好きな人がいれば嫌いな人もいる。
私のように私淑しているものもいれば、島先生を毛嫌いしているひともいるようだ。
ここにはネットにあった高島批判を集め、それに対する私の感想を書いてみた

まずは「北国tv」というサイトの「三角点」にあった文章から。

2006年12月6日
http://ch12200.kitaguni.tv/e325046.html

「衆寡敵せず」と「合衆国」
The United States of America の state は「州」だから「アメリカ合州国」と書くのが良いのではないかという意見がある。ネットで検索するとすぐにわかるように,この意見は大層な叩かれようである。その反論の多くが論拠としているのが,高島俊男氏の<お言葉ですが「それはさておき」の巻>の<「合衆国」とは何ぞや?>である。ところが,高島氏が書いているのは,「合衆国」が republic の訳語であることを説明しようとするのであれば筋が通っているが*,"the United States" の訳語であることを説明するものではない。したがって高島氏の文章は,"the United States" を「合州国」と書くことへの批判としては的を外している。

私が最初に高島氏の文章を読んだときにもそのような違和感を感じた。そして考えているうちに,「合衆国」の「衆」は「衆寡敵せず」の「衆」ではないかと思った。「合国」ではよくわからない。"states" という「複数」を表現するために「多くの」という意味の「衆」を使ったのではないかということである。


2006年12月16日
http://ch12200.kitaguni.tv/e327332.html

高島俊男氏の妄言 ─序数と基数の区別がつかない日本人の誤り

前回ネタにした「お言葉ですが」を再びネタにするが,高島氏は「十」が二桁と見なされることがお気に召さないようである。単行本<お言葉ですが「それはさておき」の巻>の p. 246 より引用。

指を折ってかぞえてください。奪三振一からはじまって,十で一順が終る。つぎの十一から第二の段階に入る。ここからが二桁目である。そうじゃありませんか,と言うのであるが,「まったくその通りだ!」と言ってくれた人がない。


当り前でしょう。高島信奉者といえども,この文章を疑問なしに読めた人はいないであろう。高島氏は反論に対してこのように書いておられる。

ある者は,「だって数字で書くと 10 から字が二つになる」と言う。これはあんまり説得的じゃないね。字のことを言うなら,漢字では「十」まで一字で「十一」から二字になるじゃないの。


どこまで本気でおっしゃっているのかわからないが,それだったら「二十一」は三桁なのだろうか。「九十九」から「百」になったら桁が二つも落ちるのだろうか。さらに氏の妄言は続く。

ある者は,「ソロバンでは十からけたがあがる」と言う。けたということばはソロバンから来たに違いないからこれは一理あるようであるが,なに日本の伝統的な五つ玉のソロバンではちゃんと十まで一けために入ったのである。


http://ch12200.kitaguni.tv/e347396.html 2007年2月18日「旧正月」

私が高島俊男氏のエッセイを読んでいて釈然としないものを感じることが多いのは,氏の批判というものが多分に氏のこのような態度から来ているからである。「高島氏は自分の好き嫌いだけで批判をする」と指摘する方がおられるが,同じことを指していると思われる。

「高島信者」は何故自分で高島氏の論理の矛盾を見抜けないのか,ということである。勿論,それが分かった上で楽しんで読んでいる人もいるだろう。しかし,他人に指摘されるまで気がつかない人もいる。様々なブログを読んでいると,どうも後者の「思考停止」に陥った人が多いようである。高島氏のエッセイは「啓蒙」としては優れているが,「啓蒙」以上のものではない。そのことは知っておいた方がよい。




『本が好き、悪口言うのはもっと好き』高島俊男/20ページあまりで挫けた。この人物は、山本七平や渡部昇一と同じ臭いを発している。言葉の端々から、知識人に特有の鼻持ちならない傲慢さと差別主義を感じる。私が本を閉じたのは、モンゴルの件(くだり)が書かれた箇所だ。中国から訪れた少女をモンゴル人少年が「家へ遊びに来ませんか」と招待する。で、家へ入るや否や家族の目の前で強姦される。これがモンゴルの求婚文化だというのである。しかも用意周到に「中国の雑誌で読んだ記事」と前もって逃げを打っている。記事の検証もされていない上、あたかもモンゴル全体でこうしたことが行われているような印象を受けてしまう。もちろん、そうした効果を狙っているのだろう。実に薄汚い精神の持ち主である。本書の題名も、著者の精神性をよく表している。
http://d.hatena.ne.jp/sessendo/20080921/p1
古本屋の殴り書き(書評と雑文) 



http://web.archive.org/web/20050405085154/
http://homepage1.nifty.com/forty-sixer/kanzihaisiron.htm
漢字は廃止できるか?

 漢字を廃止しようという主張は、幕末に前島密(まえじま・ひそか)が将軍に「漢字御廃止之儀」を出してから、何度も繰り返されてきた。
 しかし、実を結ぶことはなく、今日ではすっかり力を失っている。明治以降の膨大な出版物の量を考えれば、漢字を廃止することによってそれと切れることの損失を考えれば、漢字廃止論はすっかり非現実的なものとなっている。

 しかし、漢字廃止論の後遺症は意外と根深い。最近、高島俊男なる人の『漢字と日本人』という本が文春新書で出たが、その主張は、漢字は日本語にとって有害であるが、今さらどうしようもないというものであった。人を小ばかにしたような不愉快な文体もさることながら、こんなしみったれた結論のために本を書く人の気が知れないと思ったものである。

 日本語への関心と愛情は、文字表記を含めた日本語の特質を客観的に教えることでしか養えない。日本語の文字表記が何か遅れたものであるかのような印象をばらまいているという点で、漢字廃止論の後遺症には、軽く見ることができないものがある。






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 結びに。
 私は島先生に私淑している者だが、かといってインターネット上からこの種の文章を捜しだすことを趣味とはしていない。またその検索能力もない。これらはみな「2チャンネルの
 




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