チェンライへ走る 1

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          ↑Nati Court

■呼び出し電話

 そろそろ来ている頃だろうとチェンライのメーコック・ヴィラ・ゲストハウス(以下、メーコック)に電話をしてみる。経営者のおばちゃんが出る。日本人の北村さん(假名)はいるかと問うと、数日前から来ているという。それじゃ十分後にまたと言って切る。いつもの手慣れたやりとりだ。

 メーコックは広い敷地の中に、木造の建物が何棟か建っている。各部屋に電話はない。フロントからその一棟までおばちゃんが歩いて行き、泊まり客の在室を確認し、電話だと告げ、そこからまた相手がフロントまで来るとなると最低でも五分はかかる。待つだけ待って居ないときもある。一度電話を切り、十分後にもう一度掛け直すという方法は効率的だ。電話賃よりも受話器片手に待たなくていいことが助かる。もっとも電話賃の方も、チェンマイとチェンライは同じ市外局番とはいえ、二百キロも離れているからか意外に高い。割高のホテルやアパートから掛けるからかも知れないが。

 これからどんどん電話が普及してゆけば、チェンマイ県とチェンライ県の市外局番は分かれるだろう。どんな山奥でもテレビアンテナが目立つようになったチェンマイ・チェンライだが、電話の普及はまだまだのようだ。おれが子供の頃の日本でも、テレビよりも電話はずっと贅沢で普及が遅かったものだ。

 北村さんもタイ・リピーターの多くがそうであるように、バンコクからタイ体験を始め、チェンマイ、そしてチェンライと北上してきた人である。もうチェンライ専門になってからでも十年以上経つだろう。メーサイに流れないところもまたいい。あそこはあそこで、より特殊な人たちの場だ。とにかくまあおれなんかとは格が違う大ヴェテランである。メーコックを定宿に決めてからも長い。どこかに出掛けるとしても、常にここを根城にしている。北村さんが来ていると思われる頃、メーコックに電話をして連絡する、北村さんがおれを探してナティコートに電話をくれるというのも、おれ達には毎度の習慣となった。

 メーコックの形態を知らない最初の頃、おばちゃんのこの「一度切って、十分後に掛け直せ」というタイ語の主張が解らず、「アライナ・カップ?(なんですか)」を連発したものだった。居るのか居ないのかどっちなんだ。ハッキリしてくれ。後で掛け直せと言っているのか。今はいないのか。出掛けているのか。それとも、きょうは居ないので後日掛け直せと言っているのか。どういうことなんだろう、と悩んだ。

 外国語は、ジェスチャーを交えられる会話と純粋に言葉だけになる電話とでは、難しさが何倍も違う。面と向かってなんとか会話が出来るようになり、タイ語にちょっと自信を持った頃、それなりに内容のある話を電話でせねばならないとき、思うように言葉が通じず、自分の会話能力の貧しさに愕然とすることがある。普段は気づかないが、会話をするときには誰もが、食べる形、泣く形、しょんぼりした形、怒った形、いくつもの形を交えているのだと気づく。目は口ほどにものを言いということもある。それらのない状態で、言葉だけの会話を異国語ですることは、とても難しい。

 呼び出し電話というものを知っている世代のおれとしては、おばちゃんの言っていることをもっと早く理解すべきだった。でも安宿のゲストハウスというものに泊まったことのないおれは、どこでも一部屋に一台電話があると思いこんでいて、おばちゃんの十分後にもう一度掛けろという意味がなかなか理解できなかったのだった。

 十分後、もう一度掛ける。男が出た。亭主のほうか。「クン・キタムラ、ユー・マイ・カップ(北村さんはいますか)」と言ったら「カムラン・プート・カップ(いま話しています→はい、わたしです)」と含み笑いが聞こえたので、いきなり北村さんが出たのだと解った。
 数日前から来ているという。北村さんは「第二話 チェンマイでパスポートを作るの記」の中に、「タイに関する大先輩」としてすこしだけ登場する人だ。ひとつ年下だがタイに関しては大先輩になる。くだけたタイ語表現を始めとして、ずいぶんと色々なことを教えてもらった。初めて会ったのはメーホンソンの空港だった。もう何年前になるだろう。

 「無事に来れたの?」と笑いながら訊かれる。パスポートの残存期間がすくなく、帰りのチケットも持っていずという経緯は「第二話」に書いたとおりだ。
 話している内にぜひ会おうということになる。向こうが久しぶりに「都会のチェンマイ」まで出て行きたいという案もあったが、おれの方もまた久しぶりに「田舎のチェンライ」に行きたかった。結局おれの案が通り、「明日にでもそちらに向かうよ。バイクで行ってみようかな」ということになった。

 チェンマイでの夏休みももうすぐ終りだ。帰国まで後一週間を切っている。





■バイク流行り
 チェンマイ・チェンライ間の正規ルート、ファンからタートン、ドイメーサロンを回る山道ルート、メーサイ、チェンセーン、チェンコン方面、ランプーン、パヤオ、この辺りは何十回も走っている。その他、ナン方面、メーホンソン方面も何度も走った。

 ただしすべてクルマだ。レンタカーで走り回ったのだ。それはおれの趣味だった。バンコク以北はほとんど全部走っている。イサーンを全部、メーサリアン、メーソットのミャンマーとの国境附近の悪路まで、時にはレンタルしたオンボロジープで、時には友人から借りた乗用車で、運良くレンタル出来た新車のコロナやシビックで、運悪くそれしかなかったボロボロの三菱チャンピオン(日本にはない車種だそうですね)で、おれはドライヴ旅行を楽しんだ。ひとりの時もあった。タイ人のガールフレンドが隣にいたこともあった。日本の友人と二人旅行の時もあった。日タイ混合の四人の時もあった。照りつける南国の陽射しの中を、窓を全開にして風を切りながら、あるいはクーラーをがんがん効かせた涼しい車内で、音楽を聴きながらタイの田舎を走るのは、いつしかタイに来る目的のひとつにすらなっていた。

 タイは全土の70パーセントが台地である。平らなのだ。チェンマイ・チェンライ間や、チェンマイからメーホンソンへの山道など、ごく一部を覗けば、国道は全部が風光明媚な高速道路のようだ。平均時速百キロで巡航できる。もちろんどこも無料である。ベトナム戦争時の軍用道路として敷設された道路もある。高度経済成長で一気に整備された面もある。いずれにしろ平地が多いということは道路環境を整えるには最適だったろう。広くてまっすぐな道が多い。田舎道でもみな舗装されている。そこいら中が有料道路ばかりで、どこを走るにも金を取られるタイとは逆に七割が山国の日本から来た身には、タイのドライヴ旅行は天国なのだった。タイを走るとは、私にとってクルマでのドライヴだった。

 最近、『サクラ』丸テーブルの常連に、なぜかバイクが流行っていた。チェンマイ・リピーターのおじさん達にである。以前は乗らなかった人までが乗るようになり、しかも遠乗りを始めていた。メーサイでのビザ更新をバイクの日帰り往復で済ませてきたなんて猛者もいる。100ccのバイクで一日に往復500キロはきついだろう。こんな人は例外としても、数人で連れ立ち、チェンマイからパイを抜けメーホンソンまで行ってきたなんて人が増えてきた。これは泊まりがけになる。おれもクルマで何度か走っている。

 バイク旅行にはよく誘われたが断っていた。バイクでは音楽も聴けない、暑くてもクーラーもない。危ないからヘルメットも被るべきだろう。ヘルメットを被って走るなら、クルマの窓を開けて走った方が快適だ。バイクで長距離を走るということは、おれには何の興味もないことだった。

 バイクが好きな人達にはなぜか──おれがチェンマイで知り合った人たちと限定した話だが──音楽好きがいなかった。これは不思議な一致である。どこを走るにも、何十本ものカセットテープを用意し、どの風景にどの音楽が合うかと試すことを大きな楽しみとしているおれとは当然趣味思考が違っていた。

 おれが試した結果、風景に合う音楽の王者は、今のところイーグルスである。なんだか知らないが彼らの音楽は、東京でも北海道でも、ポルトガルでもタイの田舎でも、どこを走っても妙に風景に溶け込んで似合うのだった。タイの田舎道でジプシーキングスというのもいい。なんか切なくなってくる。この辺の話はまたまとめて書こう。

 チェンマイの日常でバイクは一日とて手放せない。そもそもおれがチェンマイにほれこんだのは、バイクでどこへでも行けるこぢんまりとした便利さ故だった。ここに来たら真っ先にバイクを借りる。朝起きてから寝るまで手放せない。とはいえ100ccのホンダドリームで遠出をする気はない。それがおれの今までだった。

 ところが親しい周囲でちょいとしたバイクブームになり、オートバイなど生まれてこの方一度も乗ったことがない、チェンマイで初めて乗りましたというような無免許おっちゃんまでが、「一泊二日でメーサイまで行ってビザを更新してきました。いやあ楽しかった」と嬉々としてしゃべっているのを見ると、十六歳の誕生日になるやいなや二輪免許を取り、事故をやって一度免許は捨てたものの、後にまた取り直し一応今も中型免許を持っているおれとしては、未だにバイクでチェンライにすら行っていないことが、まるで大学四年生の童貞のように重荷となってきたのだった。卒業までにやはり一度は体験しておくべきではないかと焦りを感じたりする。

 北村さんに会いに行く今回の機会を、ぜひともそのちょっと遅めの初体験にしようと、おれは決めた。

長袖シャツを買う

ICHIBA ←ワロンロット市場内部

 ワロンロット市場まで白の長袖シャツを買いに行く。
 日本とタイでは季節が違う。一番暑いソンクラーンの頃(四月中旬)と比べると、八月は雨期でもあり、たいした暑さではない。涼しい方だろう。それでも日中半袖シャツで走っていると、肌の弱いおれには陽射しが痛かった。チェンライまで走る時の陽射しよけ長袖シャツが欲しかった。バイクで走るときはなるべく服を着た方がよい。その方が疲れない。

 学生用なのだろうか、市場の中にずらりと白のワイシャツが吊り下げられてある店があった(ワイシャツのワイはホワイトのワイだから白いワイシャツという言いかたはおかしいのだが)。言い値の150バーツで買う。払ってから、値切るのがセオリーだったなと思う。ここでは値切るとだいぶ安くなる。タイ人と来てそれを実感した。でも値切りに慣れていないので、いつも言い値で買ってから、そのことを思い出すことになる。

 縫製が雑で袖口の辺りに何本も糸が飛び出している。日本では着られないなと思う。最近の日本の衣類には中国製品が多い。廉価な靴下やパンツなどはほとんどそうだ。そこにヨーロッパで買ったシャツやオーストラリアで買ったズボンなどを組み合わせて、いんたあなしょなるだあと悦に入るのが好きなのだが、残念ながらこのシャツはその中に入れられそうもない。

 タイの色物シャツは見た目は良くできている。でも色落ちをする。日本で、タイ製の赤いタオルを白い衣類と一緒に洗ってしまい、ぜんぶがピンクになってしまったことがあった。これを自分の責任と取るか、タイの製品はダメだと責めるかは人によって分かれるだろう。

 昔は日本の衣類もそうだった。色物と白い物は分けて洗ったものである。一緒に洗うのは厳禁だった。時代を知っているおれとしては、タイの製品はダメだと責めつつ、昔の日本もそうだったのだからと油断した自分の責任にする。それをべつに不愉快とは思わない。タイに来ると、昔を知らない若者でさえも「なつかしい」と感じるというのは今やもう定番となってしまったが、実際に昔を知っている身としては、そんな缺点すらもなつかしさに繋がるのである。

 このことを話していたら、タイ人女性に、それは品物による、良い製品は色落ちなどしないと抗議されてしまった。たしかにセンターン(セントラル・デパート)などには、日本の値段と同じような製品──五千円のシャツ、八千円のズボン等──がずらりと並んでおり(物価を比較したら、それはとんでもなく高価な製品である)、それらはきっと色落ちなどしないのだろう。でもそういう比較をするなら、昔の日本にだって高級品はあったわけで、レヴェルというのは庶民クラスの製品で判断すべきでものである。ワロンロットというチェンマイで最も庶民的な市場で買う製品が、色落ちしたり糸がほつれていたりするのだから、やはりタイはまだその水準なのだ。悔しがって反論したタイ人女性の気持ちは解るけれど。

 初めてこの市場に来たとき、やはり陽射しよけに白の長袖シャツを買おうとして買えなかったことを思い出す。タイ語が話せなかったからだ。ホワイトシャツ、カッターシャツ、ロングスリーブと英語を並べたが、店番のおばちゃんには全く通じなかった。英語は世界中どこでも通じるなんてことが嘘なのは身につまされて知っている。タイでも何度も感じたことだ。その中でもこれはしみじみとそのことを感じた一場面である。現物を指させば買えた。なのになぜか商品のある店が見つからず、かといってジェスチャーを演じる気にもなれず、買うのを諦めたのだった。

←ワロンロット市場内部

 この一件はおれが旅人気質でないことをよく表している。もうすこし頑張れば買えた。長袖のジャンパーなどは有った。それと何か白い製品を見つけ、袖が長くて白いものとジェスチャーしていればやがて通じただろう。そういう苦労をして一枚のシャツを買い、その苦労話までも楽しみにしてしまうのが旅慣れた人、旅好きである。旅嫌いで短気なおれは「通じない→タイ語が話せないからだ→話せないやつに買う資格はない→タイ語の勉強が先→勉強してからまた来よう」と理論展開してしまうのだった。あの体験はタイ語を学ばねばならないと思ったことの一因になっている。タイ語を話すタイ人の国で、アジア人の顔をしながら、英語を使っている己の醜悪さに耐えられなかった。


■地図を買う

←DKブックセンター

 DK BOOK CENTERに行き、北部タイの地図を買う。一番安いので50バーツだった。ほとんどが100バーツ以上である。タイはこの種のものが(食料などと比較して)高い。あまり活用されないからだろうか。自分たちの国、あるいは地域の地図を壁に貼るというのは、どこの国でも誰でもよくやることだが、タイの庶民的な家庭ではまだ見たことがない。その代わり王様の写真は戦前の日本のようにどこにでも飾ってある。

 タイ人が地図を読めないというのは有名だ。いやこんな言いかたは失礼だな。なんていえばいいのだろう。昔のタイの義務教育では地図の読み方を教えなかったと言えばいいのだろうか。でも日本で地図の読み方を習うのはかなり早い。そこが解らない。人によっては、タイ人は三次元の現実世界を二次元の地図に置き換えることが苦手な民族だとまで言う。

 義務教育を受けていて読み書きの出来るおじさんおばさんでも地図を理解できない人は多い。それはいい。解らないと言ってくれればいい。知らないでもいい。問題は、誇り高い彼らは、解らないということが悔しいのか、知りもしないことをあたかも知っているかのように答えてしまうのである。解らないことを質問された彼らの心中はともかく、結果として、間違いを教えることになる。右に五分歩けばいいところを、平然と左に三十分だと言ったりする。バンコクの街中で、ドライヴ旅行の田舎で、このニサイ・コンタイ(タイ人気質)にはだいぶ泣かされた。

 地図を買うのは久しぶりだ。タイの地図はいっぱい持っている。一枚地図からドライヴ用の本形式になったタイ全土の道路マップまで、随分と色々な種類の地図を買った。タイ人が地図嫌いなら、おれは典型的な地図好きの日本人ということになる。今回はクルマで走る予定がなかったので日本から持参しなかった。またタイの地図が一枚増えたことになる。


■マイヘルメット




 ヘルメット、雨具、地図、バイクで走るのに準備すべき物はあと何があるだろう。

 ヘルメットはもう何年も前に自分用のものを買い、スター(レンタルバイク屋)の所に預けてある。ヘルメット着用が本格的に法化されて以来、レンタルバイク屋では、バイクを借りるときヘルメットも貸してくれるようになった。
 当然ながらひどいものが多かった。風防が壊れていたり、ベルトの金具がさび付いていたりする。一度被ったら外れなくなる物が多く、これには往生した。ヘルメットが外れなくなるというのは焦る。あのプッシュ式の、金具に囲まれたプラスチック部分を押せばいいものなのだが、作りが雑なタイ製品である上に、いい加減ガタが来た古いものだから、うまくスライドしないのである。

 気持ちよく街中をバイクで走り、気に入った食堂に寄り、ビールでも飲もうかと思っているのに、ヘルメットが外れない。顎の下に手を回し、カチャカチャとやっても外れない。暑い。外れない。焦る。被ったままビールは飲めない。おれは一生このヘルメットを被ったままなのだろうかとさえ思えてくる。そんなことを思うと急に頭が痒くなってきたりする。掻けない。隔靴掻痒ならぬ隔ヘルメット掻痒である。まあいざとなったら刃物でベルトを切ればいいのだろうが、とにかくこの「たびたび外れなくなるヘルメット」というのは不快だった。

 そしてまたなによりも見知らぬ人と同じ物を頭に被るのはいやだったので、安いことでもあるし、自分用のを買うことにした。三百バーツぐらいだったか。もちろん良いものは高い。本格的ライダーは、タイ人でも日本製のSHOUEIなどを使っている。タイではバイク事故から身を守るためにヘルメットを被るのではなく、被っていないと警官に捕まるから形式的に被っているだけだ。だから取り締まりがない時期には、誰もがノーヘルで走っている。タイの生ぬるい空気の中をノーヘルで走る、これが気持ちいいんだな。
■ステキなおまわりさん

 先日、バイクで走っていたら、久しぶりにノーヘルで捕まった。
 警官は言う。「いまここで払えば二百バーツの罰金、払わないと警察まで行き、書類を作って五百バーツの罰金。どうしますか、お客さん。今払った方がお得ですよ」と。言うまでもなく警官の小遣い稼ぎだ。こうしてあちこちで捕まえ、稼いだ金はみんなで山分けするという。稼ぎのいい奴もいれば悪い奴もいる。平等に分配して飲み代にするのだ。



 さあさっさと払えと、おまわりはタイ語で居丈高に話しかけてくる。おれは「はあ?」という間抜けな顔で首を傾げる。「アナタノイッテイルコト、ワタシ、ワカリマセーン」。奴は困っている。小遣い稼ぎの最中にヘンなのを捕まえてしまって貧乏くじを引いたという顔だ。「コン・チン(中国人)? イープン(日本人)?」と訊かれたので、それにもノーノーと顔の前で手を振りつつ、解らないふりをする。ワタシ、タイゴ、ワカリマセーン。困った顔のおまわりは、ない智慧を絞り出すようにして、「ユー、チャパニー」と英語らしきもので訊いてきた。チャパニーはジャバニーズのタイ訛りである。おれは「あっ、英語だ。これなら解る」という顔をして、「イエス、アイム・ジャパニーズ」と応え、にっこりと笑う。おまわりは、おっオレの英語が通じたじゃんという喜びと、でもこいつに事情を説明して金をむしり取るには苦手の英語をたくさん話さねばならないなあ、それはとても面倒だし、どうしようかという感情の入り交じった複雑な顔をする。

 「サイ・モアック・ニー・ナ(このヘルメットを被りなさい)」とヘルメットを叩きつつ、おまわりは「パイ・シ(行きなさい)」とぶっきらぼうに言った。おれは礼節を知る日本人らしく、「おまわりさん、ご苦労様です。あなたが不幸になりますように」と日本語で鄭重に礼を言う。礼儀正しいおれの態度におまわりも笑顔を見せた。タイ語が話せない振りをしたのと、バイクの前の籠にヘルメットが入っていたお蔭で、無事おれは無罪放免となったのだった。

 この話せないふりをするという智慧も、『サクラ』で知り合った先輩方に教わったものだ。半端に話せるようになった頃は、警官とタイ語でやりあったりして益々事態を悪くしたりしたこともある。すると丸テーブルのみんなが、「あれはねえ、話せないふりをするに限るよ」と教えてくれたのだった。

 チェンマイ在住の日本人に聞くと、給料がなくなってくる月半ばと、本格的にない給料前の月末に、この警官による小遣い稼ぎが多いという。

 タイ人からよく聞いた言葉に「マイ・チョープ・タムルアット、チョープ・タハーン(警官は嫌い、軍人は好き)」というのがある。国を守る軍隊が尊敬されるのに対し、タイでは警官がヤクザを兼ねているからだろう、日本よりも警官に対する毛嫌い度が高い。何よりもまず信頼感がない。近頃の日本の警官も危ないが。

 おれは以前、親しくなった娼婦館に入り浸っていたことがある。経営者と親しくなり、そこの一員として行動していたのだ。所属する十数人の女性達とは何もなかった。一員となってしまったら、彼女たちは〃商品〃である。身内が商品に手をつけてはならないのは古今東西共通の掟だ。とはいえ掟は破られるためにあるのもまた事実で、だからだろうか、そういうところで働いている(雇われている)下働きの男には──あらかじめそういうことを防ぐためか──ゲイが多かった。

 毎日経営者や彼女たちと控え室で過ごしていた。客が来ると彼女たちは広間に出て行き、ずらりと勢揃いする。そこで指名されれば商談成立だ。おれは店側の人間として、買春に来た日本人客の通訳をやったりした。いわば、にわかポン引き体験である。日本人客はおれを、日本語の話せるタイ人と思ったようだった。おれもそれを演じた。この時代のおもしろおかしい体験はまた改めて書くとして。

 その時知ったのは、毎日警官が金を集めに来るという事実だった。ショバ代集めである。日本でいうヤクザの地回りを、タイではおまわりがやっているという現実を目の当たりにした。これじゃ嫌われる。


■雨具の話

 雨具は雨期に来るたびに買っている。タイ製の雨合羽は、ちょうど一ヶ月ぐらい使っていると破れてボロボロになる。捨てて帰るに都合がいい。値段は毎年ちびちびと値上がりしているようだ。数年前60バーツだったものが、今年は85バーツだった。粗末な製品である。一枚のビニールに首を出す穴を開けただけのものだ。どこかに切れ目が入ったらそこから避けてしまう。もうすこしゴム製かなんかのきちんとしたものを作って欲しいと思う。タイでは「雨が降っている時には行動しない」というのが原則なので、こんなものでいいのだろうか。

 それと、この辺に気質の違いを感じるのだが、タイ人は濡れて走るのが好きなようなのである。濡れるのがイヤで、ほんのすこしパラパラと振ってきたぐらいでもカッパを着ているおれを、タイ人は奇異な目で見る。なにしろタイの雨具は、原色の派手なビニール製だから目立つのである。だけどおれからすると、日本的に言えば十分な本降りなのに、カッパを着ずに濡れて走るタイ人の方が不思議だ。



この間も仲のいいカラオケの女の娘と飲んだ時、けっこう降っているのに、彼女が平然とバイクで帰ろうとしていた。家まで5キロだという。おれの方が近いから、カッパを貸してやろうかと言ったら、「これぐらいの雨だったら着ないで走った方が気持ちがいい」と言われた。どうも感覚が違うようだ。まあ水掛け祭りの国だから、水に濡れることは平気で楽しいことなのだろう。

 で、そんなタイ人もさすがにおとなしく雨宿りする土砂降りがある。これは経験した者でないと解らない。日本の雨とは根本から違っている。バケツの底が抜けたような、天に穴が空いたような、と激しい雨降りにはいくつもの表現があるが、あれは凄い。本当に凄い。南国のスコールはこちらの想像を超えている。ほんとにもうビー玉のような雨粒が落ちてくる。うたれると痛い。前が見えない。あの雨こそが雨降りであるタイ人から見ると、パラパラ降りでカッパを着るおれは、やはりヘンな異国人なのだろう。


■準備完了



 長袖シャツに雨具、地図と準備は揃った。後は明日の朝九時に出発するだけである。

 荷物をまとめる。万が一のことを考え、VAIOは置いて行くことにした。バッグに入れて行きたい気もするが、雨降りもあるし、何かの接触で壊すようなことはしたくない。ここは我慢するしかないだろう。二月の発売日に購入してから、いつも一緒だった。国内はもちろん、オーストラリア、アメリカ、雲南省の奥地にも持ち歩いた。三泊四日も離れるなんて初めての経験である。ノートパソコンはNEC、東芝、IBM、シャープ、ソニーと五台目だが、こんなに気に入ったものは初めてだ。機械と人には相性があるので一概には言えないにせよ、このソニーの小さなVAIOはお奨め出来る。なんといっても、ちっこいくせにキーピッチが17ミリあるのがいい。ブラインドタッチが出来る小型モバイル製品は貴重だ。チェンライで過ごす間、VAIOがなくて寂しくならないだろうか。それだけが心配である。

 『北門』に行き、カルビ、タンシオから始まるいつものワンパターンで食事をする。バイクでどれぐらい走るだろう。正規ルートの往復だけで400キロぐらいだから、すこし山道に入ったり、もしかしてメーサイに行ったりしたら600キロを越えるだろうか。クルマだと一日で走れる距離だが、バイクだと三日がかりでもたいへんな気がする。体力を使うかも知れないから、出発前に焼き肉を食って精力をつけておこうという、これまたオヤジ的ワンパターン発想である。

 部屋に帰る。お腹一杯になり、ビールでほどよく酔ったので、まだ八時ぐらいだったのに、詰め将棋の本を読んでいたらいつの間にか眠ってしまった。



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