こだわるにこだわる


           (中国の職安の看板より)


『お言葉ですが…』の中に、「こだわる」ということばがテーマのひとつとして取り上げられている。そこで高島さんは、新聞の「平和的解決にこだわる」という見出しを例題として挙げ、最近特に乱発されるようになった「生き方にこだわる」とか「素材にこだわる」とかの使用法に疑問を呈している。

 高島さんの考えは、こだわるというのは「どうでもいい細かなことに執着する」というようなものであり、「平和的解決」のような大きな問題に対して使うのはお門違いだろうということだ。この「平和的解決にこだわる」という例題はペルーの日本大使館占拠事件の時のものである。五、六年前のことなのに、フジモリ大統領の今を思うと隔世の感がする。



 ぼくは高島さんの「こだわる」ということばに関する解釈、およびその使用法に全面的に賛成である。ぼく自身このホームページにおける文章でも、「こだわる」は、「旅先にもってゆくどうでもいい小物にこだわるのがぼくの性格である」のような使いかたをしている。海外にもってゆく歯磨きのブランド、商品にこだわるなんていうぼくのしょうもない性格は、最も正当な「こだわり」ということばの使用法になると思う。それは高島さんの意見と一致しているはずである。

 と同時に、果たしてその使用法に徹底していただろうかとかえりみて、冷やっともする。たとえば「宗教にこだわる」のような言いかたを今までしてこなかっただろうか。いや、してきたな、かなり確実にぼくはそんな言いかたをしてきた。
 でも、さらにまた「それは間違いなのだろうか」とも思う。そういう言いかたをしてきたことをぼくが間違った使用法として恥じるなら、それは宗教を「こだわる」ということばで論じてはならない大きな存在、大切なものと解釈していたことになる。宗教を愚かでくだらないもの、どうでもいいものと思っているなら「宗教にこだわる」という言いかたは間違っていないことになる。このへん突き詰めて行くと詭弁のにおいまでしてきてこんがらがる。



 こういう場合ぼくが「こだわる」のは(あれ? この使いかたは正しいか?)「一貫性」である。混用はみっともない。すっきりと一本線で筋を通しているか否かだ。筋を通しているかどうかはぼくにとって最も大切なことになるから、このことに対して「こだわる」を使うのは誤用となるか。
 ではなんということばに置き換えるのが適当かとなると、これがまたむずかしい。これだけ「こだわる」ということばが、「生き方」や「人生」や「食材」や「ファッション」など、コピーライター的な世界から日常用語まで手広く浸透したのは、融通無碍なその性質から来たのだろう。便利であるのは間違いない。

 全般的に、『お言葉ですが…』における高島さんの意見は、テーマとなったことばに対し、きちんと語源や古くからの使用法を明示し、ご自分の考えを述べるというものである。他の項目で挙げると思うが、村山首相が所信表明で使用した中国故事の使用法に関する間違いを指摘するくだりなどは痛快にぶった切る。
 が、「こだわる」に関しては違う。どうやらこのことば、未だに出所がはっきりしていないらしい。明確に規定は出来ないらしいのだ。だからこの件に関しては、高島さんも明快に言い切ることが出来ず、「個人の意見」という範疇にとどめている。

---------------

 文中には「こだわる」ということばに徹底的に「こだわった」本も紹介されている。本が丸々一冊「こだわる」だけの話であり、著者は辞書の編纂者であるという。そこではもちろん「こだわる」は些末なこと専用のことばではなく、「人生にこだわる」のように使うものとして任じられているらしい。それどころか「こだわる」をどうでもいいものに対して使う方法について徹底的に攻撃しているという。
 結びとして高島さんは、自分の意見を強硬に主張するのではなく、使用法は様々であろうが、自分としては「平和的解決にこだわる」というような使いかたは今後もしたくないと自分の意見を述べるにとどめている。

 ぼくはもともと「生き様にこだわる」のような使用法が嫌いだし、そして毎度のことながらもっと大きな理由として、そういうことばを使う人に好きな人がいなかったから、今後も高島さんと同じような使いかたをして行くつもりだ。ぼくの語感としては、「こだわる」というのは、小さなことに執心するというイメイジが強く、大きなテーマには不向きなことばのように思う。


あ、「イメイジ」と書いて思い出した。これから連続すると思うので釈明しておこう。高島さんは「音引き」についても書いている。これの氾濫は戦後の文部省指導要綱かららしい。たしかに戦前のものにこれはすくない。戦後の画一的教育を受けたぼくは音引き使用者だ。
 高島さんの使用法ではキーポイントではなく「キイポイント」と書いているのを見かけた。石原慎太郎さんの本を読むと、この音引きを否定した使用法がかなり目につく。ぼく自身コンピューターをコンピュータに統一して久しい。「ホームページ」という短い単語の中に二つも音引きがあるのは前々からイヤだった。それでこの「ホームページ」という自分の場では、極力音引きをなくしてもいいのではないかと思った。
 これまたしがない売文業者だから、あまりよけいな波風は立てたくないので商業文ではこれからも「ホームページ」と書くことと思う。たぶん軽いエッセイなんかだとホームページと書いても編集部で直されてしまうような気がする。小説の場合は我を通せるが。
 「家の前のいばりんぼう」と言われたらそれまでなのだが、とりあえず自分のホームページでは、好き勝手な使いかたをすることにした。そういう方針ですのでご理解ください。



 前々から気になっていたこの「こだわる」というテーマを急いで中国でアップしたのは、これから「旅の必需品-弐」を書くにあたり、「こだわる」とか「こだわり」とかいう言い回しが連発すると思ったからである。その前に意見を明確にしておきたかった。
(02/1/28 雲南にて)



inserted by FC2 system