応だが変圧器がないから外つけCD-ROMプレイヤーが使えない。プリンターがないから印刷が出来ない。パソコンで文章を書き、その後ディスプレイを見ながら、自分で打った文章を手書きで清書するという間抜けなことをせねばならないようだ。とんでもないことになった。

 ワープロやパソコンで文章を書く一番の利点、そして缺点は、消しゴムがいらないことだろう。消しゴムがいらないからいくらでも消せる。いくら消しても原稿用紙は汚れない。痛まない。これが利点だ。だが後で修正すればいいやととりあえずで書き始めてしまうから、文章を書くことに緊張感がなくなる。一回のミスも許されないと緊張して書く文章と、失敗が許されることが保証されている文章では、文面に漲る気配が違っている。これが缺点である。おれなんかこの利点と缺点のぬるま湯にどっぷりと首まで浸かり、出るに出られず藻掻いているようなものだ。たまに名入りの原稿用紙に太字の萬年筆で書かれた先輩作家の生原稿に接したりすると、ああこれが本物なんだとは思うが、パソコンなしではもうおれは字が書けない。自筆の字なんてもう何年も署名以外したことがない。それでいて文章は毎日書かないと駄目になるから、いつでもどこでもラップトップを手放さず、中国奥地の電気も来ていないところにまで持ち込み、いったいどこで充電すればいいんだと途方に暮れたりする。




 おれの親父は七十歳の時におれからワープロを習った。教員として人を叱るのには慣れていても叱られることには慣れていなかったようだ。何度も同じ失敗をしてはおれに怒られ、ストレスが溜まったらしい。それでも努力のかいあって見事にものにした。我が父ながらたいしたもんだと思う。それからは趣味の詩吟や水墨画の会報など仲間内の出版物は、全部親父が受け持っている。八十を越えた今も元気でそうしている。五十年輩ぐらいで、機械類が一切ダメだとまるで誇らしげに居直ったりする人がいるが、おれにいわせればあれはただの怠け者でしかない。

 近頃やたら自分を年寄り扱いする有山さん(以下パパ)に、おれはよくこの話をしてきた。パパとはもう何十通も手紙のやりとりをしているが、便せんに縦書きで書かれたパパの文章は達筆でなかなかの名文である。文章を書くのも好きなようだ。おれもパパへの手紙は縦書きで書き、きちんと気候の挨拶から入るようにしている。ただしもちろんワープロである。おれは自筆では葉書一枚書けない。
 パパに元気を出してもらうにはワープロかパソコンを始めるのが一番だとおれは思っている。でもパパは「それはあなたのお父さんは元々インテリだったから出来たんですよ。ぼくなんかとは頭の出来が違うから」と逃げてしまう。パパに決断させる方法はないものか。このホームページだってパパが直接書き込むことが最高の魅力になるだろう。

 七十歳になったパパは最近やたらと「ぼくももう年寄りだから、後何年生きられるか判らないし」と発言する。気弱なパパのセリフなど聞きたくない。それでおれは言った。「パパ、日本人の男の平均寿命は七十六歳です。それが真ん中です。まだパパは平均すら生きてません。パパのそのセリフは七十六まで生きてから言ってください」と。

 ワープロに関する親父の行動で、一番笑ったというか不思議だったのは、親父にとってワープロが清書の機械だということだった。書いた文章をいくら削除しようと後から挿入しようと、一切画面が汚れずその痕跡を残さないワープロこそは、最高の下書き用機械である。おれにとってワープロの意義とは九十九パーセントそこにある。なのに親父は、いかにも昔の人らしく、新聞広告のチラシの裏などに筆ペンでびっしりと下書きをし、それを見ながらワープロに向かうのだった。おれは親父に、喉元まで出かかったワープロは下書き機械だということを言えなかった。チラシに下書きをし、正座をしてワープロに向かう年老いた親父は、なんとなくカッコよかったからだ。

 と、おれの親父はチラシに下書きをしてワープロに清書していたが、おれは今チェンマイで、パソコンに書いた文章を手書きで清書する羽目に陥っていた。といってまともな人ならなんてことない状況ではある。週刊誌のコラムは四百字詰め原稿用紙三枚ほどの分量でしかない。千二百字のちょいとシャレたコラムを一発勝負で書くとなるとそれなりに難しいものだが、おれの場合、何日も前からさんざんいじくり回して書き上げた文章が既にディスプレイに表示されている。日本から持参した愛用のボールペン(Drグリップ)を手にし、「DK BOOK HOUSE」で買ったレポート用紙に書き写すだけでよかった。なのにおれには、たったそれだけでも難行苦行なのである。
 少しだけ焦っていたのは時差があったからだ。昼までに送らなければならない。時差が二時間あるから、日本の昼はこちらの午前十時なのだ。それを気にして早起きしてしまった。今七時半。もうあまり時間がない。

 プリンターがあればA−4の用紙一枚で済む量が、レポート用紙に筆圧の強い下手な字で書いていたら三枚にもなってしまった。これに編集者への連絡を一枚つけると四枚になる。FAX代もだいぶ違う。でもこのアパートが国際電話などをほとんど原価でやってくれるのは以前に経験済みだ。たった三枚なのに、一枚の半分を書いては休み、腕を振り、指を揉むという大仰なアクションをしつつ、二時間ぐらいかけてやっと仕上げた。しょうもないねえ。ほんとに物書きなのか。

 家計簿をつけ年賀状を書く程度の主婦だって、おれよりは遙かにたくさんの生字を書いているだろう。なさけない。でもおれは昔からそうだった。二十年前に放送作家を始めたときから、異様に筆圧が強く腫れ上がったペンだこで苦労してきた。それでもその当時はそうするしかなかったから取り立てて不満はなかった。でもワープロが発明されたらもういけない。おれが初めて買ったワープロは百万円近くした。貧乏物書きにとってとんでもない出費だったが、おれは嬉しくてはしゃぎまくっていた。それは今現在の三万円の子供用ワープロより落ちる代物だったが、おれはついに夢の機械が発明されて、これからも物書きを続けられると有頂天だった。もちろんそれ以前に和文タイプライターなどを買い込んで悪戦苦闘していたことは言うまでもない。
 九時半にアパートの一階からFAX送信を終了する。「無事着いたら確認のFAXをくれ」と編集部に伝言する。まず大丈夫だろう。機械に強いアパートの管理人がいなくて送信に多少もたついた。もっともこれだってラップトップの中にはファクスソフトが入っているのだから、部屋から直接国際電話がかけられれば、彼らの手を煩わせることもないのだが。

 ほっとした。これで来週まで一週間は完全なオフになる。
 今年中にやらねばならない書き下ろしの約束が三冊あって、もう何年も引っ張っているから本来ならオフどころの話じゃないのだが、今回はMOBILEのVAIO PCG-C1Rしか持ってきていないから書き下ろしは無理のように思う。ほんとは無理もなにもないんだけどね。弘法でもないくせにやたら筆にこだわるおれとしては、いや弘法じゃないからこそこだわるんだろうけど、

「小説のようなきちんとした文章を書くのはデスクトップ。最低でもA-4フルノート。ちっこいMOBILE NOTEでは無理」とかってに決めている。かといって去年、A-4フルノートのMebiusをもってきたときは、なんか違う理由をつけてやはり全然書かなかった。その前のDynabookの時も同じだ。今買おうと思っているのはVAIOの505である。A-4フルノートは重いので旅先にはむかない。VAIO PCG-C1Rでは画面が小さくて小説を書く気にはなれない。その点、薄型で軽く、画面も10インチ以上ある505ならちょうどいいだろうというのが購入するための理屈だが、買ったら買ったでまた何か理由をつけて仕事はしないのだろう。やる気のある奴はノートにちびた鉛筆でも書き始める。いつまでおれのこの怠け癖は続くのか。困ったもんだ。きっと本気で目覚めたとき、おれはチェンマイには来なくなっているのだろう。



 十時すこし前に『サクラ』に行く。朝からビール。楽しいなあ。特に小さなコラムではあれ、ひとつの仕事をこなしたという満足感があるから、なんとなくひと味違う気がする。おれは日本でも、徹夜で仕事をして、朝日を見ながら飲むビールが好きだ。それがどんなに小さなせこい仕事であれ、ひとつのことをやり遂げたという思いで飲むビールは、美味い。
 Hさんはまだ来ない。もう少し経ったら新聞片手に現れるだろう。

 Tさんがやってきた。入り口の丸テーブルで話す。今回のTさんの夏休みは一ヶ月。シンガポールINのバンコクOUTらしい。TさんはNECの関連会社で働いている。通信事業からパソコン方面に進んだ人なので、インターネットなどに関しては何でも教えてくれる。通信方面のプロだ。といってもおれがあまりそちらには興味がないので、せっかくプロと知り合ってもあまり教えてもらうこともない。Tさんが旅先に持参しているのは、三年前に知り合ったときと同じ、CPUが486DXUの古いタイプのDynabookだった。同じものをおれも持っているが、もう何年も埃を被ったままになっている。デスクトップは最新型を揃えているとTさんは言った。ラップトップはとりあえず旅先でE-Mailがチェック出来る程度でいいのだと言う。それがプロの発想で、おれのように毎年ノートを買い換えているような奴は素人なのだろう。おれが今愛用しているパソコンは四台だけだが、全部では二十台ぐらい有って、どれも壊れてはいないのである。

 Tさんがここ何日か一緒にいる女性の話をする。情が移ってしまって離れがたいと。しかし離れねばならない。お金で始まった関係である。終らせねばならないのだ。身請けしてくれと泣かれたという。数万バーツ。身請けできる額だ。身請けしたい。でも彼女の両親は自分よりも年下だ。困ったねえと、Tさんは苦笑しつつ、髭に付いたビールの泡を指で拭い、淡々と話す。ゆっくりと時が流れている。おれはピーナッツを囓りながらビールを飲んでいる。採りようによっては生臭い話のはずなのに、Tさんの人柄なのだろう、チェンマイの気怠い朝に、まるでおとぎ話を聴いているようにほんわかしている。
 Hさんが新聞片手に現れた。小渕政権の話。円高の話を三人でする。楽しい。

 静岡のYさんがやってきた。来るなり「ゆうべバイアグラを飲んだら元気で元気で置屋をはしごしちゃってね」と話し始める。おれ達三人の顔色など何も関係なく、一方的にしゃべる。きょうも今から娼婦館の『主婦の館』に行くのだが、あんたも一緒にどうだとおれを誘ってくる。おれは俯いている。意見を言ったら気まずくなる。ケンカは出来ない。それがこういう場の掟だ。
 楽しかった時間がぶちこわしだ。Hさんはしらんふりして新聞を読み始めた。Tさんはグラスを片手に、彼女の面影を追うように遠い目をしている。
 酒も煙草もやらず小銭を貯めてタイに通い詰めているというYさんの頭の中にはそれしかない。一般的話題は何もない。ひたすらそれだけだ。しまりがいい、きついと、下半身に関する露骨な用語が連発されている。気分が悪くなる。うんざりする。

 所詮は同じ買春の話でしかない。なのにTさんの話はほんわかして味わい深く、Yさんの話は吐き気を催すほど不愉快になる。それは二人の人柄や人徳、そういうものの差なのだろう。Yさんがともだちがひとりもいず孤立している人であることも関係あるはずだ。人と人の間(ま)を計る神経が、この人には欠けている。これ以上Yさんといると、仕事を終らせたと昂揚しているせっかくの一日が灰色に染まりそうなので、席を立つ。Tさんに、夜にロータリーで会いましょうと挨拶する。

 部屋に帰り、クーラーをオンにする。セゴビアのクラシックギターを聴きながら、池波正太郎の時代小説を読むというミスマッチの中で、すいこまれるように昼寝。しあわせしあわせ。






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