2001~

《フォントのこと》

 上の「いくつかの図書館で見聞したことをあれこれと」は、愛用している「教科書体」というフォントである。100以上のフォントをインストールし、気分次第、文章内容で使い分けているのだが、サイトで表記されるときは一様に愛想のない明朝体かゴチック体になってしまう。しかたのないことではあるが残念にも思う。
 それで小見出しを教科書体のGIFにし、左端の「図書館話」は康印体で作ってみた。
 私と同じフォントをインストールしているひとには同じように表示されるらしいが、有料のものであるし、なかなかそこまでするひともいない。きれいに表示されている自分のPCと、現実のインターネット上のサイトを見くらべると落胆する。なかなかインターネットも思うようには行かないものだ。

  《眠る高校生》

 ここのところ通っている図書館でいちばん気になっているのは「机に突っ伏して眠る高校生」である。
 受験生なのであろうか、放課後図書館に来て勉強しているぐらいだから生真面目なこどもなのだとは思う。制服姿の女子が多い。新築のとても環境のいい図書館なのでいつ行っても混んでいる。

 部屋でも図書館でもやることは同じなのだが、気分転換にとノートパソコンをもって出かけることがある。午後に行くと、ひとり用に区切られたスペースは満員ですわれないことも多い。長机に一列4人ほどですわれる席は空いているのだが、寝ている高校生の隣にすわる気にもなれず、閲覧席の長椅子で雑誌を読むことになる。PCバッグに入れて持参した重いDellは開かずのままだ。

 ひとり用の場所でも長机でも、突っ伏して寝ている高校生が多い。男女別で言うと、女の方が多いように思う。と書いて気づいたが、受験勉強をしていると思われる男女で、男の制服姿は見たことがない。女は圧倒的に制服姿が多い。ということから考えると、女は高校生、男は浪人生と考えるのが妥当か。いきおい制服姿の娘が目立つことになる。それともこのへんの高校は私服なのか。ならなんで女は制服なのだろう。

 私が行ったときにもう机に突っ伏して寝ていて、しばらく後に見かけたときもまだ寝ているのもいる。何しに来たのやら。5分ほど寝ていたが、いかんいかん、こんなことではいかんとばかりに頭を振って、勉強を始めるのもいる。私のすわっているひとり用スペースの前席が空くと、やっと空いたとばかりにいそいそと着席する女子校生。おお、やる気満々だなと好ましく見ていると、すわるなり早速突っ伏して眠り始めたりする。どうもそのへんの感覚がわからない。

 睡眠時間を削って一所懸命勉強している連中なのだと思う。好意的に捉えている。図書館を一歩出ると比ぶべくもない軽薄なのが溢れている。ここにいるのは真面目な少年少女なのだ。
 しかし私も高校生のころ、いちばん真剣に勉強をしていたころ、睡眠時間3時間ぐらいで生きていたが、こんな形で、こんな場所で寝たことはない。そこが不思議なのである。



 思い出すのは兄のことである。
 私の兄は生真面目な努力型で、一所懸命勉強するが、その割りには成績は伸びない、というタイプだった。どこにでもよくいる。
 兄が高校生のころ、深夜に母が兄の部屋を覗くと、兄が机に突っ伏して寝ていて、母がもう寝ろと兄に言ったという話がたびたびあった。兄とは5歳ちがうから、当時の私は小学生だったことになる。
 高校生になって私もやっと勉強の面白さを知り、夢中なって励むようになる。でも兄のようなことはなかった。深夜、時には明け方までやったが、眠いと思ったら寝たし、いつのまにかうとうと、というのは一度もなかった。

 いま、図書館で机に突っ伏しているのは「兄型」の娘たちなのだろうか。努力はするがあまり伸びないタイプという。そういうタイプの兄だったから名のある大学には行けなかったが、生真面目な努力型として営業マンとしては成功した。図書館で寝ている娘達の前途も暗いわけではない。



 私はこの頃、以前は侮蔑していた楽しみをひとつ知ってしまった。侮蔑していたのだから今それをしていることはとても恥ずかしい。恥ずかしいけど気持ちいいので書く。
「テレビを見ながら寝ること」である。
 亭主がテレビを見ながら寝てしまった。女房がテレビを消す、すると亭主は決まって言う。「見ていたのに」と。寝ていたくせに。
 兄や姉の家でも、外国で世話になった赴任している友人の家庭でも目にしてきた。
 私はそれをしたことがない。上記の勉強と同じく、眠くなったらテレビを消して寝るタイプである。私からすると、何度もそれを繰りかえす男は信じられない存在だった。なぜそのようなことをするのか理解できなかった。

 なのについに、とうとう、この齢になって覚えてしまった。ほろ酔い機嫌でテレビを見ている。眠くなってくる。いつものよう、今までのよう、きちんとテレビも電灯も消して、ベッドに行って寝ようと思う。でも朦朧としたまま、そのままうとうとする。起きなきゃ、と思う。時計を見る。長時間眠ってしまった気がするが、時計的には30分も経っていない。テレビを消さなきゃ、電灯を消さなきゃ、電気代がもったいない、なんて感覚も浮かぶ。でもテレビを点けたまま、電気を点けたまま、うとうとする。これがこんなに気持ちのいいものだと初めて知った。娯楽だとするなら、最高に安あがりの快楽である。あの「いかんいかん、眠ってはならない」と思いつつ睡魔に誘われる瞬間はなんとも言い難い。

 私は堕落したのか。だらしなくなったのか。まあ誉められたことではないから、そうなのだろう。
 受験勉強をしつつ、いつのまにか机に突っ伏して寝ているという兄を、私は長年気の毒に思っていた。机に向かいつついつのまにか眠ってしまうとは、なんとだらしないひとだと心の一部で軽侮しつつも、成績は伸びないものの、そこまで懸命な努力をしているのだと憐れみつつ尊敬もしていた。
 いまはちがう。彼は高校生の時からこんな贅沢な快感を楽しんでいたのである。なんちゅう快楽主義者だ。



 図書館の机に突っ伏して眠る女子校生を見て、そこまで毎日睡眠時間を削り、必死の勉強をしているのだと同情するひともいるかも知れない。
 そうではない。あれは最高に気持ちいいことをしている快楽の絵図である。

08  
《図書館のホームレス》

 それを初めて知ったのは、田舎暮らしのとき、水戸の県立図書館だった。2002年ぐらいか。
 薄汚れた風体と、手にしたいくつものビニール袋からホームレスだろうと思った。後に図書館はホームレスの天国だと知り、なるほどと納得するのだが、そのときの私は初めて目にするものだから、浮浪者(ホームレスに馴染みがないのでこれにする)なのに、これほど図書館が好きとは、よほどのインテリなのかと思った。冗談のような本当の話である。

 冬だった。寒かった。図書館は暖かく、スポーツ紙や雑誌もたっぷりある。浮浪者にとって図書館が居心地のいい場所なのだと気づくまで時間は掛からなかった。そう思って周囲を見ると、あちこちに何人もいるのだった。今までそれを知らなかったのは、私の通っていた東京品川区のいつも行くちいさな図書館、荏原図書館や源氏前図書館には、そんなひとはいなかったからだ。
 水戸という地方都市にも段ボール箱で眠る浮浪者はいるのだと知った。
 午後八時の閉館になり、私はクルマに乗って田舎の家まで帰る。彼らも紙袋や傘を手に図書館を出る。どこに行って眠るのだろうと胸が痛くなった。翌朝、また午前10時の開館時間に出かけると、しっかりと彼らもまた来ているのだった。



 いま通っている図書館にも毎日やってくる。遠目では判らないが、近くに来るとすぐにわかる。まず、やはり、薄汚れている。見た目はそこそこでも、風呂に入っていないので垢染みている。そして彼らの定番である、ビニール袋、紙袋を複数手にしている。

 困るのは臭いことだ。たぶんそれは気にするほどのものではないかもしれない。私が人一倍鼻が利くのだ。PC雑誌やオピニオン雑誌を夢中で読んでいても、その臭いで私はピクンと気づいてしまう。すると近くにそういうひとがいる。一度気づくと気になってならないから場所を変る。さいわい大きな図書館なのでそれには不自由しない。気を遣うのは、彼が来たから私が席を替ったと思われないことだ。隣に彼らがいても平気なひとも多いようだから、これはやはり私の鼻が利きすぎるのだろう。

 生きるってなんだろう。いつも考える。私は浮浪者になっても生きていたいと思うだろうか。
 自死するように思う。そうではないのか? それはまだ本気で死ぬ目に遭っていないから言えることなのか? 図書館にはたくさんの本があるが、このことの答はない。
08  《パソコン用専用席》

 私の通う新築図書館には「パソコン専用席」がある。電源もあり、インターネット接続もできる。ありがたいことである。便利すぎて申し訳ないぐらいだ。新築だからである。旧館にはない。

 しかもそこには「社会人優先席」があり、「学生の方はご遠慮ください」と書いてある。図書館の机と椅子席の利用者は圧倒的に高校生と受験生(推測)が多く、夕方から来た社会人は利用できないことが多い。こういう心遣いはありがたいものだ。もっとも私は昼から行くのであまり関係ないけれど。

【後日記】 図書館には利用者との意見交換がある。それらが図書館ホームページにまとめられているのを知り、読んでみた。すると、尻が痛くなる木の固い椅子ばかりだったのが(デザインはいいが実用的にはひどいものだった)、一部ではあるがクッション附き椅子に代わったのも、そういう利用者の苦情からだと知った。だからきっとこれも図書館の「心遣い」というより、社会人から「学生が占拠していて利用できないではないか」という苦情から生まれたのだろう。

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 かつて一年に一度、二年に一度は最高級ノートパソコンを購入していた私だったが、いまは安物のDellを使っている。理由は金がないからだ。ただこんなことをするようになって、かつていかにもったいないことをしていたかも痛感している。日進月歩のパソコン(特に自作デスクトップのようにパーツ交換の出来ないノートパソコン)は、安物を毎年買い替えるのがいい。これがベストである。高級品を買って長く使おうという発想は不向きだ。クルマなんかとは違う。30万円以上するノートパソコンを6台も買い、みなゴミにしてきた身としては、しみじみそう思う。
 でももしも私がたっぷり金があったら、やはりかつてのように高級品ノートパソコンを毎年買い替えるだろう。だから今安物を使っている理由は、パソコン使用に関する考えかたを改めた、というよりは単に金がないから、になる。

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 安物Dellノートはやたらファンがうるさい。閑かな図書館のパソコン席。横に5人ほど並んで作業していると、私のだけが「ウーン」とうなりだす。恥ずかしい。電車の中で我が子が泣きだして、周囲からうるさいなと睨まれたらこんな気持ちになるのだろう。

 2ちゃんねるのパソコン板には、それぞれのパソコンのスレッドがある。そのDellの安物ノートパソコンのスレを見つけた。みなファンのうるささに悩み、しかしこれぐらいしか買えない我が身を哂いつつ書きこんでいる。

 苦笑しつつ、同病相憐れむではないが、そんな彼らに親近感を持ち、つい「先程図書館でDellを使っていたが、私のだけファンの音がうるさく恥ずかしい思いをした」と書きこんでしまった。
 するとすぐに「ファンの音以前に図書館にパソコンを持ちこむ己の人格を恥じろ!」と書きこまれた。

 思わず、「パソコン専用席なのだから問題はあるまい」と反論しようとしたが、それをしたら2ちゃんねるに染まることになると思い留まった。さすがは悪意の巣窟の2ちゃんねるである。いい勉強になった。以後二度とそこにはちかよっていない。

 09  《よくわからん女子高校生》

 夕方になると一気に高校生が増える。いやそれ以前に平日の昼間、制服姿で図書館にいる高校生ってなんなのだろう。女子だが。あれは不思議だ。サボリなのか。

 学校の帰りに図書館に寄るぐらいだから真面目な子なのだろうとは思う。一所懸命カリカリコツコツとボールペンの音を立てつつ学んでいるのも多い。今日近くにいた娘は異常な速さで電卓を叩きつつ数字を記入していた。あれは何の勉強なのだろう。簿記かなんかか。電卓早打ちは尋常ではなかった。わからん。

 しかしなんだかわからないのも多い。今日隣に来た娘は、ドスンと机の上に大きなバッグを置き(礼儀知らずである)、そこからノートや教科書を取りだしたが、その後はケイタイを取りだしてその画面をじっと見ていたり、けっきょく何もせず1時間ほどで切りあげていった。こういうタイプは多い。図書館に来るのだから「勉強せねばならない」とは思っているのだろう。でも元々嫌いなのだ。やらねばと思っている。でもつまらない。やる気にならない。時間だけが過ぎて行く、というパターン。

 このパターンの女子校生はよくいる。いかにもやる気満々のような形でやって来てすわるのだが、カバンの中からいろいろなものを取りだしたり、ケイタイをチェックしたり、もそもそやっていたあと、いきなりガバとふせて寝たり(笑)、でもそれも10分で起き上がったり、けっきょくは1時間もいないで席を立って行く。なにもやっていない。私は読書でも勉強でも最低でも3時間はその席でがんばるから、ひとり40分程度で次々と隣席が替わったりする。

 なんだかなあ。リッパなことを言える立場じゃないが、図書館で1時間も集中できない少年少女は、なにをやってもダメだと思うよ。
 09  ●胡座を掻く若者?

 若者なのである。そいつは最初、アメリカ人がよくやるように机の上に脚を上げて本を読んでいた。いくらなんでもこれはひどい。さすがに見かねた係員がやって来て注意する。脚を降ろさせた。

 するとその後、椅子の上で胡座を掻いたのだ。これは年を取るとそうなり、私も掘りごたつ形式の居酒屋に行くと、しばらくすると胡座を掻いたりしている。齢を取って股関節がどうのこうのとキチンと理由があるらしい。でもそいつは二十代半ばぐらいだった。

 隣を通るとき読んでいる本を見た。ロボット系の図鑑だった。いわゆるオタクであり、勉強ではない。机の上に脚を上げるのは自宅での癖なのだろう。いろんなのがいる。こういうのが隣に来たら席を移るようにしている。いやいつも混んでいて席を移る餘裕はないので出るしかない。
 隣人がまともでありますように、というのはいつも図書館で願うことだ。
09 
◎雑誌を借りる


 図書館で雑誌を借りる価値に気づき感謝している。今まで気づかなかった効果だった。図書館で借りる本は、読み過ごしてしまった名作や、すこし気になるが買う気にもならない話題作とか、図書館でしか読めないような珍作とか、そんなものに限られていた。

 ここのところかつて馴染んだ雑誌を数ヵ月遅れで読んでいる。楽しいものだと知った。
 『文藝春秋』『諸君!』『正論』等は本屋で立ち読みし、興味のあるテーマだったら購入する。「小説現代」「オール読物」あたりも立ち読みでチェックするし、月後れで借りるようなことは以前からやっていた。
 それらとももうすこし縁遠いものである。たとえば「野性時代」だ。

 角川書店の出しているこの月刊誌と私は馴染みがない。今回借りてきて読んだら新鮮だった。ぜんぜん知らない世界が拡がっていた。世から遅れているのだが、それはまあ遅れまいともしていないからどうでもいいのだが、自分の知らない世界の人気作家とかを知って勉強になった。出版社は露骨とも言えるほど自分達の売りだそうとしている作家を持ちあげて特集しているから、まるで藝能雑誌を読んでいる感覚に陥るが、その分徹底して特集しているので、不勉強な身にはありがたい。

「小説新潮」もなぜか「オール読物」と比べると縁が薄かった。
 大好きな河口俊彦さん(将棋の棋士であり抜群の文筆家)が連載しているのを知らなかった。河口さんは将棋雑誌の棋戦解説は後輩に譲り降りてしまったのだが、こういう形ですばらしいものを書いていると知る。私の借りた号では、「米長名人に羽生が挑戦する年のこと」を書いていた。中原、谷川のことを交えて。おもしろかった。最高だ。これは単行本になったら買う。今からこの「小説新潮」のバックナンバーを借りに行くところ。河口さんの連載を目的に。リミットがあるので2冊しか借りられない。
 図書館は楽しい。

 願うなら、あの「何をしたいんだかわからないもごもご女子校生」が隣にすわらないことを祈る。
 
●写真を撮りたいのだが


 せっかく図書館に来ながら机に突っ伏して寝ている女子校生(ほんとに寝ているのは女が多い。男はほとんど見かけない)を見ると写真に撮りたくなる。かなり笑える写真だ。
 私はこういうことを自分がしたことがないし、また自分の高校生時代に見掛けたこともないので不思議でならない。

 いまも、机に向かっていて眠くなったらベッドで寝るし、どういう理由で図書館で突っ伏しているのか理解に苦しむ。

 だが今の世の中なにがどうなるかわからない。図書館の机に突っ伏して寝ている女子校生の写真を撮って、どういう罪になるのか知らないが、それで捕まったりしたらなさけない。

 だからむろんしないけど、行くたびに見掛けると、ほんと写真を撮ってここに掲載し、笑いたくなる。「今日の居眠り」とでも題して。
2010





非常識なひとたち──新聞獨占オヤジ

 私の通う図書館は10時開館20時閉館である。PC専用席があってネット接続も出来る。新聞雑誌閲覧用のゆったりとしたスペースも用意されている。その他の分館は9時開館、17時閉館。これらはもう規模も小さく、ほんとうに本を借りるだけの場所になる。くつろげるスペースもない。とはいえほんの5席ぐらい用意されている質素な机と椅子に向かっている受験生(とかってに思っているのだが)をよく見かける。がんばれよと心の中でエールを送る。

 図書館の品揃えというのはおもしろい。冊数の多い大きな図書館に私の求める本があるとは限らない。ちいさな分館に揃っていることの方が多い。これって図書係の好みなのだろう。俗な例で言うと、小林よしのりゴーマニズム宣言別巻(台湾論とか天皇論とか)が、ある分館にだけズラリと揃っていて、中央館もその他のむっつもある分館もただの一冊すらなかったりする。4年前まで住んでいた市の図書館ではなぜか立松和平の著書がそれこそ全巻と言えるぐらい並んでいて、その他の作家の品揃えが貧弱なので一際目立っていた。係の嗜好によっていろいろあるようだ。

 20時閉館というのはビミョーだ。新宿区図書館のように21.45分まで、は無理でもせめて21時まで開けてくれると助かるのだが……。図書館にこもって作業するものにとって20時閉館と21時閉館の1時間差はおおきい。もっとも新宿等はそういう図書館べったり族のために開けているのではない。遅くまで仕事をしていて、その時間にならないと来館できない利用者のためだ。



 私は昼頃に出かけて18時に帰ってくるような日課だが、やるべきことがいろいろあってがんばる日は、10時の開館時間に出かけて20時まで籠もる。食事もおにぎり等をもちこんで図書館のヴェランダで食べる。同じようなことをしている受験生は多い。みな日々の習慣に支配されているのか、きちんと12時になると食事をし、携帯電話をいじったりしているが、13時にはまた勉強を始めるのが微笑ましい。私は朝昼兼用で11時に食べたり、16時まで食べなかったりいいかげん。

 この「開館の10時から行く」には、いくつかの新たな発見があった。
 もう開館10分前には30人ぐらい並んでいると知る。こんなに図書館利用に燃えているひともいるのか。10時きっかりにドアが開くとダッシュするひとまでいる。何が目的なのだろう。この「ダッシュ」の意味はこのあと知ることになる。

 やる気満々のある日、私も10時の開館と同時に入館した。いつもは四階のPC専用席に向かい、すぐに自分の仕事を始めるので他者の動向を気にしたことがない。この日は一度四階の席を確保したあと、資料にする小説雑誌を手にするため二階に下りようとした。そのことによりひとつの発見をする。
 
 新聞を多数抱えてニヤニヤしつつ上がってきたオヤジと擦れちがったのである。オヤジは図書館員からも死角になる四階の一番奥の席に陣どり、積みあげた新聞の一部を手にし、餘裕綽々に読み始めた。
「ああ、そういうことだったのか」と納得した。前々からの謎がひとつ解けた。



 通いはじめた最初のころ、11時ぐらいに二階の新聞雑誌閲覧コーナーで産經新聞を読もうとすると、ない。周囲の誰かが読んでいるのだろう、しばらく待つかと読売を探すが、これもない。読む気はないが一応調べると、アサヒもマイニチもない。日経もない。あるのは「日本工業新聞」のような専門のものだけだ。最新の新聞は昨日の夕刊になる。それはずらりと並んでいる。今日の朝刊がひとつもない。かといって周囲を見わたしても一般紙を読んでいるひとはいないのである。やがて午後になると全紙揃っている。午前中の行方不明は素朴に不思議だった。

 ニッカン、報知、スポニチとあるスポーツ紙(この図書館はなぜかサンスポがない)は開館と同時になくなる人気者だが、これは行方がはっきりしていてわかりやすい。閲覧コーナーのおじさんたちがみな手にしているのだ。これらを読みたいときはそこに陣どり、読み終ったひとがもどすのを待って素速く手にする。私が読み終って棚にもどすと、やはり狙っていたひとが間髪を容れず手にして行く。
 朝っぱらからスポーツ紙を貪るように奪いあって読むオヤジ達というのも誉められたものではないが、ともあれここには順番待ちの秩序が保たれている。それらのひとつを手にして読みつつ、私はいつも一般紙がない状況を訝しんでいた。



 その謎がこの朝、解けた。毎朝このオヤジが10時の開館と同時にダッシュし、二階の新聞コーナーから読売、産經、日経、アサヒ、マイニチをぜんぶ手にして、四階の一番奥の机に籠もっていたのである。

 二階が新聞雑誌の閲覧席と、CD、DVDの観賞席。三階が小説、随筆等の本棚と読書席。これらを一般的とするなら、四階は、置いてある本は辞書類と新聞縮刷版等であり、長机と椅子が並んだ研究コーナー(?)とでも言うべきところになる。熱心な受験生はみなここにすわって勉強している。三階にはこども連れの母親も来るし、時にはこどもが大声をあげて走りまわり注意されたりしている。おしゃべりな小学生も多い。その点、四階は特別な場でありいちばん閑かだ。

 私もここを居場所として、ノートPCで文章を書いたり、調べ物をして紙のノートにメモをとったり、気分転換に原稿用紙に萬年筆で書いてみたりしている。閑かだけど賑やか(矛盾した言いかただけど図書館てのはそんな感じ)な図書館の中でも、一番マジメ(?)な、ちょっと毛色のちがう場所だ。

 このオヤジはその場に、朝一番で新聞五紙をもちこみ、それから昼過ぎまで、ふんぞりかえって読んでいたのだった。「ふんぞりかえって」は悪意ではない。実際ふんぞりかえっていた。みな熱心に勉強している物音ひとつしない閑かな四階で、このオヤジのバッサバサという新聞の開け閉めの音がやけに大きく響いた。
 一度にぜんぶは読めない。積みあげた五紙から順番に一紙を読むだけである。あとの四紙はその間、積まれているだけだ。二階では新聞を読みたくて来館したが、どの紙もないので断念するひともいる。他のひとが読んでいるのだろうと解釈して諦めるのだが、実は新聞は四階でこのオヤジひとりに不法に獨占されているのだった。



 こういう他者のことを考えず、自分だけの満足のために行動する人間の性格はどうなっているのだろう。私はそんなことは出来ないし、しようと思ったことすらなかったので、周囲がひたすら勉強や研究(?)をしている静謐な場で、新聞五紙を獨占し、ふんぞりかえって読んでいるこのオヤジを見たとき、腹の底から沸いてくる怒りを感じた。

 ところで、そのオヤジの容貌だが、どういうタイプを想像されるだろうか。私の見たのは、白髪短髪の、ちょい太り気味。背は低い。鮨屋の店主のような五十年輩(もうちょい上だろうか)の男だった。そいつは開館と同時にダッシュし、いつものよう五紙を確保したことを「やった!」と思っていたのか、四階で私と擦れちがうとき、五紙を手に、「へへん、どんなもんだい」というような得意気な顔をしていた。しかし彼のやっていることを批判する汚いものを見るかのような私の視線を感じたのか、自分の行動を恥じる気持ちもあるのか、睨みかえしてきた目線はヤクザっぽい品のないものだった。

 もしもこのオヤジが、「五紙の社説を比較し、その違いを毎日ノートに記して研究している」というようなことをしているとしても、これは許される行為ではないだろう。だがそんなものではない。このオヤジは公共の図書館の五紙を、ただ悠然と読むという利己のために獨占しているだけなのだ。その間、今日の新聞を読みたいと思った入館者はみな新聞のない状態におかれ、このオヤジが五紙全部を読み終る昼過ぎまで待たねばならない。だれもがそんなことになっているとは思わないから、新聞がもどってくるのをただ待っている。ひとりの小狡いことをする男のために多くの善人が耐えているのだ。許しがたいことである。

 私の見る限り、これをやっているのはこのオヤジひとりだけのようだ。というのは、10時から12時まで五紙を獨占し、読み終ったこのオヤジが出て行ったあと、午後からはいつでも新聞が読めるからだ。たとえば「読売がない」と思っても、周囲を見れば閲覧席で読んでいるひとを確かめられる。「新聞がひとつもない。しかもちかくで読んでいるひとがいない」という不自然な状況はこのオヤジによる午前中二時間の出来事だと確認できた。



 それにしても、どうしてこんな身勝手なことが出来るのだろう。自分のやっていることを反省することはないのだろうか。このひとはどんな人生を歩んできたのだろう。どんな親に育てられたのか。このひとの奥さんはどんなひとなのだろう。このひとに育てられたこどもはどんな発想をするのだろう。寒気のするような厭な話である。
 もしも私がこういう指摘をしたら、たぶんこのオヤジは言うだろう。「それはおれの楽しみだ。おれはその〝利〟を得るために、毎日開館10分前から並び苦労しているのだ」と。そういう〝努力〟をしているから、そういう〝利〟を得るのは当然だとなり、そのことで迷惑を受けるひとには想いが及ばないのがこの種のひとのリクツなのであろう。



 ということで思いつくのは「公共の場での場所取り」だ。
 競馬場でも長椅子に、あっという間に新聞が置かれる。ひとつの新聞紙をバラバラにして席取りをする。レースを見たり馬券を買ったり食事に行ったり、そこを「確保」したひとは、ほとんどそこにいない。しかし新聞紙による「席取り」がなされている以上、どんなに疲れていても誰もそこにはすわってはならないらしい。まことに異常な状況だ。

 私は以前、わざと挑戦的にだが、そこに開かれ、敷かれている新聞紙を取り除いてすわってみた。すると二十代のチャラチャラしたアンチャンがやってきて怒鳴り始めた。ファーというのか人工の毛皮が着いたハーフコートを着た馬鹿面をしていた。ふつうに推測して水商売だろう。

 殴り合い寸前まで行ったのだが、周囲のひとが集ってくると、アンチャンとしては揉め事になった場合、自分に理がないと思ったのか、罵り言葉を吐きつつ去っていった。
 この種のことをするのはおばちゃんばかりとは限らないようだ。



 図書館話にもどって。
 その後、それをきっかけにして周囲を見ると、同じような身勝手なひとがいることに気づいた。発売になったばかりの週刊誌、月刊誌、小説その他諸々を、閲覧席の机の上に積み重ねて読むひとである。

 私はその日、発売になったばかりの『週刊文春』が読みたかった。『週刊文春』と『週刊新潮』は二大人気週刊誌なのでいつも棚にない。『週刊朝日』『サンデー毎日』『週刊金曜日』は不人気で、いつも棚に置かれている。人気のあるこの二誌は発売日はなかなか読めない。でも見わたせば読んでいるひとはすぐにわかり、順番を待てる。

 その日はいま誰が読んでいるのだろうと見わたしてもわからなかった。近くにいない。その他の本を読んで待ったが、なかなかもどってこない。誰が読んでいるのだろうと閲覧席を注意して歩いてみた。すると隅の方の閲覧テーブルに10冊も積みあげて読んでいるオバサンがいた。その7冊目あたりに『週刊文春』がある。

 これもひどい話である。このオバサンがあと6冊読むあいだ、『週刊文春』は誰も読めない。その間、雑誌の棚に置いてあったらどれほど多くのひとが今日発売になったばかりの『週刊文春』を楽しめるだろう。週刊誌だからみな熟読はしない。長くても30分だ。私なんか目次をザッと見て、興味のある記事をひとつふたつ読んで10分ぐらいでもどす。このオバサンが積み重ねている間に10人ぐらいは読めるだろう。

 さらにいうならそれは、20時閉館図書館の19時頃だった。おそらくそのオバサンが積み重ねられた10冊から7冊目の『週刊文春』に行くまでに閉館になってしまうだろう。やっていることが理に適っていない。獨占という自己満足だけだ。私が確認したのは自分の読みたい『週刊文春』だったが、きっとその積みあげられている10冊の中には同じような人気雑誌があったことだろう。

 と書いていて気づいたが、もしかしたらオバサンの前に積みあげられていたそれは、すでに読んだ本だったかも知れない。なら既読のそれは棚にもどして欲しい。そうして「獨占」しているあいだ、他のひとは読めないのだから。
 どうしてこんなことが出来るのか。自分のその行動で他者に迷惑をかけることは考えないのだろうか。私にはわからない神経である。

 このオバサンの容姿は、以前話題になった「騒音オバサン」に似ていた。太目の体形で、ギョロっとした目をしていて、ちょっと怖い。
 積み重ねられたそれを見たとき、閉館までの時間もあり、私の中に一瞬、「すみません、その中の一冊を」と言おうかという気持ちも芽ばえたが、目つきを見て諦めた。気違いに関わるほど愚かなことはない。



 街を歩いているとこの種の連中と遭遇するのは人生の常である。そういう自分とは異なるひとたちの言行に腹立ったり闘ったり自省したりするのが人生の味わいなのかも知れない。でも私はいやだ。関わりあいたくない。
 図書館に籠もることは、そういう現実世界からの逃避でもある。でもなかなか楽に逃げさせてはくれない。厭世はどこにでもつきまとう。

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 その後の話──2011/5/10

 上記は去年の春の話。今年に入ってすぐだったか、解決したことを知る。すべての最新号の雑誌の表紙に「最新号です。おひとり一冊でお願いします」と大きな字の注意書が附けられたのだ。さすがにこれをやられたら5紙10誌と抱えこむのもいないらしく、見かけることがなくなった。よかった。

 といってマナー違反連中の自粛とは限らない。こういうのが附けられたのは、その他の利用者からの不満が寄せられたからだろう。とすると、携帯電話が鳴って平然と話し始めるのを係員が注意するようにして激減したように(それでもまだかなりいる)、この件に関しても図書館側が係員に徹底させたのだろう。前記のような多くの新聞や雑誌を獨占している利用者を見つけたら注意してまわったものと思う。ああいうことをするヤツは新聞雑誌にそんなことが書かれてあっても気にしないものだ。それぐらい図々しいヤツでなきゃあんなことはしない。



 しかしこれ、日本人としてはかなり恥ずかしいことである。
 東日本大震災に関して、東北の人びとの我慢強さ、罹災地のマナーの良さが世界中から絶讃された。
 一方、石原都知事は「我慾」ということばで日本人の堕落を指摘した。30年前に死んでいる親を百歳を越えても生きていることにし、死体を放置し、年金をもらっていたこども(とはいえ70歳過ぎだ)のようなのに対する批判だ。

 図書館で自分だけ新聞や雑誌を獨占して悦に入っている連中はこの「我慾」の典型だろう。テーブルに積みあげているのは無神経我慾だが、閲覧コーナーから離れた階に新聞を持って行き、そこでひっそり楽しんでいるのは狡猾我慾だ。

 おそらくそれに対する不満は利用者から高まっており、図書館利用アンケートに複数の意見として書きこまれての実行だったろう。私はいち早くそれに気づいて不快をここで表明していたがそれはしていない。多くのひとが同感だったことになる。



 これの実行の前に同じようなことがあり、みっともないなと思ったのを覚えている。
 単行本や雑誌に附けられていた盗難防止用ICタグがその日発売のスポーツ紙にまで附けられるようになったのだ。つまりスポーツ紙を盗むのがいるということである。なさけない。これもまた利用者からその日のスポーツ紙を読みたくてもなくなっていると苦情が寄せられてのことだろう。

 その前からいろんなのがいるなとは思っていた。スポーツ紙の競馬欄馬柱に赤や青のボールペンで異様な書きこみがあるのだ。図書館のスポーツ紙に書きこんで予想検討しているらしい。どんなヤツがやっているのだろうと思っていたら、あるひ発見した。60代半ばのおやじが真剣にやっていた。彼は自分のノートにも真剣に数字を書きこんでいる。細かにびっしりと。そこまで熱心なひとがなぜ図書館のスポーツ紙なのだろう。買ったほうが早いだろうに。そこがわからん。これがひたすら節約するモノならわかるが事はバクチである。金を賭けるものだ。彼の発想としては130円をスポーツ紙代にするなら100円の馬券が買えるということか。



 なさけないというのなら、図書館の本すべてにその盗難防止用ICタグを附けなければならなかったことがそもそもなさけない。初めて見たときはおどろいた。この手間暇はたいへんなものだったろう。こんなもの剥がしてしまえばなんとでもなるし、これで泥棒は防げまいと思った。

 私は学生時代から四十までは本を買い溜め、本の数が智性を表すと思っていたほど本を大事にしていたが、その後はそう思っていた自分が恥ずかしくなり、ひたすら本を処分する生活になった。ただ同然の値で大量に<BOOK OFF>で処理し、その他も捨てて捨てて身軽になってきた身だから本を盗むという感覚がわからない。今はわずかな愛書と辞書類しかもっていない。辞書も電子辞書になってしまいほとんど開くことはない。

 ただしこれには負け惜しみが入っているのもたしかだ。私にはいつのまにか大量になったそれらの本を管理するだけの場がなかった。だから処分した小説類はそれほどでもないが、たとえば創刊号から全冊もっていた雑誌『SAPIO』や、昭和の競馬新聞を処理してしまったことに対する痛みはいまも持っている。私のようなのはそういう形で身軽にならざるを得なかったのだ、とも言える。かといって先日亡くなった児玉清さんがいかに読書家だったかと自宅のガレージのような書棚が紹介されていたが、それをすばらしいとも思わない。
 ともあれ今の私はほとんど本のないない環境で生きていて、図書館で借りた本も読んだらすぐに返さないと部屋に見知らぬ本があるようで気になるぐらいだから、盗んでまで自分の部屋に本を増やすという発想とは最も縁遠いところにいる。



 しかしその後これを知らずに盗難しようとして出入口ゲートでピーピーと鳴って引っ掛かり、係員につかまっているひとを大勢見かけたから、図書館の本を盗むひとは現実にいるのだろうし、これはこれで効果を上げているのだろう。また捕まっているひとの何人かは、悪意のないまちがいのようでもあったから、勘違いによって図書館の本を持って出てしまうという「事故」は防げているようだ。

 でも本を盗むことなどとんでもないという私ですら、これを附けられたことにより、「こんなのコレを外せば簡単に盗めるじゃないか」と反発したように、盗むことに燃えている連中は、このタグを附けられたことによりよけいに燃えたのではないか。気違いとか泥棒は人間が人間である限り絶えることはない。いかにこういうことをしても堂々巡りでありイタチごっこだ。

 まあ、辞書を引きつつ勉強していたひとが、つい勘違いして図書館の辞書をカバンに入れてしまったというような「事故」はこれで防げるし、ICタグは紙の袋に入れられ、裏表紙にうまく折りこんだりして、それと気づかれないようにしているから、何の智識もない泥棒はこれに引っ掛かるのだろう。考えようによってはこの「ICタグはそれと気づかれないようにしている」というのもイヤラシいとなるが。



 私の通っている図書館で、新聞や雑誌を獨占し他者に迷惑をかけているひとは、とりあえずいなくなった。
 しかしそれは日本人らしい公共マナーを守る姿勢からの自主的な解決ではなかった。一冊一冊に「最新号です。ひとり一冊でお願いします」と大書した紙を貼りつけるという、くどい注意書きによって実現したことだった。なんともそれがなさけない。
2011/5/
●会話するおばちゃん

 ここのところ私の気になる図書館の傾向は「おばちゃんの会話」である。おばちゃんと言っても年齢的におばあさんにちかいおばちゃんだ。たぶん図書館に慣れていない新人なのであろうが、知り合いに会うと世間話を初めてしまうのである。つまり「病院の待合室のサロン化」と同じだ。
 しかし、たかがスポーツ紙のようなものでも、隣で声を潜めたおばちゃんたちに世間話を延々とやられると読んでいる気がしない。気がちって楽しめない。

 図書館の雑誌閲覧コーナーは歓談の場所ではないから理は私にある。いつまでたっても終らず、本人たちにここで会話してはいけないという意識もないようだから、思い切って注意しようかと思う。その前に他のひとはどうなのだろうとそっと周囲を見渡すと誰も気にしていないようだ。とすると私があまりに狭量ということになる。それで私は我慢する。

 でもこういうおばちゃん、確実に増えつつある。それだけ会話の少ない時代になり活動の場?を増やしているのだろう。
 さいわい今のところ閲覧コーナーだけだ。さすがに勉強の場では目立つ(耳立つ?)から係員が注意するだろう。
 私は本来勉強の場で勉強せねばならない立場だ。それがサボって閲覧コーナーに来ている。おばちゃんたちの会話は早く勉強の場にもどれということなのだろうと解釈することにした。でもおばちゃん限らず図書館で会話する年寄りは増えつつある。図書館が心寂しい年寄りのコミュニケーションの場になりつつあるのはたしかなようだ。
   
   
   




この壁紙はhttp://hide.kanari.info/より拝借しました。
感謝して記します。

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