§3.さくら、咲く


●ビーとの出会い



 親切な小島や旅慣れた日本人達にいくつもの情報を教えてもらい、佐藤の世界は一気に広がっていた。
 みんなの勧めで今まで泊まっていたホテルを出てレンタルルームに移る。部屋代は一日四百バーツ(約二千円)の日掛けだから中級ホテルとあまり変わらないが、出入りが自由になりホテルマンに会わずに済むことは、老後をここで過ごしたいと願う佐藤に、より定住者に近づいたような満足感を与えた。親しくなった日本人がいつも居るとはいえ、バックパッカー達のたまり場でありクーラーもない小島のゲストハウスは、さすがに佐藤は遠慮した。

 毎日小島の喫茶店に通い情報を仕入れた。おもしろいという店を聞けば、すぐに出かけた。ホステスのいる店もショーステージのある店も、どの店も廉価で公正だった。ボラれるということは一切なかった。タイという国、チェンマイという町に、益々佐藤は惹かれてゆく。



 タイには「飲み物の持ち込み自由」という鷹揚な制度がある。ほとんどの店が酒の持ち込みが自由なのだ。自前のウイスキーを持参し、美味そうなつまみと氷だけを頼むことも可能だった。持参するしないに関わらず上乗せした酒代で儲けるという風習はないようだ。食堂でウイスキーをボトルで取ると酒屋と同じ値段のことが多い。

 元々タイのホテルにはチェックイン・チェックアウトの慣習もなかった。何時に入り何時に出ようと自由だったのだ。ところがあまりに白人客がチェックイン・チェックアウトの時間を訊くので取り入れられることになる。だからこれに相当するタイ語は今でもなく、そのまま英語が使われている。

 最近では酒の持ち込みも禁止する高級店も増えてきた。チェックイン・チェックアウトにうるさいホテルも多い。欧米の合理主義がアジア的良き時代ののんびりムードを放逐しつつある。

 最初の頃はサムロー(人力三輪車)やトゥクトゥク(オート三輪タクシー)を利用していた佐藤は、次第にこの街の繁華街は歩いてゆける範囲であることを知る。多分タイ人の自分勝手な性格(それはある意味で彼らの最大の魅力でもあるのだが)を考慮したのだろう、チェンマイは異常に一方通行の多い街だった。二十年前からチェンマイに通っていた事情通に聞くと、車がいきなり増え始めたのはほんの七、八年前かららしい。それまではタクシーも人力のサムローばかりでトゥクトゥクはほとんどなかったという。GNPの伸び率8パーセントという高度経済成長期に入り一気に増えたのだ。

 まだ車に慣れていないから、人も車も対向車との譲り合い、横断のタイミングが上手く取れない。事故が激増する。ならいっそのこと一方通行にしてしまえとなったのだろう。とにかく、この街の一方通行の多さは、ちょっと異常である。

 クルマでぐるぐると街中を走り回り、十五分ほども揺られて目的地に着く。だいぶ走った気がするが、後で地図を見ると直線距離で百メートル程度の所だったりする。ラーメン丼にある中華模様を繋ぐようにして車は走る。だが歩いて真ん中を突っ切れば、それは五分もかからない距離だったりした。佐藤は歩き回った。ナイトバザールに通い、日用品を買い、値切りを楽しんでは、オープン形式のカウンターバーでビールを飲んだ。チェンマイの旧市街を囲む四方の城壁は、堀の水を見ながらの散歩がてらでだいたい一時間半で回れた。現在までの佐藤の最短一周記録は一時間六分である。
 チェンマイは小さな可愛い街であった。その小ささの中に、歓楽と蠱惑と堕落と美食が詰め込まれ、世界中から集まった旅人が蠢いている街だった。



 ある日、佐藤は、日本人向けのラーメン屋があると聞いて出かける。ナイトバザール近くにある小島の店とは正反対の、城壁の内側、旧市街に店はあった。店主は東京からやってきた竹田という四十年輩の男だった。世間話をしている中に、気さくな竹田と佐藤はすぐに打ち解けた。日本風ラーメンが食べられるという口コミが広がり、店は十分に繁盛していたが、そのころ竹田はすでに経営に熱意をなくしていた。

 日中は健康的な雰囲気のこの街は、日が沈むと一気にネオンきらめく歓楽の不夜城に変身する。脱サラして一千万の資金と共に意気揚々とこの街に乗り込んできた竹田にとって、自分で決めたことではあるにせよ、日本人観光客相手のラーメン屋という商売は、あまりに地味に思えていた。この街にはまだまだ一攫千金の金鉱が眠っているはずだった。タレント顔負けの美少女が月給一万円で嬉々として働く国なのだ。彼女たちをホステスに雇い、大型バスで乗りつける日本人団体客相手のカラオケパブのような店を経営すれば、金鉱の発見はさして難しいことではないはずだった。

 ここで竹田が突き当たる壁も「パートナー」だった。資金はある。経営のノウハウもなんとかなるような気がする。だがタイに来て一年足らずの竹田には、全面的に信頼出来るだけのタイ人の友人がいなかった。現在のパートナーはこの店を購入する時に紹介されたタイ人だ。補償金五十万円で借り受けた店だった。彼の名義になっている。その程度の金額だから信用できた。これが一千万円が動くビジネスとなるととてもじゃないが怖くて信用できない。それは竹田に限らず、その程度の金には不自由しない日本人が、タイやフィリピンで一旗揚げようと試みるとき共通して抱える悩みでもあった。

 ラーメン屋経営に飽きつつ、かといって次の手立てもない竹田は、気分晴らしと現地視察を兼ねてチェンライへと旅に出る。チェンマイからバスで三時間ほど北上した所にあるチェンライ市は、タイ北部ではチェンマイに次ぐ規模の町である。鉄路はないものの空港が開けバンコクとの直行便もあるチェンライは、先行投資なら格好の狙い目という噂もあった。

 一週間の留守の間、店番は使用人の女性に任せた。この店は竹田が借り受けるまでは、チェンライ出身の姉妹が店を任されたオープンスタイルのカウンターバーであった。姉の方が客として来ていたフランス人に見初められ渡佛することになったとき、オーナーから経営権を譲り受けた竹田は、行き場のなくなった妹の方を従業員として雇った。それがビーだった。

 経営者の旅行中、店を任されたビーは孤軍奮闘する。店は今までも手伝って来たし、タイには日本のラーメンに似た「バーミー・ナム」という料理もある。しかしそれまでほとんどウエイトレスだったビーが、店を一人で切り盛りするには少し荷が重すぎた。その不手際を客として来ていた佐藤が手伝う。妻の元気な頃から料理好きで、一人になってからも日々のまかないを全て自分でしていた佐藤にとって、それはたやすいことだった。いつの間にかカウンターの中に入って店を取り仕切り、数日後には厨房でビーに指示したりもしていた。心細かったビーは佐藤に感謝する。生来が商売好きの佐藤もまた、久々に客商売を取り仕切り心地良い昂奮を覚えていた。



 「ビー」こと、ビーワーポーン・チャンパナコーンは、当時二十八歳。タイ人女性に多い離婚経験者、今で言うバツイチであった。チェンライでの結婚生活に破れ、チェンマイに住む姉を頼って働きに来ていた。離婚の原因は亭主が女を作ったからである。タイ人男性のすごさは、日本には「浮気をする甲斐性もない」という言いかたがあるが、甲斐性など全くなくても平然と浮気をすることである。そしてタイ人女性のすばらしさは、自分が気に入りさえすれば、相手の甲斐性になどこだわらない点である。だから自分の食い扶持すら不如意なだらしない男が複数の愛人をもっていたりする。よって庶民クラスには、十代で子供を産み亭主に逃げられて(養育費など送るはずもないから)育児代を稼ぐために水商売に入ったバツイチ女性がごろごろしていることになる。ビーは子供が出来なかっただけでも幸運だった。

 ビーと一緒に店を仕切った一週間は、佐藤に新しい発見をもたらした。それは、久しぶりに味わった働くことの楽しさと、非力な女性を守りリードする喜びだった。
 ビーとの一週間を楽しく語る佐藤に、転業したいと考えていた竹田は、だったらこの店を買って佐藤さんがやったらどうだと持ちかける。そっくりそのままの経営権移動で百万円でどうか、と。
 すこし考えさせてくれと応え、佐藤は一晩の猶予をもらった。



 三度目の訪タイも既に一ヶ月を過ぎていた。佐藤は毎日のタイ暮らしを何不自由なく満喫していたが、今チェンマイで物足りないことが二つあった。ひとつはバスタブである。やはり日本人には肩までつかる風呂が必要であった。元来水浴びしかしないタイ人には湯を浴びたり、湯に浸かるという習慣がない。それでも白人観光客向けに温水シャワーを完備したゲストハウスは増えてきたが、バスタブがあるとなると高級ホテルに限られる。特に日本人の、暑いときに熱い湯に入るという発想は、床屋で髭を剃るときですら蒸しタオルではなく氷水で冷やしたタオルを乗せる「冷たいことこそ快適」のタイ人にとって、絶対に理解しがたい行為であった。佐藤の現在の住まいは中級ホテル並だが、ホットシャワーしかない。このころの佐藤は、大きなタライを買ってきてそれをバスタブの代わりにしようかという滑稽なことを真剣に考えるほど風呂に飢えていた。

 もうひとつが日本料理への渇望だった。炊き立てのご飯に味噌汁が基本である佐藤に、タイの料理はつらかった。それでも何とか過ごしてこれたのは、進駐軍で仕事をしたことが関係あるのかも知れないが、ハンバーガーが大好きだったからである。佐藤はチェンマイにも進出し始めたアメリカの有名なハンバーガー・チェーン店に出掛けては、なんとか飢えをしのいでいた。日本料理店もあることにはある。がそれは観光客向けの高級品だった。毎日食べるわけにはいかない。ハンバーガーとたまに食べる日本料理で旅人ならなんとかなるが、定住するとなるとそうもいかない。それは小島の店でもみんなが話していたことだった。若者は良い。現地の味に素直に適応してゆける。日本食を捨てきれない自分のような世代の、それでいてこの街に惹かれた日本人が、けっこういるということに佐藤は気づきつつあった。

 この路地で、廉価な田舎食堂のような形で、ラーメンやギョーザ、トンカツや親子ドンブリを食べさせる店ができないものだろうか。ビーに日本料理のノウハウを教え、腕に覚えのある自分が協力すれば可能なのではないか。竹田に経営権譲渡の話を持ちかけられた夜、佐藤はそのことばかりを考えていた。よし、やれるところまでやってみよう、そう決断する。



●さくら開店

 翌日、了解したと応えて、佐藤は持参していた金から百万円をポンと払う。金を出したのは佐藤でも、書類上の経営者はタイ人でなければならない。「パートナー」が必要だ。佐藤はためらうことなくビーを指名した。驚いたのは「今日からこの店はきみのものだ」と言われたビーである。一夜にして月給一万円未満の使用人から一国一城の主となったのだ。何度も何度もほんとなのか、ほんとにいいのか、ほんとにこの店はわたしのものになったのかと佐藤に確認する。降って湧いた幸運だった。

 五人姉妹の四番目であるビーは、学校へも姉達の仕送りで通った。離婚して行き場をなくし、姉を頼りにチェンマイへ出てきたら、それが千載一遇のチャンスとはいえ、すぐ上の姉は自分をおいてフランスへ嫁いでしまった。十代の美少女があまっているこの街では、さして器量も良くない三十路近い彼女は既にうば桜であった。そういう不安な時期に突如現れた佐藤が、いきなり自分に店を持たせてくれるというのだ。ビーには佐藤が佛様のように思えたものだった。



 早速改装が始まった。カウンター形式のラーメン屋だった店を、テーブルを中心にした食堂にする。食器類、調度品を揃える。冷蔵庫や厨房器具等はそのまま譲り受け、足りない分を買い足すことにした。
 三日という契約を交わした改装工事は、約束の期日が過ぎた時、まだ半分も進んでいなかった。タイ人の職人達は真剣に働いているように見える。が、見ようによっては遊んでばかりいるようにも見える。几帳面な佐藤には契約期日を厳守出来ない彼らが怠惰に思えた。怒りたい思いが募ってくる。そう思いつつも、これがこの国のやり方なのだろうと達観出来るだけの年輪が佐藤にはあった。自分はこの国に他所からやってきたのだ。よそ者なのだ。自分のやり方を押しつけてはならないと。

 焦る佐藤とは対称的に、ビーはのんびりとしていた。タイにおける作業がどういうものか彼女は知り尽くしていたのだろう。工事は倍の期日がかかり六日で完成した。手間賃は六日分払う。日本ならそちらの見積もり違いと突っぱねるところである。佐藤は素直に払い、怒りを飲み込んだ。後に事情通日本人に感心される。三日で受けて六日で上げるとは素晴らしく敏速な工事だ。もしも佐藤が日本人の常識を振りかざし彼らに厳しく注意したなら、プライド高い彼らは工事を破棄し、二度と近寄らなかっただろうと。

 改装が済んだ店内に椅子、テーブルの配置を決めているとき、新しく買い足した大型冷蔵庫の配置で、佐藤とビーの意見が合わないことがあった。冷蔵庫は料理の材料が入っているのだから、厨房に近い店の奥に配置した方が効率的だ。だがビーは道路に面した店内の一等地に置くと言ってきかないのである。高さ二メートル近いツードア大型冷蔵庫二台はだいぶ場所を取る。奥の通路に設置し、店内の一等地に角テーブルを置けば、収容客数も四人は増えるだろう。その辺を佐藤がいくら論理的に説明しても、ビーは頑として受けつけない。

 タイ人女性の気性の激しさはすさまじい。ケンカになったら平然と男にもつかみかかるし一歩も引かない。男女の刃傷沙汰はタイの新聞の三面記事の定番である。日本人がタイ人女性を恋人にするなら、まずこの気性の激しさがどの程度のものであるかを確かめるのが先決になる。ビーはそんなタイ人女性としては、珍しく穏やかな性格の女性だった。生まれついての気性もあるだろうし、経理専門学校を卒業しているというタイ人女性としてはかなりのインテリであることも一因かも知れない。そういうビーも冷蔵庫の位置だけは絶対に妥協しなかった。

 後に佐藤は、彼女の実家を訪れたり、一般のタイ人家庭を覗くようになってこの時の事を理解する。むかし日本の床の間に観音開きのテレビがうやうやしく鎮座していたように、「冷たいことこそ快適」のタイ人にとって、その冷たさを生み出す魔法の箱である冷蔵庫は、床の間に飾りご近所に見せびらかす神器なのだった。ビーのこだわりは、一般家庭の小型冷蔵庫などとはスケールの違う二台の大型冷蔵庫を、入店して来る客はもちろん、通りを歩く人間にも、とにかくすべての人に見せびらかしたいという、幸福を吹聴したい乙女心なのだった。



 月極契約のレンタルームを解約し、佐藤は本格的に居を構えるアパートを探し始める。希望は、とにかくバスタブのある部屋だった。店はビーにあげたものだが、日本料理屋をやる以上、当面のヘルプはかかせない。となると店から遠い場所でも困る。探し回った挙げ句、ほぼ希望通りの部屋があった。日本円にして家賃二万五千円ほどの1DK。東京なら月十五万円はする物件だ。

 店の名前は『さくら』と決めた。格別に考えた訳でもない。ただ、まるで前から決まっていたかのように『さくら』と決めた。
 当座に必要なものを購入するために帰国する。ちょうど二カ月の観光ビザも切れ掛かっていた。小麦粉、米、麺から野菜、ギョーザの皮にいたるまで、食料はすべて現地調達が出来る。問題は日本の味を出すための調味料の調達である。



 タイ国はおどろくほど食糧事情が豊かな国である。主食の米はもちろん、牛肉、豚肉、鳥肉が揃い、日本よりもすこし小粒だが野菜も多種多様にある。魚介類も豊富だ。そして年中街に溢れる様々な果物は圧巻である(温暖すぎて生産出来ないリンゴが高級品になる)。干ばつに悩む東北部の貧困は現実だが、それは現金収入が乏しいという意味で、ただ食べるだけなら決して飢えることがない国である。だから年端も行かない農村の少女達が都会に出て娼婦になる現実は、食うに食われぬ貧困とは別問題になる。バイク、テレビ、冷蔵庫等に対する、人間の物欲という業が根底にあるからだ。

 少女達もまた田舎で食うに困らないというだけの耐乏生活をするよりは、たまに里帰りする近所のお姉さんの艶やかな姿に憧れる。都会でお姉さんがしているその仕事が楽しいだけのものでないことは解っているが、その仕事をすれば親にもたっぷり仕送りが出来て、自分も美味しいものを食べて綺麗な服が着られるという憧れの方が優先する。

 チェンマイやチェンライ近郊の農村は、そういうバンコクや日本へと出稼ぎに行く少女売春婦達の故郷である。農村を歩くと、椰子の葉で吹いた粗末な木造高床式の家に混じって、コンクリート建築の真新しい家がチラホラと見える。庭先にはバイクがあり、道路からも見える位置に冷蔵庫が置かれ、これみよがしに大音量で音楽が流れている。これも聞くためではなく、我が家にはステレオがあるというデモンストレーションだ。誰がどこで何をすることによって家が建ち、電化製品が揃ったかを、近所の誰もが知っている。しかしそこにあるのは蔑みではない。器量の良い孝行娘を持った羨望である。年に一度、祭りの日に娘が帰郷するとき、それはまるで凱旋パレードのように晴れやかだ。タイ国の娼婦の実態は日本的尺度では理解できない面がある。

 彼ら(彼女たちの親)の欲しがるテレビやバイク等が日本製品であることから、彼女たちのそういう生態もまた経済大国日本の罪であるかのような論評をする日本人がいる。だがそれは、人間の根元的な欲望を無視した、悪口のための悪口であろう。日本人が作らなければ、他の国がテレビでもバイクでも作ってくる。ただそれだけのことである。



 チェンマイでやるべきことの決まった佐藤は燃えていた。今度のタイ滞在は長くなるだろうという予感があった。息子達にもその決意を語り、仕送りの打ち合わせをする。毎月一人十万円ずつ計三十万円を仕送りするという息子達に、半年に一度、一人五十万円、計百五十万円をまとめて振り込んでくれるように頼んだ。当時タイの金利は十二パーセントもあったのである。現在でも下がったとはいえ八パーセントだ。それだけの金を定期にしておけば家賃ぐらいは利子が稼ぎ出す。

 三カ月のビザを取り、醤油や味噌、味醂、だしの素、削り節等、経験上考えうる日本料理用秘密兵器をたっぷりと買い込んだ佐藤は、チェンマイにもどると、ビーに日本食の味つけを教える傍ら、これまた日本から持参した愛用の大工道具で、手作りの看板作りに励んだ。ベニヤ板を引き、金槌を振るい、ペンキを塗る。白地に赤で、「いらっしゃい」とまず書いた。異国を旅する日本人にとって、どれほど日本の文字が恋しいものか、見つけたとき心強いものか、佐藤自身が体験していたからである。
 小島や何人かの日本人を招待して、『レストラン・さくら』の開店パーティをした。



 この日「さくらのパパとビーちゃん」という名コンビが誕生した。
 佐藤は渇望していたバスタブと日本料理と、ビーという第二の人生のパートナーを一度に手にしたのである。だが一番嬉しかったのは、行き場を失くしていた心に、異国の片隅でやる気を見つけたことだったろう。
 桜は咲いていなかったが、それは三年前の、確かに春という季節だった。



       

inserted by FC2 system