痛快! あなたの二人称


↑昆明の交叉点

 「あなた」ということばを記憶したのはいつ頃だろう。「あなたと呼べば あなたと応える 山のこだまの うれしさよ」の歌からだろうか。テレビ番組で新婚の妻が「あなた」と呼びかけるシーンからだろうか。田舎のこどもであった私にとって、それは日常耳にすることばではなかったが、甘ったるいひびきの、決して悪いものではなかった。

 いまも覚えているのは十数年前のクイズ番組の問題。「難曲越冬隊」←この誤変換には笑った、難しくて歌いこなせない曲のために歌えるようになるまで越冬するのである(笑)──「南極越冬隊の夫に妻が三文字の短い電報を打った。それはなにか?」。これってなにもないところで出すと今でもいい問題だと思うのだが、ここではもう答がわかってしまっている。もったいない。これを聞いたときもいいなあと思った。会えない夫への呼びかけ。「あなた」。仲むつまじい夫婦と、南極でがんばる夫、日本で子供を育てつつ帰国の日を待つ妻、いい感じである。

 いつのころから不快なことばになったのだろう。ともかく今の私はこの「あなた」ということばが大嫌いである。現実の生活で見聞きする「あなた」も、新婚夫婦の甘い呼びかけなどではなく、「あなたはね、だいたいあなたがたの発想というのは」「いやいや、あなたにそう言われる覚えはない」のような、テレビ討論会での攻撃する対象の「あなた」が中心だ。

 下に引用する高島さんによると、「あなた」も「君」等と同じく目下の者への呼称であるという。とすると夫へ妻がそう呼びかけることのほうがまちがっていたのか。むずかしいことはともかく、田舎の小学生時代をべつにすれば、「あなた」というのは私にとって呼びかけられて極めて不愉快なことばになって長い。その理由を高島さんの友人が一刀両断してくれた。すこし長いが引用する。



日本語に二人称なし(『お言葉ですが…』第一巻より引用)

 読者の御婦人からお手紙をちょうだいした。冒頭「週刊文春で……」とはじまって一転、「どうお呼びしたらよいのでしょう」とある。わたし(高島)を呼ぶことばがないことにハタとお気づきになったのである。「先生」は気色が悪いし、「高島さん」はなれなれしいし、「おじさん」はちょっと失礼だし--、とある。
 まことにごもっともである。わたしも手紙を書く際いつもそれで困っている。ある程度の年配と察せられるかたに対しては「貴下」「貴台」などでごまかしているが、困るのは相手が御婦人、ことに自分より年上であろうと思われる時だ。「貴下」は変だし「貴女」なんて気持がわるくて書いたことがないし。
 読者のかたへは「残念ながら日本語には、知らない人や年上の人を呼ぶ二人称はないのです」と御返事した。

 十七年ほど前のある夜、教師仲間数人と上海の繁華街南京路を歩いていた。繁華街といっても薄暗い。突然目の前に二人の青年が立ちはだかって、矢つぎばやに話しかけてきた。
「あなたがたは日本人ですか」
「あなたがたはいつここへきましたか」
「あなたがたはいつまでここにいますか」
「あなたがたの職業は何ですか」…・・。
 聞けば、夜間の学校で日本語を習っているとのこと、語してみたくてしようがないらしい。
 仲間の一人で平井という語学専門家が、「ちょっと来なさい」と二人を近くの食堂にひっぱりこんだ。今はどうか知らぬが、そのころ喫茶店はなかった。すわって話をしたければ食堂しかない。平井のやつえらい剣幕で何のつもりだろう、といぶかりつつわれわれもついて入った。席につくと平井は、
「だめだ。君らは根本的に考えちがいをしている。学校で中国の『』は日本語では、あなた』だと教わったものだから、そんなに、『あなたがた』、『あなたがた』を連発するんだろう。大まちがいだ。日本語には二人称はないんだ」と、両人を相手に授業をはじめたのである。
──いいか、日本語には二人称はない。そのかわりほかの語で二人称を示す。「失礼ですが日本のかたでいらっしゃいますか」と言うんだ。失礼ですがは人に話しかける時のあいさつ。「日本人」ではなく「日本のかた」、「ですか」ではなく「でいらっしゃいますか」、これが二人称のかわりになる。「あなたがた」なんて日本語はないんだ。わかったか。そのつぎ。「いつこちらへおいでになりましたか」または「いつこちらへいらっしゃいましたか」と言うんだ。「ここ」ではなく「こちら」、「来ましたか」ではなく……。
 二人の中国青年は、降ってわいた災難にひたすら恐れ入って、ハイ、ハイと神妙にうけたまわっている。われわれはこちらのテーブルで、
「平井はしつこいんだよね」
「いや、教育熱心なんだよ」
「急に教えたってわかるものか」
「そう、むつかしいんだよ二人称は」
などと勝手なことを言いながら、延々つづく授業の終りを待った。
 日本語に二人称がないことはない。君、あなた、おまえ。しかしどれも目下に対するものだから、これから日本語を学ぶ外国の青年にとってはないも同然である。はっきり「ない」と断言したのはさすが平井、「人を見て法を説く」というものだ、とわたしは感心して見ていた。
(後略)



 が表示されなくて画像で作った。こまったもんだ。簡単な解決法はないのか。OSはWin2kだから中国語の繁体文字も簡体文字も表示できるのだが、といってをどうやって呼び出すのか。
 ユニコードの本を買ってきながらまだ導入していないのがわるいのか。なんとか解決しないと。

 2009年、出来るようになりました! 
 上の你は切りぬきである。クリーム色であることからもわかる。すこしずつ前進している。ありがたい。



 こういう平井先生のような熱血漢はいいなあ。この中国人青年はいい日本人に会えたことになる。このときは厳しく指導されてまいったろうが、こんなに親切に正しく指導してくれる先生なんて滅多に出会えない。僥倖である。

 『あなたがた』を糾弾する平井先生のところを読んでいたらWけんじの漫才ネタを思い出した。やはり「君」と「あなた」から東けんじがこんがらがって行き、「あなた、あなた、♪あなあたおとおよべえばあ あなたがた、あなたがた、♪あなたがたさんから雲が出た」と民謡の米山甚句を初めてしまうという十八番だ。テレビでよく見たのは三十五年ぐらい前か。あのころの演芸番組はほとんどぜんぶ見ている。
 米山甚句が出てこなくて、いま階下に行ってむかし民謡をやっていた母に教えてもらってきた。年寄りがいると助かる。



 日本語の人称の問題はむずかしい。これはまた別項で書くことにしてここは手短にまとめると、平井先生がここまで厳しく指導した根底は、日本語を指導する立場として誤った日本語を看過できなかったことはもちろんだが、彼らに「あなたがた」と呼ばれて不愉快だったことが大きいように思われる。私は日本語の間違いよりも、そのことのほうが重要に思えてならない。

 「あなた」と呼ばれると不愉快になる。特に同性にそう呼びかけられるときは戦闘開始のベルが鳴っていることが多い。あれはなぜだろう。かくいう私も、誰かが意見を言い、それに対して、「それはあなたの考えであって」と言うときはもう戦闘モードに入った敵意むき出しの時である。
 ずぼらの論戦嫌いなのでそんなことは滅多にないが、競馬関係者と極力飲まないようにしているのは、この「あなたがた」が思わず出そうになることがあまりに多いからだ。といってもそれは意見の相違ではなく無知と誤解が連発されるからである。「なんでおれはこんなところにいるんだ」と思う場にいてはいけない。



 別の章で、高島さんが「美智子様、雅子様」という呼称に怒っている回がある。皇后、皇太子妃という正規の呼び方があるのにマスコミはなぜそんなふうにするのか。様をつければいいもんじゃない、との論旨だ。これは当然として、興味深いのは次のこと。

そういうと、欧米ではヴィクトリアとかエリザベスとか平気で言うのみならず、道路や船の名前にまでつけています、という人があるかも知れぬ。しかしヨーロッパ人のあの、名前に関する鈍感は、人類としてはよほど特異なものなのである。何もまねをすることはないのだ」の部分。

 そうだよなあ、今回のイラク戦争でも歴代大統領の名がついた戦艦が出てきていたが、ああいうのを見ると彼我の差を感じる。日本の戦艦命名法があんなのの悪影響を受けないことを願う。

 今後、戦闘モードでなく、私が「あなた」を使うことはまずないだろうが、外国人からそう呼ばれることはシチュエーションとして数多くあるだろう。今の私の課題は、そのとき平井さんのように説教できるだけの熱意をもてるか、になる。もたねばならないのである。
(03/5/6)



『タイ語抄』-あなた



 きょう(03/5/7)発売の『週刊文春』で、高島さんがヘンなことを書いていて笑ってしまった。
 何週か前に昔懐かしい歌のことを書いたら、その歌手の娘で同じく歌手にをやっている人が自分のCDを贈ってきたのだという。大雑把に年齢を推定すれば、高島さんの子供時代、青春時代に歌を歌っていた人は、ご存命なら八十代、その娘さんで売れない歌手(失礼)をやっている人は、四十代、五十代か。まあそんな世界だ。
 カラオケはけっこう好きで、一緒に行った学生など無視して、好き勝手に軍歌をがなっているという高島さんだから、世の中のことにはとても疎い。そこがまた孤高の仙人のようでいいのだが(笑)。

 その娘の贈ってきたCDを聞いたら、自分の知らないタイプの歌なのでおどろいて、奇妙な感じがして、というのが今回の話。なにが奇妙かというと、歌の中に「あなた」とか「おまえ」が頻繁に出てくるからだとか。もうこれだけで高島さんがいかに日本の流行歌をまったく知らないかがわかる。だけどなんなんだろう、この高島さんが「まったく知らない歌の世界」って。この娘さん(といってもおばさんと思うが)はなにを歌っているのだろう。ただの演歌なのか、それともシャンソンとかそっち方面なのか。でもシャンソンならいくら高島さんでも「シャンソンであるらしい」とかそれぐらいは言えるでしょ。むかしでいうニューミュージックとかそんな分野? 不思議だ。



 何年か前、「日本の流行歌でいちばん多く出てくることばは?」のようなクイズがあった。ダントツの1位は「あなた」である。次が「なみだ」だったか。まあこまかい統計や調査対象のジャンル等どうでもいい。とにかくもう「あなた」は日本の流行歌の定番だろう。それをまったく知らなかった高島さんはやはりブットンデすごい。

 これは最近書いた「『タイ語抄』-あなた」に通じるので、エピソードとして助かった。高島さんは「あなた」なんて二人称は嫌いなわけである。日常でそうそう聞くものでもないから気にする必要もなかった。ところが歌の中にあふれていたから驚いてしまったのだ。たしかにねえ、歌の中には「あなた」と「きみ」がありすぎる。こんな現象(=日常ではそんなに使われないことばだが歌の中には多いことば)ってのは英語世界にはないだろうなあ。無知なので断言できないが。

 ぼくがカラオケで歌う曲の中に「あなた」は登場するか考えてみる。沢田研二の曲にあるか。阿久悠作詞ですな。「あなただけでいい」とか「「あなたを見失いたくない」「あなたがいたから」とかある。なかにし礼の作詞にも多いか。タイトルからして「なにがあなたをそうさせた」とかやっていた。これはもちろん英語をわざと直訳したようにして仕掛けたものだ。
 日本語には適切な二人称がなく、とりあえずある「あなた」「きみ」「おまえ」等もあまり使われない(=使わずにすむ)のに対し、歌詞は、日本語でもI love youのyouを無視しては作れないということなのだろう。
 日常で使わないことばを歌の中では連発していて、その落差に気づかないで平気で歌っているってのも、けっこうすごいことだ。日本語はおもしろい。

 そう思うと、ズレてるなあと思った高島さんが、じつは首尾一貫した生き方をしているのだと気づく。筋が通っているのはかっこいいね。



 自分の作った歌で「あなた」を使ったかと思い浮かべてみたら、ほんの数曲あった。それは「いろんな歌を作りたい」と志した私が、阿久悠やなかにし礼のような歌を作ろうとした場合だった。つまり、登場して当然である。真似なのだから。心のままに作ったメインの路線にはまったく登場しない。

 それは「あなた」を連発する歌が、レコードを購入する層に購入者と同じ数だけの「假想あなた」を夢見させることを目的に作られているのに対し、私のようなものが個人的に作る歌は、対象となる存在が固定されていて、そんな不確かな「あなた」なんて二人称を使う必要がないからだろう。(03/5/8)


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