2010
2/15  白川道「最も遠い銀河」を読む




Amazonの商品説明から

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内容(「BOOK」データベースより)

晩秋の小樽の海で、一隻の漁船の網が女性の変死体を引き揚げた。その死体の首には、なぜか銀製のテッポウユリのペンダントが残っていた。懸命の捜査も虚しく、事件は迷宮入り状態と化した―。一方、東京の地で、新進気鋭の建築家として名を馳せている桐生晴之。誰もが振り向くほどの容貌、権力に媚を売らない孤高の姿、友への熱い友情。周囲から一目も二目も置かれる晴之だが、その過去はベールに包まれていた。そして、彼の首にテッポウユリのペンダントが吊るされていることを誰も知らない。人知れぬ哀しい純愛とたぎる怒りを抱え、建築家としての成功を目指す晴之。彼と小樽の死体遺棄事件との間には、一体なにがあったのだろうか。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)

白川 道
1945年北京生まれ。一橋大学卒業後、様々な職を経て、80年代のバブル期に株の世界に飛び込み、大いなる栄光と挫折を味わう。94年、自身の体験を十二分に生かした『流星たちの宴』で衝撃のデビュー。2001年、『天国への階段』(上)(下)が大ベストセラーとなる(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)。

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 以下ブログより引用
2010年2月18日(木)
白川道「最も遠い銀河」と「クライス・レリアーナ」喫煙シーンについて

 クライス・レリアーナについて

 白川道八年ぶりの書きおろし大作「最も遠い銀河」を読んでいた。下巻の中ほどにシューマンの「クライス・レリアーナ」が出て来た。演奏者はマルタ・アルゲリッチ。

 そこの部分は以下のようになっている。深夜、海に向かう白いベンツ内での会話。

《「音楽、嫌いですか?」
「いや、好きといえるほど聴くわけではないが」
 李京愛がカーステレオのスイッチを入れた。クラシックのピアノの曲だった。
 静かで愛情に満ちた旋律だった。時間を呑みこんだような車内と、窓の外の暗い景色とも、どこか似合っていた。
「これは、なんという曲です?」
「シューマンの『クライス・レリアーナ』です。弾いているのはアルゼンチンの女流ピアニスト、マルタ・アルゲリッチという
女性(ひと)なんですが、私の大好きな曲なんです」
 一瞬迷いを浮かべてから、シューマンが愛妻のために作曲した曲です、と李京愛は言った。》





 ここで本を置き、私もSchumannの「Kreisleriana」を聴くことにした。Martha Argerichも持っているが(私は彼女の演奏のほとんどを持っている)、この曲に関してはKlara Wurtz(クララ・ヴルツ)の方が好きなのでそちらにした。

「クライス・レリアーナ」を、白川さんは「静かで愛情に満ちた旋律」と書いているが、8曲で構成されているこの作品は激しいのと静かなのが半々ずつ。私にはむしろ「情熱的な激しい曲」のイメージの方が強い。「愛妻のために作曲した」はあまりに有名な逸話だが、シューマンが最愛の妻クララに愛を込めて捧げた音楽、という安定期のものではない。むしろ「周囲から結婚を反対され悩んでいる時期に作った愛と懊悩がいり交じった狂おしい曲」ぐらいのほうが当を得ている。「クライス・レリアーナ=静かで愛情に満ちた旋律」はあまりに一面的解釈だろう。このときカーステレオから流れてきたのが静かな方だったのだから音楽に詳しくない主人公の素直な感想に罪はないが。

 在日朝鮮人の超美人ジュエルデザイナー李京愛(という設定の登場人物)は、どんな形でCDをセットしたのだろう。単にCDを再生したのなら1曲目の激しい曲が流れてくるからこの感想にはならない。「カーステレオのスイッチ」とあるので一瞬FM放送から偶然流れてきたのかと思ったのだが、演奏者アルゲリッチの説明をしているし、やはりこれは李京愛の愛聴CDであり、ふたりで聞くためにセットしておいた、ぐらいに考えた方がつじつまが合う。李京愛が激しいのと穏やかなのが交互に出てくる「クライス・レリアーナ」から穏やかな半分だけを選んで編集した特製CD(MD)を流した、とすると感想は成立するが、そんなことはあるまい。
 白川さんが錬りに練って登場させた小道具にこんなふうに突っこむのは不粋か。もうやめよう。

 この後また本にもどると、このときに感銘を受けた主人公は、このCDを買って愛聴するようになる。作者の実体験のように感じた。

 読者にも「クライス・レリアーナ」をこの小説で知って購入するひとがいるはずだ。浅田真央によってハチャトゥリアンの「仮面舞踏会」が売れたように、この小説はいかにもテレビドラマ向きなので、ドラマ化されたらその影響でシューマンの「クライス・レリアーナ」が注目を集めるかもしれない。いいことだ。テレビでは印象的に使うはずだから話題になるだろう。感想はひとそれぞれだが、私は聴いている今も、この曲は穏やかよりも烈しさだと思う。

 クララの
ピアニトストとしての才能はたいへんなものだったと言われている。絶賛のことばが多く残っている。それはまた音楽の項で書こう。しかしリスト以上のピアニストはいまもっていないと言われるし、リストの生演奏ではお嬢様方が失神したというのだが、それが聞けないのは残念だ。



 相変わらずタバコばかりの白川文学

 本の中にいい形で音楽が登場すると猛烈にそれを聴きたくなることがある。またあまりに登場具合がほどいいと、頭の中に音楽が流れ実際に聴かなくても満足してしまう作品もある。逆にまたしったかぶりでこれでもかというぐらい登場し、薬味のはずのそれが足を引っぱり、読む気が失せてしまうこともある。

 この作品の場合はそのどれとも違う。ぶ厚い上下巻なのにそれまで音楽はまったく出て来なかった。そしてまたこの著者の一大特徴だが異常に喫煙シーンが多い。登場人物は頻繁にタバコを喫い、なにか悩みに突きあたるとウイスキーばかり飲んでいる。クライマックスにさしかかったところなのに、この「クライス・レリアーナ」を見て、これさいわいと腰を上げたのは、煙くてヤニ臭い環境から逃げだしたかったからでもある。

 白川さんはそこのところをもうすこし考えた方がいい。というか編輯者は注意してやれ。いまAmazonのレヴュウを読んでいたら、「白川さんが大好きで全作品を読んでいる」という愛読者が、「でも喫煙シーンが多すぎないか」と苦言を呈していた。大ファンですらそうなのだ。タバコ嫌いが読んだら、おそらくその一点だけで読むのをやめるだろう。事態は深刻なのである。白川作品をバカらしくて読めないというひとすらいる。御自分がヤニ中なのはかまわないが、登場人物をみな自分と同じにしてしまうのはおかしい。

 両親のいない貧しい環境から成り上がるストイックな美青年が主人公なのだから、喫わない方が人物像として適切だろう。まして彼は一時新宿でカツアゲ等をする不良のリーダーだった。高校へも行っていない。この当時はヘビースモーカーだったろう。そこからすべてをやり直すのだと汚れた過去と縁を切り、大検を受け、22歳で大学に入り、大学院へと進学し、エリート建築士の道を歩むのだ。汚れた過去と縁を切った、人が振り返るほどの美男子である彼が、やたら意地汚くタバコを喫う様は不自然だ。彼には人一倍の克己心がある。なら真っ先に縁を切るのがタバコだろう。
 二十歳過ぎに悪の道から足を洗い、大検を受けるための受験勉強を始める。同棲している恋人は朝早くから夜遅くまで食堂で働いてそれを支える。彼の部屋には深夜まで勉強のための電気が点いていた、と後に大家から語られる。その彼が吸い殻を灰皿に山盛にして勉強していたと思うのは白ける。汚れた不良時代に別れを告げ、新たに生きると決めたとき、チンピラのアイテムであるタバコを真っ先に止めたという流れの方が自然だ。
 この美男子主人公がタバコを喫えば、それを追う元刑事、それに協力する元部下の現役刑事、みんな喫う。そこら中タバコの煙だらけ。刑事連中を喫煙者にしたなら、なぜ主人公を喫わないように対比設定できないのか。



 タバコを喫わない主人公を描けないのは白川さんがタバコをやめられないひとだからだ。もっと言えば、タバコを吸いながらでないと文章も書けないのだろう。みっともない薬物中毒だ。白川さんはこれからの残された人生を、今までの寡作主義を捨て多作主義で臨みたいと言っている。やる気満々だと。それは楽しみだけれど、どんな新作も、主人公は町中でも海辺でも喫茶店でもベッドでも、これまでの作品の主人公のようにやたらタバコばかり喫っている男なのだろうかと思うと期待がしぼむ。いや男に限らず女の登場人物も異様に喫煙率が高い。なんなのだろう、このひとのヤニ中毒は……。これはもう致命的缺陥と言える。

 誤解のないよう書いておくが、それは私のタバコ嫌いとは関係ない。小説のシーンとして登場回数が異常であり、作品を壊していると言っているのだ。純な小説論議である。だから例えば、タバコがワインや珈琲だったとしても同じ事を書く。あるいは音楽でも同じ。とにかくタバコを喫わないと場面転換が出来ないほど頻繁に、しかもワンパターンで登場するのは異常としか思えない。症状は深刻だ。

 とはいえ以前の作品と比べれば激減した。ずいぶんとよくなった。以前の作品のひどいものになると、それこそ大袈裟じゃなく見開きに一回は喫煙シーンが登場した。あきれて読み進められなかったほどだ。

 おかしかったのは、「天国への階段」等と比べると喫煙シーンは十分の一ぐらいに減っているのだが、その理由のほとんどが作者の意図ではなく「その場所が禁煙だから」だったことだ。登場人物は以前の作品と同じようにいつでもどこでもすぐにタバコを取りだすのだが、時代の流れで禁煙の場所が多くて喫えないのである。さすがにその辺は小説として辻褄を合わせるため作者も喫わせない。というかそれはロケハンで実体験したのだろう。タバコを吸おうとして止められた経験が相当数あると見た(笑)。
 ホテルのバーに行ってウイスキーを飲む。タバコを喫おうと取りだすが禁煙なのでポケットにしまった、なんて箇所を読むと時の流れを感じた。でもそのあと、店の外に出るとそそくさと取りだして火を点けるのである。これまたヤニ中毒の作者の実体験から来ているのだろう。いらないシーンだ。



 白川さんは音楽に詳しくない。ヒット作「天国への階段」が有名だがツェッペリンファンではない。小道具としての登場だ。ご本人も認めている。愛聴するのは本来演歌系のひとである。随筆には出版記念のパーティで親友たちと「兄弟仁義」をがなったなんて話もある。私も(すぐれた)演歌は大好きだからこれは否定的な言いかたではない。音楽に詳しくないかただからこそ、事実婚をしている相方からのサジェストなのか、かつての女との思い出なのか、こんな形でひょいと顔を出す数少ない音楽が楽しい。これはこれでとっておきの隠し球であり大見得なのである。

 私が「クライス・レリアーナ」の箇所を読んですぐに聴きに走ったのは、見事に白川さんの手の平で踊ってしまったとも言える。でも正直それよりもタバコの煙から逃げたかった。とにかく煙い小説だ。

 本の感想はまたあらためて。
 というか、私はこのひとのどんな作品を読んでも、最初の感想は「タバコばかり喫うのをなんとかしてくれ」になってしまう。なんとかしてくれ。

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【附記】 マルタ・アリゲリッチと別府音楽祭



 マルタ・アルゲリッチと別府の関係はすばらしい。こういう形で「文化」を根づかせたことは別府市の誇りであろう。大いに自慢できる。一度行ってみたいものだ。私は彼女の生演奏を聴いたことがない。世界一のピアニストの彼女ももう高齢だし、接する機会はそうあるものでもない。どうせなら別府のこの祭で体験したい。

別府アルゲリッチ音楽祭

 以上、ここまでブログからの引用。以下、ホームページ用書きおろし。
2/28  「俺ひとり」──白川道+「最も遠い銀河」感想補稿

 というわけで、ブログに書いた「最も遠い銀河」の感想文は、文中に登場するシューマンの「クライス・レリアーナ」に関することと、喫煙シーン批判のみになってしまった。感想文の体をなしていないのだが、それがいちばん強く感じたことなのだから、これはこれで私の感想文ということにしよう。

 同時期に読んだ『夕刊フジ』連載をまとめたエッセイ集「俺ひとり」にも、執筆中のこの「最も遠い銀河」は度々登場している。書いている最中の苦労、脱稿した歓び、本になった満足、売れるだろうかなという不安、みな記録されている。

 エッセイの中で白川さんは、「こんなことをしてはいけないのだが」「こんなことをしたことはないのだが」と照れつつも、何度かこの本の宣伝らしきことを書いている。二段組み上下巻2500枚という大部の作を書き下ろした誇りとともに、いまどきそんな長篇が受け入れられるのだろうかという不安もあったようだ。事実婚の妻から「いまどきそんな長い小説、誰も読まないよ」と嘲笑されたとか、おどけた文章の中に、本音とも思える弱気もすこし顔を出している。

 作者にそこまでの思い入れのある「天国への階段」以来8年ぶりの書下ろし大作だったのだが、残念ながら私にはそれほどの作品ではなかった。なによりもそれは大部の作品を読み終えた時の、あのどっしりとした満足感と、「読み終えてしまった」という一抹の寂しさが、ともになかったことでわかる。長い割に盛りあがりのすくない、ずいぶんと薄味の物語だった。



 他人様の労作にケチをつけるのは好みではないが、「最も遠い銀河」に関して、もうひとつだけ言わせてもらおう。

 主人公は美貌を活かして建築界をのし上がってゆく。高名な建築家の年の離れた妻と関係を持って仕事や金を得たり、病院長の妻と関係を持って新築病院の設計の仕事を得たり、銀座のママと寝て、その関係筋の仕事を得たり、する。美男と下半身を利しての、下品な言い方をするなら「枕営業」、男なら「竿営業」というヤツである。
 それはそれでよい。地位も縁故もない無名の男が、のしあがって行くピカレスクロマンにおいて、美貌を武器に「竿営業」で女を操るのは常套手段だ。



 言いたいのは細部、「避妊」について。まこと末節だが私には大きく映る。
 主人公はのしあがるために次々と愛情もなく複数の女と関係を持つ。そんな中、大企業の跡継ぎ令嬢「茜」と、前記の「絶世の美人の在日朝鮮人ジュエルデザイナー李京愛」のふたりだけは別になる。

 茜とはお互いに一目惚れのような形から始まる。しかし主人公にとってその理由は、彼女の顔が亡くなった最愛の恋人にうりふたつだからなのだ。なにしろその恋人に横恋慕していた主人公の盟友が、茜とまちがえたほどそっくりらしい。この辺の設定は「そんなアホな」であり、あまりに安易だと思うが、それはともかく。
 やがて彼女との恋愛、結婚は、大企業を継ぐ(手に入れる)ための手段でしかないのではないか、自分は彼女を愛しているのではないと、罪を感じるようになる。

 李京愛は、新宿の路上で詩集を売っていたまずしい少女時代に、まだワルだった主人公に助けてもらった恩を感じている。その後彼女もまたジュエルデザイナーとしてのし上がるために「枕営業」をしてきた。それを主人公に告白する。でも好きだったのは以前からずっとひとりだけだったと。彼女から迫ってふたりは二回だけ関係する。

 言いたいのはこのこと。茜とは数限りなく、李京愛とは二回だけ交わるのだが、ともに主人公は避妊をしないのである。それは邪推?ではなく、文中にはっきり記されている。主人公の嗜好であると。エンディングの伏線ではあるのだが……。



 しかしこれはおかしい。主人公は、建築界でのし上がることを目的にしている冷血漢なのだ。死んだ恋人に誓い、もう誰も愛さない、とも思っている。北海道の貧しい炭鉱出身である出自を嫌っている。美男であることを利しているが、それを嫌ってもいる。そんな男が中出し連発は杜撰だ。こどもは欲しくないはずであり、そういうことには神経質でなければおかしい。

 茜に関しては、血の繋がりのない妹として育ち、やがて恋人として交わったかつての恋人と瓜二つということから、愛情を感じながらも、それは死んだ恋人の代用品であり真実のものではないと苦しんでいる。結果的にだましていることになると悩んでいる。懇願されながら結婚も逡巡している。それは主人公が自殺という形で決着をつける大きな要因でもある。なのに最初の時から、その後も毎回毎回中出しはないだろう。
 建築家や病院院長の妻、銀座のママとはどうだったのだ。

 主人公は、どんな汚いことをしても建築界の雄としてのしあがり、亡くなった最愛の恋人に、自分の設計したそびえ立つ建築物を見せてやりたいと願っている。目指している。それが目的だ。
 ストイックであり、努力家であり、本来は涙もろい優しい心の持ち主だが、目的のためなら鬼にでもなると割り切っている。事実、そう割り切って生きてきた。なのにこの「だらだら中出し」は矛盾する(笑)。

 人物設定として、病院長の妻とか、その手の彼にベタボレの女たちが、「今日は安全な日だから」と言っても、あるいは「あなたのこどもが欲しい。亭主の子だといって育てるから。あなたに迷惑はかけないから」とねだっても、かたくなに避妊するような姿勢が望ましい。それが性格設定としての筋だろう。あるいは『ゴルゴ13』のように決して終らないとか。

 同じく茜に関しても、結婚を夢見ている初な茜が、妊娠を願っても(実際そういうセリフと場面が出てくる)、今はまだダメだとかたくなに避妊する方が人物像とあっている。茜がどうして避妊なんかするのだ、私を愛していないのか、と詰問するぐらいの方が話としては自然だろう。

 新進の建築家と大企業の跡継ぎ令嬢の恋愛に週刊誌記者が目をつける。かっこうのネタだと。
 主人公によって男の味を知った茜は会いたくてたまらない。この辺も下衆の勘繰りではなく、そういう描写がある。処女だった茜は女のヨロコビを知って淫乱になっている(笑)。高級ホテルに部屋を取り早く来てくれとせがむ。しかし主人公はいま週刊誌に書かれてはまずいと、茜にどんなにせがまれても今日は会えない、いまは会わない方がいいと説得して拒む。茜は結婚するのだからべつに話題になってもいいではないかとふてくされる。

 性格の良いお嬢様である茜を、このまま結婚してはだますことになると苦しみ、こういう誘いも慎重に拒むほど冷徹な主人公が、なんも考えずの中出し連発はへんだ。妊娠して中絶することになったら苦しむのは彼女である。物語が進み、主人公が茜との結婚を決意し、最高権力者の茜の祖父(茜の両親は死んでいない)に結婚の許可を得てからならともかく、交際を秘密にしている時期から、なぜかセックスは中出しし放題なのである。その他の慎重な行動と激しく矛盾する。



 要するに、主人公の人物設定があちこちで破綻しているのである。ほころびと矛盾だらけなのだ。「破綻」なんて使う必要はない、要は設定が「雑」なのだ。
 前記したように、主人公は、炭坑夫だった両親を早くに亡くし、極貧の孤児として苦労して育つ。そのとき肩を寄せ合って生きたのが同じく貧しい炭鉱夫の娘で親を亡くした娘(最愛の恋人)だった。中学を出てふたりで上京する。新宿で窃盗カツアゲをする不良としてのしあがり、そこから一転して足を洗い、大検から早稲田大学(文中ではW大学)に進む。その間の生活は恋人が食堂で働いて支えた。美しい純愛時代。

 さらに大学院へ進んで建築家を目指す。生活を支える恋人はそのころには水商売に移っている。やがて麻薬に手を染めた恋人が不審死する。彼女を麻薬中毒にした男への復讐を誓う。やがてその男が茜の兄とわかる。
 ということは、茜が主人公の恋人と瓜二つなのだから、茜と両親が同じのその兄は恋人とも似ていたろう(笑)し、兄は「妹と瓜二つの女とまぐわう」ことになる。茜の兄が麻薬の魅力を教えて主人公の恋人(主人公に貢ぐために隠れて高級売春婦になっていた)と交わるとき、それはもう妹と瓜二つなのだから近親相姦だ。主人公にとって茜が一瞬亡き恋人が生き返ったのかと呆然とするほどそっりだとするなら、茜の兄にとっても初めて遭った主人公の亡き恋人は、呆然とするほど妹とそっくりなはずであり、まともならとてもじゃないが交わることは出来ない。その兄が妹に対してそういう欲求をもっていたのならともかく。その辺のことにはまったく触れていない。というか白川さんの頭の中に、「茜の兄から見たら主人公の亡き恋人もハッとするほど妹に瓜二つ」という思いつきはなかったのだろう(笑)。まあどんな小説でも「他人のそら似設定」作品は安易で陳腐だが、どうにもこのへん、いいかげんな設定で小説を書き始めて収拾がつかなくなっている。

 その後の美男を活かした「竿営業」に関しては前述した。三十代で早くも獨立し、今では二十数人をつかう建築事務所を都心の一等地に構えている。億の仕事をばんばんこなしている。そこまでの克己心と野心のある男が、意地汚くタバコを吸い、なにかあるとウイスキーに溺れ、結婚するかどうか決まっていない女に中出し連発は不自然だ。



 この中出しは、二回だけ関係した李京愛が、主人公が自殺し、数年が過ぎたという設定のエピローグで、主人公そっくりの女の子を連れている、というオチに繋がっている。
 これもかなり安易で彼女の妊娠は文中の吐き気連発でわかるようになっている(笑)。あんなに何度もそのシーンを出す必要はない。一度でいい。こんなのはラストに衝撃を受けた読者が、「もしかしてあのとき妊娠していたのか!?」とページをたぐり、ほんの一、二行ある吐き気の描写に、「これがそうだったのか……」と気づく、ぐらいが楽しい。なのに伏線をわかってもらおうと何度も吐き気のシーンを描くものだから、「はいはい、妊娠してんでしょ。わかってますよ」となり、ラストもぜんぜん驚かない。

 茜を騙し続けることへの罪悪感や、死んだ恋人を故郷の小樽湾に沈めた(死体遺棄罪?)罪の意識から、主人公が自殺するのはわかりやすい結末だし、子供を産むのが、やがて主人公の親友と結婚して会社経営に乗り出してゆく茜ではなく、自立してひとりで生きて行く李京愛であることも自然だ。いい結末だと思う。

 だがだからといって主人公の無防備な中出し連発が許容されるわけではない。それは泥酔して関係してしまう李との二回目のとき、ただ一度でいいだろう。自分の人生を呪い、死んでしまった最愛の恋人を思い、異常とも言えるほど頑なに避妊にこだわった男が、心の弱さから泥酔し、むかしなじみの李にすがり、ただいちどだけ避妊せずにしてしまった行為、そして生まれるあたらしい命……、そのほうがずっと説得力がある。



 もうひとつ、これもちいさなことだが引っ掛かったこと。
 主人公には大学院時代に建築科としてのライバルがいた。公家の御曹子で金持ちの男だ。葉山の別荘にクルーザーを持っていて主人公達はたまに乗せてもらったりする。アラン・ドロンの「太陽がいっぱい」を意識した作品なので、主人公「美貌の貧しい青年」の対比のブルジョアとして描かれている。彼は豊富な縁故と財力で主人公よりも早く出世して行くが、内心では才能は主人公にかなわないと劣等感を抱いている。

 金の力で大きな仕事や賞を得てきたことに悩む彼は、主人公や親友、女友達を招待したクルーザー走行中に自殺する。海に飛びこむのだ。遺体はあがらない。でもなあ、これはいい陽気のときの話であり、爽やかな晴天であり、真昼なのである。クルーザーを持っているぐらいの海の男だから泳ぎも達者だろうし、どうにもこの自殺の方法に納得できない。最後に主人公がやるように、夜の海で、足に重石をつけての入水自殺ならわかる。並が荒れているわけでもないさわやかな真昼の初夏の海で、クルーザーから海に飛びこんでの自殺って、ちょっと不自然だ。もっと違う方法があったろうに。



 白川さんはロマンチストらしい。悪漢小説でも、時にこちらが恥ずかしくなるような甘ったるいことを書く。この作品は、かつて株やギャンブルで大金を儲け、贅沢三昧をしてきた白川さんが、ここのところ金回りが悪くなり、同居者に養われるような地味な生活の中で、長い時間をかけて書き上げたもののようだ。書下ろしという作品の性格上、白川さんのロマンチストの面が強く出たのだろう。主人公が悪漢なのに悪漢じゃなく、クールなのに生暖かく、克己心がつよいはずなのにだらしないという、すべてに半端なものになってしまった。もったいない。

 私がここで指摘したように、主人公の設定を、
「彼の犯罪を執拗に追う警官たちはヘビースモーカーだが、彼はタバコが大嫌い」
「毎日なにかあるとウイスキーに逃げているが、そのシーンを2500枚の中、ほんの3回ぐらいに絞る。飲酒は、どうしてもどうしても飲まずにはいられなかった、という場合のみにする」
「出世のためいろんな女と交わるが、異様に避妊に神経質」

 と直すだけで、見違えるようにシェイプアップした作品になるだろう。しみじみもったいないと思う。

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 「竜の道──飛翔篇」


内容(「BOOK」データベースより)
義父母をはじめとした世間から虐げられてきた双子の兄弟、竜一と竜二。クソのような人生とオサラバするために嵐の夜、完全犯罪を決行する。胸に秘めた復讐を果たすべく、弟はエリート官僚の道を選び、兄は裏社会の力を味方につけた。双頭の竜が修羅の幕を開ける。


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 『夕刊フジ』を読んでいるので、毎週金曜日掲載の随筆「俺ひとり」の中でたびたび触れられている書きおろし作品「最も遠い銀河」には大きな期待を寄せていた。読んでがっかりした。しばらく白川作品は読まなくてもいいやと思ったほど。

 ほとんど同時に出ているこの作品を知った。珍しい。寡作の白川さんが今後はどんどん書いて行くと言っていたが、これはそういう流れなのかと手にする。鳴り物入りの「銀河」が期待外れだっただけに、なんということなく、の気分だった。だがうれしい期待外れ。これ、「銀河」よりずっとおもしろい。掘り出し物だった。



 捨て子だった双子の兄弟が、極貧の環境から表と裏の社会でのしあがる物語。兄は裏社会。弟は大検を受けて東大を首席卒業して運輸省へ。ふたりともすばらしい頭脳と容姿をもっている。ただし兄の方は、他人になりすますために整形を重ね、いまは容姿がかわっている。

 三部作らしい。第一部のこれは時代が昭和。バブルのころ。だからまた楽しい。昭和はいいなあ(笑)。昭和が大好きだからでもあるが、同時に、こういう設定は、明日が解らないリアルタイム進行の「社長 島耕作」より、ひとの生死から画期的新製品の誕生まですべての答を知っている後付の「ヤング島耕作」の方がおもしろいのと同じで、「その後どうなるか」がわかっているから楽しい。東野圭吾の「白夜行」がおもしろかったのもそれが理由だった。

 この「飛翔篇」は、裏社会でのし上がろうとする双子の兄の方が主人公。ひとも殺すし、汚れた金もばらまく。ヤクザとも繋がる。とにかくおもしろい。そしてまた誰かの忠告があったのかどうか、この作者の致命的缺陥である喫煙シーンもずいぶんと減っている。ちょっと意外なほど。それでもまだ他の小説と比べたら多いかも知れないが、時代が昭和であり主人公が悪漢なのだからまったく気にならない。ほどよい。

 期待作の「最も遠い銀河」がそれほどでもなかったので失望したが、この作品は気に入った──というのは私だけの感覚ではないらしく、Amazonのレヴュウを読むと同じ事を言っている人が多い。白川ファンに共通した思いのようだ。
 これは小説雑誌に連載されたものらしい。白川さんとしては「銀河」の方が思い入れは強いのかも知れない。でも今後も世間の評判はこっちの方が高いだろう。早く二部、三部を読みたいものだ。

 しかしこういう「バブルの時代の昭和、それを利してのしあがる若者」という設定は楽しめる。その後「バブル崩潰」があるわけだが、それに気づかず破滅して行く周囲と比して、主人公はそれをうまく乗りきるに決まっているのである。なにしろ作者がそれを知っていてそうするのだから(笑)。うまく「崩潰」を乗りきり、それどころかそれを利して、「崩潰」で崩潰した連中の財もくすめとってより大きくなった主人公は、平成になってからはどんな巨悪になるのだろう。楽しみだ。

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 梅毒考──シューマンとクララ

 餘談というか脱線というか、シューマンの「クライス・レリアーナ」のことを書いたので、前々からの疑問を書いておく。
 これはシューマンが結婚を反対されていたクララのために書いた曲である。後に結婚する。クララ・シューマンは女流ピアニストとして、いや女流という枠を越えて、賞讃される存在だった。ピアニストに撤するため作曲をやめてしまうのだが、それもまた見事でもったいなかったと言われている。
 シューマンとのあいだには8人のこどもをもうけている。

 シューマンは獨身時代に娼婦から梅毒を移され、そのことによる精神の病に苦しむ。死因も梅毒が原因だったと言われている。享年46歳。

 ところがこの梅毒持ちのシューマンと交わり8人もの子を産んだクララは77歳まで生き、最後もしっかりしていたのである。これがわからない。梅毒はセックスはもちろんオーラルセックスでも感染すると物の本には書いてある。なら、8人ものこどもを作るほど交わったならぜったいにクララは梅毒に感染しているだろう。ところがどうもしていないようなのだ。これはどういうことなのだ。
 8人の子には恵まれたが、幼児期に死んでしまうのや、障碍児や、問題の多い子ばかりだった。これはシューマンの梅毒が原因なのではないか。

 同じくセックスによって感染するエイズでも、相方が感染しているのを知らず、何年ものあいだ生で性交していたのに、感染しなかったひともいる。この辺は単に確率なのだろうが。
 エイズウイルスは弱いと言われている。でも梅毒菌は強い。8人も子を産む関係の夫婦が、感染していないというのはどうにも考えられないことだ。どなたか真実を知っていたら教えて欲しい。
12/1  「被差別の食卓」 上原善弘


新潮新書

内容(「BOOK」データベースより)

大阪のある被差別部落では、そこでしか食べられない料理がある。あぶらかす、さいぼし…。一般地区の人々が見向きもしない余り物を食べやすいように工夫した獨自の食文化である。

その“むら”で生まれ育った著者は、やがて世界各地にある被差別の民が作り上げた食を味わうための旅に出た。フライドチキン、フェジョアーダ、ハリネズミ料理―。単に「おいしい」だけではすまされない“魂の料理”がそこにあった。




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来歴・人物

松原市河合(更池)生まれ。父は食肉店を経営しており、全日本同和会の南大阪支部長を務めていた。母は被差別部落出身ではない。少年時代に両親が離婚。家庭の事情により羽曳野市や藤井寺市などを転々として育つ。

羽曳野市立河原城中学校在学中はシンナーを吸っていたが担任教師に救われて立ち直った。このころ、部落解放研究部に所属。大阪府立美原高等学校在学中に始めた円盤投で頭角を現し府大会で優勝。スポーツ推薦で大阪体育大学に入学。卒業後、体育教師を経てフリーライターとなる。
長く雑誌を活動の場としてきたが、2005年に著作『被差別の食卓』を新潮社から刊行。2010年、『日本の路地を旅する』で第41回大宅壮一ノンフィクション賞受賞。(Wikipediaより)


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Amazonのレヴュウがすぐれている。感じたことはそこですべて言いつくされているので今更書くこともない。ぜひそちらを読んで欲しい。
 多くのかたが指摘していることだが、被差別問題に対する類型的な接しかたではなく、ごくすなおにシンプルに、被差別の食事について語っているので、重い気持ちにならずに読めるのがすばらしい。当初、日本のそれを掘りさげたのだろうと思い、覚悟して手にしたのだが、アメリカ、ブラジル、ヨーロッパのロマ(ジプシー)、ネパールと取材が世界に飛び、興味深く読めた。たいへんな労作である。

 一番考えさせられたのはネパールの項。
 アメリカやブラジルの差別は侵略から来ている。白人がアフリカや南米を侵略し、現地人を奴隷にして産みだした差別だ。白人による黒人差別である。
 対してネパールのそれは、インドのカーストから来たものであり、いわゆる動物を解体する人びとに与えた「穢れ」という精神的な差別である。それが中国、朝鮮を通って日本にも伝わった。日本の部落差別のルーツである。アメリカの人種的な差別よりもはるかに罪深い。
 誰もが厭がる死んだ牛馬の解体と処理を担当させ、それをする人たちを職業差別するという発想は、人間の精神が産みだす醜さだ。しかしまた、それが人間だとも思う。

 人種差別は、世界を征服した「白」が、黒や黄色や赤や、それら色付き人種を差別するものだが、これは逆もありえたろう。黒が世界を征服していたなら、まちがいなく白は差別された。残虐趣向において人種的に白は特別なようだから一緒くたには言えないが、それでもやはり黒が制していたなら、白は珍種とされそれなりの差別は受けたろう。

「穢れ」の感覚はそれとはまた異なるものだ。人間の精神としてより醜い。



 取材した民族にはみなその地獨特の「××」という蔑称がある。差別された言いかただ。みな心を閉ざしている。著者はその人たちと接し、「自分は日本の××なのだ」と言って近づいて行く。そのことによって彼らも心を開く。これは著者にしかできない方法だ。

 2010年に大宅賞を受けたことから私は著者を知り、2005年のこの初の著書を読んだのだが、これはそういう賞の候補にはならなかったのだろうか。すぐれた作品であり話題になったと思うのだが。



 私は二十歳になるまで同和問題ということばすら知らなかった。それを学んだきっかけもまた、テレビか新聞で目にした姉(既婚。当時28歳。こどもふたり)に問われて、応えられないことが恥ずかしく調べたのだった。二十歳の大学生、28歳の子持ち主婦、ともに知らないのだからバカ姉弟と思われそうだが、それだけ無縁の地なのである。後に知りあった広島出身の青年は小学校の時から学ばされたと語っていた。

 知らずに育ってよかった。よけいな感覚がないことはありがたい。こどものときに学び、差別はよくないことなのだよくないことなのだ、と思って育つより、そんなことは知らないまま育った方がいいに決まっている。私の知る限り、そういう小学生の時から教育を受けた連中は、教育を受けることによって差別感が芽ばえている。
 私の田舎でも、今ではそういう教育をしているらしい。小学生からおじさんおばさんまでが走る運動会の名物「部落対抗リレー」は、いま「地区別対抗リレー」になっているとか。
 知らないこどもに無理に教えることに意味があるのかどうか。

 同和問題は知らなかったが、日教組により「日本はアジアに悪いことをした。とんでもないことをした。謝らねばならない謝らねばならない」とは仕込まれた。これは尾を引き、前記二十歳のころの私は支那人、朝鮮人にあったら土下座して詫びねばならないと思って生きていた。歪んだ教育の害毒である。

 これまた後に知りあった大阪の青年は、こどもの時から近所の在日朝鮮人と敵対して生きてきたから、そんな戦争保証ウンヌンなんて話は一笑に付していた。日常的にさんざん悪さをされ、日々殴りあいをしていたら、そんな国家レベルの話は吹き飛んでしまうのだろう。

 育ちと教育は後々まで影響する。

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 以下は本書の内容とはあまり関係のない私の食に関する感想。
 私は今ほとんど肉を食わない。動物の肉を自ら食することはないが、それでダシを取ったであろうラーメンのようなものは食べているから菜食主義と言ったら笑われるレベルであるが、ほぼヴェジタリアンである。
 肉の切り身や内臓とは無縁の生活なので、それらの話の連続を読むのはけっこうキツかった。単純に言えば、差別する連中が肉の切り身を食い、被差別者は彼らが食わずに捨てた内臓等の部分を、獨自の調理法で食ってきた、となる。それは世界各地どこでも共通しているようだ。

 毎度思うのだが、焼き肉屋でスライスしたギュウタンをレモン汁で食っていると何も考えない。
 でもスライスする前の一塊のギュウタンを見ると感覚は変るし、それが牛のでかい舌なのだと確認すれば、また変ってくる。解体するところから見たら、ギュウタン大好きと言えなくなるひとも多かろう。

 私はアメリカ人や支那人が肉を食うことは理解できる。彼らは自分達の食うものが牛や豚という生き物であることをきちんと理解している。だから牛や馬や羊の「丸焼き」というのをやり、原形を留めているそれから直接肉を切りとって食ったりする。これは食文化として認める。筋が通っているからだ。

 日本のそれはいきなり「切り身」になる。原形のそれを意識させないようにしている。牛や豚を殺して、解体し、そこから切りとった肉が、あのおいしそうな切り身になるのだと順番を見せてやれば、焼肉大好きと言っている連中の感覚もすこしは変るように思う。肉が好きというのはそこまで意識して発言すべきと私は思ってしまう。

 しみじみ人間というのは罪深い生き物だ。
 差別とはべつに、そんなことを考えた。


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