03/7/21
読めない!?
(03/7/ 21)

 数日前、字が読めず焦った。嘯くである。本を読んでいたら出てきた。「えっ? これなんて読むんだっけ?」と思い、送りがなの「く」からあれこれと想像するのだが出てこない。本当に焦った。ものすごい恥ずかしいことである。うすらバカではあるが、書けないものは多くてもだいたいは読める。なのにいくら考えても読めないのである。
 何日かかろうと意地でも思い出そうとしたが、そんなつまらん突っ張りをするよりすなおに調べるべきと判断し、「くちへん」と画数から調べた。すこしこの辺も勉強し直さないとアブナイな。バカになる一方だ。あ、正解は書かないのでもしも読めない人がいたら自分で調べてください。ここに来ている選ばれた人(?)はみなインテリなので誰もが読めたと思います。




読めない2
(03/8/5)

 絆される。きょう届いたTさんからのメイルに登場した。考える。わからん。それでも、前後の文章を何度も読み返して、たぶんこれだろうと思って辞書を引く。正解だった。やばかった。限りなくバカに近いアホ~。
 けっこう使う言葉だけど、こうして漢字で書いたことはなかった。これだけを読み書きテストとして出されたら出来なかったかもしれない。長い時間、考えればできたろうが。その理由は高島さんの影響で極力こういうものをひらがなで書く癖をつけていることもある。それでも前回の「嘯く」はとうとう正解を思いつかなかったのだからそれよりはましか。なんだかこの辺、「バカ自慢」みたいになってきたな。けっこう快感だ(笑)。あ、でもパスワード制じゃなかったら出来なかったようにも思う。限定メンバーだからさらしているバカ具合でもある。
03/10/10
シュワちゃん、カリフォルニア州知事へ


 カリフォルニアは日本より広く、経済力はフランスとほぼ同等。獨立国になったら世界六番目の経済力だとか。こんな数字を示されると、いかにアメリカが図抜けた国であるかを実感する。カリフォルニアってそれだけでフランスと同等なのか。ふ~ん。
 オーストリア生まれのシュワちゃんには大統領になる資格がない。果たしてこの法律は改正されるかどうか。

 ところでこの「シュワちゃん」だが私はこんな言いかたが嫌いである。普段ならしない。いかにも軽薄で安っぽい。なのになぜ使うかというと、これは相当に古くからの言いかただからである。つまり決して今の若者言葉ではない。私が二十代の時に作った「MoneTimes」のプロレス増刊号に挿絵を描いてくれた映画狂の後輩が、既にこのときこの「シュワちゃん」なる言いかたをしていた。ちょうどこの当時周囲の連中が使っているので知った言葉に「ダサイ」とか「タメ」なんてのがあった。「シュワちゃん」と誰が言い始めたのかは知らないが、その因がシュワルツェネッガーなる長ったらしい名前にあるのは間違いない。ツァラトゥストラも「ツーちゃん」とかにしてもらえると助かる。彼に投票するかと尋いたりするニュース映像でアメリカ人はみな「アーノルド」と言っていた。「シュワちゃん」とは名字で人を呼ぶことにこだわる日本人の、いかにも日本人的な呼称になる。

 私が初めて見た彼の映画は「コナン・ザ・グレート」で1982年の作品になる。それ以来だから、「シュワちゃん」は、格別に映画が好きなわけではない私ですら21年の伝統がある呼び名になる。バカっぽいので使いたくはないが、あまりに長ったらしい名前だから使わざるを得ない。
 彼のデビュは70年らしい。いいかげんな作品に端役で出ている。まあ実質的なデビュは「コナン」からだろう。84年の出世作になる「ターミネーター」だって悪役のロボット役だった。そのあと「コマンドー」「ゴリラ」「プレデター」「レッドブル」と正義の味方になって行く。そしてこういう人が誰もが試みることらしいけど、コメディにも挑戦したりする。「ツインズ」か。妊娠したのはなんだっけ? 「ジュニア」か。まあこの「コメディに挑んだ失敗作」ではスタローンに負ける。あのマザコン刑事物はひどかった。未来を舞台にした作品でスタローンが「大統領はシュワルツェネッガーだって?」と言うのはなんだっけ、「デモリッションマン」か?
 シュワちゃんの政治志向は以前から有名だった。ケネディ家から嫁を取ったことすらそれが目標と言われたりした。スタローンの台詞はそれをからかったものだ。
 今回の現実の立候補を見ていると、あまり政治家のセンスは感じないがどうなのだろう。演説はヘタだ。「西部劇のB級役者」と揶揄されたレーガンだが、こういう形で対比すると政治センスがあったんだなとあらためて見直したりする。



正確な綴り──シュワちゃん(04/9/22)

 ひさしぶりに「『作業日誌』の文を正規ファイルに移項する作業」をやった。03年10月の、アーノルド・シュワルツェネッガーを「シュワちゃん」と呼ぶことの想い出の項を移項した。

 この場合、この「シュワちゃん」という見出しをクリックするとその箇所に飛ぶように、長文のファイルの中に「ラベル附け」をせねばならない。これは『ホームページビルダー』の用語である。この「ラベル附け」なる用語がいくつものホームページ作成ソフトで共通であるのかどうか知らない。ただこういうことは言える。年を取るとこういうコトバのソフトウェアによる変化を覚え直すことが面倒になる。WINDOWSのfavoriteとMacのbookmarkに代表されるように、同じ事がソフトウェアによって(この場合はOSだが同じようなものだ)違っている。それらのほとんどは最初戸惑うが、理解すると、「なんだ、あれのことか」と思うようなことばかりである。それを楽しめるのが頭の柔らかさであり、年を取って頭が固くなってくると「なんで同じ事をこんなにもっとらしく言いかえるんだ、用語を統一しろ!」と腹立つようになる。今の私は後者である。さいわいにも慣れ親しんだ『ホームページビルダー』がベストセラーであることからもわかるように満足できる出来なので不満はないが、いくつも買いそろえたホームページ作成ソフトを、もったいなくも使いこなせなかったのはそれによる。まあ年の割にはよくやったほうだろう。本題にもどって。

 そういう「ラベル」には本文と関係あるコトバを使う。基本はアルファベット小文字だ。「シュワちゃん」なら「シュワ」のアルファベットであろう。さてそれはどう書くか? ふつーに考えると「shuwa」だが、この人オーストラリア人だからそこまで簡単ではないような。覚えてないものねえ、シュワルツネェッガーの綴りなんて。
 CD版映画辞典で調べる。Arnold Schwarzeneggerとわかる。ドイツ語だ。私はドイツ語をまったく学んだことがない。カタカナのツェがあってもTはない。ZEだ。レッド・ツェッペリンがそうだったと思い出す。最初のシュはSchである。これはShuだと思ってしまうからわからない。「シュワ」というラベルは「schwa」とした。

 先日、スピンドル収納タイプのCD-Rを買うとき、通販で見たその会社の品物番号が「supin」となっていたことを書いた。スピンドルの英語綴りはspindleであるから、英語に忠実に略すなら「spin」が正しい。私の結論はいつものよう「その会社の人がわかることがいちばんだからsupinでいいのだ」だった。
 今回もこれは私の私的なものだから「シュワ」は「shuwa」でいいのである。私がわかりさえすればいいのだから。が、原語に忠実に「schwa」とした。たぶんファイルを探すとき、一年後にはもうshuwaで探したらなかなか見つからず、やっとschwaで見つけ、なんでシュワがschwaなんだと腹立ち(笑)、そうしてやっと、「そうだ、これが正しいスペルなんだ、映画辞典で調べたんだっけ」と思い出すことだろう。shuwaにしておけばなんの問題もないのだが、いつ役立つか解らないけど、schwaにすることにした。


03/10/14
 言葉──トカ弁

 図書館の帰り。NHK総合ラジオ。コトバを取り上げている。先週がどうのこうのとやっているからコーナーとして定着しているのか? と興味を持ったとしてもラジオを毎週定期的に聞くのは難しい。
 最近の若者の「とか」の使いかたがおかしいとスタジオと聴取者ハガキのやりとり。
「喫茶店で水を頼むとき、『水トカありますか?』はおかしい」
「学生に職業を聞く。『学生トカやってます』。ほかになんかやってるのか!」と投書が続く。
 こういう「トカ」を多用する連中のコトバを「トカ弁」と呼ぶとか。まあ「ホカ弁」から来たのであろうぐらいはわかる。

 使われ始めたのは二十年前からで、だったらもう載せている辞書もあるのではとスタッフが調べたら見事に何冊かあったトカ。
「もう辞書にも載っているんですねえ」という認知するようなアナの感嘆は必要あるまい。辞書を権威づけすぎている。そんなの時代におもねっているだけだ。辞書なんて所詮そんなものだといわれれば文句はないが。
 若者がそれを多用するのは、「水ありますか」だと、なかったとき自分が落胆してしまうし、また店のほうも無くてもうしわけないと思ってしまうから、お互いが傷つかないように、水がなければジュースでもコーラでもいいという逃げ道を用意しておいてやる=やさしさ、なのだなんて解釈が披露されている。なるほど、そうもいえるでしょう。

 アンケートによると、トカを多用する若者のほうが使用しない若者より友人が多いという結果も出ているトカ。
 んなこたあどうでもいいや。だいたいがアンケートなんてものはやりようでなんとでもなる。朝日の記者が「こんなアンケート結果が出ていますが」と慎太郎さんにつっこんだら、言下に「朝日のアンケートなんか誰も信用してねえよ」と鼻で笑って否定されたっけ。痛快。
 「トカを連発する若者には友人が多く、トカを使わない若者は物事をストレートにいうのでともだちがすくない」なんて安易に結論づけられてたまるものか。いったいどんなアンケートなんだ。そんなのは堅いものを食わないから顎が細くなって行くようなもので、歯のためにも顎のためにもよくない。堅いものを噛め! トカを連発して作る百人のふやけた友人もどきより、そんな曖昧な言いかたを拒絶して出来るひとりの親友のほうが価値がある。と、『トカ弁』を使わない若者に言ってやりたいものだ。

 ラジオを聞きながら、ファミレスやファーストフード店に行ったら店員の獨特の言葉遣いにいらだつだろうなと思った。このごろ精神が安定していると思ったら、そういう場に行く機会が一気に減ったからだと気づいた。あんまり離れていると"村はずれの狂人"になってしまうからこれはこれで問題だろうが。もうなっている? まいぺんらい。
 喫茶店て長年行ってないぞ。最近は待ち合わせもいきなり居酒屋だったりするから(笑)。
 「トカ弁」なんて新語を教えてもらって勉強になった。とはいえ毎週楽しみに聞こうとは思わない。きょう初めて聞いてもうお腹一杯になってしまった。途中で切る。こういう論議に加わりたくはない。願うのはひたすらそういう連中と接触したくないってことだ。

 と書いて思い出した。無関係な話。四十年ぐらい前の日曜の昼。TBSテレビ。「スチャラカ社員」。中田ダイマルが若手社員の藤田まことに言う。「キミ、最近××ってコと接触しとるそうやないか」。ここでどっと会場が沸く。田舎の小学生であるぼくも笑った。当時「接触」とは電線が接触して漏電した、のようなときに使うもので、こんなときに使う言葉ではなかった。脚本の香川トシオ(トシオはどうだっけ?)の先走った言語感覚だった。今も小林信彦が絶賛する番組である。(後日註・調べました。香川先生のお名前は「登志緒」ですね。)
 コトバは、「おれは使いたくない、使わない」って意志を持って、あとは世の流れにゆだねるしかないのだろう。トカ思ってます。
03/10/15
ことば──ていうか


 午後三時半、また図書館からの帰りにラジオをつけたら、いきなり「でも『トカ弁』を使う人が心優しいなんて言いかたには反発もありますよね」と話し出したので時間が昨日に巻きもどされたのかと一瞬混乱する。昨日の続きをやっていたらしい。あまりにドンピシャのタイミングで気持ち悪くなった。
 トカの話から「」の話になる。「ワタシ的にはあ」とか「ボク的には」の使いかただ。これはねえ、古いぞ、ぼくが学生時代に多用して後輩と論じていた記憶が鮮明にある。そしてオチが、ちょっと嘘みたいな話なのだけれど、××的という言いかたが多いよな、と話していて、ぼくが「つまり、なんていうか、的的な言いかたってのは」と言ったのだ。末尾に的をつける言いかたを総称して的的と言ったわけである。すると賢い後輩が間髪を入れず「出た! それ決定打ですね」と膝を叩いたので、ぼくはなぜかひとり赤面して、それ以後この使いかたをしなくなったのだった。
 それから換算すると三十年の歴史があり、ぼくはそのはしりだったことになる。中国語で多用されるこの「的」は、日本語でも、「猪木的なプロレス」のように実に便利なのだった。いま使っていないのは、それをかっこわるいと判断したからになる。とすると若者もそれに気づけば自重するようになるだろう。いつだって誰だってかっこわるいものは嫌いなはずだから。

 ぼく的には(←出た!)、むしろ「的」よりも「ワタシ的にはあ」の語尾が伸びて尻上がりになる声調のほうが気にかかる。前にも書いたけど、コトバの末を尻上がりにして、疑問形というかこちらに問い合わせてくるようなあの話し方には心底いらついたものだった。うん、ぼくが話し方うんぬんで今までいちばん不愉快だったのは間違いなくそれになる。すぐにうまい例が出せないが、わかるひとはわかってくれるだろう。あの会話の中で、単語の語尾を上げて疑問調にするしゃべりかただ。

ていうか」も俎上に上がっていた。これも覚えている。初めて聞いたときはいらついた。
 十五年ぐらい前か、競馬好きの女編集者でよく深夜に長電話してくるのがいた。あのころはガールフレンド(笑)がいっぱいいたなあ。それもこれもみんなタイにはまって失った。
 ふ~ん、いま思ったのだが、彼女はそのあとすぐ出来ちゃった結婚をした。五月生まれだからメイ(どんな字だったか)と名つけて溺愛していた。ということは、その娘はもう高校生になっているってことか。うひゃあ時の経つのは速いなあ。信じられん。それはともかく。
 当時二十五歳ぐらいだったその女が、ある晩、話していたら、やたら会話の中に「ていうか」を連発するのである。これは例が出せる。
「それってあれだよな、よくないよ」
「ていうか、今はもう普通でしょ」
「誰もがやればいいってわけでもないし」
「ていうか、平気なのよね。気にしないでやってる」
「おれはしないけどね」
「ていうか、やっちゃ終りですよ」
「やな世の中になったな」
「ていうか、乱れてるんですよ、ほんと」
 こちらのいうことをすべて否定されているようで不愉快でしょうがない。最初の「ていうか」では、こちらがの言い分が否定されたと判断して、ぼくは反論のような言いかたをしている。その後はどうやら悟ったようだ。
 それまでのぼくの常識だと「ていうか」とは、こちらが「Aだと思う」と言ったことに対して、「Aというよりは、Bだとワタシは思う」と、こちらを否定して、あちらの意見を言う言いかたになる。それが「ていうか」である。なのにここでは「Aだと思う」というこちらの意見、「ていうかAですよね」と言っているのだ。気持ち悪い。尻のすわりが悪いってヤツだ。
 会話はスムーズに進み盛り上がっている。彼女の使う「ていうか」は、否定語ではなく、「そうそう」のような同意の意で使われているのだと気づく。だが使っているあちらはいいとしても、使われているこちらは気になってならない。
 週に一、二度、編集者の亭主が忙しくて帰ってこない夜更け、ぼくが外を飲み歩かず部屋にいた日、そんな感じで深夜に数時間も長電話をしていたのだが(あのころは酔っぱらってはよく女と長電話をしていたな。迷惑をかけたのもいっぱいいる。赤面だ)、この話し方は突如として現れた。こういうコトバも、始まりは「流行りコトバに感染する」のだとぼくは思っている。先日書いた「なにげに」が好例である。彼女もどこかで「ていうか」をうつされてきたのだ。
 さいわいにもその後のつきあいはおじさん同士が多かったので、この言い回しに不快な思いをしたのは彼女ひとりだけである。

みたいな」も例に出されていた。「ワタシみたいなヒトはあ」「コーヒーみたいな」トカの使いかただ。
 これぐらいになるともう若者との接触を嫌っていたのであまり覚えがない。つきあいたくもない。

 以上、昨日の『トカ弁』、きょうの「的」、「ていうか」「みたいな」と書いてきた。すとるまるで熱心にそのラジオ番組を聞いたようだが、実は二日合わせて5分も聞いていない。これは高島俊男さんの著書『お言葉ですが…』シリーズへの接し方と酷似している。
 ぼくはこういうものに刺激を受けると、すぐに自分の世界へ突入してしまう。その代表例が高島さんの本になる。高島さんの本を一冊丸ごと読んだことなど一度もない。だいたいもう数ページ読んだだけで刺激を受け自分の世界に入ってしまう。高島さんが「嫌いな言葉」と書いているのを読んでいると、自分流の「嫌いな言葉」を探し始め、頭の中で自分なりの「嫌いな言葉論」が始まってしまうのだ。その意味で五冊ほどの単行本は百冊にも匹敵するのである。旅先で読むのに最高なのだ。無限に発想が湧いてくる。
 このラジオ番組も同じで、「最近の若者は『水とかください』のようにトカをつける」と聞いただけでもうトランス状態になり(笑)、自分なりの「トカ論」を考え始める。するとラジオはうるさいから切る。頭の中で文章を書く。早く帰ってここにこの「私流の『トカ弁』論」を書きたくてしょうがない。
 こうしてそれを吐きだした今になって、ラジオでのその後の話はどうなったのだろうと気になったりしている。明日も続きをやるらしい。といっても、きょうのもほんとに偶然だったから、明日また聞く可能性は限りなく薄いのだが……。覚えていたら聞いてみよう。きっと夕方六時過ぎに、あ、そういえばと思い出すような気がする。
03/10/16
ことば──的の話


 午前十時に寝て、午後目覚める。時計を見ると午後三時半。ちょうどこのころだなとラジオをつける。深夜放送を聞いていた学生時代ならいざしらず、こんな時間に意図的に部屋のラジオをつけるなんて、ここ何十年ものあいだで初めての経験になる。NHK総合。
 なんか関係ない話をしている。外れたかと思う。もうすこし早かったか。すると今後の番組案内。「三時四十五分からは『気になる言葉』のコーナー、四時からは……」。抜群のタイミングだったらしい。こりゃ縁があるのか。
 間もなく始まった会話を聞いてさらにその意を強くする。偶然に聞いた二日前、火曜日が初めて『トカ弁』を取り上げ、昨日と続き、きょうはまた昨日からの「的」の続きトカ。とするとまったくの偶然で最も興味ある部分に出会ったわけで、曜日日附もそうなら、なにしろたった10分の番組(ときょう知った)なのである。そんなことのめったにない自分としてはなんだか偉大な出会いをしたような感慨に打たれる。いやほんと、昼に起き出して動き出し、この時間を忘れてしまっても、あるいは夕方まで寝過ごしてもおかしくない。たった10分しかやらない番組にこんな形で連続して出会うとは佛様のお導きとしか思えない。

 そう思ったこともあってきょうは一昨日、昨日よりも真剣に聞いた。といってもたった10分だが。
 それでわかったのは番組の傾向。当然のごとく「お便り」をくれるのは年寄りが多いのだった。いわば「近頃の若者は」と憤慨する年寄りの息抜き的な番組と知る。と「息抜き的」なんて使ってしまった。きょうのテーマは昨日の続きでその「的」の話。由来を考えている。明治以降、造語の新単語がふえ、形容詞を作るために中国の「的」を利用したのだろうとの結論。まあそれはわかっている。
 これをどう思うかとのアンケート結果の読み上げ。どうも最近アンケートには懐疑的なのだが。あ、また「懐疑的」と使ってしまった。
長さ的にはいいと思う」
色的に派手なクルマが通った」
ワタシ的には反対だ」
 ノヨウナいくつかの例題が出され、それらがアンケートで31%の支持、54%の支持と発表されて行く。まあそんな世間の結果はどうでもいい。アナの意見は、「科学的」あたりから始まった言葉なのだから、「長さ的」「色的」も否定は出来ないのかも知れないとのこと。ぼくがここで使った「息抜き的」「懐疑的」は意図したわけではなく、普段の自分から出たものだった。懐疑的は科学的と同じく一般的に認知されているものだろう。息抜き的は無理な用法らしくATOKでも「生きぬ汽笛」になってしまった。こんなことをしているのだから若者言葉を批判したりは出来ない。してないけどね。関わり合いたくないと言っているだけで。
 結びは、「もっと一般的な用法になって行くまで、NHK的には使用を見合わせたいと思っています」と「NHK的」を「民放的」と対比させ、解説で幕。これはうまかった。

 明日のテーマは「ゼンゼンの使用法」トカ。それを聞いて《『お言葉ですが…』論考》の初期に「ゼンゼン違ってた」を書こうと思ったのに、というかそのネタで《『お言葉ですが…』論考》は始まったとさえ言えるのに、未だに書いていないことを思い出す。明日はラジオは聞き逃してもいいから必ずそれを仕上げようと決意。
03/11/8
ヘエとボブ・サップ

 きょうの『産經抄』は曙のこと。「以前は嫁がヘエと言うような記事を書けと教えられた」→「姑のしたで家事に専業する嫁は世事に疎く、その嫁がヘエと言えば本物だ」との昔話がフリ。ひさしぶりにそのヘエと思わされたのが曙の転身、と続く。
 それにしても「トリビアの泉」の「ヘエ」は圧倒的な速さで広まった。先日なんかTBSの番組でシンスケが「なにか感心することがあったら目の前のヘエボタンを押してください」なんて言って笑いを取っていた(もちろんボタンはない)。他局のそれをこうしてギャグにしても不自然でないほど普及してしまった。『産經抄』のこの「ヘエ」もそこからきているのは間違いない。石井さん(筆者)はボブ・サップの話を出したこともあるしけっこう流行りもの詳しい(笑)。
 その結びが下記。なぜ格闘技が満員になるのだろうとその理由を推測し曙の人格を褒め称えている。私と同じ感覚だ。

 ▼ひょっとして平和な時代の假想的疑似戦争かもしれず、社会考現学の対象とするに足る。ただし人格円満で礼儀も正しい曙が、打つ・絞める・投げる、何でもありの“四角いジャングル”人生に向いているのか。もし転向が成功したら、人びとはもう一度ヘエというだろう。


 私は曙が嫌いだった。根の暗そうな顔つきだったし(ネアカではないだろう)、アイハラユウとのこともいやだった。しかしそれらの偏見をなくしてみつめれば、「根の暗そうな」はきまじめの証明だったし、親方となってたどたどしいながらも心のこもった解説を始めたら一気にその人柄のファンになってしまった。曙の現役時代は若貴の敵役として嫌っていたが引退後の人柄に触れファンになった人という愛角家も多いだろう。

 ボブ・サップといえば『産經抄』に登場したときもおどろいたが、石原長男が国土交通大臣に就任したとき、首相はどういっていたかと問われ、「今までもさんざんサンドバッグになっていたが、今度はボブサップに打たれるようなものだからウンヌン」で笑いを取っていたのが印象的だった。一国の総理大臣が任命した大臣に地位の重さを語るのに比喩として出されるほどの知名度なのである。いやはやおどろいた。
 もっとも本人のほうは頭の良さでお笑い系の対応は見事だが格闘家としてはあまりに素人すぎて限界が見えつつある。プロレスもへただ。新日など見ていられない。それがみちのくプロレスのコミックショーでは生き生きしていた。今後はあっち方面で活躍してゆくのだろう。彼のピークは「テクニックもなにもないのにひたすら突進し、その突撃力だけでホーストを粉砕してしまった」時になるだろう。心配なのはミルコとの一戦で骨折した右目が、いつも濡れたような感じ(ぬいぐるみのガラス玉の目のような)になっていることだ。左目とはあきらかに違っている。目は大事だからもうK-1のような殴り合いからは引いた方がいいように思う。
03/10/17
手あかのついた比喩──日本のケネディ家


 石原三男が立候補することになってから石原さんのところを「日本のケネディ家」と表するマスコミが現れ始めた。早速全員右へならヘで今じゃ急速に普及しつつある。なんとも貧困な比喩だ。おまえら、それしかないのよか、と言いたくなる。そうしてまたサヨク系は、それを利用して「日本のケネディ家気取りでウンヌン」とそれをまるで石原家が発言したかのように逆手にとって批判を始める。くだらん話である。そのうちバカマスコミが直接そう問うて、石原都知事から直接否定されるのは目に見えているのでその前に書いておこう。

 まずは私のケネディ家観である。
 そういう時代に育ったので彼には憧れた部分があった。なんといっても四十代で世界一の国のトップというのは子供心にもかっこいいと思った。小学生の時に伝記を読んだ。まだ生きていたがもう出版されていた。そして、そのすぐ後に殺される。日本初の衛星中継が「ケネディ暗殺の映像」だった。若き栄光の大統領が衆人環視の中で暗殺される(しかも脳みそをふっとばされて)現実は、アメリカという国をとらえるのにあまりに衝撃的だった。ケネディと力道山の死は子供時代の「朝のニュース」として格別に印象深い。

 そういう形で知った彼をそのまま偶像化してきたかというとそんなこともない。漫然と接してきてだけだが今に至るまでにかなり否定的になった。それが自然だろう。弟の暗殺も無惨だったし、美しい大恋愛と読んでいたのに、さっさとギリシャの大金持ちのじーさまと再婚する女房にもしらけた。子供達の言行もむちゃくちゃだった。本人の病的な女癖の悪さも、マリリン・モンローまでは早くから知っていたが(これも弟まで関係のあったことが明白で、おまえらきょうだいドンブリかいと気分が悪くなった)オードリー・ヘップバーンまでもと知ると、うんざりする。私の中でオードリーの価値も落ちた。さらには、その病的な性欲の強さも、単なる性豪ならまだよかったが、本当にホルモン的な病気で異常に性欲が昂進してしまうのだと知ると気味が悪くなる。競馬でたとえるのもなんだが、ジョンという馬がダービーを勝ち、ロバートという弟がGⅡを勝ったものだから、それ以降の弟や子供が異常に期待され、GⅠのたびに断然人気になったが、ことごとく裏切ってばかりで、純粋に成績だけを見たならすこしも華麗なる一族ではない。人気倒れだ。それが現実だろう。そうして致命的なのが、その暗殺がアメリカの暗部として隠されていることだ。オズワルドの単獨犯であるはずがない。こんなケネディ家を礼賛する人の感覚の方がおかしい。親子で大統領やってるブッシュのほうがよほど華麗である。

 未だにケネディ家を礼賛する人は、現実を直視せずキレイゴトで解釈している幼稚な人か、自分がケネディになりたくて都合よく彼を英雄視しているいる人ぐらいだろう。クリントンのように実際に高校時代に握手をして憧れたならまだしも、日本のそれは現実から目をそらした雰囲気だけのものである。マスコミ人として、これほど呪われたとしか言いようのないケネディ家を、無神経に石原家にたとえて言い得て妙と悦に入っているのは相当に感覚の腐った人だ。あんな呪われたとしか言いようのない一家にたとえるのは失礼だし、それを承知でやるなら、サヨク側からのあきらなか悪意であろう。

 石原さんは著書(『わが人生の時の人々』)の中で、自分なりの政治観としてニクソンとケネディに関して明言している。ニクソンではなくニクスンと表記しているのが印象的だ(関連・「慎太郎流カタカナ使い」)。ニクソンの政治能力を評価し、ケネディのそれに疑問を呈している。ケネディ礼賛の世評にも触れ、「華麗なる一族のように言われているが自分には一連のことからむしろ呪われた一族としか思えない」と言い、言わなきゃいいのに「息子も飛行機事故で片足になったりしているし」とまで書いている。事実ではあるがここがあの人のひとこと多いところで(笑)、それじゃせっかくそうだそうだとうなづいた人でも、体の不自由な人は引いてしまうだろう。
 ニクソンとは個人的にも親しく、実はあの大統領選挙ではニクソンが僅差で勝っており、そのことを訴えたら世界の歴史は変ったのに、ニクソンがそれをしなかったことを知っていると話したら、日本にもそれを知っている人がいるのかとおおいに盛り上がったなんて秘話が書かれている。政治家・石原慎太郎はケネディ否定のニクソン賞賛派である。

 あえて「日本のケネディ家」を探すとどこだろう。政治的には祖父が総理大臣を務め、父も大臣を務めながら、その後しりすぼみになってきている名門・鳩山家であろうか。しかしそれにしたってみんなまともな人たちであり、日本人の常識として、あんな呪われた一族に比喩することは失礼になる。鳩山家のほうがずっと充実している。それが私の結論であり、華麗なる一族としてやたらケネディの名を出す人の神経を疑う。

 と言いつつ私なりの日本のケネディ家を考えると、私は田中角栄を思い浮かべる。いつの間にかケネディ家は華麗な系統になってしまっているが、なんてことはないアイルランドからの移民で、おやじが汚いことをして大金を儲け、息子に夢を託して金をばらまいてのしあがっただけである。その最大の歪みは「夢の実現を力で急ぎ過ぎた」ことにあろう。本来長男がかなえるべき夢を実現できなかったために次男のジョンに過剰な期待が寄せられた。

 田中角栄の場合、無一文から財を成し、オヤジの金などなかったから、この比喩には首をかしげる人は多いだろうが、「夢の実現を急ぎすぎた、そのことによるひずみ」といういちばん大きな点で共通している。そして二代目が愚かなこと、三代目が政治に背を向けていることでも。

 ケネディはあんなに急いで大統領になろうとしなければ殺されることもなかったはずだ。いや、彼の場合、フロンティア精神というムードで突っ走って一気にのしあがった地位だったから、あの時にならなければ政治家としてのボロが出てきてもうなれなかったかもしれない。あれは千載一遇のチャンスだったか。
 それと宗教の問題があったから結局は殺されたのか。プロテスタントが権力を握る国でカソリックは異端だった。まったくキリスト教のカソリックとプロテスタントの争いは醜い。北アイルランド問題もそれである。同じキリスト教の中で宗派の違うのが死にものぐるいで殺し合っている。

 田中角栄は正しく順番を護り、何年後かに宰相になったならもっとまともな形の長期政権を構えられたろう。それが何人もの頭上を飛び越え、あまりに急いで成ったために、それを保守する手法として強引なことをやりすぎた。どんなに地盤や手下に金をばらまいても、官僚ひとりひとりの名を覚え自分は無知だからよろしく頼むと腰を低くしても、超えられない官僚の壁があった。竹下に裏切られた憤死の種は自ら蒔いたものだ。

 その父の無念を怨念とした世間の見えない愚かな娘は正にあだ花だが、すくいはそれを見てきた三代目が政治に背を向けたことだ。それこそ彼が慶應の学生の頃から期待の星としてたびたび紹介されていた。地元民も女であること以前に二代目の冷たい性格を見抜いていたのだろう、母親を通り越して息子に熱い視線を送っていた。二十五ですぐにでも出るかと思ったが出ない。結婚して公認会計士の道を歩んでいる。好きあった娘との結婚に二代目が反対し、それでますます三代目の心は冷えたと言われている。まだどうなるかわからない。二代目が失脚したら担ぎ上げられて出てくるのだろうか。出てこないほうがいい。新潟県民はもう田中角栄の夢からさめるべきだ。

 安易な「日本のケネディ家」という比喩に対し、『文藝春秋』11月号を読んでいてべつのことも考えた。
 ここでは小泉首相秘書官の飯島秘書が取り上げられている。その戦略として、「近頃の人はスポーツ紙で政治を知る」とスポーツ紙が取り上げやすい広報に徹したとか。小泉戦略の勝利の手法として取り上げられている。
 これは私もスポーツ紙大好きなので実感としてわかる。野球、サッカー、ゴルフというメジャスポーツに興味のない私にはスポーツ紙はほとんど読むところのないものだった。芸能にも興味がない。競馬と格闘技のために買っていたようなものである。格闘技も以前は『デイリー』と夕刊の『東スポ』しかなかった。だから長年スポーツ紙とは、私にとって競馬のある日の朝刊紙と毎日の夕刊紙だった。それが格闘技と政治の話が載るようになって毎日の朝刊紙となって行く。この世情を小泉陣営は利用した。

「日本のケネディ家」なる陳腐な比喩は、一連のこの流れで出てきたものだろう。さすがに否定であれ持ち上げであれ、まともな新聞が石原一家にこんな形容は出来ない。コラムのなかでならいざしらず見出しには出来まい。スポーツ紙なら出来る。これが命である。このあまりに安易な比喩は、スポーツ紙と政治を取り上げるようになったワイドショーが元凶と言えそうだ。それは識者の嫌うポピュラリズムであろうが、それを無視できない時代に来ている。今後もこんないいかげんな見出しにはうんざりさせられそうだ。
03/11/17
忸怩


 以前も書いたことだが、どうもこの言葉の使い間違いが気になる。きょうも『週刊ポスト』を立ち読みしていたら出ていた。
 忸怩とは、《じく‐じ【忸怩】ヂクヂ 恥じ入るさま。「内心―たるものがある──『広辞苑』》
《じく‐じ【忸怩】じくじ(ヂクヂ)〔形動タリ〕自分の行いなどについて、自分で恥ずかしく思うさま。「内心忸怩たるものがある」──小学館国語辞典》
 なんて引用をするまでもなく、「恥ずかしい」である。ところがこの「じくじ」という音が影響するのか、どうにも「ぐじぐじと悩む」のような意味に誤用されている。この『週刊ポスト』の記事でも、前後から判断して、どう考えてもそれは「恥ずかしい」ではなく「ぐじぐじ悩む」の意なのだ。正しい「恥ずかしい」だと意味が通じなくなる。
 まさかこの用法が一般化し、あたらしいもの好きの辞書が「最近ではぐじぐじ悩む意にも使う」なんて載せることはないと思うが……。どうにも気になる。
03/12/3

佳編と筆才

 《『お言葉ですが…』論考》を書くのにカヘンと打ったら佳編が出てこない。これはさすがに知っていたので自分が間違いとは思わなかった。辞書を引く。間違いない。なんでこんな簡単な言葉がないのだろう。先日も「筆才」がなくて登録したばかりだ。
 一方で聞いたこともなければ見たこともなく、まずぼくごときでは一生使うことはあるまいと思われることばがたくさん収録されている。たとえば、「たんしょう」と打つと続々と知らない言葉が変換される。ぼくが使うのは単勝、短小、単称ぐらいなので他は消してしまったのでここには出せないけれど。どう考えてもその見知らぬ数多くの「たんしょう」よりも「筆才」や「佳編」のほうがありふれたことばだと思うのだが……。いったいこの種の辞書はどうやってことばを選んでいるのだろう。不思議でならない。
04/12/6
コピーの切り口!?

わざわざ自作するのがアホらしくなる!? 5万円パソコン徹底解剖
 これはパソコン雑誌『PCfan』の特集のタイトル。雑誌の切り口として、こういう形のタイトルを附けるしかなかったのであろう。気持ちはわかる。これにイチャモンをつけるのは無粋とわかっていて敢えて書く。
 このタイトルから類推すると「自作とは市販品よりも安く作ることが目標」のようになる。「市販品の5万円格安パソコンがこんなに充実している→自作の意味はないかも!」がテーマだ。
 でも自作ってのはそうじゃない。作るそのことに目的がある。いまさらこんなことを言わなくても自明の理だが、素人が5万円の市販品格安パソコンと同じものを作ろうと思ったなら8万円ぐらいはかかる。買ったほうが安い。早い。そんなのわかりきっている。たとえばそれはぼくが酢豚だの八宝菜だのを作るとやたら材料費がかかり、だったら店屋物で一品を食ったほうがよほど安くておいしいのと同じだ。目的は値段じゃない。作ることにある。

 まあこのコピーは、その最後に「!?」がついていることからも、編集者達もそれはわかっているのだが、「最近の5万円の格安パソコンってすごく充実してるよ」と特集する見出しとして、「自作がアホらしくなる」という切り口上にしたのだろう。
 目的としては食いついてくれればいいわけで、私のようなのがここにこんな文章を書いているのだから目的達成と言えるのかも知れない。ただし食いついたけれど釣れた(購入にいたった)かと言えば、多くの自作愛好者が、「自作ってそうじゃない!」と憤慨して手にはしたけれど、「なるほど、5万円でこんないいパソコンが買えるのか。じゃあ自作をやめて買うことにしよう」とはならなかったはずだ。
 この見出し、成功なのか失敗なのか!? 
03/12/4

改竄

 知ってはいたが私はこんなことばを使ったことはなかった。必要がなかった。改竄(かいざん)である。
 ところが、し×まるなるものが私の文を「いくら抗議しようと、いざとなったらどうせ自分に都合のいいように改竄するのだろう」と、あれはどこだっけ、Yahooの掲示板か、に書き込んだので、「ああ、そうだよ、おれの文だもの、いつだっておれの都合のいいように改竄するよ。当然じゃないか」と、この『作業記録』に書いた。よってこのホームページに一カ所だけこのことばが使われている。

 『正論』にある「改竄」を読み、自分も「TBSが石原発言を改竄」と書いてハッとした。私が以前この言葉を使ったのは単なる「書き換える」の意味である。そう解釈しその意図で使用した。しかしどうやらこれは常用として悪い意味に使われるのだと思いつく。たとえば「帳簿を改竄する」と使われた場合、それは単に書き直したのではなく、税金逃れのために嘘の数字を書いたりしたときに使う。

 とすると、「自分に都合よく改竄するのだろう」と私を非難したし×まるの使いかたは正しいが、「おれの文章だもの、間違っていた箇所があったらいつでも書き直すよ」の意味で使った私は「常識的な使用法としては」誤用したことになる。「おれは悪人だからな、いつだって自分を正しく見せるためには嘘八百を並べ立てるよ」と自分で言ったようなものだ。それもそれで人の生き方だからかまわないと思うが、私はそう意図して書いたのではない。「自分に正直に、間違っていたらそれを認めて、あとで書き直すよ」と言っただけなのだ。

 救いとしては、どの辞書も、本来は「字句を改める」の意であり、そういう意味はなかったとしていることだ。あくまでも習慣として「悪い意味に使われることが多い」でしかない。たぶんそうなったのは、「かいざん」のZANの音と、「竄」の字の見た目にあるのだろう。
 二度と使う気もないのでどうでもいいが。使い慣れないものは使わない方がいいという好例になる。反省。
03/12/5

《静香》静音電源総合スレpart3《亀井》

 ま、なんてことないコトバアソビなんだけど、2ちゃんねるのパソコン板「自作PC」でのスレッドタイトルのひとつ。静音電源について語るスレタイトルの前後に亀井静香の名を配置したと(笑)。もしもこれが工藤静香だったらぼくがここに書くことはなかった。おもしろいわ、2ちゃんねるは。絞って接すると。
03/12/6
肯んじる


 読めない「肯んじる」
 図書館で『弟』を読んでいて読めないので辞書を引いた。読めないこちらがバカなのだろうが、首をかしげるのは「妬ましい」「訝った」等にはルビが振ってあるのである。それらは読める。私には「肯んじる」のほうが難読と思えるのだが……。みなさん、どうでしょうか?
03/12/12
曝書


 図書館つとめのらいぶさんはいま「曝書」の最中なのだとか。
《ばく‐しょ【曝書】書物の虫ぼし。土用の晴天の日をえらんで行う。「図書館の──」》とは知っていたが、その後の「季語は夏」を知らなかった。「土用の晴天」にするのだから当然そうなるか。しかしこれ、ぼくなんかが個人として使っていいコトバなのだろうか。実際に今それらしきことをしているのだが。

附記・ふと引っかかるものがあって「土用」を調べた。
ど‐よう【土用】
暦法で、立夏の前一八日を春の土用、立秋の前一八日を夏の土用、立冬の前一八日を秋
の土用、立春の前一八日を冬の土用といい、その初めの日を土用の入りという。普通に
は夏の土用を指していう。季・夏

 そうなのだ。一般的に土用と言えばウナギで有名な「夏の土用」なのだけど、決してそれだけではなく、四季に土用はあるのだった。
03/12/13
スティンガーとサイドワインダー


 スティンガーという名の競走馬がいた。かっこいい名前だと思っていた。意味は知らない。ミサイルの名にもあるぐらいだから、そういう攻撃的な意味合いだろうと調べることもなく思っていた。
 きょう、英語としては一般に「有毒くらげ」に用いると知る。海岸の「クラゲに注意」のような看板には必ずスティンガーと書いてあるそうだ。かっこわるい名前だと思った。あのふにゃふにゃした、よくもわるくも存在感のないくらげである。
 しかしもう一歩転じて、スティンガーとはStingにerで、「刺すもの」の意であり、転じて有毒クラゲを刺すと知る。馬名のそれが、「刺すもの」から「差すもの」と判じ物にしたのなら、かなり凝った名になると気づく。競馬では後方から行って勝負に出ることを「差す」と言う。これに掛けたのか。
 結論としてスティンガーという馬名はやはりかっこいいと思っていいのだろう。無知だとこんなちいさなことひとつでもてんやわんやだ。

附記・日曜の競馬にサイドワインダーなる馬が出ていて、これまた思い出した。ぼくはだいぶ前にJazzの名曲としてこのコトバを覚えた。次に兵器の名として覚えた。ミサイルである。そうして馬名である。一貫して攻撃的なかっこいいコトバであった。
 しかし辞書を引くと、なにしろサイドでワインドであるから、「横からの激しい一撃」という思っていたものとは別に、「見下げた奴、卑劣な奴」という意味があるらしい。となるとすこしもかっこよくない。むずかしいものだ。これもたしか毒蛇の名でそういうのがあった。やはりミサイル系はそれと被るようだ。

普通のクラゲは英語でjellyfish
04/12/16

サボる──名詞の動詞化──パニック

 ぼくは名詞の動詞化である「事故る」とか「パニクる」を、文章はもちろん日常用語としても使わない。その理由は、それらが日本語の問題点であると意識するようになってからのコトバだからのようだ。それ以前の「サボる」なんて高校時代に覚えたものはなんの疑問も持たずに使っている。これはフランス語のSabotageサボタージュを、「カタカナにして、省略して、動詞化したもの」だから、日本語の「事故る」等よりももっと異様な日本語になる。
 これらのことからもぼくがいまの高校生だったら、間違いなく破壊された日本語を率先して使っていて、生き甲斐は携帯電話だった可能性は高い。毎日100通ぐらいメイルを改訂太郎(←書いていたろう)。ケイタイ電話料を稼ぐためにコンビニでバイトして、いつも最新機種をもっていて、日本語のラップを聴いていたのか。それはそれで楽しいような(笑)。まあそれを思えば、今時の女子高生を汚物扱いもできないか。

 パニックというコトバには思い出がある。チェンマイで友人が警察に逮捕され、うろたえてしまったぼくはバイクを借りていたところに行き、支離滅裂のことを訴えた。それはイギリス人の男がタイ人の女と結婚して営業しているレンタルバイク屋だった。チェンマイでこのヨーロッパ男とタイ人女のパターンは多い。友人を保釈させるための金をおろすのにクレジットカードとパスポートが必要だった。その金をおろす場所にバイクで行きたい。バイクはディポジットとしてパスポートを預けないと借りられない。パスポートは預けられないがバイクを借りたいのだと矛盾したことをぼくは言っていた。いまこの時間にもあのタイ語などひとことも話せない友人が拘置所の中で心細い思いをしているのだと思うと、文字通りそのときのぼくはパニクっていた。おろおろし、わけのわからないことを繰り返すぼくに、そのイギリス人が言った。
Not Panic!
 そのひとことで、焦り、うろたえていたぼくは一瞬にして素面にもどり、以後冷静な行動が出来た。彼は声高に言ったのではない。ごく普通に言った。低いバリトンのいい声だった。

 なぜぼくが催眠術から醒めるようにハッとした感じで落ち着けたかというと、それは「初めて外人の口から聞いたパニックというコトバ」だったからである。
 パニクるなんてみっともないコトバは使わなくても、パニックというのは、学生時代から使っている生活に密着した若者言葉だった。がぼくはそれを英語として聞いたことがなかった。目の前のいかにもイギリス人らしい彼から聞いた「Not Panic!」を、ぼくは「へえ~、パニックってこんな感じで使うのか」と感心して、興味がそちらに走り、そのお蔭で平静になれたのだった。これもまたこれでコトバの効用か。

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