2010
4/10

●女子校生コツコツ書き──原因解明!

 閑かな図書館。向かいの席から小鳥が梢を突っつくような音が聞こえてくる。「コツコツコツ」「コッコッコッ」、時折「カンカラコーン」という音も混じる。これは判る、ペンを机に抛り投げているのだ。その前の「コッコッコッ」もペンの音なのだろうが、なんなのだろう、これはいったい。女子校生である。

 さりげなく覗くと、ボールペンやシャープペンシルを垂直握りして書いていることで起きる音だとわかった。紙は1枚である。ルーズリーフから1枚だけにして書いている。
 ということからわかるのは、これは意図的にやっていることであり、彼女にとってはそれが普通の形態であり、そういうふうにして書くことが快感なのだとわかる。いわば日常的なBGMだ。
 それをしているのは彼女の他にもおり、当然自分が立てている音だから、他人のそれも気にならないらしい。

 私にとって字を書く音の擬音は「サラサラ」「スラスラ」だったが、いまは「コツコツ」らしい。それが気になるのは世代の差だ。ノートに書くならこんな音は出ない。意図して出している快感の音なのだから消えるはずもない。しかし当方にはそれがやたら気になる音になる。

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 テレビで観た作詩家の垂直握り

 深夜、テレビでドキュメントらしきもの偶然観た。作詩家だという二十代後半ぐらいの女の日常の話で、今風のことばを得るために、ファミレスや喫茶店で周囲の話に聞き耳を立てるというものだった。これはもうずっとまえに松任谷由実がそういうことをしていると話題になったし、目新しい話ではない。私にとって新鮮だったのは、その女はそういう場で聞き耳を立て、メモ用紙に印象的なコトバを書いたりするのだが、そのペンの握りが上記の女子校生と同じ垂直握りだったのである。こいつも机に向かったら「コツコツ型」と音を立てて書くだろう。
 つまり、図書館で観た女子校生のそれを、私は近年の「新種」と思ったわけだが、もうそれなりの「歴史」があるらしい。ということは、いわゆるオフィスに、そういう握りで、そういう書きかたをしている人種が、かなりの数いるということなのだろう。アルファベットをぜんぶ書くことの出来ない「大卒」がいるのと同じように。まあ「ペンの持ち方」なんてのは本人が最も持ちやすいように、書きやすいように持てばいいのであって他者が口出すことではないのかもしれない。しかし我が子の箸の持ち方にこだわるように、どうにも私には納得できない出来事だった。

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 閑かな図書館でもそれなりに音はする。ドアの開け閉めや椅子を引く音。あれこれあるがそれは気にならない。いま私が困っているのが「ひそひそ声会話」と、この「コツコツ音」だ。

 街の騒音の中では気にならない、というか聞こえない「ヒソヒソ声会話」というのが、閑かな図書館ではこんなに気になるとは思わなかった(笑)。
 でもこれはまだいいのだ。PCやiPodの音楽で消せる。

「コツコツ音」は意外にやっかいで、なかなか消せない。クラシック音楽を音消しで流していても、それには曲中にも曲間にも静音の間があるわけで、そのときしっかり「コツコツ」してくる。

 ただこれには簡単で決定的な解決法がある。
 私の通う図書館には、勉強席として、「ひとり席」「ふたり席」「長机席」があるのだが、高校生は主に長机にすわる。音はほとんどここから発せられるので、「ひとり席」「ふたり席」が確保できれば、「コツコツ」からは逃げられる。この確保がまたたいへんなのだが……。

2010/5/5
●ビデオ三昧の年輩者

──AV席の人びと──

 私が通う新築の大きな図書館にはAV視聴席というボックス席が五席ある。むろんボックス席とはいえ白木の格子で区切られているだけで中は見える。幅二メートルほどの机に液晶テレビが載っている。視聴はヘッドフォンだ。椅子は二脚ありふたり一緒に見られる。いつも満席だ。年輩のひとが多いように感じていた。夫婦で観ている人もいたように思う。AVに興味がないのでしっかり観察したことはなかった。



 春先のある日、私は一度だけここを利用した。そのときの話。
 毎日図書館に職場のように通っていると、同じ場所にすわって同じことをしていることに厭きていろんなことがしたくなる。部屋で作業しているとデスクトップから離れて雑誌を読んだりゲームを始めたりしてしまうので、そういうことをしないよう強制的に図書館に通勤! と決めて実行しているのだが怠け心はどこにいても湧いてくる。

 その頃私は四階席で受験生達と一緒に朝から晩まで毎日文章書きに励んでいたのだが、次第に二階に降りてスポーツ紙や雑誌を読む回数が増えつつあった。怠け心である。受験生達の中には気持ち良く机に突っ伏して寝ているのもいる。中にはまるで眠るために通っているようなのもいる。さすがにそれをしたことはないけれど、机を離れてサボりに行く回数では私は彼ら以上だった。学生である彼らは「机を離れてはいけない」という意識があるのか、私のように頻繁に机から離れることはしない。その代わり寝るが(笑)。
 そしてとうとうもっと何か遊ぶ物はないかとAVにまで手を出すことになったのである。寝てばかりいる連中を哂えない。



 私はあまり映像に興味がなく若い頃からさほど映画を観ていなかった。話題作を友人と一緒に観た程度である。それこそ映画館に行くのは年に十回ぐらいだった。一般世間では恋人同士のデートの場として映画は必須らしい。私は若いころ何人かの女とつき合ったが一緒に映画を見に行った経験がほとんどない。女はつまらなかったのだろうか。そういう不満を言わない女を選んでつき合ってきた気もするが。音楽活動に夢中で映画どころではなかった。

 実際の映像を見るより本を読んだり音楽を聴いたりして映像を想像する方が好きだった。そういう自分に納得していたが構成作家をするようになってから、それではよくないのではという危機感が芽ばえる。「語れるだけの映画智識を持っていない」という一種の劣等感である。
 80年代にレンタルヴィデオ屋が出現したことをきっかけとし、缺落している映画智識を得ようと20年近く熱心にレンタルして映画を観まくった。2000本ぐらい観たけれどそれで満腹したのか今ではまたすっかり観なくなっている。
 部屋にも観ていない映画DVDがいつしか50枚以上溜まっている。観なければならないという気持ちは今もそこそこあり、話題作が「地上波初登場」とあったりするとテレビも録画する。それも観ないままHDDレコーダーの中に溜まっている。映画好きには信じられないことだろうが、私は映画を見ていると「もっと今せねばならないことがある」と思ってしまい、なにか別事をしたくなってしまうのだ。その別事とは他愛ないことであり、映画好きは「この作品を観た方がよほど有効な時間の使いかただ」と言うかもしれない。私からすると一日に何本も映画を観ている人というのはよほどの閑人である。映画は漫然としていても観られるが本はそうはゆかない。一日に何冊も本を読む人はすごい。でも映画にそれは感じない。



 そんな私だから観たい映画などあるはずもない。まして図書館にあるのはいかにも公共施設の図書館らしい優等生映画ばかりである。なのに観ようと思ったのは、あくまでも「AV席を体験する」という理由で文章書きをサボりたかっただけなのだ。こういうズブさ(これは競馬専門語かな?)は加齢と共に出て来るのだろうか。かつてなかっただけに不思議な気もする。



 利用法は二階席で係員にAV席を利用したい旨を申しこみ、利用できる時間とブース番号をプリントアウトした紙をもらう。その時間になると受けつけまで行き、ヘッドフォンとリモコンを受けとる。

 早速ここで驚いた。この時点でもう「予約がびっしり」だったのである。
 開館の午前十時に入館し、四階の席で原稿用紙に向かっていた私は、早くもサボり根性が出て、雑誌閲覧席やAV席のある二階に降り、スポーツ紙や雑誌もあらかた読みつくしているし、たまには変ったことをしてみようとその申しこみをしてみた。
 すると五席あるボックスはすべて午後三時過ぎまで予約で一杯だった。四時間待ちで午後三時から観られたのだが、そのとき確認すると(それらはタッチパネル式の図書館備えつけPCで確認できる)、さらにまた私の後も夕方まで予約がびっしり入っていた。



 それで知ったのは、「図書館で映画を観るために毎日通いつめている常連が数多くいる」ことだった。図書館でも一部のそういうひと専用にならないよう連続で予約は出来ないようにしている。一回の予約時間は映画の内容により二時間から三時間ほどだ。限られた常連が一本の映画を見終ると次の映画を選んでまた予約する。そういう繰り返しで流れているようだった。つまり五席のブースが午前十時から午後六時までびっしりと二時間から三時間単位で予約されていて、その分割数は合計20ほどだが、それをしているのは五、六人(五、六組)のごく限られた人たちということだ。私はそういう図書館名画鑑賞会?の流れに割りこんだ闖入者らしく、七十前後の夫婦からちょっと睨まれた。彼らが一日平均3本の映画を観るとして、新参の私が突如そのローテーションに割りこんできたので、今日観られる映画が一本減ったのかも知れなかった。

 ということで改めて観察すると、年輩者の男性ひとりと、年輩の夫婦が観ているというパターンが多かった。年金生活者であろうか。悪い言いかたをするなら、ここは限られた常連年寄りの暇潰しの場所だった。
 私もいい年のおっさんではあるが、もっともっと年寄りの、歩くとよれよれするようなひとたちが一日中屯している場だった。そこにいることはさすがに恥ずかしく、怠け心旺盛な私も二度とこの席には近寄らなかった。

 怠け心であるからして、ゆったりのんびりせねばならない。なのにここにいるとすこしばかり惨めになる。人生とは何か、残された時間は、とか考えてしまう。これではくつろげない。勉強になりました。

10/04/04  

●AV席レポート

 初めて利用したAV席の様子を書いたので、とりあえずそのAV席のレポート。

 このとき大相撲が開催されていた。私は毎日録画予約し、帰宅してから見ていたが、ここでリアルタイムで見られるのかどうか試してみた。あれこれやってみた。見られないようになっていた。ここでテレビが見られたら暇人の年寄りやホームレスが朝から晩までこの席に居すわるようになる。その対策なのか。



 まあ見られたとしても見なかったからそれはどうでもいい。ほんとうに見たいのならワンセグの携帯も持っているし、いまはgooが中継しているのでネットでも見られる。
 相撲ファンして、その日注目の一番だけをリアルタイムで見てしまうことはとてもよくない。帰宅してからの2時間の相撲観戦が気の抜けたものになってしまうからだ。
 相撲中継はその大一番に向けて盛りあがって行く。4時から6時までの2時間、ひたすらそれだと言ってもいい。なのにその部分だけ、推理小説で言うなら犯人がバレる部分とそのトリックだけ知るようなことはしてはならない。
 だから私は図書館のテレビで見られるとしても見なかったのだけれど、見られるかどうかは真剣に試してみた。テレビ電波は受信できないようになっていた。



 液晶テレビやヘッドフォンの質はまあまあ。液晶テレビは何インチぐらいだろう。24インチぐらいかな。ヘッドフォンはオーバーヘッド型。たいした品ではない。すこし煩わしい。ノートパソコンから音楽を聴くために持参している自分のインナータイプを使おうかなと思ったら、しっかり「持参したヘッドフォンを使わないでください」と書いてあった。まあ見つかって注意されることもないだろうけど、巡回している係員に見つかったら気まずいので自重。小心者。



 映画DVDを観るまでの準備はけっこう面倒だった。機械大好きの私には液晶テレビの電源やヘッドフォン接続、リモコンの扱い等なんら障害はなかったが、苦手なお年寄りにはたいへんだろう。
 受つけでDVDとヘッドフォンとリモコンを受けとるとき、懇切丁寧な説明書が閉じてあるバインダーを渡されるけれど、こういうものがあれば出来るというものでもない。テレビの入力はテレビ、ビデオ1、ビデオ2とある。テレビは受信せず映らないようになっていて、DVDはビデオ1で観る。この種の複雑リモコンをお年寄りが楽々と使えるとは思えない。

 ヘッドフォンも二人で観られる仕様だからテレビの接続口ではなく、そこから配線された獨自の二人用の接続器(アルミの小箱。特製か?)がありヴォリュームもそこで調節するようになっている。世の中にはビデオ予約すら出来ない壮年(老年ではなく)も多いそうだ。彼らはかなり戸惑うだろう。使いこなせないかも知れない。しかしなんの問題もなく、いかにもそういうことが苦手そうな老夫婦が並んですわり一緒に映画を観ているということは、彼らがいかに通いなれ操作慣れした常連かということだ。最初の頃は係員の手を煩わせたことだろう。



 これもまた考えた末の対策なのだろうと思ったのは椅子。
 この図書館の椅子はみな最初は白木の(もちろん合板だけれど)硬座だった。デザイン的にはかっこいいが硬くて尻が痛くなる。いわゆる典型的な見た目はいいが実用的ではない製品。
 過日、やはりサボりたくて何の役にもたたない図書館パソコンを触っているとき、デフォルトでホームページに設定されているここの図書館のページに、利用者からの意見とそれに図書館側が応えるコーナーがあることを知った。いろんな要望があり、図書館側が叮嚀にそれに応答していた。

 設備に対してあまり不満を感じない私ですらどうにもこれはと思ったのだから、この椅子に関しては相当の抗議があったと思われる。そうして実際、その硬座の椅子は徐々に軟座に替えられつつある。固定式の三人席のものなどは予算の都合もありしばらくは使用されるようだが、二階三階の閲覧席にも軟座が増えてきた。これはもう利用すればすぐに判ることだが、まったく違う。思えば小学校から大学までずっとこの硬座だった。よく我慢していたものだと感心する。今でも中国ではいちばん安い席は長距離列車でもこれだが、つらいだろうなあ。さすがに乗る気になれない。



 AV席の椅子はこの硬座なのである。出入り客が多く、短時間の閲覧が多いスポーツ紙や雑誌の閲覧席でさえいくつかの軟座が配されたのに、最低でも二時間は籠もる利用者の多いここが全席硬座というのはちょっと不自然だ。しかしこれは係員のあいだでそういう問答があったのではないか。軟座の椅子を導入して順次硬座と交換して行くとき、どこの椅子を交換すべきかとなり、そのとき長時間利用者の多いAV席は真っ先に候補に挙がったろうが、現実を知っている係員から、あそこは限られた人間が居すわっている場所であり、する必要がない、むしろその傾向を助長しないためにも硬座のままがいいのでは、という意見が出たような気がするのだ。実際、ほんとに限られた利用者が毎日居すわっている場所なのだ。私が、そういうひとりに思われるのは恥ずかしいと逃げだしたぐらいに。

 その効果はあるように思う。暇な老人──といっても充分に脂ぎったタチの悪そうなのが多い。枯れた上品なタイプは見たことがない──が、その固い椅子の上で、胡座を組んだり、尻をズラして浅く腰かけ、足を伸ばしたり、あれこれしているのが目につく。固い椅子で二時間の映画を観るのはそれなりにキツいのだろう。私も一度だけ体験したが、もう懲り懲りである。たしかに板張りの固い椅子で2時間はキツい。

 彼らがどこまで熱心な映画ファンなのか知らないが、あれで軟座にしたらもっともっと熱心に予約して居すわるだろうし、それこそ眠りこける場にするかも知れない。だからこの席が硬座なのは、やはりよいことのように思う。恐らく彼らから軟座にして欲しいという要望は出ているのだろう。



 ところで、そのただ一度の映画鑑賞だが、私の選んだのは「ショーシャンクの空に」だった。もちろんDVDになったとき新作で見ている。私が「レンタルヴィデオで映画を見まくっていた時期」の作品である。賞は取れなかったが名作の誉れ高いいい映画だ。
 だがおそろしいことに、というかすばらしいことに、脱獄するというおおまかな筋と結末以外はほとんど忘れていて、新作を見るかのように楽しめた。忘却とはなんとすばらしいのだろう(笑)。

 第一に私はこの作品の主役を白人のティム・ロビンスだと思っていた。しかしアカデミー賞のノミネートなどでもわかるように主役はモーガン・フリーマンだった。観ていて、「ああ、そういえばこんなシーンがあった」と覚えていたのは「フィガロの結婚」が流れるシーン。これは印象的だった。もうひとつは脱出した主役(じゃないのか)がきらきらと輝く銀色の激しい雨に打たれるシーン。これは感動ではなく「これってスタジオ撮影だろうなあ」と雨のわざとらしさに思ったこと。今回もまた同じシーンで同じ事を思った。感想ってのは変らないものだ。それと木の根元に埋められている宝箱をあけるシーン。要するに後半、というか三分の二ぐらいが流れてから、あれやこれや思い出してきた。それは前半は初めて観る映画のように新鮮に観られたということで、いいことかわるいことかと考えると、やはりいいことだ。忘却はすばらしい。

 この年のアカデミー賞は「フォレスト・ガンプ」。あと、「スピード」も同年公開だったようだ。みんな見ているけど年度なんてもう覚えていない。



 その後も部屋にいるとき、まだ見ていないDVDやHDDレコーダのなかの録画した映画に手を伸ばしてはいない。やはりあれは図書館の中で怠けたい、なにかすることはないか、と探した末の映画鑑賞だった。

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《追記》

 AV席の予約は午前10時の開館から午後6時までびっしりなのだが、なぜか午後8時まで開いているのに、6時以降はなかった。帰宅して食事するのだろう。もう午後8時には寝るのか。年よりの夜は早い。なんかみょうにそれがおかしかった。
   


 
   

 





   
   
   
   





この壁紙はhttp://hide.kanari.info/より拝借しました。
感謝して記します。

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