騎手と英語




暮れの香港(01/12/16)で日本馬が3勝した。
 この日は日曜日で日本も開催日だった。グリーンチャンネルが香港から中継していらしい。早めのレース、ステイゴールドが勝ったときが日本の最終レースのあたりだったろうか、一階から専門誌記者室のIさんに電話をすると、記者室が沸いていた。
 その電話は帰りに一杯飲もうという誘いだったのだが、I急いで帰ればまだその後のレースがリアルタイムで見られそうだと、Iさんはいそいそと帰っていった。ふられた私は、馬券は負けるわ、飲む相手はいなくなるわでさんざんだった。衛星放送とか競馬中継専門局とかとは無縁なので、私にはあまり関係のない話である。そのレースヴィデオを見たのは一週後の土曜競馬中継だった。
 ステイゴールドの神懸かり的な追い込みもすばらしかったが、一気に抜け出たエイシンプレストン、抜かされそうで決して抜かせなかったアグネスデジタルの勝利もまた味わい深かった。あれは日本競馬の記念すべき日だろう。

そんなある日、ひさしぶりにインターネットの競馬関係をぶらついていたら、香港での勝利騎手インタビューで、四位や福永が英語を話せなかったと、若者たちが大はしゃぎしていた。なんでも英語のインタビューに対し、四位は「グッドフィーリング」だとか言った後、ことばが続かなくなってしまったとか、福永はひとこと「サンキュー」とだけ言い、後は笑顔でごまかしていたとか、そんな状況だったようだ。たっぷりと時間のあったグリーンチャンネルは、そういう部分も中継したらしく、そのことを同世代の若者競馬ファンが、「日本の恥」だとか言って笑いものにしているのである。そうじゃないよなあ、と私はひとりごちた。
 私はアサ芸のコラムで、自分が行ってもいない香港競馬のことに触れるつもりはなかったのだが、このことにはなんともいえない不満を感じ、以下のようなものを書いた。これは02年のAJC杯用の原稿である。



■語学
 香港で勝った日本の騎手が英語のインタビューに応えられなかったと、それを揶揄する書き込みをネット上で見かけた。英語の話せない様子を事細かに描写し、お笑いのネタにしていた。
 香港競馬に遠征する日本人騎手は英語を話さねばならないのだろうか。私はそうは思わない。香港はホスト国である。日本馬が勝ち日本人騎手が日本語を話す可能性があるなら日本語通訳を用意すべきなのだ。それが礼儀である。

 ジャパンカップにおいて日本は通訳を用意している。インタビュアーが日本語で質問し日本語を話せない外国人騎手が困ってしまったというような事態は起きていない。ただし私は常々ペリエ騎手にはフランス語でインタビューすべきと思っている。彼は英語も話せるが、細かな心理はフランス語で話したいはずである。どうにもこの英語至上主義というのは気分が悪い。とはいえ私もその国のことばが話せない場合は英語に頼ってしまっているから、あまり立派なことは言えない。それでもどんなにブロークンでもフランスではフランス語をドイツではドイツ語を話すように心掛けてはいる。

 私は勝った日本人騎手に思いっきりこてこての日本語を話してもらいたかった。「そうやねえ、デッパの悪い馬やさかい、そこにだけ気いつけました。道中もズブくてね、追っても伸びないんですわ。直線で内にもたれときはひやっとしたけど、ま、ハナ差でもね、勝ちは勝ちやからね」と。
 これを場内やテレビ視聴者に詳しく伝えるのは香港の競馬場、テレビ局の仕事である。断じて日本人騎手が悪いわけではない。どうか今回の経験から「駅前留学しようかな」などとは思わないで欲しい。勝者は常に太陽である。衛星には周りを回らせればいいのだ。

 それにしても情けないのはこんなことにはしゃいでいる若者である。ここに書いた意見は私が言うべきものではない。若者こそが「日本語でしゃべれよ、日本人だろ!」と四位や福永を励ましてくれなければ困るのだ。

(以下略)




香港での勝利の一週間後、有馬記念の日、私は友人のYさん、Kさんと西船橋で飲んだ。まだ上記のコラムは書いていない。その日、このようなものを書こうと思っているのだがと、彼らに意見を求めた。私なりに確信があって訊いたことだった。彼らなら解ってくれるだろうと。

たとえば私がかつて競馬の後、毎週のように一緒に飲み、いまは一切出入りしなくなった某競馬評論家とその取り巻きによる飲み会がある。この評論家は香港に観戦に出かけている。彼の飲み会では、彼がまずこう口火を切ったろう。「いやあまいったよ、四位も福永もぜんぜん英語が話せなくてさ、なんだか見ているこっちが同じ日本人として恥ずかしかったよ」と。そして取り巻きがそうだそうだとうなづき、ネット上にあったように、四位や福永の英語を嗤ったろう。そういう感覚の人たちだ。今までさんざん知り尽くしているから間違いない。
 私は彼らと話すたびに、ざらざらした違和を感じ、次第に近寄らなくなっていった。もしも今回そういう場にいたとしたら、私はその評論家のそういう意見に上記のような反論をしただろう。
「そうですか? ぼくはそうは思いませんけどね。日本人なんだから日本語でいいでしょう」と。すると気まずくなる。場が白ける。だから行かないようにした。意見は人それぞれ違っていていい。

YさんとKさんにはぼくの感覚が通じると信じていたので話してみた。二人は商社に勤め、ヨーロッパからの輸入を担当している。特にYさんは、イギリスで学び、英語のみならずフランス語も堪能で、現在はイタリア在住だから、イタリア語も話せるはずである。こういう人はもう突き抜けてしまっているから、若くても私と同じ感覚になっているはずなのである。
 半端な人間ほどどうでもいいことにこだわったりする。相手より有利な自分を見つけて安心したがる。騎手の英会話なんてその典型だ。そんなものどうでもいいのである。騎手が責められるのは騎乗技術だけで十分だ。
 すこしばかり英会話が出来、そのことを自身のよりどころとしているようなヤツは、四位や福永を嗤うことではしゃいでいたろう。くだらんことだ。まったくこの「英会話至上主義」というのは気分が悪い。だがYさんぐらいになってしまうと、そんなことはどうでもいいことだと言えるはずなのである。果たせるかなYさんは、「えぇ〜、そうなんですか!」と驚き、「そんなことを言ってたら、アラビアで優勝したらアラビア語をしゃべらなきゃなりませんよね」と笑った。私にはこれだけで十分だった。

上記のコラムに反感を持つ人もいるだろう。「これからの日本人は英語ぐらい話せなくちゃな」と。「騎手だって外国に出かけてゆくんだから」と。そういうのがいわゆる相性とか肌が合うとか合わないとかの世界である。反射的に「えぇ、そうかな!?」と思った人と私は合わないということである。
 だが私は敢えて繰り返す。今の日本人が持つべき感覚は、ニューヨークの天気予報を英語で流しているFM局をかっこいいと思うのではなく、街中で英語で外人に話しかけられたら、「ここは日本なのだから日本語を話してください」と言うことなのだ。私は街中でそうされたとき、英語で道を教えてやった後、「今度日本に来るときは日本語を覚えてきてね」と言うようにしている。英会話学校があれだけゴールデンタイムにばんばんコマーシャルを流して稼ぎまくっている状況は異常だ。商売が劣等感を刺激するのは常道であるが。

香港の国際レースで日本馬が、日本人騎手が勝ったということは、ひとつのカラを突き破ったという誇るべきことである。なのにすぐそれを「英会話が出来ない」という内側に丸め込もうとする感覚にはうんざりする。田舎の左翼教師でもあるならまだしも、若者たちがである。こういう悪い意味での島国根性は、文明開化の大騒ぎの頃から未だになにも変っていないことになる。
 大嫌いな中国だけれど、行くたびに、英語を話す異形の白人に対して、まったくびびらない姿勢は、かっこいいなあと思う。あれはまさに「大陸的」だ。
(02/2/12)

中国口論「英語」



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