茶花賓館にもCamellia Hotel という洋名が一応はある。めったに通じないが。

 中国人はこまかいことは気にしない。それはもう日常的な動作、操作、言動にも表れている。よくもわるくもあちらは大陸的である。それは「会話」においても同じになる。
 相手に話しかけ、ことばが通じなくても気にせず、さらに一方的に話しかけてくる。最初の頃、それは私が彼らと似たような容貌だからかと思った。が、こちらにことばが通じない、こちらが自分たちと同じことばを話せないと理解した後も、いっこうに気にする様子はなく、相変わらず同じ調子、同じ早さで話しかけてくる。これは不思議だった。

 私がつたない中国語で、「私は日本人です。中国語は話せません」と言うと、やっと理解して、早口で話しかけてくるのをやめる。いままで何回それを経験したろう。同じような容貌なのになんでこいつは自分たちと同じことばを話せないのだろうと不思議そうな顔をしつつ、彼らは話しかけるのを諦める。私は「おれは中国語が話せないんだ。なんでそんなにしつこく話しかけてくるんだよ」という煩わしさを感じつつも、その積極さと物怖じしない姿勢は、なかなかすごいなと思ったものだった。それは日本人にはない感覚だった。もちろんいい意味である。



 島国育ちの日本人は、相手が外国人でことばが通じないとわかるとおろおろしてしまう。そんな状況になれていないからだ。さらにはそれが白人だと、英語であれフランス語であれ、それを話せない自分のほうを恥じる路線に走ってしまう。話せないことに照れてしまう。よく言われる冗談のような実話だが、白人が日本語で話しかけていてもノーノーを連発して逃げてしまう。でもこれはこれで島国根性のいいところであろう。この人の良さと臆病さが日本の文化になっている。

 ことばの話せない私に積極的に話しかけてくる彼らを煩わしいと思いつつ、私は自分にはない彼らの物怖じしない性質をうらやましいと感じていた。悪い言いかたをするなら──私は悪い言いかたのつもりではないのだが、一般的にはこれは悪い比喩になるのだろう──動物的な素朴さだった。興味のあるものには、興味があるから近づいてゆく。ことばを通じさせようとしたが通じないのであきらめる。それで終り。ただそれだけである。

 すくなくとも白人が、日本で、一方的に早口の英語でまくしたて、こちらが英語を話せないとわかったときの、両手を拡げ、「ああ、まいったよ、こいつ、英語が話せないや、どうしよう」という大げさなジェスチャーよりは、彼らの行動を好意的に受け止められた。
 とはいえ、白人のそれも同じように自分に出来ない行為として一目置いている。異国に行き、異国人に自分たちの言語で話しかける。通じない。「ああ、こまった、なんで通じないんだ」と大げさなジェスチャーをする。なんという無礼であろう。どこに行こうと自国のことばが通じると思いこんでいる侵掠者白人の傲慢な思い上がりである。が、ぜったいにそんな失礼なことは出来ない私としては、そういう無礼を一度はやってみたいものだというひそかなあこがれもある。これはまあ、電車の中で痴漢をしてみたいとか、それに類するあこがれであろうが。


 写真は、最近模様替えをした田舎のバス発着所。それまではなかった英語表記が入った。続々とこんなのが作られている。中国は確実に新しい時代に入っているようだ。ただし今のところこういう場所で、英語を必要とする人をひとりも見たことはない。

 中国に持参した「月刊文藝春秋2月号」によると、北京オリンピック開催決定から、中国はいま英語学習ブームなのだという。アメリカの英会話学校が大都市に進出を始めているらしい。北京や上海での、タクシーの運転手が、運転中ずっと英会話のテープを流して勉強していたことや、こちらが日本人と解ると、いきなり英語で話しかけてきたという話が紹介されていた。

 チェンマイで読んだ讀賣新聞には、北京特派員から、やはり同じように中国がいま英語ブームである現状が紹介されていた。なんでも「クレージーイングリッシュ」とかいう某中国人の始めた英語学習法が話題らしく、これは読んでいて笑ってしまったのだが、むずかしいことはなにも考えず、とりあえず英語を大声で叫ぶことから勉強を始めるらしい。みんなでいっせいに「ハーロー」等をひたすら絶叫するらしい。中国的と言えば中国的だ。



 というようなことを書いていたら、またひとつの考えが浮かんだ。雲南の田舎の人たちが、異国人である私に対して平然と中国語で話しかけ、こちらが話せないとわかってもまったく気にしないというのは、よく言えば素朴、悪く言えば田舎者過ぎるから、とも言えるのではないか。

 前記した「白人に英語で話しかけられると逃げだそうとしたり、必死にへたな英語を話そうとし、自分のへたさ加減を恥じてしまう日本人」というのは、平均的日本人ではあるが、それなりの素養のある人とも言える。つまり英語を習ったが話せないという明確なコンプレックをもっている人だ。それがない人、田舎のおばあちゃんなんかだと、逆に白人にも英語にもびびることなく、日本語とジェスチャーで会話を成立させてしまったりする。これはなんどか経験していることでもある。うちの母は聾唖の人と話すのがうまい。あれを見ていると、手話なんてなにも正規の学習法で習わなくても心ひとつで十分なんだなと思う。

「田舎者」と言い「動物的」とは失礼な表現ではあるが、私はこれを尊敬の表現として使っている。中国人は白人に対してまったくびびらない。あれは実にすばらしいことだと思う。それは日本が敗戦国であることとは関係ないだろう。それこそいい意味での「大陸的」な感覚だ。異形のものにたじろぐ繊細さや臆病の感覚を遺伝子としてもっていないのだ。

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 私は泰族の町である景洪に来るとほっとする。そこには私の下手な英語を聞いただけで、たいへんだ外人が来た、見知らぬことばを使っているぞ、どうしようどうしようとおろおろし、逃げ出してしまうフロントの女性がいたりするからだ。その辺に共通のものを感じる。

 一方でまた、昆明のホテルなどで、白人観光客に対してもいつものよう鍵を放り投げ、その無礼を抗議する彼らにたじろぐどころか食いつかんばかりに激しく怒鳴り散らしている中国人ネーチャンに、心の一部で痛快さを感じたりもしている。自分がやられるとたまらなく不愉快なのだが、横柄な白人相手に一歩も引かない小柄な中国人ネーチャンを見ていると、心からその物怖じしないふてぶてしい根性に感嘆するのである。

 オリンピック開催決定を契機とした中国人の英会話ブームが、どのようなものになるのかはわからない。とりあえず、英語も中国語も語順が同じだから、日本人よりは親しみやすいだろう。そしてまた語学学習になによりも大事な「外国人に積極的に話しかける」ということを彼らはまったく厭わないのだから、これまた日本人よりもずっと早く上達するに違いない。
 自分の好きな雲南の田舎町に白人が大量に出現するようになるのは好まないが、彼らに対してどういう態度を取るのか、じっくり見てみたいという気持ちもすこしだけある。



よって


 これはもう。しかもでっかいである。

 なにもかもアメリカ至上主義で、たかが英語如きにおろおろしている日本人から見ると、中国人は実に正々堂々としていてかっこいい。まあこれも斜めから見れば(いや、斜めじゃなくて実はまっすぐなのだが)、相手の立場を考えない雑な性格となるのだが、なんつうか、駅前留学だのなんだのとたかが英語の学校が高価なテレビシーエムをばんばん流しているヘンな国にいるものだから、これには清々しささえ感じる。日本もこうありたいものだと◎。
(02/1/19)




 中国はいま英会話ブームで早速ノバみたいな学校も進出したらしい。
 私は中国人の白人に対してまったくびびらない姿勢を、彼らのよい意味での「大陸性」アイデンティティと捉え、日本人のおどおどした性格と比べてすばらしい民族性と思ったわけだが、もしかしたらそれは「今まで単に白人と接する機会が少なかっただけ」だからかも知れない。今までとは「共産制になってから」という意味である。

 もしも今後中国人が、やたら英語をしゃべりたがり、中国語よりも英語をかっこいい言語として捉えて、今の日本のように歌詞の中にやたら登場させるようになったりしたら、私はそれを東洋人が共通に持つ西洋人へのコンプレックスと解釈し、激しく失望するだろう。失望しつつも中国人も自分たちと同じ東洋人だったかと安堵を覚えるかも知れない。
 そういう安堵を覚えたいと思う気持ちもある。もう一方では、せめて中国人には、白人などにまったくびびらない姿勢を今後も保って欲しいとも願っている。(02/10/12 景洪)







私の場合、いくらか中国を知っているといっても雲南省だけだから、以上はあくまでも昆明や景洪で経験したことに基づいている。そこでは英語などまったく通じなかったし、そしてまた通じないことにも平然としていた。事実である。

 03年2月、私は妻の査証を取得するため首都・北京に赴いた。一千万都市の大中国の首都であるから、そこではこういう英語環境に関してもまったく異なった事態が出現すると思っていた。上記の「北京上海は英語ブームでうんぬん」という記事を私は100パーセント信用していた。

 しかし現実には、北京でも、すくなくとも私の行動した庶民的な世界では、英語はまったく通じなかった。マクドナルドが通じなかったまではいいが、国際線のチケットを売っているスチュワーデスのような格好をした航空会社の女子職員までまったく出来ないとなると、私は英語の信奉者じゃないからそのことには不満はないけれど、あの週刊誌の報道はなんなのだろうと思ってしまう。

 それでも北京では、云南とは異なる明らかな変化があった。私の接した人たち、マクドナルドの従業員たちに、「英語が話せない、困った、あんたいきなよ」という態度が見えたのだ。今までの田舎なら、そんなことはなんの関係もなかった。「あんたなにしゃべってんだい。あんたの言ってることが全然わかんないよ」と街のおばさんはいささかのてらいもなくノンストップで話しかけてきたのに、北京では違っていた。まるで日本のように、「たいへんだ、異国語だ、話せない、関わりたくない」という姿勢が見えたのだ。つまりそれが、よくもわるくも都会的な洗練というものなのだろう。ここでは異国人に対して共通語の英語を話せないことを恥ずかしいと思う感覚があるのだ。新鮮な発見だった。

 その意味では、間違いなく中国人もまた西洋コンプレックスのあるアジア人ではあった。うれしいんだかかなしいんだか。
(03/3/12)



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