§4.周辺の人々


●『さくら』の日々

当時の佐藤の手作り看板

 永遠に止まないのではないかと思われるほどのどしゃぶりだったスコールは、四十分も経つと嘘のように止み、雲一つない青空が広がった。木々の緑は生き返り、街中に生命の喜びが溢れている。東南アジアを訪れた人達の誰もが絶賛するスコール後の爽やかさである。
「パパ、ちょっと出かけて来るね」
 暇な午後三時過ぎになったことでもあり、厨房から顔を出すとビーが言った。店の中は常連五人だけになっている。
「一時間ね。一時間」
 佐藤は一時間という意味のタイ語を二度繰り返した。一時間で帰ってきなさい、それなら大目に見ようというのだ。

「だいじょぶかね佐藤さん。またアレだよ」
 出かけて行くビーの後ろ姿を見ながら、白髪がトランプを切る真似をした。最近ビーがトランプ博奕に凝っていることは常連の間では常識なのだ。
「解ってるんだけどね、正直困ってるんですよ」
 佐藤の顔に苦渋が浮かぶ。
「ほんとにタイ人てギャンブル好きだよね」
 どんぐり目の青年があきれたように言う。
「ムエタイ(キックボクシング)の会場なんて、みんな五百バーツ札(二千五百円円弱)出してたいへんな騒ぎですからね。こっちの人にとって五百バーツ札って、三万円ぐらいの価値があるんじゃないですか。一日肉体労働やって百バーツぐらいでしょ、それ考えたらスゴいっていうか、異常ですよ」
「ほんとになあ。公然と賭の対象になって闘うんだもの、必死だし強くもなるよな」
「闘鶏ってのもこっちが本場なんでしょ」
「軍鶏(シャモ)って言葉はシャムから来たんだろ」
「ムエタイの会場って闘鶏に似てるよ」
「でもやっぱりトランプ博奕ですよね。誰もがやってますもん」
「農家の連中だってやるもんな」
「ビーもあれさえ止めてくれればね」

 好き勝手な意見を聞き流しつつ、そう言って佐藤が顔を曇らせる。きついことを言わねばならない事態になりつつあった。



 常連も引き上げた店は、しばしの休憩に入った。夕方の混み始める五時過ぎまでは二時間ほどのんびり出来る。誰もいない店でひとり、佐藤は冷蔵庫からビールの小瓶を取り出しコップに注ぐ。

 開店の頃はてんてこまいの忙しさだった。日本料理を知らないビーと雇い人の娘に手取り足取り教えるのだから当然だ。タイではほとんど米を研がない。サッと洗い流すだけだ。日本人には糠の臭いが強すぎて合わない。まずは日本式米の研ぎ方から教えた。そう、日本では米は洗うのではなく「研ぐ」のだ。そこから始まった。

 野菜炒めのようなものはほとんど同じだった。醤油がこちらはナンプラー(魚醤)だから、それを日本製の醤油にすれば同じ味になる。違いの基本はダシだった。日本ではほとんど使ったことはなかったが、なにか閃くものがあって持ってきた「ダシの素」ほど重宝したものはない。ダシの素と味醂の隠し味が受けて日本人客がどんどん増えて行き、やがて日本で発行されているガイドブックにも掲載されるようになった。

 開店してしばらくは、タイ人女性が次々と佐藤を訪れたものだった。ラーメン屋の店員から一夜にしてレストランの経営者に変身したビーのシンデレラ・ストーリーは、同じような境遇の女性達の間を疾風の速さで駆け抜けていた。みんなが「第二のビーちゃん」を目指し、そのためにはまず王子様に挨拶をと佐藤を訪ねてきた。自分にもあなたのようなお金を出してくれる日本人男性を紹介してくれとすがるように言われても、佐藤はただ苦笑するしかなかった。

 ビーに店を与えたことに損得勘定はない。日本でなら大して使い甲斐のない百万円という金で、ほんのすこし王子様気分が味わいたかったに過ぎない。もしもこの食堂から利益が上がるならそれはすべて彼女のものだ。自分は息子達からの仕送りで生活して行く。佐藤としては、ここが日本人旅人の憩いの場となって根付くことを願っていた。そのためには当面の間は自分が面倒をみなければなるまいと覚悟していた。

 案に相違して彼女は佐藤の想像以上にしっかりした女性だった。ビーは高校を卒業した後、三年間経理学校で学んでいた。日本風に言うと高校の後に経理専門学校を出たことになる。実家はチェンライの中流農家なのだが、姉妹は皆高等教育を受けていた。フランスに嫁いだひとつ年上の姉はバンコクの四年制大学を出ている。農家の娘達の経歴としては異色といえる。

 タイにはまだまだ文盲が多い。老人はもちろんだが若い女性にも多い。兄弟数の多い末っ子などには、農業の手伝いに忙殺され小学校にすら通えなかったひとがいるのだ。
  彼女の両親は現金収入の乏しい中から学費を捻出し長女に学歴をつけた。そのことに感謝した長女が次女に、次女が三女にと仕送りをして皆学校を出たという。高等教育を受けたビーの姉妹は、大学を出ているエリート警察官や役人のような裕福な男達と結婚し、娘は必ず親に仕送りをするというこの国の習慣の恩恵を受けて、今では両親も恵まれた生活を送っている。大学を卒業した男が小学卒の女性と結婚したりすることは、身分制度のしっかりしているタイでは、まず絶対にあり得ないことだから、ビーの両親は苦労して長女に学問を与えた成果を見事に獲得したといえる。日本や韓国ではよくある話だが、タイの農村部においては極めて斬新な発想といえるだろう。

 ビーは獨自の経営感覚をもっており、早朝の市場での仕込みから家賃、レンタルのテレビ、光熱費にいたるまで、佐藤の手を煩わせることなく立派にやりとげてきた。雇用しているタイ人女性にも、他の同様の食堂で働くよりも高めの給料を払い、上手にプライドをくすぐって勤労意欲を増進させていた。



 日常で噴出する問題は、個人的というより民族的なものであった。
 日本の中華料理屋でイラン人を雇用したりすると生じる問題に「盛りつけ」がある。一皿六個のギョーザが三人で来た客から三人前注文される。すると彼らの盛りつけは均等ではなく、四個、八個、五個だったりする。店の主人はそれを注意するのだが、彼らにしてみると、どうせ同じテーブルで一緒に食べるのだから、なにも六個ずつ同じにすることはあるまい、三人分十八個という数は合っているのだから、なんでそんなことで怒るのだとなる。どうしてそんなことにめくじら立てて怒るのか彼らには理解できないのである。同様の問題は『さくら』でも数え切れないほど起こった。

 佐藤がしみじみと民族差を感じるのは、タイ人は謝らないということであった。外国に出た日本人が必要のない場面、言ってはならない場合ですらも「ソーリー」と言ってしまい、後々裁判などで不利になったりするのは有名な話だが、タイ人は逆にまず滅多なことでは「コー・トート(ごめんなさい)」とは言わない。それは『さくら』でも同じであった。

  雇用している女性は、店内でよそ見していて佐藤にぶつかると「パパがそこにいたのが悪い」と自分を正当化した。遅刻したときも、謝るより前にまず言い訳を延々と述べた。
 基本的にはビーも同じなのだが、彼女は日本人の好みを理解し、それを覚え込む知恵を備えていた。タイ人女性は根性が悪くて「コー・トート」を言わないのではない。それを言わねばならないという感覚が欠如しているのだ。だから教えてやれば賢い女性は覚える。もしも日本人の「失礼します」「すみません」と同じ感覚で「コー・トート」が言えるタイ人女性がいたなら、彼女は欧米の高等教育を受けた娘か、日本人と親しくつき合ったことのある女性のどちらかであろう。

 ビーは順調に店を経営し、確実に利益を上げていた。ある日佐藤が帳簿を覗くと、平均して月の売上げが二万バーツ(約十万円)、諸経費を差し引いた彼女の純益が六千バーツ(約三万円)というところであった。諸物価の比較は簡単には出来ないが、平均的なサラリーマンよりは遥かに高い月収である。ラーメン屋の店員時代の三倍の月収だった。

 貯金も出来て一安心したのだろう、最近彼女はトランプ博奕に凝っていた。出かけてからもうすぐ二時間になる。一時間と念を押したにも関わらず、まだ帰ってこない。今夜当たり注意しなければならない。きっと喧嘩になるだろう。それは佐藤にとっても気の重いことであった。



●『さくら』のご近所



 『さくら』は日本で言う棟割り長屋の一角を占めている。道路から見て右端になる。
 店の前面に精霊(ピー)を祭った木造の祭壇がある。コンクリートで固めた三和土の中に木の一本柱が立ち、一メートル四方の祠が乗っているのは異様だ。だいぶ痛んでいる古ぼけた祠を、客商売をやるのに障害だと考えるのは当然であろう。

 『さくら』の前にここでラーメン屋を経営していた竹田は、場所をずらしたいと大家に申し出て烈火のごとく怒られたという。なら最近あちこちで見かけるセメント製の綺麗なものにしたいがどうかという願いも却下された。この棟割り長屋全体の守り神である精霊のいる場所は、ここでなければならないらしい。壊れてもいないのに代替えするなどというのもとんでもないことなのだそうだ。

 タイ人の九割以上が信仰しているのは小乗佛敎である。これは大乗佛敎側からの差別用語で今はテラワーダ佛敎と言わねばならないらしい。タン・ブン(功徳を積む)という寺社への寄附行為は、日本風の佛敎になじんだ人には不思議に思えるほど実に熱心に寄附をする。

 タン・ブンを積めば積むほど来世で幸せになれるという発想は、現世の不幸は前世で悪いことをした報いという解釈から来ている。年端もいかない娼婦達が身を売って稼いだ金から懸命に寄附をするのは、「前世で悪いことをしたから女に生まれてしまった。そのためにこんな商売をしている。親に仕送りをして孝行し、一所懸命タン・ブンを積めば、来世はきっと男に生まれて幸せになれる」という、フェミニストなら怒りに青ざめるような教えも含んでいるのだ。

 彼女たちは物乞いをする体の不自由な人にもこまめにタン・ブンをする。百円しか持っていなくても五十円をあげたりする。それを見ているとお金がありながらあげようとしないこちらに罪の意識が芽生えたりもするが、彼女たちの行為を支えているのは「前世で悪いことをしたからこの人はこんな不自由な体に産まれてきた。かわいそうに。その点わたしはまだ恵まれている。ここでタン・ブンをしないと来世では自分がこうなってしまうから」という発想であり、あまりに直截的なこの感覚にはなじめないものがある。

 それでもこの国にいると心を構えなくても住む。それはきっと佛敎国だからだ。キリスト教やイスラム教の国で感じる違和感はない。タイに魅かれた日本人にアンケートを採ったなら、佛敎国だからというのはかなり高位の理由になると思われる。

 オレンジ色の僧衣をまとい街を闊歩する僧侶にも敬意は払われるが、現実に尊敬を集めているのは、これはもう間違いなく国王である。民家はどこでも国王夫妻の写真を飾っている。タイの国王は、御真影と呼ばれて一家に一枚写真が飾られていた当時の日本の天皇よりも、もっと素直な感覚で国民から愛され敬われている。国歌が街に流れると人々は直立不動になる。映画館でも上映前に必ず国歌が流れ国王の姿が映し出される。この場合異国人も直立しなければならない。素直に自分たちの誇りとして誰もが国王を敬い愛する姿は羨ましく感じるほどだ。

 国教である佛敎と心から尊敬する国王の間に、身近な日常の守り神として精霊は存在している。縁起を担ぐ日本の客商売が、神棚に柏手を打ち玄関に盛り塩をしてから店を開けるように、タイの客商売の店では精霊の祠に手を合わせロウソクや祠を飾った豆球に点灯してから商売を始める店は多い。

 『さくら』の場合、祠がなかったなら、あるいは場所をほんのすこしズラしたなら、外観もだいぶスッキリするのだが、竹田の話を聞いた佐藤はそんなことは毛頭考えていない。精霊がこの棟割り長屋を守ってくれているのだと素直に信じることにしている。



 『さくら』の隣はタイ人の経営する洗濯屋になっている。靴下から下着、ジーンズ、ジャケットまで、日本円で十円から五十円程度の値段だ。「SOCKS 2B」のように英語で表示されている。三日分の汚れた衣類をひとまとめにして百五十円程度ですむから、『さくら』に立ち寄る日本人や白人旅行者にもよく利用されている。

 タイ人は世界でも有数の清潔な民族といわれている。タイ人女性の洗濯好き、清潔好きは有名で、一日に数度の水浴びとこまめな着替えをする。日本人旅行者がタイ人娼婦に惚れるきっかけとして、金で買った関係なのに、彼女がホテルで下着を洗濯してくれたことにホロっときたというのは良く聞く話である。それはきっと愛とはまた違う。たとえ一夜限りの仲であろうと、清潔好きの彼女たちは目の前の汗くさい洗濯物をそのまま見逃すことは出来ないのだ。

 洗濯機とタライの併用で、いつ行ってもこの店では洗濯をしている。常夏に近いタイだから洗濯物は半日もかからず乾くが、三時間で仕上げるスピードサービスもあり、日本製乾燥機を使用するこれは料金が倍になる。




(当時の『宇宙堂』店内)

 洗濯屋の向こうは古本屋になっていて、『宇宙堂チェンマイ支部』という看板が見える。右手に洋書、左手に和書の棚がある。世界中を旅してきた強者の古本に囲まれて昼寝をしている色黒の男は、あの『ゲストハウス・コジマ』をやっていた小島誠である。その隣でコンクリートの土間に引かれたタオルケットの上で寝ている赤ん坊が、彼とレックの間に出来た長男だ。

 二年前に小島はゲストハウスをたたみ、ここに引っ越してきた。ゲストハウスは、どうしてもやってみたいというレックの願いを聞き入れて始めた。そのことによって小島の希望である日本人の集える場所が出来るなら、それもそれでいいと思ったのだ。若者向けの廉価なゲストハウスは忙しい割には決して儲かるものではなかったし、やるだけやったレックが納得したなら商売替えは自然だった。

 なによりもあの日、ひとりの旅慣れない男として不安げに顔を出した佐藤が、ひょんなことから旧市街に日本食堂を出したことに驚いた。今では日本人旅行者のちょっとしたたまり場になっている。それは小島にとっても想像外の喜びだった。ゲストハウスを閉鎖し、待望の古本屋を開業するための場所を探していたら『さくら』の隣が空いていた。喜び勇んで引っ越しする。タイの諸事情に明るく人柄も良い小島が隣に越して来てくれることは、佐藤にとっても願ったり叶ったりであった。

 国を問わず白人バックパッカー達はなかなかの読書家であり倹約家だ。何冊かの読み終えたペーパーバックを携えて、路地裏の『宇宙堂』までやってくる。それを邦貨にして一冊百円ほどで売り、三百円ほどの他書を買って行く。和書と比べると抜群の回転率だ。すぐ近くに白人に人気のあるホテル「TOP NORTH GHUEST HOUSE」があるのも幸いしていた。

 『宇宙堂』には世界中を旅して来たであろう日に焼け表紙の傷んだペーパーバックが勢揃いしている。ドイツ語やフランス語の本もある。北欧の人間が母国語の本を探しに来ることもある。日本人は持参した文庫本を人に上げたり泊まったゲストハウスに置いてきたりするらしい。今の日本の若者にとって読み終えた本をわざわざここまで来て百円で売るという行為は煩わしくカッコ悪いことなのだろう。洋書と比べると甚だしく回転が悪い。

 小島はバイクを三台購入してレンタルも始めた。チェンマイに長逗留しようと思ったらバイクは必需品である。まだヘルメット着用が法制されていないチェンマイの街を夏風を切って走るのは爽快だ。レンタルバイク屋は街中に溢れている。バイクは全て日本製だ。借りる際には補償金代わりにパスポートを預ける。

 一日百バーツという値段は近所の同業者と同じだが、顔馴染みからはパスポートを取らない小島のバイクは、いつ行っても貸し出し中のことが多い。贅沢とまでは行かないが、古本とバイクは食うに困らないだけの金を稼いでくれる。今は子育てに忙しいレックは、一息着いたらまた新しい商売がやりたいと言い出すだろうと小島は思っている。

 白人が倹約家であるといえば、レンタルバイク屋には、保険をきちんとした一日百五十バーツの店から、旧型バイクの一日八十バーツの店まであるが、白人の若者は八十バーツの店を何時間もかけて探しだし、おまけに二人乗りで経費を浮かしたりする。それはケチとも違うようだ。わずかの金に対して自然に出来るこのこだわりは、値切ったり金にこだわったりすることを恥ずかしいと考える日本人には、ちょっと真似の出来ない部分である。

 一年前、小島はチェンマイ郊外に家を建てた。レックが二人目の子を妊娠したからだ。家族が四人になる。タイ在住もいよいよ本腰を入れねばならないときが来たと思った。土地代も入れて三百万円ほどで建てた家は、日本なら三千万円では買えないだろう。もちろん名義は奥さんのレックである。






 小島の店の隣はタイ人の経営する理容店。その一軒向こう、この棟割り長屋の左端に、今年の春、ゲストハウスと喫茶店が開店した。経営者は日本人の梶山治。同じ大きさの棟割り長屋五所帯の中に日本人が三つの店をもったのである。三年前小島が夢想していた日本人が気軽に集える場所が、やっと完成したと言えるかも知れない。

 梶山治は埼玉県出身。四十五歳になる。運送会社に勤めていた時に婿養子に入り、義父が亡くなったことから養子先の家業である蕎麦屋を継いだ。次いで麻雀屋を開店する。この店を当時流行り始めていたカラオケスナックにし、更にブームの前の一足はやいフィリピンパブに改装して一山当てる。当時まだ珍しかった異国の陽気な娘達に惹かれて連日男達が押し掛け、店は大繁盛した。やがて同様の店が乱立状態になり、労働ビザがどうの違法就労がどうのと世間の耳目を集める時代には、梶山はさっさと足を洗っていた。

 この時に稼いだ資金でマニラに進出を企てる。それも成功したが、フィリピン人の「パートナー」に裏切られ苦い水を飲む。フィリピンがダメならタイがあるさとやって来たのが二年前になる。今度も成功した。更には「パートナー」も当たった。梶山は佛敎国のタイ人とキリスト教のフィリピン人では性格が違うと断言する。フィリピン人は、タイ人よりドライで冷酷だという。

 梶山の事業の中心は、この路地の喫茶店とゲストハウスではない。街一番の繁華街にある大型店舗のカラオケパブである。約二千万円を投下したが投資はもう回収したという。タイ美人がホステスについてくれて、一緒に歌い飲み食いをする店だ。タイの店にはよくあるオフと呼ばれる店外デートシステムがある。本人が納得すれば店に千四百バーツ(約七千円)を払えば一見の客でも可能だ。このうち店は三百バーツを取るだけで後はホステスの収入になる。

 店が補償している月給の二千バーツは若いOLの月給とほぼ同じ額である。指名した客が飲んだドリンク代の半分が店からバックされるから、彼女たちは月給とそれだけで十分に生活出来る。客と店外デートするかどうかは本人次第だ。
 が、午後八時開店の梶山の店に十時に行くと、五十人もいるホステスは数人しかいなかったりする。日本人好みのすこぶるつきの美人ばかりを集めた梶山の店は連日大盛況だ。バンコク・チェンマイのパックツアーに参加したことのある日本人男性なら、誰もが一度は行ったことがあるだろう。それぐらい名高い美人ぞろいの有名店である。

 つまり、佐藤に『さくら』の権利を売ったラーメン屋の竹田が夢見ていた金鉱を、後からやってきた梶山はあっけなく実現してしまったことになる。既に埼玉でフィリピンパブ経営のノウハウがあった梶山と脱サラしたばかりの竹田では商才の面でも差があったのだろうが、直接の差は「パートナー」を見つけられたか否かであった。竹田はあれからも挑戦と失敗を繰り返している。帰国したかと思うと夢捨てがたく、資金を作りまた訪タイしてはレストラン経営にチャレンジしたりしている。未だ金鉱には行き当たっていない。



 梶山の喫茶店とゲストハウスも、佐藤や小島と同じ日本人にたまり場を提供したいというのがきっかけだった。埼玉には妻もいる。もう成人した息子もいる。気の強い娘と姑の下に婿養子に入り苦労ばかりしたが、ずいぶんと財産は増やしてやったはずだ。自分を男とも思わない女房と姑を見返し、そこから脱出するためにだけ頑張ってきた気がする。日本の不動産等の財産はすべて向こうにくれてやるつもりだ。梶山はフィリピンパブで稼いだ自分の小遣い金だけを運用して、何とかタイでも成功した。自分はもうここで一生暮らすのだと梶山は決意している。

 現在この場所は「梶山の女房」が取り仕切っている。パートナーから紹介されたタイ人女性だ。小島の妻と同じレックという名だが、タイ人は誰もが難しい本名とは別の愛称をもっていて、中でも小さいという意味のレックという愛称は、末っ子が「おチビちゃん」という感じで呼ばれる最も有り触れたものだから、偶然と呼ぶほどのものでもない。喫茶店もゲストハウスもレックの名義になっている。和食路線の『さくら』と違い、こちらはハムエッグにコーヒーというような洋風軽食が中心で、それがちょうど『さくら』とはよい対比となっている。

 親戚の誰かが成功すると一気にそこに頼るのがタイの慣習である。いま梶山の店ではマネージャーからボーイまで、レックを頼ってチェンマイにやってきた彼女の一族郎党が働いている。続々とやってくる親戚縁者に最初は梶山もうんざりしたが、意外にも血縁を中心とした彼らは良いチームワークを誇り、今では安心して店を任せられるほどになっている。
 梶山とレックの間には一歳の男の子がいる。四十五歳で、二十年ぶりに自分とそっくりの乳飲み子を授かった梶山は、この子が可愛くてたまらない。二十五歳の時と同じ、もういちど出発点に立った気がしている。

 もしもこのまま順調に仕事が発展したなら、佐藤がチェンマイに来るきっかけとなった「シルバープラン」のようなことが、ここで出来ないものかと梶山は考えている。寂しい男達が老後をここで楽しく暮らす事業を興せないものかと思案しているのだ。

 世界中に日本人バックパッカーのたまり場はある。オランダで知り合った日本人若者同士が、ネパールで再会しインドでまたもや会い、そして今度はバンコクで同宿したりする。なんて世界は狭いんだと彼らは感激するが、日本人のたまり場ばかりを点から点で移動しているのだから不思議でも何でもない。広い世界を狭く歩いているだけだ。

 そういう世界中の日本人のたまり場とチェンマイのここが決定的に違うのは、年齢層である。他所が好奇心とエネルギーに満ちた若者が麻薬に手を出してみたりする場所であるのに対し、ここはどこかに傷を負った中年以上の男が、湯治に来るような場所だった。他所がギラギラする真夏の陽射しなら、ここは冬の日溜まりだった。

 そんな男達の居場所をここに建設してみたいと梶山は考えている。それを自分のライフワークにしたいと。



    

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