あやうさの魅力
(「t-thai(定退)」感想文)
        
          


 今年(2000年)三月、丸二年以上続いていたらしいホームページ『T-thai(定退)』が一区切りをつけたようだ。一年後に再開したいとか、まだしばらくはサイトを残しておくとか書いてある。が、私には結果は見えているように思える。
 決して熱心に読んではいなかったし、文章を読む視点からもあまり望ましい読者でもなかったろうが、通読させてもらった者として、私なりの感想を記しておこうと思う。



 私が、青木さんという東京出身、五十歳の日本人男性が書いている「t-thai(定退)」というホームページを知ったのは、昨年夏、Mさんのくれたメイルでだった。当時私はまだネットサーフィンとやらをしていない。ニフティの月30時間コースで時間があまっていたぐらいだ。
 Mさんのメイルには、ごく普通の話題として「最近はよく青木さんのホームページを覗いたりします」とあった。Mさんはタイ好きという同好の士として私がそれを当然知っているものと思っていたようだ。私は知らなかった。でもなんとなく、それが面白そうなHPであるかのように感じ、折り返しURLを教えて欲しいとメイルしたのだった。読者としてはかなり遅いほうになるだろう。


 『T-thai(定退)』というホームページ、そこにあっのたは、ごく平均的な、タイをまったく知らない日本人男性が、タイに嵌って行く道筋を記した「リアルタイム進行の日記」だった。節度ある五十歳の男として、虚飾に走ることなく、気負わず、ごく淡々と記すよう心がけつつも、恋を知った少年のように、胸弾ませ、瞳を輝かせた文章が綴られてゆく。それは、かつて同じ道をたどった者には、懐かしい夏休みの麦わら帽子の匂いであり、同時に、すでに答を知っているつまらないクイズ問題でもあり、なのについつい後を引いてしまうヒマワリの種のような(?)、不思議な吸引力に満ちたものであった。

 私がそこにたどり着いたとき、カウンターは28000ぐらいだったように思う。その後、青木さんがカウンターを間違って消してしまったこともあり、果たして正確なアクセス数がどの程度のものであったのか私は知らない。タイ関係ではそれなりに人気のあったサイトであったと思われる。でもそれはまあどうでもよい。興味があるのは、どのような人が読んでいたかだ。



 タイに関する前知識もなく、何も知らずにタイの深みに嵌って行く五十歳の日本人男性がいる。十日にいっぺんぐらいずつ書き足される、その「リアルタイム進行の日記」を毎回楽しみに読んでいたのは、どんな人だろう。
 青木さんと同じぐらいのタイ経験の人が、自分が体験しているかのようにわくわくしながら読んでいたのか、青木さんほどもタイ経験のない人が、憧れの気持ちで読んでいたのか、思いっきりタイに嵌りたいと憧れつつ、それが出来ない勤め人が疑似体験として読んでいたのか、一番多かったのはどんなタイプだろう。
 そして中には私のように、青木さんの嵌って行く道筋を、かつて多くの先達がたどった道と、一種の痛々しさを感じつつ、ある種の残酷さをも持って覗いていた輩もいたに違いない。

 ここで私がこだわってみたいのは、私のように、ほんのすこしばかり青木さんよりもタイを知っていて、今までいくつもの苦い経験をしてきた連中が、割合冷めた視線で──ひじょうに意地の悪い言いかたで恐縮だが──ほくそ笑みつつ読んでいたのではないかという点である。私の『T-thai(定退)』に関する興味は、この一点に集約される。



 沢木耕太郎さんの『深夜特急』に関して、「現実の旅から十年以上寝かせておいて発表したのが成功の最大の原因」のように書いたことがある(「チェンマイ日記99-夏──届いていたMai」l)。物書きにとってリアルタイムで書くことほど怖いことはない。等身大の自分が出てしまうからだ。体験の後、一度寝かせておき、それに関連する多方面の知識を補強した後、別の容器に移し、盛りつけを替えて発表するのが、素材を光らせ恥を掻かないための最善の手法となる。

 それは世に溢れている作家の旅行記を読めば一目瞭然であろう。宮脇俊三の鉄道旅行記に何の味わいもないのは、彼自身がつまらない書き手であることも大きいが、出版社に設定してもらった一週間程度の旅行を、体験してすぐ書いていることも理由のひとつだろう。底の浅い見聞記でしかない。お新香でいうなら一夜漬けだ。
 抜群の筆力を誇る宮本輝の欧州紀行記でさえ、体験後すぐ発表されたものは味わいが薄い。後々それを素材にして料理した小説の深みとの差はいかんともしがたい。
 内田百閒から金子光晴、阿川弘之、北杜夫、山口瞳、吉行淳之介、お粗末なところじゃ安部譲二のアジア・オリエントエクスプレス乗車記まで、紀行文というのは作家の力量を計る物差しとして一分の狂いもない優れものなのである。

 実際問題として、それほど慎重だった沢木さんでさえ多くの失敗をしている。後のエッセイで触れられているが、香港で素人占いをされた際、自分の性格を「孤寒」と書かれ、その字の感覚から、「ひとりぼっちの孤独な存在」のような良い意味に解釈して文章にする。
 しかし単行本が発刊され広東語に詳しい読者から届いた手紙には、沢木さんがそう好意的に解釈した「孤寒」が、実は単に広東語では「ケチ」という意味であることが遠慮がちに指摘してあり、沢木さんは恥じ入ってしまうのである。もっとも沢木さんの場合、ファンにとっては、こういう失敗談すらも魅力になるのだろう。
 これは後のエッセイに書いてある話だ。



 リアルタイムで書き進めることには勇気が要る。詐欺師を聖者と思い、ゴミためをお花畑と信じた身悶えしたいほどの悔いと恥辱を引きずりながら突き進まねばならない。青木さんはそれをやった。真の勇者だったからか、蛮勇をふるっただけか。それすらも考えない素人だったのか。初めて自分の文章を他者に発信するという快感に酔っていたのか。

 どれもが部分的には正解であろう。彼の文章には、時折マゾヒスティックに己の無知を嗤う視点がかいま見えたりする。団塊の世代の持つ乾いた絶望感が覗いたりもする。この辺はガキンチョの書いている旅行記とはひと味違った魅力だ。
 一方ではまた、不特定多数の読者を想定した売れっ子作家気分の傲慢な物言いもあったりする。平凡な勤め人であったときから一転して、自身の発した文章に対して多くの感想が寄せられるという立場になったのだから、そう思うのもまた自然であろう。

 いずれにせよ、「t-thai(定退)」がそれなりの人気を博したのは、間違いなく同時進行=リアルタイム日記である故の〃あやうさ〃からだったろう。

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 青木さんはタイに懐かしさを感じる。バンコクの路地裏に、自分の育った日本の下町を見る。
 タイ人のやさしさに惚れる。いい加減さに腹を立てる。カンチャナブリーの戦争記念館で不愉快になる。いつしか異国人として訪問しているはずのタイなのに「帰ってきた」という感覚を持つようになる。

 タイに嵌った人なら誰もがたどる道を、青木さんは一直線にひた走って行く。
 あやうい。まことにあやうい。本人は意気揚々としっかりと大地の上を歩いているつもりだ。だがタイという底なし沼に嵌り、拭いきれない苦い想いを抱いた先輩達から見れば、それは大地などではなく、地獄の上に張られた今にも破れそうな薄皮でしかないのだ。「落ちるよ、危ないよ」と先輩は思う。はらはらする。が同時にまた心の一部にある「落ちろ、落ちてしまえ、おれと同じ大火傷をしろ」という悪魔の囁きがあったことも否定できまい。

 早期定年退職による退職金というまとまった金。別居状態にある妻。持病の糖尿病。いくつもの要素が絡まった青木さんの前に、タイという国がある。蟻地獄が両手を広げている。草原を疾走するかのような爽やかさで、青木さんは蟻地獄へ猪突して行く。

 かなり年下のタイ人女性との出会い。久しぶりの胸のときめき。恋愛。結ばれる日。新たな生活設計。彼女の田舎への道行き。
「日本なら自動車一台分の金で、この国では家が建つ」という、これまた誰もが一度は陥る発想。御殿という勘違い。粗雑な工事。気質の違い。戸惑い。天使のように思えていた娘の、がさつな部分への幻滅。
「でもここまで来たら、行くところまで行ってみよう」という居直り。
「いつか私もこの国に見切りをつけ、日本に帰るのかも知れない」という諦観の始まり。あまりにも、あまりにも典型的なタイへの嵌り具合である。



 青木さんはタイで日本人と付き合うことをよしとしなかったようだ。バンコクでも、その他の地域でもその意志を貫いたらしい。それがこの「t-thai(定退)」というホームページを確立し得た要因である。

 彼女の実家があり、〃御殿〃を建築したパヤオは、常識的にはチェンマイを経由して行く地域だが、青木さんはチェンマイに寄らない。文中の一章に「遙かなるチェンマイ」というのがある。そこには、観光地としてのチェンマイの魅力を認め、いつかは行ってみたいものだなどと書かれているが、内実は同胞と関わる有り触れた行為に対する拒否宣言であろう。それはそれでいい。その頑なさがいい目に出た。
(私は、この時点で、チェンマイに行き、多くのタイに関する先輩達と語らったなら、自分のアイデンティティが崩潰してしまうのではないかと、青木さんは気づいていたように思う。)



 もしも青木さんがチェンマイに来たなら、まして全盛期の「『サクラ』の丸テーブル」に関わっていたなら、『T-thai(定退)』そのものが存在しなかっただろう。

 そこには、タイ人女性にクルマをやり、家をやり、ほうほうのていで逃げ出してきた連中がうじゃうじゃいた。極度の昂奮状態に陥り、真っ白な顔で包丁を構えるタイ人の妻に「刺すなら心臓を刺せ!」と対峙してきた古つわものがいた。タイの女が目の前を裸で歩いていてもニワトリほどにも思わないと断言するタイに疲れた男達がとぐろを巻いていた。

 タイに嵌り、女に二百万円程度の家を建ててやるのは卒業ではない。中級者の通行証のようなものだ。家を取られ、追い出されてやっと上級者か。タイにこだわる男達。親からもらった財産を、死にものぐるいで溜めた金を、全部タイに貢いでしまい、文無しとなった男達。
 散々タイという国、タイ人の悪口を言いつつ、それでもタイから足を洗えない男達。『サクラ』の丸テーブルには、そんな心優しいすれっからしが集まっていた。

  もしもここに関わっていたなら、青木さんは自分が意気揚々と、大胆に、一転して慎重に、ある時は思い切って決断し、しばし憂鬱に、時には颯爽と、一歩一歩未開のジャングルを切り開 くように進軍してきたつもりの自分の航跡が、実は多くの同胞の誰もが同じようにたどってきた凡庸な道であると気づいてしまったろう。そう気づいたなら、精力的にその有り触れた道筋を記す熱意は薄れてしまったはずである。

 たとえばそれは、熱烈に愛し合い自分だけに体を開いてくれたと有頂天になった天使のような美少女が、千バーツも出せば誰とでも寝る娼婦だったと知ったときのショックのようなものだ。それを知ったとしても、少女への思いは消えない。むしろ嫉妬という油を注ぐことにより、どす黒く燃え上がって行く。だが想いは微妙に変化する。
 文章を書くという熱意は、少女に対するまっすぐな賛辞のようなものだ。知ってしまってからは、こだわりは前よりも強くなろうとも、描く線はまっすぐではあり得ない。

 青木さんが『サクラ』に関わらなかった偶然(いや、必然か)を、心から嬉しく思う。関わっていたなら「t-thai(定退)」は存在しなかった。『サクラ』の常連が、青木さんのサイトを覗くような趣味嗜好の人たちでないこともよかった。もしもそうであったなら、やはりこのホームページには悪影響が出ただろう。

 最終回の謝辞に、「たくさんのメイルを頂いたが、否定的なものは一通もなかった」と述べられている。
 が同時に、否定的なことを書けるほどのタイ沈没組はインターネットのホームページなどを読むタイプではなかったろうし、数少ない読んでいた人も、あまりにピュアな青木さんの道行きを案じ苦笑しつつ、否定のメイルは書かなかったというのも事実であろう。
 恋に目覚めた少年の一途な情熱に、掛ける冷や水などありはしないのだ。


 リアルタイムで日記を書き、自分の足跡をインターネットというメディアで世界に発信した事実は、やがてより深くタイを知った青木さんの心に、よかれあしかれ、多少の苦みを伴って根付くはずである。それは〃青春の悔い〃のような、すこしばかり痛痒いものであるだろう。
 タイに関わった男は、誰もが少年にもどってしまう。甘酸っぱさを通り越して訪れたその苦さをかみしめる時、青木さんはどこにいるのだろう。タイの娘とパヤオ御殿で楽しく暮らしているのだろうか。それとも既にタイに見切りを付け、日本に帰っているのだろうか。

 もしも日本に帰っていたなら、それはもう遠く遙かな思い出になっているに違いない。沢木さんの『一瞬の夏』風にいうなら、それは「一瞬のタイ」である。何年にもわたる濃密なタイ体験も、過ぎてしまえばすべては一瞬に凝縮される。心の片隅に転がった仁丹一粒程度の苦みだ。
 それもまたタイという国に関わり、卒業した誰もが経験する、不思議なこの国の印象である。果たして……。
(2000/5/2 中国雲南省にて)



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