2002~2003


02/3/4
漱石のいいえ──わかりやすい文章
(02/3/4)



 週刊文春の書評から。司馬遼太郎と漱石。筆者は慶応大学医学部助教授の向井万起男さん。タイトルは「沈黙は金、雄弁も金」。
 内容はまず自分がおしゃべりであり、「沈黙は金、雄弁は銀」には反発するというフリから、いちばん尊敬している司馬遼太郎も大のおしゃべりであり、死後その講演録がぞくぞくと本になっていると、その本を紹介し、雄弁だって金でいいと結ぶ。

 おもしろかったのはその後。なんでもその講演録で司馬遼太郎が夏目漱石の作品でいちばん好きなのは「三四郎」だと語っているらしい。漱石が大好きで高校生時代にすべて読破した向井さんは、「三四郎」をよい作品だとは思っていなくて、それが意外だったという話である。その理由がなるほどと頷かせる。漱石の文章には英語的な「いいえ」が多いのだそうな。そう、日本人が英語を話すときに戸惑う、あのイエスとノーの使いかたである。

「あなたはバカですか?」に対して肯定の日本語は「はい、わたしはバカです」になるが、英語では「いいえ、わたしはバカです」となる。漱石の作品にはこの英語的な使いかたが多いらしい。それをロンドン生活が長かった漱石は英語の影響を受けているからだと庇う人がいるが、英語的に統一されていればまだしも、日本的ないいえを使っている場合も多く、これは極めて問題であろうというのが筆者の主張。

 漱石の作品には「あなたはバカですか?」に対し「いいえ、わたしはバカです」という英語風と「はい、わたしはバカです」という日本風が混在していて、さらには「あなたはバカですか?」に対し「いいえ」と応えているだけの文章が多々あり、それが否定なのかなと思っていると、それが英語的なイエスの意味だと後の文章でわかったりするものもあり、どうにも認めがたいのだそうな。
 中でも最もそれが頻繁に現れるのが「三四郎」であり、わかりやすい文章を書くことでは最高の司馬さんがなぜ「三四郎」を持ち上げるのかわからんと向井さんは結んでいる。



 文豪の文章にケチをつけたのだから筆者も反発も覚悟のようで、漱石の文章からひとつの「いいえ」の例題を出し、読者のみなさんの想像する「いいえ」とは違っているはずだとしている。思わず私も「三四郎」を読み返してみようかなと思ってしまった。そう思わせるのは優れた随筆である。
 この問題に同じ文春で連載している高島さんが取り組んでくれないかなと思う。高島さんは漱石崇拝者だからきっとやってくれるだろう。今や高島さんの『お言葉ですが…』は、多くの読者とのコミューンのようなものだから、この向井さんの提起には、コミューンのみんながだまっていないだろう。楽しみな展開になってきた。

 向井さんが司馬遼太郎を支持するいちばんの理由は、彼の文章がわかりやすいからであり、その根底には、いま意図的に使ったのだが「彼」のような人称代名詞を極力使わないようにしているからだとある。話し手が誰か混同されないよう、なんどでも語り手の名をフルネイムで、時にはくどいほど繰り返す手法を使っているからだという。そうして向井さんも、「私は今までただの一度も〃彼〃も〃彼女〃も使ったことがない」と結んでいる。ううむ。なるほどね。


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 私は今までたった一度だけ知り合いの物書きに注文をつけたことがある。それは競馬に関する連載レポートのような文章だった。そこには大勢の人が登場し、やたら「と言った」との手法が連発する。
 めちゃくちゃおもしろい文である。だが誰が何を言っているか解らなくなり、何度も前の文章にもどり、発言者が誰かを確かめねばならなかった。なにしろ〃彼〃さえないのである。だから「だけど××はダメかもしれない」とあったら、その「だけど」から、「先ほどまでは××を肯定していた人であろう」と推測して発言者を捜さねばならないのだった。これは煩わしい。そのひとは純文学の出身であることからのこだわりなのか、改行もあまりしない。読みにくいこと甚だしい。当時の私より年長者でありこの業界の先輩でもある。

 これを言うときはけっこう度胸が要った。私は自分が先輩の文章の大ファンであり、毎号楽しみにしていて真っ先に読む、だからこそ、だからこそ失礼を承知で言わせてもらうのだが、と前置きして意見を言った。どうかもうすこし発言者が誰かわかりやすくしてもらえないだろうかと。
 翌号から発言者は明確になり、発言毎にカギ括弧で改行されるようになった。比べようがないほどわかりやすい文章になった。非礼を承知で意見を言ってよかったと、素直に聞き入れてくれた先輩に感謝しつつ思ったものだった。
「読みやすい文章」「わかりやすい文章」はすべての基本である。

 司馬遼太郎と漱石の作品を、「わかりやすさ」と「発言者は誰か」「人称代名詞」を念頭に置いて読み返してみたい。こんな気持ちにさせてくれる随筆は貴重である。
03/1/10
過不足


 いま「過不足」を「かそく」で変換したら、ATOKに「「かそく」の間違いと指摘されてしまった。しかしなあ「かふそく」は言いづらいだろう。日本語の発音として不自然だよ。試験のかなふり問題じゃ×かもしれないが、言いにくくて間抜けな「かふそく」と言う気も今後もない。誤読でけっこうだ。

 高島俊男さんは「ひらかな」と書く。「ひらがな」と鼻濁音はよくないようだ。これはまあなんとか言えるので先生に従ってこれからは濁らないようにしよう。

【附記】──その後、反省して「かふそく」と言うようにしています(笑)。

03/1/21
お疲れ様とご苦労さん+中曽根さんの「ひさかたの」

「お疲れ様」が目上に、「ご苦労様」が目下に言う言葉であるのは日本語の常識である。貴乃花は天下の大横綱ではある。ぼくよりは遙かに年下だけどここでは「お疲れ様」だろう。「ご苦労さん」なんて言ったら、ぼくの常識度が疑われる。それがまともな日本語である。そんなことを『お言葉ですが…』の高島俊男さんもずっと前に書かれていた。
 ところがある日、高島さんは中曽根大勲位(当時の首相)が昭和天皇に「陛下、ご苦労様でした」と言うのを聞いて腰を抜かしたという。と同時にまた、そういう時代なのかなとも思ったという。『お言葉ですが…』にそんな一章があった。



 中曽根大勲位と言えば、先日チェンマイの『サクラ』丸テーブルで話しているとき、中曽根さんが「ひさかたの」から始まる珍妙な句を詠んだ話を、ぼくはした。枕詞である「ひさかたの」を中曽根さんが「久しぶりに」という意味で使った句を詠んで識者に失笑された有名な話だ。句は大新聞でも発表された有名なものだ。

ひさかたの 茶のぬくもりや けさの秋

 そういう話が出来るメンバーだろうと判断して話し始めたのだが、見事に通じて、「あれは光にかかる枕詞でしょう」とランプンのTさんが応えてくれて、長老のHさんが、「ひさかたの光のどけき春のに日に……。え~と、そのあとなんだっけ」となり、最近の『サクラ』には珍しく高尚な話(?)で盛り上がった。ほんとに最近の『サクラ』は「日記」に書いたゴリラおやじあたりがろくでもない話で牛耳っているので、この程度のことでも珍しいことになる。印象的な一件だった。なこたあともかく。



 先ほどNHKニュースを見ていたら、若者が引退する貴乃花に「ご苦労様と言いたい」とやっていた。それを責める気はない。しかたないよね。自分もそういうバカだったし。それでも中野坂上の商店街に張り出されたそれぞれの手書きのビラが、うまい字、へたな字、すべてみな「お疲れ様でした」にはすこし安心した。
 そしてまたこんなのも「言葉は慣用」であるからして、変って行くのだろうし、絶対的なものではないのだろう、とも。

 それでもぼくは今、「目上にお疲れ様、目下にご苦労さん」の原則を守りたいと思っている。それを親しい年下の友人に伝えて行きたい。
 自分が目上の人からしてもらったことへ感謝しつつ、自分が年配者になってせねばならないことは、年下の友人に嫌われようとも言うべきことをいう人であらねばならない、ということだ。それが今の日本に最も欠けていることだろう。

 そんなわけで、ここを読んでいる数少ない年下の友人達よ、「目上の人には、お疲れ様でした、目下の人には、ご苦労様」の原則をお忘れなく。特に、組織社会に属していないとこういう常識ってのは教えてくれる人がいないから、よく覚えておきましょうね。年上のぼくに「ご苦労さん」と言わないでね(笑)。

03/1/21
させていただきます
03/1/21)

 貴乃花の引退会見。「なれるとは思っていなかった横綱にさせていただき……」「22回の優勝をさせていただき……」と「させていただき」のオンパレード。気になってならない。自分の実力で横綱になった、実力で優勝した、なにも「させていただいた」わけではあるまいと思ってしまう。

 じゃあなんて言うんだと考えると、うすらバカは深刻に悩んでしまう。たとえば「本日結婚式の司会をさせていただきます××と申します」なんかだと、「司会を務めます」でいいじゃないかと言い切れる。だけどこれはむずかしい。「横綱になり──正しくは綱を張るだから、横綱を張り──22回の優勝をすることが出来ました」じゃだめなのか。

 こういう言葉遣いってのは、謙虚を前面に押し出しているようで、実は「揚げ足を取られないよう」って心遣いが大きい。政治家が典型だ。
 世の中にはアンチ貴乃花も多いし、そういうのが重箱の隅を突っつきたがる。たしかに横綱という地位も優勝も自分だけの力では成し遂げられなかったものではあるかもしれない。

 でもやっぱり「させていただき」と言うものではないと思う。高島さんにもう一度このテーマに踏み込んでもらいたい。

03/3/4
しかしだからといって

 外国に行っていて読みのがしていた『産經抄』をネットで読んでいたらこんな項があった。

 しかし、だからといっての乱発に対する意見である。最近のマスコミにはこの切り口が目立ち、それはいかがなものかと言っている。
 たとえば「たしかに拉致はよくない。しかしだからといって植民地支配がウンヌン」、「テロはよくないことだ。しかしだからといってイラク攻撃が」という、一見引いたように見せかけて、実は我を通しているだけのこの種の論調に対する批判である。

 まあね、どこがなんだとメディア名を出す必要もないだろう。せめて、とにかく、自分はやらないようにしないとな。おれ、やってないよな、「しかし、だからといって」は。心配になってきた。
03/4/19
句読点

 ネットの文章には、句読点のないものが多い。そのことが気になっていた。
 ネットの文章は「しっかりしているけどおもしくろないもの」と「めちゃくちゃだけど読ませるもの」にわかれる。割合この傾向は顕著で、沢木耕太郎を目指しているらしい、言葉遣いやその他しっかりしているものほど中身はおもしろくない。いや逆か。おもしろいものに、そういうことを無視しているものが多い、とこの言いかたのほうが正解に近いか。

 たとえばあるゲイの人が書いている文章は、うまくないし、雑なのだけれど、その人のもつヴァイタリティに圧倒されてついつい読まされてしまう。この人の文章にも句読点がない。読点ははあるのか。句点がないのだった。
 若い人ならともかく、ぼくと同じぐらいの年齢の人だから不思議に感じる。そんなとき、ゲイという世界に飛び込んだ人にとって、句読点の決まり事なんてのは、いかにも古色蒼然たる打破すべき旧態依然社会の象徴なんだろうなと思ったりする。



 そういうことにこだわるぼくにも近年問題が生じた。モーニング娘。である。この句点は曲者だ。興味がないのだからどうでもいいのだが、どうでもいいものだからこそ固有名詞はきちんと表記したいとも思う。ぼくの文章にはめったに登場することはないが、これには「モーニング娘。」とカッコの中に閉じこめることで対処した。

 先日東京にいたとき、筒井康隆の古い作品を読み直していたら、彼はもうこのことに三十年以上も前に挑んでいた、というかこれをテーマに遊んでいた。彼がそれをやったことは信奉者として覚えていたけれど。
 筒井は句読点をいれない短文をわざと作り、そこで「。」と「、」について語っていた。こんな感じだ。

《文章における。と、は必要なのであろうか必要であるとするなら。を入れねばならないのだがどうにも。にあまり意味があるとは思えないのだそもそも。があることによって読みやすくなったり、があるからといって》
 のようにだ。句読点を入れない文章にそれを語るために句読点を入れられると、その使用法になれた人は思わずそこで立ち止まってしまうから笑える。

 ケイタイでメイルをやるようになっても──その可能性は皆無だが──ぼくはやっぱり句読点をしっかり入れるように思う(笑)。

03/5/5
障がい者


 先日らいぶさんに教えてもらった話。らいぶさんの仕事先での話だ。
 最近社会党系の文書では「障害者」を「障がい者」と書くとのこと。気持ちはわかる。「害」は「益害」「害虫」の害だから避けたいだろう。身体障害者も「害」と使われるのは不快に決まっている。そのことには気持ちとして賛同するのだが、でもだったら最初からわかっていたことだろうに、とも思う。「身体障害者」なんてことばを最初から作らねばいいのだ。

 本来は「障碍」である。これが使われていたら敢えてひらがなに書き換える必要も生じなかったろう。「障がい」とひらがなになっていると、この「がい」ってなんだうろとかえって注目してしまう。文部省の漢字制限により障碍の「碍」の字が使えなくなり、「害」を当てて障害としたことの弊害になる。そう、これこそたしかな「害」である。



 桂米丸の落語を思い出した。何十年も前によく聞いた前振り。奥さんがたまに寄席に来るそうだ。それを亭主に知られないよう、顔を前席のひとにかぶせて、ずらしている。高座の米丸からすると客席の配置は高座が見やすいように、一列毎にずれて、前列の客の合間に後列の人の顔が来るように設計されている。きちんと互い違いに客の顔が並んでいるのに、一カ所だけ顔をずらして前の客に隠れている人がいる。どうしたんだろうと目をこらし、すぐに奥さんが来ているとわかるとのこと。平然としていたら気がつかないのに、と。
 米丸という人はこんな日常的なマエフリがうまい。
 「障がい者」もこれと同じ効果がある。



 障害者で慣れているから「障がい者」となっていたら、普通の人はなぜ「がい」だけひらがななのだろうと考える。難しい字だからか。「害」はむずかしい漢字じゃない。すぐに「害」の意味が悪い意味だからと納得するだろう。表意文字の功罪だ。「しょーがいしゃ」なら問題はない。

 カタワ、フグシャ、シンタイショーガイシャの用語変遷に関して、「ことばがより直接的になってきている」と言われる。「カタワ」とか「フグシャ」は、現在使われなくなったことばだが、ことばから意味を想像するのはむずかしい。シンタイショーガイシャだとシンタイとショーガイを想像するのは難くない。

 直截的であることばに対する忌避の発想は彼ら(社会共産系の連中)にも強くあるだろうから、そのうち日本人得意の英語置き換え(=責任回避)が実践されるだろう。身体障害者ということばを使ってはならないとし、ハンディキャップドピープルとかにするはずである。一般にこれはハンディキャップドメンと使われるが当然それでは男だと抗議するカタガタがいるので、ピープルにでもするのではないか。現にJRの席での表示は身体障害者ということばは使わず、そうなっている。以前はなんでもかんでも西洋のカタカナにすればいいもんじゃないだろうと腹を立てたのだが、今は気にならない。漢字も英語も同じだと割り切ったので。

 身体障害者ということばは使用禁止用語の道を邁進している。絶滅寸前である。ただしそれはそうなることはわかりきっていたことだった。

 あらたに指定されたハンディキャップドピープルは、いかにも日本人らしくすぐに「ハンキャプ」という略称になり、まもなく「あいつってハンキャプだからさ」と新たな差別語が生まれるだろう。そうなったら今度はなにに置き換えるのか。この辺のごまかしぐあいは、瞶めるべきの国のことから目をそらし、ひたすらサヨク的妄言恒久平和ばかり唱えている感覚に通じる。いいかげん目先のごまかしはやめて、腰を据えて正面から考えるべき時期と思うのだが。

02/3/3
吃音症──円歌
(02/3/3)

 日曜の明け方、朝の五時、NHKで円歌の落語をやっていた。相も変わらず高田馬場の駅員時代を振り返り、歌奴時代の「山のあなあな」のツカミから入ってゆくのだが、なんとも奇妙に思えたのは、当時の「ドモリ」をすべて「吃音」に替えていることだった。

「あたしはね吃音だったんですよ。こ、こ、こ、こんにちはって挨拶さえ吃音になっちゃって。なんとかそれを直したいと思い切って噺家になろうとしたんです。で師匠のところに、し、し、し、師匠、あ、あ、あ、あたしは吃音なんですけど、は、は、は、噺家になれるでしょうかって訊いたら、師匠が、そ、そ、そ、それはたいへんだなって、師匠も吃音だったわけで」と笑いを誘っても、、その何度も何度も出てくる「キツオン」ってことばの響きが引っかかって笑えない。

 それはぼくだけじゃなくて会場だってそうだったろう。時代が時代といえばそれまでだが、こんなものは聞きたくないやね。なんともつまらない時代だ。ドモリだった青年ががんばって落語をやり、それを直したという話を、ドモリと使って出来ないんじゃ世も末ですわ。もしもそれを聞いて局に抗議する吃音症の人がいたら、その人のほうがまちがっていると思いましたけど。

 いや、そんなことをするドモリの人はいないんだよね。テレビでドモリということばを連発したら局に抗議は来る。でもそれはそういうことを趣味としているサヨク人権派がやるのであって、実際のドモリの人とは無関係だ。局もそれはわかっているから、ドモリに気を遣っているのではなく、そういう狂っている抗議魔と無縁になるために、臭いものにフタならぬ「臭くなりそうな可能性のあるものにフタ」をしているのである。世の中、病んでいる。バラエティ番組で意味もなくドモリと連発するようなことには反対だけど、落語のこんなところまで規制してしまうとは……。
02/5/21
蜜柑色
(02/5/21)

 ラジオの大相撲中継で、アナウンサーが「蜜柑色」と言った。武双山のまわしだったか。妙に新鮮に響いた。誰もが今オレンジ色と言っている。だが、多くの日本人にとって、カリフォルニアオレンジのようなものよりも日本産の蜜柑のほうがまだまだずっと身近なはずである。なのにオレンジ色……。

 学生の頃、「木綿」と言ったらアパートの隣人の学生が笑った。古くさい表現だと。田舎者の彼は都会的なものへの脱皮に懸命だった。田舎者であることは私も同じだったが、歌を作っていたから、言葉感覚は彼とは違っていた。私だって普段は「コットン」だった。VANやJUNのコットンパンツ全盛の時代である。
 だけどそのとき、むしろ「もめん」のような言葉の復興期に入ったのではないかと感じていたのだ。歌のために、ありふれているけど光る可能性のあるありふれた言葉を毎日触覚を振り回して探していた頃だ。はっぴいえんどのドラマー、松本隆が歌謡曲の作詞家に転身し、「木綿のハンカチーフ」を書くのは翌年だった。前記「触覚」は、わざとアンテナではなく使ってみた。アンテナとは触覚のことである。



 十年ほど前、「小豆色」と言ったら笑われた。笑ったのは「チェンマイ日記99夏」に登場するM美だ。「ワインカラー」と言えと言う。夜の世界でバイトしているM美の周囲には小豆色はないのだろう。小豆をあずきと読めない若者もいる。生の小豆を見ることもめったにないから、それはそうかもしれないとも思う。赤ワインのほうが生活にあふれているし。でも使わんけどね、私は。

 桃色もピンクに押されている。蜜柑と違い、桃の実を目にすることはかなりすくなくなっているか。うちの庭には成るが。あまり茶の間のテーブルに乗るものでもないし。もうピンクを桃色が逆転することはあり得ないだろう。「桃色遊技」「ピンク映画」。こんなのも死語か。

 連想で思い出した。むかし「セリカXX(ダブルエックス)」が欧米に輸出されるとき、XXがあちらでは成人指定を意味するといういうことで車名が変えられた。日本ではXやZがかっこいいと思われていた時代だ。欧米にスポーツカーを輸出するほどの技術力をもつようになったけど、その辺の事情に関してはまったく疎かったのだろう、印象的な事件だった。



 桃の花は美しいな。今年の春は、桃の花の美しさを再認識した年として記憶しよう。こんなにかわいい花なのかとしばらく見とれていたほどだった。なんでいまごろそんなことを言うかというと、毎年桃の花の咲く時期に日本にいないから、長年目にしていなかったのである。
 柿の花も美しい。柿は、葉も美しい。「柿の葉の茶」を私は飲んだことはないが、いかにも健康に良さそうだと、あの美しい葉を見て思う。おぉ、賢いATOK⑮は、「葉を見る」を「歯を診る」と自然に変換した。そうだねえ、今の日本にあまり「葉を見る」人はいない。「歯を診る」歯医者さんはいっぱいいるが。

 あ、そういえば先日、呉智英さんの本で、「かきに赤い花咲く」の項を読んだ。この場合の「かき」は垣根のことである。が、これを「柿」と理解し、「柿に赤い花咲く」と思ってしまう人が多いのだそうな。柿の花は白っぽい黄色だね。赤い花は咲かない。

 これを読んで私が、ああそうだったと思ったのは、いかにも古き良き日本を思い出すような郷愁に満ちたこの歌が、イギリス民謡の「LONG LONG AGO」だったこと。日本的な郷愁どころか本歌はそれこそバタくさい(これも使わなくなった言葉だ)あちらの音楽なのだった。たとえば「500マイル」なんて歌も、早い時代にいかにも日本的な郷愁の詞を添えて広まったなら、そんな立場になったかもしれない。
 「バタくさい」と言えば、私の兄はそれを「ゴミくさい、きたない」と勘違いしていて、面と向かって言うわけにも行かず困ったことがある。たぶん「バタ屋」とか、それから勘違いしたのだろう。



 服飾店に行くと、聞いたこともないようなカタカナの色名があり、最近はこういう色をこういう呼び方で言うのかと思う。思いはするが覚えようとしないので、ここで具体例が出せない(笑)。外国語なんだろうから外国人に通じる名前にしてくれよと願うだけで。
 以前の私ならこんなわけのわからないカタカナの羅列に腹立ってしまったのだが、今はすなおにそうですか、そういうもんですかとうなづいている。腹を立てないしうなづいてはいるが、自分もそれに馴化しようとは思わない。こんなことに腹を立ててもしょうがないのだ。なぜなら「日本とは元々そういう国だったから」である。

 キリスト教信者でもないのに教会で結婚式を挙げる日本人に私は首をかしげていたのだが、そういう節操のなそこそが日本人の本質なのだと思うようになってからは、いくらか気持ちが楽になった。
 逃げたのだとは思いたくない。中国にかぶれたら漢字一辺倒になり、英佛にかぶれたら鹿鳴館になり、アメリカにかぶれたらアメリカ一辺倒になるのは、昔から変わらぬ日本人の性癖なのだ。そのことによってうまく立ち回ってきたのだ。そう思うしかない。戦後民主主義絶対と天皇陛下絶対が表裏一体であるように。

 きょうから「オレンジ色」はやめて「蜜柑色」と言うことにした。


 これから数ヶ月後だったか、同じく相撲中継でアナウンサーがまわしの色を「オレンジ色」と言っていた。相撲中継のアナだから誰もが蜜柑色と言っているわけではないと知った。新鮮に思い、さすが相撲のアナは違うと見直した気分だったので、すこし失望した。

03/6/10
亜の字の意味
(03/6/10)

 「あり」と言えば、先日そういう名の美貌の女性と知り合って酒を飲んだ。楽しかった。ちょいとしゃれた高級居酒屋でさんざん飲んだ後、カラオケに行って午前三時まで騒いだのだが、美人が一人いるとあんなにも楽しいものかと思い知った。彼女が気持ちのいい娘であったことが最大の要因だけれど。

 漢字で書くと「亜里」さんである。いい名前だと言ったら、恋人時代の両親が映画「ラブストーリィ」を見て感動し、それからとったのだと教えてくれた。女優アリ・マッグローのアリだったのである。スティーブ・マックイーンの女房ね。

 亜里さんは三十二歳の獨身女性だった。「ラブストーリィ」ってそんなに昔になるのか。すくなくともそれを見て感激した恋人同士が結婚し、娘を作り、それにヒロインを演じたハリウッド女優の名をつけ、その娘が三十二歳になるだけ時が過ぎているのはたしかだ。茫然。おれもとしをとるはずだ。



 彼女の名を聞いて、高島俊男さんのすこし意地悪な話も思い出した。
 それは「亜」という字は「にせもの」のような意味であるってことだ。それを使った最も有名なのが「亜鉛」になる。亜鉛てのはほんとひどい命名だよね。いま健康にいいってブームだけど、名前はいまだに「ナマリもどき」のままだ。馬糞ウニと同じぐらいかわいそうな名前になる。

 「亜」がニセモノってことから、よって「亜美」なんて名は「にせものの美」のようになるから、あまりいい名前ではない、ノヨウナことを高島さんは書いていた。毒舌。敵を増やしている(笑)。亜里も里もどき、ニセモノの里になる。もちろん彼女には言えなかったけど。

 アの音で、あまりいい漢字はないし、亜細亜ってことからこの字を使う人が多いようだ。漢字は雰囲気だけでは使わないほうがいい。いま「翔」って名がその音のショーからも流行りらしいけど、羊に羽という漢字そのもので、まさしく吹けば飛ぶよな名前になる。とはいえぼくも二十代の時だったら息子にこんな名をかっこいいと思ってつけたろう。今はつけない。あ、この字の息子がいる人がいたらごめんね。
03/7/24

慎太郎流カタカナ(03/7/24)

石原慎太郎さんはかなり獨自の(というか文部省推薦にさからった)カタカナ表記をしている。
「わが人生の時の人々」から目に附くものを集めてみた。
一般 慎太郎流 ひとこと
カリフォルニア カルフォルニア Californiaである。何度も出てくるから誤植ではないようだ。
CD版広辞苑でカルフォルニアと打つとなにも出てこない。
イメージ
ステージ
メーン
トレーナー
ロケーション
グレート
メッセージ
ペーパー
イメイジ
ステイジ
メイン
トレイナー
ロケイション
グレイト
メッセイジ
ペイパー
この種の表現は一定しているようだ。
といって同種の音引きを全てイにしているわけでもない。
トレイニング、エリイト等も目立つ。
モーメント モメント 割合オーソドックスに音引きは使っている。
これは珍しい例。
ぼくもこれにすべきと思う。
とにかく外来語に対し日本語は音引きが多すぎる。
コンプレックス コンプレクス 唇内音を省いたもの。
これも一々はねる必要はない。
バリケード
プライベート
デリケート
フェードアウト
フェードイン
パリケイド
プライベイト
デリケイト
フェイドアウト
フェイドイン
イメイジ路線と同じ。バリケードはbarricade。
棒をバーである。
パーリケイドとしたほうが統一感はあるか。
キー
プレー
キイ
プレイ
音引きを辞めイの音を使っている。
川端康成の作品もそうだった。
このほうがいい。
バラエティー
ビブラホン
ノヴェンバー
ソビエト
ヴァライティ
ヴィブラホン
ノヴェンバー
ソヴィエト
バラエティーはエを使わずヴァライティ。
Vにこだわるのは慎太郎さんらしい。
が、ヴェトナムはベトナム。
volunteerもボランティアと書いている。
あまりに一般的だからということか。
エクスクルーシブ イクスクルッスィブ この辺になると英語の得意な人のこだわりだ(笑)。
モータリーゼーション モータリゼイション motorization 音引きを省いて正しい。
ミュージシャン ミュジシャン これは発音的に以前から思っていた。
日本人はミュージシャンだとアクセントを前部においてしまう。
音楽や博物館の発音で恥を掻いた記憶がある。
スキューバ スクーバ 最近は一般的にもスクーバになってきた。
膵臓ホルモンのインシュリンも最近はインスリンに統一だ。
ツイスト トゥイスト う~む、twistだからねえ。こう書くべきか。
セックス セクス こういうのも一歩ずれるとダウンタウンの松本あたりに
「うちのおかん、セックスのことをセクスセクス言うんですわ。
小さいツを入れろやと何度言ってもセクスセクスって」
とネタにされそうだ。
まこと「なにがかっこいいか」はむずかしい。
ペレス・ブラード ペレス・プラド 人名だからね。音楽家の。
ドライ・マティーニ ドライマティニ マティーニはマーティニと表記する人もいる。
言われてみると発音的にそう聞こえたりする。
ヘビーウェイト ヘヴィウェイト このヴはすばらしい。ヘビーはもうやめるべきだ。
フェザー フェザア ボクシングへのこだわり。
メーキャップ メイクアップ 続けずひとつずつ発音。
シチュエーション シテュエイション これなんか私はまだまだシチュエーションと書きそうだ。
パフォーマンス パーフォーマンス これは珍しい。音引きを足した例。
英語的な発音にするならそうだろう。
耳穴のピアスもpierceだからピアースと言った方が正しい。
でももうピアスは日本語か。
エクスタシー エクスタジー いま発音附きの英和辞書で引いた。
ぼくの耳にはエクスタシーと濁らずに聞こえる。
解説する能力がない。
ニクソン ニクスン 元アメリカ大統領の名である。
親交があった。その秘話はこの本の売りのひとつである。
「リーガンとレーガンのどっちがいいか」と本人に尋いている。
「できるならレーガンがいい」と応えたとか。
カクテル カクテイル cocktailという原語をあちら風に発音するならこうなる。
問題はカクテルはもう日本語かどうかだろう。
03/8/1
『ゴルゴ13』の漢数字
(03/8/1)

《『お言葉ですが…』論考──縦書き横書き》に書いたように、左のような縦書き数字表記が私は嫌いである。が、世の中はそうなりつつあるし、この表記で出されているものも多くなってきた。まだ単行本の小説では見たことがないが(存在するのだが私が読んでいないのだろう)、ノンフィクション系では多い。どんな書きかたをして提出してもこれに統一されてしまう出版社もいくつか知っている。この表記に徹底しているのが毎日新聞なら、未だにがんこに漢数字をなるべく使うようにしているのが文藝春秋である。私が『週刊文春』を好きな理由にはそのことも一因があるだろう。

 そんな中、『ゴルゴ13』の数字は漢数字主体であることに気づいた。もっと早く気づけよと思うが、とりわけ意識したこともなかった。晩酌の時に東京からもってきた単行本を読み返す機会が増え、つい最近ああなるほどと思ったのである。その理由を考えるとき、それは「三十年以上前に始まった作品だから」というのがいちばん大きいと思う。当時の常識である。そこからの一貫性でもって今まで来たのだろう。扱っている内容は、コンピュータ、宇宙開発、細菌兵器等、時代最先端の話題をテーマにしたものだから、やたら数字表記が多い。むしろセリフなど横書きのほうがいいぐらいだ。それを律儀に、引用コピーにあるように漢数字を使っている。これは今の若者からみたら奇妙に映るのではないか。『ゴルゴ13』のファンて、それを気にしないぐらい上の世代なのだろうか。

 他の作品の表記はどうなっているのだろうと気になる。全作品を読んでいる弘兼憲史や浦沢直樹、小山ゆう、小林まことはどうなっているのだ。調べようと思い、コンテナの山に向かう。以前なら買ってきたばかりの何冊かが周囲に乱雑に放り投げてあったのだが、大掃除以降、今じゃきれいに片づけられてしまっている。しかもコンテナの一番奥の最下部と確認した。云南までもってゆくぐらい大事にしているが、かといってまさかこんな調べものの対象になるとは思わないから、そんな奥にしまったのだろう。しばし、ごちゃごちゃやっていたが、ため息とともに断念する。今そこまでの元気がない。

 このコンテナ整理というのはよくないことなんだな、やっぱり。本棚に並べてあっていつでも取り出せるのと、コンテナの中に平積みし、積み上げてしまったのとでは使い勝手がまったく違う。そりゃそうに決まっている。壁一面の本棚に並べるだけのスペースがないからそうしたのだけど、なんとなく空しくなってくる。かといって壁一面の本棚に漫画本をズラリと並べているオヤジにもなりたくないのだが。

 こういう「見えない見栄」を張る自分に苦笑することがある。およそぼくは見栄とは無縁に生きているのだが、いくらかはあるらしい。「友人が部屋に来たとき見られても恥ずかしくないだけの本棚」なんてのをけっこう気にしているのだ。これは若いときに読んだ筒井康隆の「きたない本棚」というコトバ(彼の造語ではなく誰かの言ったものの引用らしい)が頭にこびりつき、そのことに関してのみ見栄を張るようになってしまったようだ。
 現実には金沢からKがやってきたときでも離れに泊まってもらって、生活しているこの部屋には連れてこなかったし、M先輩のときもそうだった。もっとも彼らは三十年来のつきあいで今更何を見られても恥ずかしくない。
 引っ張り出すのが面倒なので他の漫画本をスキャンコピーして検証することは断念した。記憶に拠れば、弘兼さんは「課長 島耕作」等でも縦書きで、「昭和56年」のような表記をしていたように思う。それと、これはいかにもアイディアマンの彼らしく、英語をしゃべっていると思われるセリフは日本人のものでも横書きにしていた。同じ絵の中に縦書きの吹き出しと横書きの吹き出しが混在するのだ。奇妙なようだが意外にわかりやすい。
 今の時代、「昭和56年」の表記が自然だろう。読みやすいし一般になじんでいる。とくに限られたスペースのト書きの中で「昭和五十六年」は重苦しい。そうか、『ゴルゴ13』の場合は重苦しさも重要な要素だ。それがプラスになる。毛沢東、蒋介石、スターリン、東条首相、M資金、戦中の話はさすがに最近はすくなくなってきたが、長年それらはゴルゴの大きなテーマだった。彼自身の出生もそこに関わるし、あの種の物語では戦中の闇はかっこうのおどろおどろしい舞台になる。その「昭和十六年 冬 満洲」が、「昭和16年 冬 満州」ではだいぶ軽くなる。これは漢数字の効用だろう。といっても今書いているのが横書きなので雰囲気は出ないが。
03/8/3

ATOK話(03/8/3)

 すこしもうれしくない校正機能なんてのがあって、「地代」を「ぢだい」と打ち込むと「じだいの間違い」と指摘されることは先日書いた。絆を「きづな」と書いても「きずなが本則」と注意される。
 が、「卓見」を「たくけん」と書いてもなにも言ってくれず「宅県」などとすっとぼけた当て字を出すだけだ。こういうときこそ「たっけんの間違い」と教えてくれるべきではないのか。「極寒」を「きょくかん」と入力したら、きちんと極寒に変換して、それでいて「ごっかんの間違い」とか。

 何週間か前の『お言葉ですが…』で、高島さんが故郷(近く)の赤穂に触れていた。赤穂浪士で全国的に有名だから誰でもアコウと読めるけど、「あかほ」で言いそうだ。だって赤穂はアカホだものね。本来それが正しく、いつしか訛って発音しやすいアコウになった。だから子供時代、口ではアコウというがカナはアカホとふっていたとか。
 毎度の結論だが、赤穂をアカホと読んだ人をモノを知らないと軽んじるようなことを自戒したい。それが『お言葉ですが…』から学んだいちばんおおきなことだ。(書き足しメモ──上野のこと)

 ATOKはそのうち、こういう「誤読の多い漢字」を一覧記入し、「なかなかのたくけんだった」で「卓見」を出し、「たっけんの間違い」と指摘する能力を備えるように思う。「読めるが書けない」とはよく口にする(耳にする)が、同じように「読めているつもりで実は誤読している」も多い。なにより自分がそういううすらバカだから日々実感している。

 こんなことをいうとまた憎まれるが、旅先で出会った人には、なぜかやたら「文盲」をぶんもうと言う人が多かった。まあこんなものもんもうでもぶんもうでもいいんだけど、ひとつまた共通していたのは、この「ぶんもう」を連発する人は、自分をインテリ(?)と思っていることだった。タイやミャンマーの人々を「あいつらなんてみんなブンモーだからよ」と居丈高に言う。ぼくはいつも腹の中で「ぶんもうはお前だよ」と毒づいていたものだった。

03/8/5
誤字脱字話
(03/8/5)

 昨日、ネットから自分のこのページにアクセスできなくて焦った。なんどパスワードを入力してもあの2ちゃんねるのファイルにとんでしまう。ひらがなでパスワードをいれるとこういうことがある。確かめる。間違いなく英数モードになっている。どういうことだと考える。やがてCapsLockになっていることに気づく。大文字だったのだ。このパスワードは大文字小文字を区別するんですね。知らなかった。みなさんも気をつけてください。

 いま、ふと思った。2ちゃんねると縁を切りたいのに(いや、2ちゃんねる自体は云南に済むようになっても政治版とかニュース版とか活用させてもらうつもりだけど)あんなものとリンクしているのは不自然だ。今から簡単なファイルを作って置き換えよう。身辺をきれいにしないと。

 ……。作ってきた。今夜アップして置き換える。×××さんにまたすぐにここの文をコピーされて貼られるだろうが、それでもこれで「フリーメイルアドレスには返信しない」と知らせることが出来たのでそのことの価値のほうが大きい。コピーと言えば、ぼくは、右クリックして画像や文章をコピーできないテクニックをマスターしている。大切な気に入っている写真に使ってみようと思っている。この辺のファイルにはしない。したら彼らと同じ視点のケンカになってしまう。



 元原稿を持っているのにネットを通して自分の文章を読むのは、誤字脱字探しが目的である。こういうものは客観的に見るとより気づくらしく、自分のパソコンで何回も読み直して気づかないのに、閲覧気分で読むと一発で見つけたりする。これはホームページに限らず仕事でも経験済みだ。ぼくは仕事の原稿は必ず印刷する。すると、「誤字は絶対にない」と思っていたのに、最初の数行目にもうあったりして、ゼッタイなんて思った自分を恥じて冷や汗が出る。あれだけ気をつけたのに「である」が数回続いていたりして、なんでこんなことに気づかないのだろうと不思議でならない。

 このホームページのファイルも気がつくと直している。みなさんは一度読んで、ぼくの誤字脱字に気づくだろう。閲覧者は心に餘裕があるからそういうものである。で、いちいち知らせるのもアレだし、まあ意味は通じているし、と、その日常的駄文は通り過ぎられて行く。ぼくのほうはその数ヶ月後にそれを読み直し、赤面しつつ修正したりしている。だからこのホームページのファイルに、假に千個の誤字脱字があるとして(万単位とは思いたくない)、そういう日々のチェックがあるから、それは確実に、980,970と目減りしているのである。

 正しくは毎日のようにあたらしく誤字脱字を含んだファイルがアップされているから減らずに増えているかもしれないが(笑)。もしも以前読んだとき、「あ、こんなところに誤字がある。知らせようかな、でもまあいいか」と思ったところは、だいたいにおいて直されているはずである。もしも未だに直されていないところをご存じでしたらぜひ教えてください。完全な盲点になっています。もしかしたら本人は誤字と思ってないのかもしれません。



 誤字脱字の代表的なものは「以外に」と「意外に」の間違いのようなものだ。素早く打って行くから見過ごしてしまうことが多い。これは読み返して気づくこともあるし、比較的見つけやすいから知らせてくれる人もいる。ネット上で見かける他者の文でもこれは異様に多い。「以外にそうでもありません」のように。あれ? これはもしかして誤字ではなく知らないのかな。正しいと思って使っているのかもしれない。

 脱字の代表は、一文字抜けだ。「だったのだ」と結ばれるべきかっこいい文章が、たった一文字「の」が抜け、「だっただ」となるだけで急に全体まで間抜けになるだ。「おじさん、なまってるよお」と言いたくなっただよ、おら。

 ぼくの誤字脱字の特徴に順序違いがある。すごい速さで打って行くからひらがながなぜか一定の法則で順序違いになるのである。ひらがなであるから漢字は関係ない。ブラインドタッチする人、特有の誤字のように思う。あ、もちろんカナ入力プラインドタッチに限られる。その例を今はうまく出せない。なにしろ本人も何でこんなことが起きるのだろうと思うようなへんな誤字なのだ。指癖ですからね。なにかそのうち修正するとき見つけたら引用しておきます。「おもしろい」が「おもろしい」になっているようなものである。確実に打ち間違える一定の法則があるはずなのだが、まだ自分でそれを分析できていない。
(数時間後、アップのためにここ数日の分を読み返していたら発見した。「ずいぶんと」が「ずいぶとん」になっていた。なんなんだろうなあ、これ。推測するに、「ん」は右人差し指が担当する4段キイボードの2段目にある。対して「と」は、左薬指のホームポジションだ。よって、右人差し指が2段目に伸びるより0コンマ数秒の単位で左手が早く「と」のキーを叩いてしまうのだろう。せっかちが原因であるのも確かだ。)



 さて結びにサトシ大絶賛の話。ぼくはまだ彼の誤字脱字を知らない。見たことがない。彼のホームページ上の多量の文章をすべて読んだわけではないからそこまでは言えない。あくまでもぼくとの個人書簡交換におけることである。とはいえ彼が名古屋で居酒屋を経営していた頃は、毎晩閉店し家に帰った午前二時頃に「こんばんは、名古屋のサトシっす」ってな感じのけっこうな量のメイルが届き、こちらもまた電子メイルを覚えたばかりの頃だったので、二人してオナニーを覚えた猿状態でメイル交換をしていた。それはまとめたら優に一冊の本以上の分量があったろう。やがて彼はホームページを立ち上げ、ぼくは後藤さんの所に寄稿するようになって次第にメイル交換は疎遠になってしまうのだが……。

 それはまあ自分のホームページという本物のおんなを知ればオナニーはすくなくなるわけで、いやいやそれとオナニーの楽しみはまたべつでね、おれなんか結婚してからのほうがむしろ増えたね、女房の目を盗んでこっそりやるのがこれまたたまんないんだ、ってそういうことを書いてるんじゃないんだよ。

 その交換書簡の中で、おどろくべきことに、サトシはただの一度も誤字脱字をしていないのである。彼はさらさらと書くだけで一切の誤字脱字をしない天才なのかもしれない。あるいは病的なほどそれにこだわる神経質な人なのかもしれない。あるいはあるいは一回り以上年上の物書きに書くのだからととりわけ誤字脱字に気をつけて書いていたのかもしれない。しかし仕事の終った深夜に毎日書いてくる文章である。そこで「ただの一度も」していないのは、見事としか言いようがない。いや見事どころじゃない、驚嘆としか言いようがないのである。

 それにしてもこれはすごい話なのである。これでサトシがくら~い部屋で、あのビニールで出来た緩衝剤をプチンプチンと左端一段目から順序よく几帳面につぶし、最後の一個をつぶした時にやあっとするようなヤツなら納得するのだが(だったらおれはそんなヤツとはつきあわんけど)、彼は「いらっさいまっせー」って呼び込みの似合う豪快積極タイプなのだ(本人は繊細思索タイプと思っているかもしれない)。
 なんであんなに完璧に誤字脱字のない文章を書けるのだろう。自慢じゃないけど、ぼくだってメイルやここに書く文章を何度も何度も読み直しているのである。それでいてこの様だ。(のようにザマは使うのが正しく、「生き様」なんてえのを賞賛する文章に使うのはよくないのですね。)
 その辺の秘密は、ホームページが復活したらぜひエッセイとして書いてもらいたいものである。この三、四年を通じて完璧なのだ。これは絶賛である。

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