日記-02 秋
  チェンマイ日記-02年秋



●ああ、また中国……


(西双版納空港のバンコクエアウェイ機)

バンコクエアウェイ景洪行きは12:10分発。スター(レンタルバイク屋の店主)に空港まで送ってもらう。10:40分に着いた。早速入官に入ろうと思ったら、係員がいないのでちょっと待ってくれ、ランチでも取ってきたらどうだとタックスチケット(500バーツ)もぎりのニーチャンに言われる。入口前の堅い椅子に腰掛け、11:10分までThinkPadを開き日記を書く。
 彼が係員が来ましたのでどうぞと言う。ThinkPadをスタンバイモードにしパソコンバッグにしまう。その間、数分か。さて入ろうと思ったら、彼がおどおどした顔で、すいませんまたいなくなってしまったのでしばらく待ってくださいと言う。これにはさすがにむっとして、あのなあ、オレが今パソコンを片づけるのを見ていたろ、なんでそんなにちょいちょいいなくなるんだよとすこし声を荒げる。もういちどパソコンを拡げる気にもならず雑誌を読んで待つ。十分後、彼がまた来ましたからと連絡に来る。「チューア・メダイ(信じられん)」と言って自分で覗きに行く。スダレ頭のオヤジが早めの昼飯を食い終ったところなのか、楊枝でシーハシーハしながら椅子に座るところだった。タイ人はいいかげんだ。

免税店でバーボンを買う。三週間いるから二本買おうと思ったが酒は控えようと一本にする。チビチビ飲みになりそうだ。ワイルドターキーの8年もの。12年ものを探したがない。ただしこれ、確実に長い間売れ残っていたようだから製造から12年は経っていそうだ(笑)。(後に開けようとしたらコルク栓がぽきりと折れた。腐っていたのか。間違いなく売れ残りの古い酒ではある。タイ人はバーボンは臭いと言って嫌う。)
 いつも思うのだけれど、免税店って安いのだろうか。タバコはたしかに安いだろうけど、酒ってほんとに安い? この8年ものワイルドターキーは3000円弱、すこしも安いとは思わないんだけどね。
 左の写真は中国に着いてから撮ったもの。後ろはロッテのアーモンドチョコレート。日本からの持参品。


待合室からバスに乗って機体に向かう。タイの民族服を着たおばばが大荷物をもってバスに乗り込んできた。重すぎて乗せられないようだ。反射的に手伝い、荷を持ち上げていた。礼を言われたくてしたのではないが、タイ人のあのいい笑顔でありがとうがあると思った。なにもなかった。荷物が車内にあがると、おばばは私がそこにいることすら知らないように無視して周囲の人間と何ごとか話している。ありがとうどころか笑顔ひとつない。奇妙な感じがした。なぜなんだろう。
 その理由は間もなくわかった。すぐに車内は満杯になり、まるで豚小屋とニワトリ小屋に爆竹百連発を投げ込んだかのような凄まじい騒々しさになったのだ。彼らは中国人の団体客だった。おばばもそのひとりだった。タイの民族衣装は、タイ人だからではなく、こちらで買ったお土産を着ていたのだった。中国人が荷物をもちあげてくれた見知らぬ人間に礼を言うはずがない。かといってこれ、彼らの人間性の否定ではない。そういう民族なのだ。彼らがありがとうを言うのは、それこそ人生の大舞台において生涯一回か二回だろう。それが彼らにとってのありがとうである。彼らからすれば日常の事細かなことで一日になんどもありがとうを言っている日本人のほうが不思議なのだ。

その民族性の差を思い知りつつ、爆竹百連発の騒々しさの中で、私は十年前のことを思い出していた。
 ワロンロット市場での出来事だ。老婆の引くリヤカーがぬかるみで動けなくなっていた。痩せたニワトリのような老婆は懸命にスタックから抜け出そうともがいていた。通りかかった私は反射的に後ろに回り、それを押した。急に軽くなり動いたことで驚いたのだろう、老婆は後ろを振り返り、リヤカーを押す私を認めた。そうして言った。くしゃくしゃの顔をうれしそうにして、「おお、チョーク・ディー・ナー」と。
 チョーク・ディーは、ついている、運がいいという意味だ。この当時から若者達は、別れ際に白人的な「Good Luck」の意味合いで、さようならやまた会いましょうではなく、チョークディを言うようになっていた。私も真似して使ってはいたが、この老婆のひとことは、まるでチョークディの使いかたの見本のような気がしたものだった。

機内に入り、フライトに移っても、連中のけたたましさは変わらなかった。頭が痛くなる。このプロペラ機の「バンコク-チェンマイ-景洪」便は、前回乗ったとき(7人だった)のようにガラガラか、今回のように団体客で満員かの両極端だ。残念ながらタイ人団体にはまだ会ったことがない。団体といえばこのけたたましい中国人ばかりだ。
 うるさいうるさいうるさい。もうどうしようもない。両手で耳をふさぐ。するといきなり静になった。どうしたんだ。この静寂は。耳から手を離し、周囲を見回す。
 やつら、一心不乱に機内食を食っていた(笑)。食うときは静になるらしい。気味悪いほどの静寂。ほんの5分。またもや豚小屋ニワトリ小屋に爆竹百連発の世界。ブーキーブーキーコケッコケッ、パンパパン、ブーキーブーキーコケッコケッ。気が狂いそうだ。飛行機が落ちたら死ぬ。それは覚悟しているが、こいつらと一緒には死にたくない。あの世に行ってもうるさくてたまらない。

中国人といるとその直線的なエネルギーに圧倒される。なぜこいつらが世界中で商売に成功したかその力の源がよくわかる。白人が驚異に感じているのもわかる。彼らの凄みがわからず、未だに戦争責任がどうのこうのと弱者救済のような寝ぼけたことを言っているのは日本のサヨクぐらいだ。昔の人は、こいつらとすくない人数で五分以上に闘ったのだからたいしたものだ。今の腑抜けの日本人ではかなわない。間違いなく日本は中国に食いつぶされるだろう。江沢民も「日本なんて国は五十年後にはなくなっている」とまで演説している。(オーストリアだっけ?)
 同時にまた私は、大陸に渡った日本人が、支那人をチャンコロと呼んで差別した気持ちもわかる。日本人は支那人を尊敬していた。漢字を作った民族であり儒教の生まれた国だ。当時から、貧しいものでも努力すれば学問が可能だった日本人は、支那人全体を尊敬できる存在と考えていた。だが支那は長い歴史において、常にごく一部の知識人とその他大勢の文盲で成り立っていた。その壁は越えられないようになっていた。日本人が中国に渡り身近に接する支那人はその他大勢の支那人だった。そこにおける統率力のなさ、その場しのぎの行動、軽率な裏切り、それらに接して、尊敬していたからこそ失望は大きかったろう。自分がそれとまったく同じ道をたどったから、憧れの大陸に渡った先人が支那人蔑視に変ってゆく道行きが我が事のようにわかる。
 だけど本当に強いのは支那人だ。どんなところからでも立ち上がる。日本人の勤勉さがカミソリなら彼らはナタだ。結局カミソリは刃こぼれしてしまうだろう。島国的な美は大陸的雑にかなわないと私は思っている。これは「中国口論-大陸的島国的」のテーマになる。

ああ中国だ。ここはもう中国だ。大嫌いな国に、八ヶ月ほど異国人の亭主に会えなくて落ち込んでいる妻を元気づけに行く。一緒にどこか静かなところに行って、縮こまり、清廉な日々を過ごそう。
 どうでもいいことだが、ここを読む数少ない人に対して弁明しておくと、私の妻は泰族であり、いわゆる支那人とは違う。性格もおとなしく無口だ。上記のような賑やかな人たちとは人種が違う。少数民族の地である雲南省でも、政府の方針通り要所要所は漢人が押さえるようになっている。よって妻にとっても、支那人イコール漢人は、自分たちを虐げる存在として好ましいものではない。妻は私と一緒に彼らの賑やかさに両手で耳をふさいでいるほうだ。でなきゃ惚れない。彼女が初めて私の口癖から覚えた日本語は「うるさい」だった。いつしか私は一日になんども、無意識のうちに「うるさいなあ」「あぁ、うるさい」とつぶやいていたのだろう。支那人の喚き散らす様子を見ていた妻が、「ウルサイ」と初めて言ったときのことを今も覚えている。

空港に着くと、出迎えの連中とまたも集団での大騒ぎが始まり爆竹は二百連発となった。お蔭で私は真っ先にイミグレを通過することが出来た。
 冒頭の空港の写真は今年の正月(去年の夏?)のものである。この日記の冒頭に飛行機の写真が必要なことはわかっていたが、一刻も早くこのうるささから逃げ出そうと、カメラを取り出す気にもなれずイミグレに駆け込んだ。
 中国だ。大嫌いな中国にまた来てしまった。




成田・バンコク間のチケットを、9/25日に予約した。出発は翌26日である。こんな無理が利くのが一年オープンチケットのいいところだ。

 雑用がまだ片づいていなかったから(ホームページの「北陸ドライヴ旅行」が書き終ってないなんてのもそのひとつ)27日の出発が望ましかった。なのにむりやり26日にしたのは、27日が金曜日であり、金曜日の夕方着だとチェンマイに寄る目的である中国の査証申請が週明けの月曜になり、土日が丸二日むだになってしまうからだった。これはまずい。チェンマイに寄るのが目的だったら気にならないのだが──それどころか二日よけいに過ごせるのをこれさいわいと思うのだが──今回はそうではない。あくまでも査証不交附になり落ち込んでいる妻を励ますのが目的である。出来ることなら直接広州にでも飛びたい気分だった。チェンマイ直行のチケットをもっていること、査証がタイのほうが安価で取りやすいことからのチェンマイ行きだった。

 たしか査証は「中三日」のようなシステムになっており、間に挟まる土日は関係ないと記憶していた。月曜に申請すると金曜受け取りだが、同様に金曜申請でも火曜に受け取れるはずなのだ。金曜申請と月曜申請では丸三日の差が出てくる。なんとしても木曜に行くべきと判断した。
 26日の木曜日に行けないなら、雑用を完全に終らせて29日の日曜日にしようと思っていた。30日の月曜に査証申請は金曜出発でも同じになる。運良くチケットが取れて26日に飛び立った。出発間際までホームページのアップや、しばらくいなくなると仕事関係者にメイルを書いたりとどたばたし、れいによって徹夜での出発となった。結果として満席の便で、席も悪く、気分のいいフライトではなかったが……。

予定通り、27日金曜朝に査証申請をする。30日月曜の受け取りと言われた。「ん? 一日いつもより早いな」とは思った。深く考えなかった。
 30日の朝に受け取りに行き、申請のタイミングが幸運であったことを知る。27日に申請に来たときには見落としていたが、そこには「10月1日から7日までNational Holidayで当領事館は休みである」と張り紙があったのだ。27日や29日に日本から来た場合、30日に申請となる。するとどんなに早くても10月8日の受け取りになる。26日申請の分は本来なら10月1日受け取りなのだが、休日に入るから特別に一日早かったのである。幸運だった。出発を一日躊躇していたらチェンマイで意味のない一週間を過ごさねばならなかった。

私の中国行は、ほとんどの場合、チェンマイにアパートを借り、二ヶ月ぐらい滞在する日程の中から、その真ん中の日々を中国に当てることが多い。日本から痒いところに手が届くような自分好みの大荷物をチェンマイに持ち込み、その中から必要最小限のものをピックアップして中国へ出発するのだ。まずはチェンマイで放蕩三昧し、大嫌いな中国に行く覚悟を決め、中国で溜まったストレスを、チェンマイでお祓いして帰ってくる日程になる。今回はそうではない。日本からもう最低限の荷物しか持ってきていない。チェンマイも数日滞在するだけだからとゲストハウスに泊まった。一日も早く中国に行かねばならなかった。もしも一日ズレていたらと思うとゾッとする。幸運だった。これは単なる幸運だが、今回のことで「10月1日から7日は、二月の旧正月と並ぶ中国の大型連休」と記憶した。以後、気をつけよう。

 今まで二十回弱中国に行っていて、一度もこの時期に引っかかっていない。知らなかった。これはまあ自然のことで、これだけタイに関わってもまだロイカトーン(11月中旬のお祭り)を一回しか経験していないように、競馬物書きだった私にとって大レースのある春と秋は日本にいることが多かったらである。逆に今年の八月のように、丸々日本にいたのはどれぐらいぶりか記憶になく、日本にいたというただそれだけで感激するような月もある。これからは、今まで旅行出来なかった時期にしてみることにしよう。さしあたって十数年ご無沙汰しているロイカトーンはぜひみたいものだ。(もっとも近年のものは爆竹祭りになり、私の知っている静かな灯籠流しではないようだ。)



査証申請と受け取り、バンコクエアウェイのチケットを抜群のタイミングですべてうまくクリアし、自分はラッキーだと思っていたのだが、中国に着いて、どうやらまだ問題は終っていないと知る。

 空港に迎えに来た妻は、前日に景洪に着いていたこともあり、私のためにいつもの景洪賓館(左写真)を予約してきていた。それが一泊150元だった。日本円だと2500円程度だからたいしたことはないのだが(日本と比べたらなんて安いんだと感激すべきところなのだが)、こういうのは流れのものである。
 初めて泊まったとき140元だった。連泊したので120元にしてくれた。それから顔なじみになり毎回連泊することもあり100元になった。従業員とももう顔なじみだ。このあたりではオレにも景洪に定宿が出来たかとうれしかったものだ。
 そして今年の正月に来たら(旧正月ではないので高くない)、なんと60元に値下げしていたのである。特別値段ではない。一見の客もみんなそうだ。どうやらホテルが過当競争の時代に入り、どこもその程度の値下げをせねばならない状況のようだった。

 たしかにそういうことで周囲を見れば、私の場合、ホテル選びは、すぐれて快適であるよりも、まず「不快でないこと」を第一義とするので、不快でないこのホテルを定宿にしていたが、すこし歩き回ってみれば、100元以下でここより設備のいいところはいくらでもあるのだった。
 そういうところを知っていながら宿を変えなかったのは週刊誌の連載があったからで、編集部がこのホテルの電話番号、ファクス番号を私の定宿として編集部の連絡帳に記載していたし、またホテルの従業員も頻繁に国際電話が掛かって来るものだから、私の顔を覚えるようになっていた。英語の話せない従業員も、見知らぬ言葉(といってもそれは英語なのだが)で電話が掛かってくると、たぶん私だろうと私の部屋に繋ぐようになっていたのである。そしてそれは100パーセントたしかに私への電話なのだった。だからここを動かなかった。

今回は週刊誌の連載がない。よって、ここに留まる必要はない。
 ちいさな金銭の話で恥ずかしいが、前回60元だった部屋が、今回は1日から7日までは150元だと言われると何となく釈然としないものだ。以前からずっとそれなら文句はないのだが今回だけのものだ。また8日からは元の60元にもどるのも悪い時期に来てしまった。これまた今後もずっと150元に値上がりしたなら諦めるのだが。
 つまり、誰もがこう考えると思うが、この値下げ状態を見たら、同じ150元を払うにしても、「今まで300元だったホテルが今は150元で泊まれるのではないか」となる。どうせ払うならそっちに払いたい。もちろんこの時期は、そのホテルは300元にしているので泊まれないけれど。

 日本の勤め人なら普段は5万円の航空チケットが15万円から20万円にもなる五月の連休や旧盆の不条理を諦観しているだろうが、そういうものと無縁であることを数少ない誇りとしているフリーランスの人間としては、この降って湧いたような不幸(実はずっと前から決まっていたことだが)は納得しがたかった。日本では外れ者とされるフリーランスの人間は、定期券もなければ社会保険もなく、ましてボーナスなんてものとは無縁の人生を、五月の連休や旧盆、正月に高いチケットを買わざるを得ない連中を、「むふふ、かわいそうに」と笑うことで心のバランスを取っているのである。「なんでこのおれが中国の勤め人の休日価格につきあわねばならないのだ」というのは、私にとってかなり存在の本質に関わってくる重要な問題だった。

↓国慶節を祝うテレビ番組 共産国は子供が踊る
そう思いつつも定宿であるからしてまずは二泊した。
 西双版納は雲南省一の観光地である以前に、中国有数の常夏の有名観光地である。この国慶節(建国記念日)には国中が浮かれていて、テレビも朝から晩まで特番ばかりを流していた。あの北朝鮮の慶び組(この字だったか?)みたいなのが、子供からおとなまで、手を変え品を買えて、ひらひらの七原色の服を着て踊りまくっているのである。しかしまあいつ観ても、こういうのは気持ちのいいものではない。不自然だしね。

 特別値段なのは観光客相手の上級中級ホテルばかりではなく、中国人一般庶民を相手にする普段は20元程度の共同便所の安宿までが、この期間は倍の値段を取っていた。各旅社が路上に出している「単房10元 夫婦房20元」なんて看板のペンキ文字の上に白い紙を貼ってしまい、フェルトペンで特別値段を書き込んでいるのである。60元のところに泊まろうかと何軒か見て回ったが、普段は30元のところがその値段にしているのだからさすがにこれはひどいところばかりで、これ以上レヴェルは落とせないと確認した。だったら景洪脱出である。

 そしてまた白人の姿は見かけないものの(賢い白人はこの時期は避けているのか?)、北京だか上海だか知らないけれど、たしかに小金持ち風中国人観光客はいつもより多く、近くのビルマ人宝石街も普段より賑わっていたし、ホテルに隣接するカラオケ屋からは夕方から深夜まで始終がなり声が聞こえて来てうるさくてたまらなかった。うるさいのは苦手である。町が浮かれていた。こりゃダメだと思った。同時に、そのうち無縁になる中国なのだからすこしは観光しておこうと思いつつ、すっかり景洪に定着してしまった自分が、珍しく他の町に行くには、これは重い腰を上げるいいきっかけだとも思った。

5元の地図を買ってきた。どこかいいところはないかと探す。最初に来た頃には『地球の歩き方』の雲南篇のようなものまで持ってきたりしたのに、今じゃ辞書以外持参していない。
 景洪から五時間も離れれば観光客はいなくなるのではないかと考えた。好きな町に「打洛」(ミャンマーとの国境の町)がある。一度しか行っていないが印象的な町だった。そこに行こうかとずいぶんと考えた。
 それでも、ハズレの可能性もあるが、せっかくだから行ったことのないところに行こうと、ラオスとの国境に近い町、「ムンラー」に行くことにした。



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