ブラッサリーの魅力

出会いの頃

 ブラッサリーはメーピン(ピン川)沿いにあるレストランである。レストランだが、名物は店主自ら率いるバンドの生演奏になる。ブラッサリーとは「bras・se・rie」brasserie n.食事・ビールを出すレストラン.語源 フランス語「Progressive English-Japanese Dictionary」ということらしい。
 ここで酒は浴びるほど飲んでいるが、この店の食事がフランス語で命名する店名ほどうまいのかどうかは、ぜんぜん知らない。酒と簡単なつまみしか取ったことがない。


 私がこの店を知ったのは、八年前(1991年)、当時「Jame House」(=ジェイムハウス、旧『サクラ』近くのゲストハウス)を経営していた浦野さんのお蔭だった。音楽好きで、自身を「チェンマイのフィル・コリンズと呼んでくれ」と言っていた浦野さんが、私も音楽好きと知り声を掛けてくれたのだ。フィル・コリンズというのは、当時オールバックというか、薄い髪の毛をポニーテールにしていた浦野さんが、自分に似ているミュージシャンを無理矢理捜しだして言った冗談なのだが、なかなか言い得て妙である。浦野さんに会ったら、きっとあなたも「ああ、なるほど」と思うだろう。


 浦野さんから「チェンマイのジミヘンと呼ばれる凄いギターテクの男がいる」と言われ、一緒に出掛けた先がブラッサリーだった。私はシーバスのボトルを入れ、わくわくしながらライブ演奏の開始を待った。だいたい午後十一時ぐらいから、まずはアコースティック・ギターのステージがあり、一息ついて、エレクトリックになるらしい。その日、着いたのは零時を過ぎていた。それはちょうどバンド演奏の始まる時間だった。


 彫りの深い、タイ人とは思えない顔つきの、長身長髪の男が出てきて、ストラトを手にする。いきなり始まったのはジミー・ヘンドリックスの「パープル・ヘイズ」だった。巧い。特に今時こんなワウワウのペダルを上手に使う奴には滅多にお目にかかれない。というか、ペダルワウワウを使う奴もめったにいないが。
 まさかチェンマイでこんな本格的なものが聞けるとは思わなかった。うれしい。続いて「ヘイ・ジョー」とジミヘン・ナンバーが続く。うおおぉぉぉぉぉってなもんだ。シーバスがすすむすすむ。この時、私の大好きな「リトル・ウイング」は、やったんだっけ? 私がリクエストしたのだったか、聞いた覚えはある。次いでブルース・ブレイカーズのナンバーもやったりしていた。それも覚えてはいる。べろべろに酔ったので記憶もいい加減だ。とにかく、この日をきっかけに私は連日ブラッサリーに通い詰めたので、その辺の記憶は曖昧になっている。


 すっかりいい気分になった私は、ステージが終了した後、浦野さんに〃チェンマイのジミヘン〃ことトックを紹介してもらい、自己紹介をした後、しばらく世間話をした。ま、インタビューである。

 トックは、米軍キャンプの近くで育ったらしい。そこでアメリカ音楽の薫陶を受けたのだ。年齢的には、三十歳チョイ過ぎぐらいの若さだったから、'69年に死んだジミヘンが青春の音楽であったはずはない。ジャニス・ジョプリンやジミ・ヘンドリックスを自分たちの音楽と言えるのは、日本で言う〃団塊の世代〃になる。ウッド・ストックを知っているかどうかが境界線だ。私ですらやっとギリギリぐらいだから、トックはリアルタイムでジミヘンを知っている世代ではないだろう。幼い頃、聞いて育ったとはしても。

 それにしても見事な演奏だった。トックは、である。
 バックのメンバーは「素人に毛の生えたような」という言いかたがあるが、毛も生えていない素人そのままであった。ドラムスなど、中学生の鼓笛隊以下である。ベースはそれこそブルースのベースラインを外さないよう必死に繰り返しているだけだった。キイボードは比較的好き勝手をやってて小器用だったが、センスのないのは丸見えで、しかも楽器が、ジャイアント馬場がむかしコマーシャルで「ぼくにも弾けた」とやっていたぐらいの安物だったから、キーキーキーキー、ピコピコピコピコピコと、半端なテクが煩わしいだけだった。ギターのトック以外は、まあ悪い言いかただが、はっきりいてゴミだった。
 ベーシックな部分を間違わないように演奏することだけに専念する素人バックを従え、バカテクのトックが好き放題ギターを弾いているという図式だった。タイ的ではある。


 それまでも、バンコクのサラセン通りにあるジャズ・スポットに足繁く通ったりとか、チェンマイでもライブステージをやっている店をいくつか訪ね歩いたりとか、私なりにタイで西洋音楽を楽しもうとはしていた。
 だがタイ人というのは洋楽には向いていない。基本が日本人と同じ農耕民族だから前ノリのリズムなのである。簡単にいえばエンヤトットのリズムである。これは生活から来ている当然至極の論理なのだ。狩猟民族の後ノリの音楽には体が着いてゆかない。

 これらのことを語り出すと音楽論になってしまうので話をはしょるが、チェンマイでもサパークラブのようなところで巧いバンドに出くわすと、やはりというか当然というかフィリピン人だった。奴らは巧い。アジアの中でそのリズム感は図抜けている。東南アジアのラテン系と呼ばれるだけある。この点においてタイ人とフィリピン人は徹底的に違っている。

 パタヤのオープンバーによくいるギタリスト中心の三人組のバンド、バンコク高級ホテルのバンド、ロビーのピアニスト、みなそれなりのレヴェルではあったが、私を酔わせてくれものには出会えなかった。それが地元のチェンマイにこんな凄いギタリストがいたのだ。私は浦野さんのグラスにどぼどぼとシーバスを注ぎつつ久々に聞いたジミヘンの音楽に酔っていた。

-------------------------------

 翌日、私は午後十時過ぎにブラッサリーにひとりで出かけた。昨夜、空けてしまっていたから、新たにまたシーバスを入れ最前席に座る。
 まずはアコースティック・ライブの時間だ。トックがTakamineのギターを手にして現れた。銜え煙草で、水割りのグラスを持ち、椅子に座る。目の前のテーブルにグラスを置く。私と目が合うと、ニッと笑った。ホルダーに入れたブルースハープ(ハーモニカ)を下げている。

 そうして彼がいきなり始めた曲は、ニール・ヤングの「ハート・オブ・ゴールド」だった。アルバム「ハーベスト」に収録され、大ヒットした曲である。二十歳の頃へと時間が飛ぶ。私もこの曲をよく歌ったものだった。次いで「ダメージ・ダン」である。たまりません。私は懐かしい曲の連続に酔いしれる。

 単獨での演奏が終り、バンドのステージが始まるまでの間、トックと話をした。Takamineのギターについて話が弾む。そこから話はライ・クーダーへと飛ぶ。トックもまたライ・クーダーの大ファンだった。

註・Takamineというのは日本のギターメイカーの名前だ。アコースティック・ギターにピックアップ・のマイクを内蔵した、俗に「エレアコ」と呼ばれるギターがある。私の学生時代には、生ギターを大音量で鳴らそうとしたら、サウンドホールに別買いのピックアップ型マイクを取りつけたりしていた。やがてオベイションというメイカーが、ヘリコプターの素材を使って作ったという合成樹脂のボディにマイクを内蔵させたエレアコを売り出す。それが著名ミュージシャンに支持されエレアコの大ブームが起きる。

 Takamineという日本のマイナーギターメイカーは、良質の木製ギターに優れたピックアップを内蔵させた製品で、一気に「日本のエレアコメイカー」として、世界にのし上がった特殊な存在だった。それに貢献したミュージシャンに、Takamineを愛用した〃ミュージシャンズ・ミュージシャン〃ライ・クーダーがいる。


 第二部が始まる。ジミ・ヘンのオンパレードだ。うう、いいなあ。そうして、チェンマイに来るたびにブラッサリーに通い詰める日々が続く。

-------------------------------

 ところで、シーバスを飲み、ジミヘンナンバーに酔いしれていたと書くと、まるで私がチェンマイにおいて、西洋的なものを好んでいた、あるいは飢えていたかのようであるが、それは違う。私は当時の一ヶ月から二ヶ月のタイ滞在に置いて、日本食を一度も食べなくても平気だったように、その土地の文化に同化できる方である。

 特にこの頃はタイ音楽に嵌っていた。毎日部屋で溢れるほどに買い込んだタイのポップスやらルーク・トゥン(まあ、日本で言う演歌でしょう)やモーラム(うーん、敢えて日本語に訳すなら民謡でしょうか)を聞きまくっていた時期になる。

 ただ、定かではないが、既にもう「メコンのソーダ割り」は卒業していたように思う。あれを「タイに来たならこれだ!」とかバカの一つ覚えのようにやっていたのはバンコク時代で、不味いものは不味いのだと割り切り、チェンマイではもうそんな無意味な突っ張りは止めていた。

 そんなわけで、タイではむしろ西洋的なものを否定していたから、洋楽は仕事のBGMにモーツァルトやショパンを流したりはしたが、決して飢えていたわけではない。トックの音楽に惹かれたのは、彼の演じるナンバーが自分好みであったということが一番大きいだろう。

来日の頃

←ブラッサリーのある通り。真ん中に看板。


 そうして時は過ぎる。バンコクで知り合った音楽好きがチェンマイに来ると、私は必ずと言っていいほどブラッサリーに連れて行ったりした。それでけっこう得意がってる面もあった。トックのテクニックには誰もが舌を巻いたからだ。

 やがて紹介した友人や浦野さんから、「トックを日本に連れて行こうではないか。話題になるのではないか。興行的にも成功するのではないか」という話が出るようになる。それはジェイムハウスに南正人というフォークシンガーが泊まったことから具体化して行く。

 南正人という70年代に活躍したフォークシンガーを知っている人は、かなりのフォークマニアであろう。かくいう私も、彼が大学の文化祭に来たとき、学園祭実行委員会の下っ端にいたから偶然知っていたのであって、これというヒット曲もない彼を、知っている人の方がかなりヘンではあると思う。とにかく彼がジェイムハウスに泊まり、今でも日本に音楽事務所を構えているということから、トックの日本公演は具体性を帯びて行った。(餘談ながら、この時の学園祭実行委員長が現在衆院議員の海江田万里氏であった。彼が四年生、私は一年生だった。)

 それは、渋谷のライブハウスで複数回公演という形で実現した。浦野さんは付き添って日本まで行ったらしい。私の友人のトモキも、南さんの下働きをして奮闘したという(南さんからもらって日本でハッパが吸えたと喜んでいた)。トモキは初めてチェンマイに来たときに私がブラッサリーに連れて行き、それ以後私よりもトックと親しくなっていた。

 が、私はこれに関わらなかった。トックに関して、かなり初期からのファンに当たる私が関わらないことは、周囲からは不思議がられたが、さんざんブラッサリーに通い詰めた私は、この頃、トックの音楽に対し疑問を持っていたのである。それは「星飛雄馬的致命的缺陥」とでも呼べるものだった。(後編に続く)


inserted by FC2 system