『T-thai(定退)』騒動

         


▼この文章の前に、《あやうさの魅力=『T-thai(定退)』感想文》を読み、それから以下の参考資料に目を通していただけると幸いです。


■参考資料
『Net Thai』掲示板より
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【記事番号:11740】 パヤオ(定退)からの速報!
投稿者: 削除してもいいよ
投稿日時:00/06/07 01:35:12

それでその作家はT-Thaiのアオキ氏に断って感想を書いているそですかね?
個人の生活をとやかく言われていい迷惑だと思いますが。
少なくともT-Thaiはプライベートをつづった出来事でなのに、その作家はチェンマイの話や日記を出版する予定だとか。

(註・この投稿の前に、このハンドルの人からの投稿がいくつかありました。内容はこれと同じ、「プライベートなことを取り上げるのはB級ライターだ」というようなものです。)


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【記事番号:11753】 幣掲示板で議論しましょう!!
投稿者: 削除してもいいよ
投稿日時:00/06/07 12:06:32

メアドを書いていたり自分のHPなら勝手なこといっていいんですかね、アオキ氏がそこのHPの掲示板に参加するとは思えませんが、田舎町の小さな食堂で他人の悪口を言って盛り上がっている年代の違う人達の席に割り入って行って反論をするような行為はいたしません。

(註・これは後藤さんが、この人の書き込みに対し、「『Net Thai』でメイルアドレスも書かず言いたい放題をせず、私の掲示板で議論しましょう」と呼びかけたことに対する返答です。)

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【記事番号:11755】 ひとことだけ
投稿者: たぐち 
投稿日時:00/06/07 14:24:16

私が世界で一番愛するホームページ「T−Thai」についてこの掲示板で話題になっていることを偶然知りました。出る杭はうたれると申しますが、ネットの世界でも、人気あるサイト作者にはやっかみが付きものですね。
それをサラリとかわしていらっしゃるのは、さすが大人だな、と思います。

作家さんのについては、サクラで話したことがあります。
濃ゆいけど、悪い人じゃありませんでした。
彼にとって、私は通りすがりの旅行者のひとり。
ですから、むこうは覚えてないでしょうけどね。

みなさんご存知の通り、チェンマイには定住日本人がたくさんいますけど、かつてのサクラの常連タイプじゃない人もたくさんいますよね〜。
狭い狭い日本人グループの間で繰り広げられる連日の井戸端会議に辟易した結果、サクラに寄りつかなくなった人も少なくありません。
そして、なぜかアンチ・サクラの日本人の方が、タイでの生活を楽しんでいるように私には思えました。

タイ女性と幸せな人生を過ごしている日本人は、けっして少なくありません。
青木さん、ねたみソネミなんか気にせずに、これからも素敵な人生を歩んでいってください。

HPについては、開設時からの一ファンとして、再開を願っておりますが、どうかご自分のペースで楽しんで更新してくださいませ。

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【記事番号:11756】 アオキさんがんばってくださいね
投稿者: まったく
投稿日時:00/06/07 14:40:49

批評の件が 別なHPにのっているのは、昨日ここでガヤガヤしていたので知りました(レスもしました)

アオキさんのHPの存在はしってましたが、全部はみていません。
私自身がアオキさんと同じ運命かどうかわかりませんが、私も進行形であり、見るべきこともなく、似たような事柄を経験しているからです。 またコメントされたHPも知っていますが細部の内容は 昨日みたしだいで、 まあ、良く批判、評価できるものだと! 関心しました。

当事者でない、事が多いわけですので、今後のアオキさんの人生に悔いがのこならければ、それでいいのではとおもいます。
私自身も どこで生きあえるかしりませんが、見届けてくれる人がいれば これ最高と思って、がんばっております。

いずれ、この書き込みも消去されるでしょうが、人、人生いろいろで、悔いのないことが一番 それだけです

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【記事番号:11745】 指摘のとおり、この口コミボードとは関係ない
投稿者: まったく!!
投稿日時:00/06/07 06:36:42

口コミボードだから 休止したHPに追記があったことはよいとしてそれ以降については、ここと関係ないことじゃない?
チェンマイの ライターさんのも見たけど、どうも お互い面識はないし、まあ! 人生はいろんな道があるから、どれがいいか悪いかなんていうことじゃないし、自分がどう生きるかちゃんとしたポリシーもっていればいいことで、批判、評価することじたい、B級ライターといわれてもしかたないでしょうね!
自分の目でネタさがししていないって、感じ!

(註・「B級ライター」という呼称は、冒頭のハンドル「削除してもいいよ」という人が最初に使ったものです。その投稿には、「おまえなんかより下川の方が百倍もおもしろい」という文章もありました。)


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■「さくらと宇宙堂」の掲示板より

これも?? 投稿者:通りすがり  投稿日:06月16日(金)00時22分34秒

>青木さんの件は、「T-Thai」をこよなく愛読する方の見識で終らしましょう。ka**zoさん>は、青木さんに焦点をあてたのではなく、それを愛読する人ってどういう人達なのか興味深>感想を述べたまでです。
(註・これは後藤さんが掲示板に書いた文章です。)

どうも被害者の意識で書いているとしか思えません。
実際に本人も始めて見た時不愉快に感じたというのは事実なのだから、削除するのが正しいとは思えませんか??
あと、本人のメイルをいくら了解を得た(「公開してもいいですか?」、といわれれば、「ダメ!」、とは言わないでしょう。)とはいっても公開するのも常識以前の問題だと思います。
註・これは×××さんが掲示板に公開した青木さんのメイルに関する意見です。)

こういった書きこみを削除するのは簡単ですが、HP代表者、作家の先生もコメントをしたらどうですか?


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通りすがりさんの言う通りだと思う 投稿者:チャイラーイ  投稿日:06月15日(木)21時43分16秒

各地で頻発している、亀さんのHPアドレス公開付きの本文改ざん他者批判文の掲載はT−THAIの件と関係あるのかもしれない。
彼らのやっていることは間違っているのだが、T−THAIの件を片づけないと今後、思わぬ騒動に発展するかもしれませんよ
(註・この人の別名と正体はお解りのことと思います。)

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??? 投稿者:通りすがり  投稿日:06月15日(木)21時13分03秒

通りすがりですが、
T-thaiのアオキ氏が御自分のHPにココで問題になった結末を早々とUPしているのだから、油来氏も何がしかのコメントを出すべきではないでしょうか。

それから編集中とありますが、”騒動”、ていうのはどうかと思います。
何か一方的に迷惑をこうむったように聞こえるのは自分だけでしょうか。
そもそも問題を起こしたのはどちらですか?

感想文を中止するのが筋だと思いますが、、、
作家以前に人間性を疑います・

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昨晩の削除の理由は? 投稿者:通りすがり  投稿日:06月16日(金)11時17分15秒

<悪質な誹謗中傷及び不愉快と採れる投稿>
とは思えない投稿をしたつもりだったのですが、やはり管理者に都合の悪い話しは削除するのですね。

作家というのは文章でお金をもらっているんでしょう?
たとえHPに善意で文章を提供しているといっても、それは少なくとも作家活動の宣伝になり作者の利益に繋ります。
そんな作家が完全に趣味でプライベートのかとを綴ったHPの批判をしてもいいのでしょうか?

それから雑記だか日記に下川氏の批判もありましたが、そちらも文章でお金を得ている人間の表現とは思えません。
ご自身のことより他人の中傷、批判を中心に書かれて本人は楽しいでしょうが非常に不愉快に感じました。
(↑これも感想ですよ、あの感想は?)
引き続き、感想、の中止を求めます。




 以上を資料として、いよいよ本文である。



『T-thai(定退)』騒動



  『T-thai(定退)』というホームページに関する「感想文」を書いた。すると、「おまえの文章を読んで不愉快になった! 削除せよ!!」というメイルが届いた。
 『Net Thai』の掲示板にも、私のことをB級ライターだと言ったり、「下川(祐治氏)を批評しているが、おまえなんかより下川のほうが百倍もおもしろい」などという書き込みがあった。

 もっとも『Net Thai』の場合、syunというハンドルの人が、「青木さんの『T-thai(定退)』が完結しましたね。でも彼女とあのまま終ってしまうと思えないのはぼくだけでしょうか」という芸能記事的な書き込みで立てたスレッドが最初だった。
 その後「それに対する評論が発表されました」というのが続き、「それはどこにありますか」という質問から、当ホームページ主催者の後藤さんが「私のところです」と名乗り出たりと続いていたのだ。
(より正確に言うなら、それよりも前に、後藤さんが『Net Thai』掲示板に、「近頃タイが嫌いになって来た人に読んでもらいたい文章」と、私の「あやうさの魅力=『T-thai(定退)』感想文」をお知らせとして書き込んでいた。)

 そこまではよかったのだが、そのsyunさんのスレッドに、「じじいの末路はあわれだね。病気持ちだし」という青木さんを中傷する書き込みをした人が現れる。そこに、資料として掲載した〃削除していいよ〃というハンドルの人の文が続き、いつの間にかそのスレッドは、私の「感想文」を攻撃するのが主目的となっていったのである。
『Net Thai』主催者が現れて、個人攻撃になっていると判断し、削除してくれて落ち着いたが。



 私は急いで青木さんにメイルを書くことにした。いつかどこかで偶然出会う日を楽しみに、それまでは書くまいと決めていたのだが。
「青木様、はじめまして。私の文章に御気分を害する部分があったなら誠に申し訳なく思います。でも底辺に流れるのは好意であるとお解りいただけると思うのですが」と書いた。すぐに返事が来た。
「こちらこそ『T-thai(定退)』の読者により、不愉快な目に遭わせてしまったようで申し訳ありません」とあった。
「底辺に流れているのが好意であるのは、最初から解っていました。どうか、いやがらせをする『T-thai(定退)』の読者もまた、ごく一部の人であることをご理解ください」と。

 私たちは互いに謝りあいつつ、挨拶を交わした。以後もメイルの交換から話が弾み、「『日記=チェンライに走る』はあれで終りなのですか、続きが読みたいのですが」などと質問されたりもした。
(「チェンライに走る」には続編があるのだが、それは舞台が日本であり、ここで発表すべきものではないと判断して自粛している。)

 事情を知った青木さんは、私に対するいやがらせは止めて欲しいと、『T-thai(定退)』に新稿を書き足して読者に呼びかけてくれたりもした。しかし、青木さんの新稿が発表されても、後藤さんの掲示場に、上記のようにエキセントリックな書き込みをする異常者がひとりだけいたわけである。




騒動というほどのものは

 実は青木さんに心配をかけるほどのことはなにもなかった。
 私にヒステリックなメイルを寄越したのは、一人三役の女性(異なる名前の人から合計三通来たが、どう見ても文章からして同一人物のひとり芝居)だけだったし、参考資料として掲示した『Net Thai』や「さくらと宇宙堂掲示板」への書き込みも、皆さんの含み笑いが聞こえてくるような、日本語以前のお粗末なものばかりである。好意的なメイル百通に対して三通(しかも本当は一人)なのだから、騒ぐほどのことは何もなかった。

 それにしても、×××さんが公開した青木さんのメイルに対し、《本人のメイルをいくら了解を得た(「公開してもいいですか?」、といわれれば、「ダメ!」、とは言わないでしょう。)とはいっても公開するのも常識以前の問題だと思います。》という論理は凄まじい。

 公開してもいいかと問われたら、嫌な場合は誰でも断るだろうし、この場合は、こういう人の暴走を止めようと青木さんは公開を了承したのだが、それすらも認めようとせず、許可を取っても公開するのは常識以前と言い出す感覚は正気ではない。

(後日談だが、このあと私も青木さんのメイルを掲示板で公開した。この人の錯乱暴走に歯止めを掛けたかったからである。
 それは、私が湖近くの育ちであり、北部タイでは湖のあるパヤオが一番好きだと書いたことを引用した青木さんが、「パヤオまで来たら連絡をください。オートバイでふっとんで迎えに行きます」と村に一軒だけある呼び出し電話の番号を書いてくれたりした、私たちの親密な関係が類推できるメイルだった。だがこの人はそれに対しても「あれを読んで形式的な手紙と感じるのは私だけでしょうか」と全く理解を示さない。無駄なことをしたと、そういうことをした自分に私は嫌気がさしたものだった。)

 私が大げさに書いたために、皆さんの中には「仕事に支障を来すほどの非難メイルが殺到」のように思った人もいたらしい。そんなことはない。寄せられたメイルは好意的なものばかりだった。だって、あれだけ全力を尽くして書いたキチンとした文章にそうそうケチをつけられるものでもない。

 文章を読める人なら、「あやうさの魅力=『T-thai(定退)』感想文」というものを書くために、私がどれほどのエネルギーを注入したかが即座に解るだろう。その文章を真っ向から批判し論破しようとしたなら、それ以上の能力とエネルギーが必要になる。実際にそれをやるとなったら並大抵の決意では出来ない。
 それをやることが〃愛情〃なのである。それだけのものだったら、私もまた全力で応じたろう。そういう努力はなにもせず、「削除しろ」「人間性を疑う」としか言えなかった人と、実際に感想文を書いた私の、どっちが真剣に『T-thai(定退)』を愛していたかは言うまでもない。



 私が苦笑したものに、〃まったく〃とかいうハンドルの人の『Net Thai』への書き込みがある。
 そこでその投稿者は「『T-thai(定退)』を全部読んではいないが、よくもまあ批判できるもので、B級ライターがうんぬん」と書いている。
『T-thai(定退)』を全部読んでいないというそれだけでもう発言資格はないのである。呆れて口も利けない。
 全部読み、何度も読み返し、自分なりの感想を書き、そこにおける意見が私の感想文とは違うというところから、初めて論争は始まる。通読すらしていない人間がもっともらしい意見を言えてしまうというのが、インターネットというメディアの怖さである。
 もっとも、発言できる場が増えるということは、いい加減な人は恥を掻くことが増えるということでもある。

 見知らぬ人間から匿名の非難メイルをもらい私は驚いた。でもこんなことはインターネットに関わっていたら日常茶飯事なのだろう。
 私はインターネットに1999年9月から後藤さんとの縁で関わったが、今までただの一度もいやがらせを受けたことはなかった。自分の意志をきっちりと込めたあれだけの量の文章を、インターネットというホテルのロビーのような、誰もが自由に出入り出来る公の場に発表したのだから、そのことの方がきっときわめて希な幸運だったのだろう。

 騒動などなかったのに、その顛末を記したこの小文のタイトルを、なにゆえに「『T-thai(定退)』騒動」にしたかというと、初めていやがらせのメイルをもらった記念に「手痛い騒動」に掛けたかったからである。なんかそれすらも解らず言論統制しようとしている人もいる(笑)。

 メイル交換をしている人の中には、「お仕事の関係上、今までもこういう経験は何度もあったと思います。慣れているとは思いますが、がんばって乗り切ってください」と励ましのお便りをくださったかたが何人もいた。
 私はマスコミに関わるようになって二十数年、今回のような経験はただの一度もない。それは、放送局であれ出版社であれ、ガードシステムがあるからだ。今回のような投稿があったとしても、それが構成作家である私や著者である私のところまで届くことはない。それだけの価値なしと判断され、それ以前に破棄される。
 ところがインターネットにはそのガードシステムがない。読者と作者がダイレクトに繋がっている。その意味では十分に〃騒動〃ではあった。ただしそれはメディア論の話になる。

 私が今回の件に関して印象的に思い出したのは、もう十数年前の出来事になるが、『ゴルゴ13』に関する騒動であった。
『T-thai(定退)』に関する騒動などなかったのにこの稿を書いたのは、そのことを書きたかったからである。比較するにはスケールが違いすぎて恥ずかしいが、まあ基本的な流れは同じなので、以下紹介したい。作者と評者と読者と三者三様のしがらみである。




『ゴルゴ13』論争



 当事者である青木さんと私がメイル交換をして、互いに解り合い、親睦を深めているというのに、そのことを発表しても一切関知せず、「感想文を削除せよ!」と後藤さんの掲示板に書き込んでくる第三者がいるという現状を、私は不思議な気持ちで見ていた。そして突然、「ああ、これは、あの頃の『ゴルゴ13』論争と同じだ」と思い出したのだった。

 以下、知らない人のために、しばらく『ゴルゴ13』に関する記述が続く。詳しい人には釈迦に説法だから次項までとんでいただいてけっこうである。



 『ゴルゴ13』とは、『ビッグコミック』誌に既に30年近く連載されている人気コミックである。もう十数年前になるだろうか、ここで有名な〃論争〃と呼ばれるものが勃発した。

 それは評論家の呉智英(くれ・ともふさ)さんが、『週刊宝石』誌上で『ゴルゴ13』の批判をしたことから始まった。マンガ評論もする呉さんが、書評のページでコミックを論ずるというなかなかに斬新な企画だった。
 そこで呉さんは、二十年にも及ぶ連載(当時)の中でも屈指の名作として評判になり、掲載後半年を過ぎても未だに読者投稿欄に傑作と称える投書が掲載されるその作品に対し、シナリオの缺陥を指摘したのである。

 この書評が『ビッグコミック』の読者投稿欄で取り上げられ、ゴルゴファンの反論が掲載された。
 呉さんは、それに対し『ビッグコミック』誌に投稿をして再反論する。ここから『ビッグコミック』誌の投稿欄を舞台とする、数ヶ月に及ぶ呉さんと読者による論争が始まったのである。



 素材となったのは世界の穀物市場をテーマにした作品だった。主役となる日本人元商社マンの人物像もよく描かれた水準以上の作品だったと言えるだろう。
 呉さんが指摘したのは、スナイパー(狙撃者)である『ゴルゴ13』ことデューク・東郷(以下、ゴルゴ)の、その作品への関与の仕方だった。その日本人商社マンからの依頼を受けたゴルゴは、金塊を積んだ列車を橋の手前で停めるために登場する。鉄橋に仕掛けたマグネシウム爆弾を遠方から狙撃して煙を上げさせる。そのことに気づいた運転手が列車を停め、という関わりかただった。

 この部分に関して呉さんは、「何千万円も払ってゴルゴを雇わなくても、タイマー付きの爆弾でも仕掛ければすむことであり、ゴルゴの登場は無意味である」と断じた。「こんな作品を名作だと騒いでいる読者はおかしい」と。

 最初の『ビッグコミック』投稿欄の読者反論は、「この作品には前作がある。それを読んでいないと、この作品の魅力は判らない」というものだった。
 それに対して呉さんは、「前作も読んでいる。前作があるからといって、この作品の缺陥を埋め合わせることにはならない」と、前作のあるエラリー・クイーンの作品などを例に挙げ反論した。ごもっともである。

 次は「完璧の上にも完璧を期すためにゴルゴに依頼したのだ」という投稿だった。
 それには呉さんは、「完璧を期すなら、ゴルゴの狙撃によって立ち上った煙に、機関士が〃偶然〃気づき、鉄橋の手前で〃偶然〃に列車を停めるなどという連続する偶然に頼らず、時限タイマーを仕掛けた方がよほど完全である」と返した。



 こうして幾度ものやりとりがなされる。圧倒的に読者側が不利だった。それは後に記す『ゴルゴ13』という作品の特性にある。やり玉に挙がった作品は良質のコミックであり、全体的にはおもしろいストーリィだった。ただゴルゴの登場する場面に関して言えばやはり不自然だったろう。それは缺陥であり呉さんの指摘は正しかった。

 が、それはどうでもいいことでもある。読者は『ゴルゴ13』という作品を楽しめさえすればそれでいいのだ。
 私も第一回からの読者だが、やり玉に挙がっているその作品をすばらしいと絶賛する気もなければ、かといってストーリィに缺陥があると抗議する気もなかった。餘暇の時間に読んで楽しむ。それだけである。たいがいの読者はそうであろう。人生における主役は自分自身なのだから。

 ところが世の中にはマニアックな人がいる。熱烈なファンとは、清濁併せ呑むというか、ちがうな、えーと、あばたもエクボか、とにかく全部が好きなのである。すべてに好意的なのだ。どんな些細なことであれ、ケチをつけられるという、そのこと自体が許せないのである。大好きな『ゴルゴ13』にケチをつけられたと逆上した一部読者から、『ビッグコミック』誌には、手を替え品を替えたゴルゴ擁護論が続々と寄せられた。次々と新たな論客も現れる。が、片っ端から呉さんに論破され、やがて読者側は、次第にヒステリックになって行ったのである。




『ゴルゴ13』の特性


 ここでこの論争の出発点となった『ゴルゴ13』という作品の特質について説明する。

 この作品は、当初はスナイパーである彼が活躍する活劇コミックであった。例えば「難攻不落の要塞に立てこもっている麻薬組織のボスを、ゴルゴがいかにして狙撃するか!?」というようなストーリィである。「500メートル離れた機内にいるハイジャック犯を射殺する」なんてのもあった。彼の超人的な狙撃技術を楽しむものだったのである。
 しかし何年も連載していればその種のストーリィは枯渇してくる。そうしていつしかゴルゴ本人は、《世界的歴史的事件を扱う『ゴルゴ13』という物語の中の、狂言回し(=ワンポイント出演)のような役になっていった》のである。このことにより『ゴルゴ13』は、長寿マンガへの道を歩みだした。いわば「サザエさん路線」である。



 長寿マンガには、二つのパターンがある。『サザエさん』のように、時代が変わろうとも決して齢を取らず、永遠にそのままのルックスを保つものと、『あぶさん』のように、リアルタイムで齢を重ねて行くパターンだ。

 『あぶさん』型の長所は、読者と時間を共有して行くことにある。
 二十五歳で南海に入団したあぶさんこと景浦安武は、連載開始当初から五十歳になる現在まで、作品中をリアルタイムで生きてきた。恋愛、結婚、子供の誕生と、すべて現実の時間と同じに進行し、ついに昨年はダイエーの優勝という、連載開始から二十五年、宿願の感激に結びついたわけである。
 昨年の優勝時、誰におめでとうを言われても泣かなかった王監督が、泣きじゃくる水島新司氏(『あぶさん』の作者)を見たら、不覚にも涙をこぼしてしまったというちょっといい話があった。
 今年の『あぶさん』は、成長してプロの投手となった息子との対決で盛り上がっている。第一回から読んでいる熱心な読者(かくいう私がそうなのだが)からすると、嫁さんとの出会いから知っているわけだから、この対決には格別の思いがある。

 この『あぶさん』型マンガの最大の魅力であり、同時に缺点となるのは、リアルタイムで生きる主人公が齢を取ってしまうことにある。超人を主役にした場合、体力の低下が問題となる。もっとも水島氏は『野球狂の詩』の岩田鉄五郎の頃から年寄りプレイヤーにご執心だったから、きっと景浦は、水島氏が書き続ける限り現役でいるだろう。



 ゴルゴの場合は、齢を取り体力が落ちることは致命的な問題となる。
 よって『ゴルゴ13』は、主人公の肉体を、いくら時が流れても年を取らない『サザエさん』型にした。当初は『あぶさん』型の予定ではなかったのかと思われる。こんなに長期連載になるとは作者のさいとうたかを氏ですら思っていなかったのだ。ご本人もそうおっしゃっている。既に〃読者のもの〃となってしまったゴルゴは、今では作者ですら連載を終了出来ない特殊な存在になってしまった。

 連載開始時、知的肉体的に男の最も充実した時期として、ゴルゴは「三十代半ば」に設定された。それから三十年である。本来ならもう還暦を遙かに過ぎ、超人的活躍は無理の齢になっている。それでは連載がおぼつかない。ゴルゴは年を取らないことになった。今もデビューの頃と同じ容貌でいる。三十年経っても三十代半ばのままだ。

 ルックスは変化しないが、ストーリィの展開には大きな変革があった。ゴルゴを『サザエさん』型と決定した(連載続行のために決定せざるを得なかった)頃から、ゴルゴは次第に脇役になって行ったのである。

 体面上は今でも主役である。文句なしに主役を演じている作品もないではない。だが初期の頃と比べると、その存在と活躍の場は明らかに脇役になっている。
 連載開始から数年間は彼が主役だった。彼のためのストーリィだった。それが連載十年を過ぎる頃から、東西の冷戦に代表されるような政治的筋書きの中で、ゴルゴは一場面だけの特別ゲストのような存在になって行くのである。
 この形式を取ることによってゴルゴは永遠になった。劇画『ゴルゴ13』は、この世に大事件が起きる限り、いくらでも描き続けることが可能な不死鳥のようなコミックになったのである。なにしろ政治的歴史的大事件に材を取った作品を描き、その曲がり角に、ポンとゴルゴを置きさえすればいいのだから。

 前述したように、初期のゴルゴは難攻不落の城にこもる敵を狙撃するというようなスーパーショットがテーマだった。それが形を変えて、政治的出来事が中心のストーリィの中で、脇役として顔を見せるだけになって行く。極端な場合など、最後の一ページまで登場しなかった作品もある。

 説明のために、私が『ゴルゴ13』脚本の例を作ると、台湾に侵攻し武力制定しようと画策する過激派中国軍将校がいるとする。こういう場合のストーリィは、中国と台湾という二つの中国の、政治的背景と権力争いを述べることを中心に展開する。その過激派将校がいよいよ台湾に侵攻しようとした瞬間、謎の銃弾(もちろんゴルゴの狙撃)によって倒れ、その計画は水泡に帰す。
 現在の〃二つの中国〃のバランスは保たれた。ゴルゴの雇い主はアメリカか。いや、武力制定をまだ時期尚早とする中国政府首脳だった。
 と、こういう作品が最近の『ゴルゴ13』の主流になっている。ストーリィのメインであり大半は、中国と台湾という二つの中国に関する物語である。主役はその過激派の将校であり、それを取り巻く政治的状況だ。読者は『ゴルゴ13』という作品を楽しみつつ、現在の中国に関する政治的権力的状況を学習することになる。
 今の『ゴルゴ13』とは、ゴルゴを進行役にした一種のうんちくマンガともいえる。





正当な批判と感情的反撃

 呉さんが週刊誌上で手厳しく批判した作品も典型的なそれであった。世界の穀物市場を扱ったうんちくマンガであり、ゴルゴの登場は、いわば附けたしなのだ。
 ここで大切なことは、呉さんは『ゴルゴ13』を第一作から読んできた大のゴルゴファンであるということである。コミックに批判的な人ではない。
 呉さんの主張とは、「『ゴルゴ13』には名作もあれば駄作もある。私は『ゴルゴ13』が大好きだ。だが現在、大傑作と絶賛されているこの作品は、どう考えてもそれほどのものとは思えない」ということだった。そして「それを絶賛している読者はおかしいのではないか。ほんとにゴルゴの魅力が解っているのか」と。
 この「読者」という存在を指摘(=刺激)したことがこの論争のポイントとなる。

 制作者のさいとうプロは呉さんの指摘を理解していたように思う。近年の『ゴルゴ13』は、政治的出来事が主役となり、肝腎のゴルゴは脇役に回っていた。それらの作品の中でも、このやり玉にあがった作品は、主役の日本人元商社マンのキャラが生きている分、本来の主役であるゴルゴの出番は少なかった。登場する必要がなかった。このストーリィのテーマは、世界の穀物市場という場において、過去に一敗地にまみれた日本人元商社マンが、ありとあらゆる権謀術数を使って穀物メジャーに対し復讐を成し遂げるというもので、実はゴルゴは出てこなくてもよかったのである。でも出演しなくては『ゴルゴ13』でなくなってしまう。だから不自然不必要な登場の仕方をした。

 呉さんはそのことを指摘した。「不自然な形でゴルゴが出てくるのは、この作品が『ゴルゴ13』という名前の作品だからである。それ以外のなにものでもない」と。
 呉さんの指摘は正しかった。さいとうプロは、苦笑しつつ受け止めたであろう。「そりゃそうだよ、だってゴルゴ13なんだもの」と。
 だが、「こういう駄作を名作と崇めたてまつる読者はバカだ」と書かれた読者側は収まらない。誌上での論争は次第に作品から離れ、感情的になって行ったのである。



 感情的とはなんだろう。それは本筋から離れることである。相手を罵倒することが目的となり、本来のテーマなどどうでもよくなることだ。
 大好きな『ゴルゴ13』にケチをつけられた。次々と読者が反論したが、それもまた論破されてしまった。悔しい。このままではすませない。どうするか。呉さんの意見などもうどうでもいい、なんとかして呉さん自身を否定しようとするのである。それが〃感情的〃という方法だ。

 読者のひとりが「三流評論家」という言葉を使い始める。「三流評論家には『ゴルゴ13』のすばらしさなんて解らないんですよ、ネェみなさん、もう三流評論家を相手にするのは止めましょうよ」と。典型的なテーマをずらした感情論の構図である。

 さらにエスカレートすると感情の押しつけである。「わたしはゴルゴが好きなの。大好きなの。あんたみたいな三流評論家に何にも言われたくないの。誰がなんと言おうとあたしはゴルゴが大好きなのよー、キーッキーッ」という投書だ。
 もちろんこれは女性である。さすがの呉さんもこれには苦笑するしかなかった。この女性が物笑いの種になったのは言うまでもない。

 ここにいたって編集部が介入し、この論争はいちおう引き分け(?)ということになる。しかし見る人が見れば明らかに呉さんの勝ちだった。ファンというものの盲目的な愛情の醜さばかりが目立った論争であった。

 後に呉さんはこのやりとりを、単行本『バカにつける薬』の中に収録している。私は双葉社から出ている元本しか持っていないが、たしか今は文庫本になっているはずなので、興味のあるかたは読んで欲しい。この他にも珍左翼との論争など、笑えるものがいっぱい詰まっている。





『T-thai(定退)』感想文と『ゴルゴ13』騒動

 さて長い前置きが終り、やっと「あやうさの魅力=『T-thai(定退)』感想文」の話になる。
 この『ゴルゴ13』騒動を書いただけで、私の言いたいことはすべて語り尽くしている。本来ならここで終りたい。勘のいい人なら、この『ゴルゴ13』論争を読んで、私が何を言いたいのか全て解ってくれたと思う。よって、これにて終了。どうもありがとうございました。


 とは行かないのだろうね。以下は蛇足のようなものである。

 呉さんとさいとうプロが、私と青木さんの関係になる。呉さんが『ゴルゴ13』ファンでありながらその一作のシナリオを批判したように、私も『T-thai(定退)』に好意的でありながら自分なりの評論を書いた。多少手厳しい箇所もあったろう。呉さんの真意をさいとうプロが理解したように、私の真意も青木さんに通じた。めでたしめでたしである。

 しかし問題はそれでは終らなかった。『ゴルゴ13』の読者と呉さんの論争が始まってしまったように、青木さんとは無関係の地点で、『T-thai(定退)』の読者(といっても数人だが)が騒ぎ始めたのだ。この心理も解る。『ゴルゴ13』論争とまったく同じシチュエーションなのである。

 違うのは私が呉さんのように、そんな論争をしたいとは思っていなかったことだ。呉さんは勃発した『ゴルゴ13』論争に対し、「自分の書いた文章に反応があるのは評論家冥利に尽きる」と書き、嬉々としながら論争の場に飛び込んでいった。「バカを論破することほど楽しいことはない」とも発言している。プロの評論家とはそうなのだろう。

 私は見ず知らずの人間と無益な論争などしたくなかった。なにしろこの件に関して言うなら、とてもとても論争などと言う次元ではない。
「青木さんの書いたのはプライベートなことなのだから、それを論じるのは間違っている」なんてのがある。「青木さんが最初に不愉快になったと書いてあるのだから、感想文は削除すべきである」とも。

 とても正常な大人の意見とは思えない。困った人である。
 インターネットで、世界中の誰でもが自由に読めるように発信したものが、プライベートであるはずがない。書かれた内容がプライベート風であることと、発表した場が公であることを混同してしまっている。
 さらに言えば、「プライベートな内容」というのは、あくまでもこの人の推測でしかない。『T-thai(定退)』は、実はタイになど行ったことのない青木さんが、日本で資料を見ながら書いた純粋なフィクションかもしれないのである。プライベートな内容のように綴ってあるだけで、それをそう判断しているのはこの人の獨断でしかないのだが、そういうことにもこの人は気づいていない。

 青木さんのホームページを「私」とし、私が書いた後藤さんのホームページを「公」とする感覚も歪んでいる。ふたつのホームページは対等だ。
「評論することはよくない。止めろ」と言いつつ、自分は他者の原稿に対し「削除せよ」と、より暴力的であることも理解していない。

 青木さんが最初はムッとしたというのは、読み返すうちに好意を感じることが出来たという流れへの前振りである。大事なのは「好意を感じることが出来た」という結論の方だ。

 いったいこの人は、どういう人生を歩んできたのだろう。
「初めて会ったときは嫌なやつだと思ったけど、何度も会っているうちに親友に(恋人に)なった」というのは人と人とのあいだ、男と女にもよくある話だ。なのにこの人は「初めてあったとき嫌なやつだと思ったのだから、その後なんと思おうと、付き合うな。別れろよ、別れろよ」と言っているようなものである。

 自分の気に入らないものをこの世から抹殺しようとするのはファッショである。しかしその認識すらない人と論争が成り立つはずがなかった。メイルを無視していたら、あちこちに名前を変えて書き込み、とうとう後藤さんのホームページまでやったきた。

 青木さんが感じることの出来た好意を、何故この人は感じられないのだろう。私の文章にある『T-thai(定退)』に対する根本的な好意を、ファンである自分に対しても同質のものと、ほとんどの読者は受け止められた。が、中には、そう受け止めることの出来ない人も、ほんのすこしいたわけである。



 『T-thai(定退)』に関する文章を書くに当たって、私にとって大切なのは、それを書いた青木さんであり、それを読む私であった。
 青木さんはタイに関しては初心者だが、『T-thai(定退)』を書き上げた人ということで、論ずる私から一目置かれている。無視されたのは、『T-thai(定退)』を夢中になって読んでいた人たちだ。私には何の興味もない人たちだから自然に無視することになった。いや、無視とはやはり違う。意識すらしていなかったのだ。
 このことがごく一部の誇り高い(?)人を逆上させたらしい。この世で一番屈辱的なのは意識されないことである。捨てられた女よりも死んだ女よりも悲しいのは、忘れられた女なのだ。と、マリー・ローランサンは言っている。

 呉さんの『ゴルゴ13』批判は、呉さん自身が初期からの読者であり、良い作品もたくさんあると認めた上でのものだから、制作者であるさいとうプロは(私の感想文に対する青木さんと同じように)最初はムッとしたかも知れないが、すぐに『ゴルゴ13』という作品全体に関しては、呉智英という評論家は好意的であると理解した。その全体に対する好意からみたら、一作のシナリオに対する部分的批判など小さなものであったろう。
 なにしろメジャーな週刊誌(当時『週刊宝石』は百万部を突破し、『週刊ポスト』を追い抜き日本一の発行部数になるかという勢いだった)上で、コミックを小説と同じように書評・評論しようとしているその姿勢からして、呉さんが大のコミック贔屓であるのは明白なのだから。

 呉さんが起こした問題の根っこは読者批判にある。
「あのような缺陥作品を傑作と持ち上げている読者はバカだ。『ゴルゴ13』の読みかたすら出来ていない」とやったのだ。こうなると呉さんとさいとうプロが手打ちしても読者は収まらない。
 ここにおいて論争の焦点は、『ゴルゴ13』という作品から離れ、読者をバカと言った評論家の呉智英に移ったのだ。それが「三流評論家」うんぬんという感情論に繋がって行く。

 私の場合も同じことになる。私は呉さんと違ってあからさまな読者批判はしていない。だが『T-thai(定退)』をタイに関する初心者が書いたものと決めつけたことは、愛読していた読者の一部には、自分たちに対する侮蔑と感じられたのだろう。
 青木さんは自分がそうであることを明言した上で書いている。だから青木さんは関係ない。私の文章を読んで不愉快になったという読者は、一見『T-thai(定退)』の味方のようである。違う。そこからはもう離れてしまっている。それはもうどうでもいいことなのだ。数人の読者がこだわっているのは自分自身なのである。

 『T-thai(定退)』を大好きだった自分がいる。その『T-thai(定退)』を「ありふれた話」などと書かれたなら、ありふれた話をそうと知らずに夢中になって読んでいた自分をも否定されたことになってしまう。
 それが、青木さんと私が親しくしていると判っても、青木さんがいやがらせを止めて欲しいと要望しても、未だに後藤さんの掲示板まで乗り込んできて非礼を働く連中の根拠になる。
 もしも命題が「青木さんに失礼だ。削除せよ」というのであるなら、青木さんと私が理解し合っているということを確認し、青木さんがメイルでの非難は止めて欲しいと言った時点で終らねばならない。そこにこのストーカー的〃おでぶちゃん〃の異常さがある。



 青木さんは、一年半真剣に歩んできた道を、ありふれた航跡と書かれムッとした。だがすぐに全体としては好意的であることに気づく。いわば二割は批判でも八割が好意であり、二割の批判も、どう考えても青木さんの歩んだ道は、タイに関わった日本人おじさんのよくやることなのだから、愉快ではないにせよ認めざるを得まい。そこさえ認めてしまえば、残るのは八割の好意だけなのである。

 一部の読者は違う。青木さんの書く『T-thai(定退)』を楽しみに待ち、一喜一憂しつつ一緒に歩んできた。ところがそれを「あんなものは日本人オヤジの誰もが嵌る道。典型的なパターン」と書かれたのだ。しかも「もしも『サクラ』に来ていたら、そのことに気づき存続しなかっただろう」とも。それは『T-thai(定退)』に惚れ込み、『T-thai(定退)』の読者である自分を特殊化していた人にとって、歩んできた自分自身の時間と足跡を否定されたのと同じだった。

 青木さんは別のところにいる。足跡を「ありふれた道」とは書かれても、青木さん自身に対する誉め言葉は「感想文」の中にいっぱいあった。足跡が有り触れていることと『T-thai(定退)』という「ひとり語りホームページ」の出来不出来はまったく別問題なのである。

《節度ある五十歳の男として、虚飾に走ることなく、気負わず、ごく淡々と記すよう心がけつつも、恋を知った少年のように、胸弾ませ、瞳を輝かせた文章が綴られて行く。それは、かつて同じ道をたどった者には、懐かしい夏休みの麦わら帽子の匂いであり、同時に、すでに答を知っているつまらないクイズ問題でもあり、なのについつい後を引いてしまうヒマワリの種のような(?)、不思議な吸引力に満ちたものであった。》とか、
《彼の文章には、時折マゾヒスティックに己の無知を嗤う視点がかいま見えたりする。団塊の世代の持つ乾いた絶望感が覗いたりもする。この辺はガキンチョの書いている旅行記とはひと味違った魅力だ。》とか書かれているのだ。



 私は呉さんが『ゴルゴ13』の読者に対して挑発的だったように、「『T-thai(定退)』を好きな読者はバカだ。タイを知らない」とは書いていない。
 が、一部の読者にとって、『T-thai(定退)』を「タイに嵌った日本人男性のたどるありふれた道」と書かれたこと自体が、「バカだ、タイを知らない」と言われたのと同義になるのだろう。

 この辺の感覚はプロレスファンのプライドに似ている。プロレスファンの最も不愉快なことは「あんなもののどこがおもしろいの。あれってヤオチョーだよ」と言われることだ。こう言われ、反論するとき、それはもうプロレスを離れてしまっている。悔しさの中心は、「あんなもののどこがいいの=あんなものを好きなのがあんたの感性なの」という、プロレス自体とは離れた〃自分自身の感性に関わる問題〃になっている。反論の主流は、プロレスというものは横に置き、それを感じることが出来るか出来ないかの「感性論」になる。だから「インチキって言うなら、総合芸術って言われるアンタの大好きな映画だってインチキだよ。作り物だよ。だけど、映画は認めるんでしょう!?」と、他の例を引き合いに出しつつ、感性を論じて行くことになる。



 『T-thai(定退)』の場合も同じだったろう。私に「『T-thai(定退)』というのは、特別な体験記ではなく、日本人おじさんがよく通るありふれた道=『サクラ』辺りには、そんな経験者がごろごろいる」と書かれた。それは、この世で唯一のものと大切にしてきた宝石を、「角のスーパーで売ってるよ」と言われたことに通じる。

 私の論理を否定したい。が、出来ない。そうなると、『ゴルゴ13』論争と同じように感情で対抗するしかない。論点は『T-thai(定退)』について書いた私の文章ではなく、私個人に向かってくる。自分たちを傷つけた私もまた無傷ではおかないと。

 私のことを「B級ライター」と呼び始める。呉さんを「三流評論家」と貶めたのと同じ発想だ。本来はまったく関係ない下川祐治氏に関する原稿まで「日記」の中から引っ張り出して来て攻撃の材料にする。
 いろいろ読んでるなあ。ずいぶんと熱心な私の読者ではある(笑)。頼むからもう読まないでくれ。あなたが青木さんの文章を「プライベート」と言うのなら、私の文章だってプライベートなのだから。

「下川ファンのみなさん、こいつは下川さんに対してもこんな失礼なことを書いてますよ。怒ってください。許せませんね」と喧伝すれば、下川ファンも巻き込んで味方に出来るという発想である。意図的なデマゴギーの初歩戦術だ。哀しい。お粗末としか言いようがない。どんなに他人を貶めても、自分が高見に行くのではない。だが既に彼女は、自分が泥にまみれることなど厭わない。私を汚しさえすれば満足なのだ。



 これに便乗した連中は次に何を書くのだろうと推測する。
「会ったことがある」ではないかと思った。私の文章をおもしろくないとか、B級ライターだとか書いて貶めた。もっともっといじめてやろうと思ったら、次はルックスの否定ではないかと。
 当たった。見事にその通りだった。

「世界一『T-thai(定退)』が好きだ」というのが登場して、「私はサクラでこの作家というのに会ったことがある」と言い出した。本当に会ったことがあるのなら、当然その後に来るのは容姿の揶揄だろう。私の場合だったらハゲだとかチビになるのか。(ああ、全然関係ありませんが、ハゲの皆さん、「ロゲイン」はお薦めです。効きます。私の頭には産毛が生えてきました。)

 ところが「濃ゆい人だが、悪い人ではなかった」と何が何だか解らないことが書いてある。肝腎の私のルックスに触れていない。当然である。会っていないのだ。会ってもいないのに、私を中傷する場に登場して、ついつい獨自の存在感を主張しようと、会ったことがあるなどと嘘をついてしまったのだ。みんなの前で目立とうと「お化けを見たことがある」と言ってしまった小学生のようなものである。

 となると次は逃げの言葉があるなと思ったら、これまた見事に当たった。「私はただの通りすがりなので、むこうは覚えていないでしょう」だと。うまい。笑った。
 この人は私に会ってなどいない。それは「絶対」と言い切れる。なぜなら、谷恒生さんが楽宮旅社に泊まることなく『バンコク楽宮ホテル』を書いたように、サクラに出入りしていた作家など存在しないからだ。いないものに会えるはずがない。こういう嘘を「語るに落ちた」という。

 いやいや、サクラの丸テーブルには、その日暮らしの季節工から防衛庁の秘密工作員(笑)まで、ありとあらゆる謎の人々が集っていた。職業は全て自己申告制だから、作家もきっとたくさんいたに違いない。だからこの人も、「サクラに出入りしている作家のセンセー」に会っているのかもしれない。でもそれは私ではない。私のはずがない。なぜなら……、ま、それはいいか。とにかく、もう一度「絶対に会っていない」と言い切っておく。バレバレの嘘は止めようね。






感想文を書くに至る経緯


 私を非難した文章に、『T-thai(定退)』の感想文を書いたのは、ネタがないからではないかというのがあった。これはまったく逆なので反論しておく。

「チェンマイ雑記帳」というのは、「日記」を書いている頃から浮かんでいた構想だった。私は「日記」をもっとテンポよく進行させたかった。それが立ち止まってばかりいてなかなか前に進まない。ハイパーテキストのリンク形式を活かして、なにか用語があると、そこから別の用語辞典のようなページに飛び、本題は止まることなく進んで行く形式がいいなと思ったりもした。もっともそういう形式の文章というのはあちこちのホームページで見かけるものであり、話の途中で違うページに飛ぶというのは意外に煩わしいものでもある。でもタイに関してそれなりの知識がある人は、初歩的注釈を飛ばして速く読めるという利点もある。

 とにかく「雑記帳」という小ネタをランダムに並べて行くという形式は、昨年の内から後藤さんと話し合っていたものだった。中国でもタイでもこまめに書き溜めていたから、今年の五月から実際に始めようという時にはもう50以上のネタが書きあげてあった。それをどの順序で、どう発表するかで迷っていたのである。



 「日記」の第二部を書く前に、さてそろそろ「雑記帳」を始めようかと、帰国して久しぶりに『T-thai(定退)』を覗いたら、終了宣言となっていた。予感はしていたが唐突の感も拭えない。
 私なりに青木さんの労をねぎらわねばと思った。『T-thai(定退)』に関する文章を書こう。それは私から青木さんに贈るエールだった。連載中ではまずいと遠慮していた。ほとぼりが冷めてからでは興ざめだ。終った直後の今しかなかった。40日ほどタイと中国に行っていたから多少時間はズレてしまったが、なんとしても「雑記帳」の一回目のアップに、青木さんに贈る文章を入れたかった。
 急いで書き始める。この文章を書き上げるために「雑記帳」のスタートは二週間も遅れた。

 いくつものパターンで書いてみた。どれももうひとつ気に入らない。なんとなく「青木さん、ご苦労様でした」というキレイゴトが鼻につく。それはきっと、同じ関東人であり、すこしだけ年上の青木さんに気兼ねしているからだろう。一年半の連載に対する文章なのだ。半端なものは書けない。書き直しが続く。

 この〃関東人〃ということは、私にとって大きい要素だった。青木さんは東京っ子だ。もしも青木さんが大阪人だったら私はきっと『T-thai(定退)』を好きにならなかったろう。感想文を書くこともなかった。こういう物言いに気分を害する関西方面の方がいるのは重々承知だが本音なので書いておく。どちらがいいとか悪いとかの問題ではない。私の好みである。

 上記、「あやうさの魅力=『T-thai(定退)』感想文」より引用した《彼の文章には、時折マゾヒスティックに己の無知を嗤う視点がかいま見えたりする。団塊の世代の持つ乾いた絶望感が覗いたりもする。この辺はガキンチョの書いている旅行記とはひと味違った魅力だ。》という部分が指しているのは、見栄っ張りでこざっぱりしている関東人の感覚であり、そこが私の惹かれた原点になる。

 『Internet Ninja』という製品がある。指定したホームページを全部取り込むソフトだ。遅れて『T-thai(定退)』にたどり着いた私は、書き溜められた『T-thai(定退)』をまとめて読むために、このソフトを購入した。しかしそんなことは書けない。それじゃただの擦り寄りである。青木さんに礼を尽くすのには、ひとつの作品と認めた上で、冷静沈着に『T-thai(定退)』を分析するのが最も情に厚いことになる。男同士の評論に愛想笑いは要らない。

 甘さを取るためにはどうしたらいいだろう。私はそこで「感想文」というタイトルを思いついた。感想文とは言うまでもなく、小学生や中学生が有名な作家の書いた本に対して書く作文のことである。青木さんの『T-thai(定退)』を上梓された一冊の本とみなし、それに対して格下のものが感想文を書くという形式にすれば、その位置づけの割り切りにより、一切の甘みを取り去ることが可能なのではないかと。

 まさかこの歳になって小中学生のような「感想文」なんてものを書くことになるとは思わなかったが、腰を据え、この視点で書き始めてみると、思った以上に効果的だった。『T-thai(定退)』を一冊の本とみなしての感想文である。

 でもまだ甘い。甘くてはダメだ。「おもしろいですよ、ぜひ買って読んでください」と書いてはいけないのだ。それは私の文章を読んだ人が、読後感として感じるべきことであって、こちらからそういう言葉を使ってはならない。それが鉄則である。
 書いては消す。消しては書く。

《青木さんは、風車を怪物とみなし、正義のためと突撃していったドン・キホーテかもしれない。だがあらかじめ書物で知識を蓄え、「あれは風車だよ。怪物じゃないよ」としたり顔で言うことに何の意味があろう。槍を構え突撃して行くことこそ男なのだ。怪物の正体などどうでもいい。よけいな知識教養などとは無関係に、いつでも世のため人のためと風車に突撃できる男でありたい。ドン・キホーテこそが男なのだ。》と書く。
 甘い。消す。こういうシンパシーは文章の品位を落とす。目指すのは冷蔵庫で冷やしたブラックコーヒーのクールさだ。



 そうして何度もの書き直しの果てに、「あやうさの魅力=『T-thai(定退)』感想文」は完成した。何度も何度も読み返し、丁寧に慎重に、隠れている砂糖の甘さを一粒残らず取り除く。我ながら苦しんだ分だけ納得できる仕上がりとなった。自信作である。元々私は形容詞が好きではないのだが、甘さを取った分、畳みかけるような繰り返しの形容を実験的に取り入れてみたりもした。

 私のこの文章に対する熱さは後藤さんにも通じたのだろう。あまり自分のホームページを宣伝したりしない人なのに、あちこちの掲示板に出かけて、この「あやうさの魅力」をぜひ一読して欲しいと書き込んだりしてくれた。それが騒動のきっかけとなるのだが(笑)。

 「あやうさの魅力=『T-thai(定退)』感想文」は、連載に一区切りをつけた青木さんに贈った私からのエールである。そこから発する甘さを抑えるため、わざと視点をずらした。焦点をこちら側にしたのである。

 『T-thai(定退)』という鏡がある。それ自体を論じるなら、鏡の品質であり、鏡面の美醜であり、塗装、重さ、大きさとなろう。だが私は、鏡に映る自分を基点とした。だからあの文章におけるこちら側のキーポイントは、

《「落ちるよ、危ないよ」と先輩は思う。はらはらする。が同時にまた心の一部に「落ちろ、落ちてしまえ、おれと同じ大火傷をしろ」という悪魔の囁きがあったことも否定できまい。》

 の辺りにある。自分の側の、そういう醜悪な心を書いてみたかった。この視点の設定が、後藤さんが一番気に入ってくれたところらしい。それは私からしても意図的に仕掛けた部分だから、解ってもらえて嬉しかった。



 これ以上、蛇足を書き記しても無意味だろう。もうこの辺にする。
 あの文章の目的は、「あなたの作品をしっかり受けとめた者がここにもいますよ」と青木さんに伝えることにあった。青木さんには伝わった。満足である。他の人になんと言われようとどうでもいいことだ。
 青木さんの文章を「私的」というのなら、それに対して書いた私の感想文もまた「私的」であろうし、インターネット上で発表された青木さんの文章が「公的」なら、それを論じた私の文章も「公的」となる。そのことすら理解できない人と何を話しても無駄である。

 私の文章を削除せよと書き込んでくる人がいる。タイトルを変更せよなんてのもある。他人の文章のことなどどうでもいいのだ。あなたが本当に『T-thai(定退)』を愛したなら、大切なのは、あなたが『T-thai(定退)』から何を学び、何を返したかなのである。

 時が過ぎたとき、残るのは行動の記録であり実績だ。それだけである。タイミングを逃したものに意味はない。
 私がこのヒステリックな女性に絡まれ往生しているとき、掲示板に私をフォローする意見を書き込んでくれたのは、番頭である後藤さんを別にすれば、ファルコンさん一人だけだった。そのことを掲示板で口にしたら、今度は常連の方々から続々とメイルが届き、掲示板へも書き込みが連続した。「決して無視していたのではなく、口を出さない方がいいと思ったからで」とか「ka**zoさんのためを思い敢えて静観していた」とかの意見が多かった。「今後こういうことがまたあったとしても、私はやはり書き込まないでしょう。それがベストだと思うからです」と、先々の假定までして自分の行動を主張してくる人もいた。中には「なんぷー」さんのように、他者のケンカをドキドキしながら見ていた自分が慥かにいたと、それを認める発言をする人もいた。

 いまさらどうでもいいことだ。だが、どんなに思っていても、行動しなければ伝わらないこともある。仕事でも恋愛でも同じだろう。私にいま言えるのは、ファルコンさんが私にしてくれたように、もしもファルコンさんがそんな目に遭ったなら、何をおいても応援に駆けつけるということである。



 やがて、この「さくらと宇宙堂」というホームページにも終りの日が来る。いつしか『T-thai(定退)』もネット上から消えて行くだろう。

 時が過ぎる。たくさんの時が過ぎる。そのとき青木さんがどこにいるのか、私がなにをやっているのか、まったく解らない。

 だが私には絶対的な自信がある。すべてが過去になったとき、青木さんの心に私の文章は残る。私の行動は青木さんの胸に刻まれる。
「あのころ、いろんなことがあったけど、おれの書いた『T-thai(定退)』という文章に、一番本気で熱い感想を書いてくれたのは、あの油来亀造ってヤツだったな」と。
 踏み出したその一歩が道となる。
(2000/6/15 湖の見える自宅にて)




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