★白人の好き嫌い

 チェンマイを嫌いな人が、その理由として挙げることに「白人が多い」というのがある。

 〃北方の薔薇〃と呼ばれる観光都市であるチェンマイには白人観光客が多い。長期滞在している不良外人も数多くいる。その種の店(?)でそういう不良ドイツ人おやじと知り合い、拙い英語で会話している内、互いにタイ語が話せると解り話が弾んだことがあった。ドイツ人と日本人がタイ語で会話するのは奇妙な感じがして可笑しい。七年も住んでいるというから上手いのは当然であろうが、やはり語学に関しては彼らの方がセンスがあるように思う。私のタイ語よりも発音がなめらかに感じる。言語の抑揚感をマスターする感覚の差であろうか。

 タイ人女性と結婚して店を出している白人も多い。ヨーロッパ系だ。歴史に対する認識の差なのだろうか、古都チェンマイの古さを喜ぶのはヨーロッパ人が多い。彼らが日本に来た時に落胆したと口にする理由は、日本がアメリカナイズされ過ぎているということだ。そう言えるだけ彼らは自分たちの文化を大事にしている。観光地特有の、同じアジア人である私たちから見ると鼻につく演出過剰なタイらしさも、それぐらいで彼らにはちょうどいいらしい。

 自分たちの国に歴史がないことを自覚していて、だからこそその種のものに対して人一倍劣等感と憧れをもっているのがアメリカ人なのだが、なぜかアジアの古都ではあまり会わないのは不思議だ。

 タイ人女性と結婚する外国人男性の数は、一位がドイツ人、二位がフランス人である。我が日本は何番目なのだろう。私の感覚だと、スイス人も国の規模からするとかなり多いように感じる。私の恋敵(?)はスイス人が多かった。スウェーデン、デンマーク等、北欧の人たちは、旅行者としてはよく見かけるが(親しくなるが)、まだタイ人女性と結婚したという例は知らない。彼らはカップルで来ていることが多いから、それが原因だろうか。北欧の男性の美意識と、タイ人女性は美は合わないのかも知れない。もっともこういう統計も、入籍ということから出た数字だろう。タイ人女性はあまり入籍にこだわらないので、タイ人女性がタイで一緒に暮らしている外国人の国籍ということでは、あまり頼りになる統計ではないようにも思う。

 チェンマイという町を好きになるか嫌いになるかの分岐点として、「白人の好き嫌い」は大きな要素となる。そのことが理由で、タイは大好きだがチェンマイは嫌いだと近寄らない友人(日本人)も私には何人かいる。一歩違えば私もそうだった。私がそうならなかったのは、単に偶然が連続したからに過ぎない。
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★偶然という名の幸運

 何事にも筋を通したがる私は、外国に出かけるなら自分の考える順番で行きたかった。まずは自分の育った日本という国を隅から隅まで知り、次に韓国、台湾、中国と順に広がって行く形である。一から十までを制覇するのに、一の次に九に飛び、五にもどって次は七とか、どういう順番を取ろうと、結果的に全部を制すれば同じと考える人は多いだろう。私は一の次は二、二の次は三と、順序通りに行きたいと思うのである。一の次に行けるのが九しかないのなら、じゃあ二に行けるまでどこにも行かなくてもいいやと考えてしまうのだ。

 しかしながら何事も理想通りに行かないのがこの世の常で、現実の私は、四国の高知や九州のいくつかの県さえ行ったことがないという(つまり日本ですら完全制覇していない)状況で、もちろん韓国、台湾なども知らず、いきなりアメリカ、ヨーロッパを経験することになったのだった。アジアに興味がなく白人国が好きな人ならいいだろうが私はそうではない。日本にもまだ行ったことのない場所があり、しかも韓国も台湾も知らないまま白人国に行くというのは、筋を通すことを第一義としている私にとって極めて不本意だった。がそのことが結果として今の私を救っている。この筋違いの偶然がなかったら、チェンマイに嵌ることも、今こうしてこんな文章を書いていることもなかった。


 旅行嫌いではあったが、いわゆる〃両国の不幸な関係〃という認識から、人一倍韓国や中国に関する興味は持っていた。そういう私にとってまずは韓国である。行こうと思い、それなりの金を貯め、韓国大使館まで出かけたこともある。ところが当時の韓国は、日本に対する意地から査証の発行がうるさかったのである。金を落としてくれる日本人観光客は喉から手が出るほど欲しいのに、プライドの高い彼らは、日本政府が韓国人の入国に厳しいのに対抗して、自分たちもまた日本人の入国を制限する方式を採っていた。
 とはいえ実態は、キーセンパーティを目的とした下品な農協の団体でさえ数多く出発していたように、形式的なものに過ぎなかった。社会的身分のはっきりしている人たちにとって韓国は身近な国だった。たとえ社会的身分がはっきりしていなくても団体旅行という抜け道を通れば渡韓は簡単だった。だが私のようなフリーランスの人間が個人旅行をしようとしたら、それが形式的なものであれ、「在職証明書」とか「在職十年以上の人による身元保証書」とかを要求されることは、挫折するに十分な壁の高さだったのである。

 ここで旅行好きなら、せっかく資金も貯めてあるのだし「だったらアメリカ」とか目先を変えるのだろうが、私の場合は「まずは韓国から始めねばならない」にこだわってしまい、「韓国に行けないなら海外旅行は中止」と、外国旅行という目的自体がそこでとん挫してしまうのだった。なにしろ基本的に出不精なのだから、せっかくの計画も挫折するのは容易である。旅行資金は新しい楽器になったり音楽機材になったりした。

 渡韓の夢が断たれ白金の韓国大使館で私はひどく落胆していた。でも前々から欲しかった新しい音楽機材が買えると心の一部では喜んでいたようにも思う。旅行嫌いの私にとって、韓国に行かねばならないというのは、成人男子として見聞を広めるための〃理〃である。それに対し、前々から欲しくてたまらなかった音楽機材を買うことは〃情〃である。この辺の自分の心情は未だによくわからない。とにかく出不精であったことだけは確かだ。

 それから数年後、私は仕事絡みで初めての外国、白人国をいやいやながら体験することになる。その体験の後に、タイを知り、それから韓国、台湾、中国とかつて自分で決めていた順を踏襲して行ったのだった。この理屈とは違った順が私には僥倖となる。

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★私の中の白人

      

 私は白人嫌いだった。アジア人としての自覚なんてことを若いときから言っていた。とはいえ矛盾も抱えている。ジーンズを履き、西洋の音楽を聴き、ハリウッド映画に感化され、コンピュータ的な西洋の機器が大好きなくせに、白人嫌いもないものだ。それでも意識としてそれは、同世代の連中と比べて強いものではあった。〃極東〃なんて言いかたに対しては、「なにがFar Eastだ。それはおまえらの地図でだろう。こっちから見たらおまえらこそ極西じゃねえか」と腹立ったりしていた。(このFEPでは「極東」はすぐに出たが「極西」という言葉は存在しないらしく出なかった。白人が編集しているのか?)

 東南アジアなんてのもヨーロッパから見た表現であり、日本から見たら西南アジアである。オランダのジーランドに雰囲気が似ていると名つけられたニュージーランド、アフリカのギニアに似ているとつけられたパプアニューギニア、なんともひどい国名である。先住民の権利はどうなるのだ。白人の横暴に腹だってならない。しかし勉強を進めて行けば、元々〃アジア〃という言葉自体が、ヨーロッパの連中が言った「あっちの方」『東の方』的な意味のない言葉であると知る。アジアなんてことにこだわること自体無意味なのかと思えてくる。(石原慎太郎都知事も、アメリカと張り合う日本人のアイデンティティを主張する割には、やたら会話の中に英語が多い。しかも並の日本人じゃ解らないような難しい単語が多い。英語が不得手なわたしゃ何度も辞書を引きました。こういう矛盾は誰もが併せ持つものなのかも知れない。今更和服にももどれないしなあ。)

 初めて行った白人国で、私は気持ちよく過ごすことが出来た。文化の差に愕然とすることも多かろうとそれなりの覚悟をして出かけたのだが、思った以上にずっと快適だった。日本人として礼儀を全うしているつもりなのに、見知らぬ隣人から笑顔で挨拶され、自分の無愛想を恥じたりもした。ただ、他者に対しいつでも瞬時にして笑顔を作って応じることは、満腹の時に分厚いステーキを出されるような、胃にもたれる重さも感じたが。

 その気持ちよく過ごせた一ヶ月を、私は特別のこととは思わなかった。外国とは、こんなものなのだろうと解釈した。旅慣れていないからである。それはイギリスの中流以上の住宅地だったからこその、かなり恵まれた特別な体験だったのだ。それは後々の旅行で思い知らされることになる。
 意識していないにも関わらず、いつの間にか私は、かなり白人ナイズされた日本人になっていたのだろう。いや日本という国全体がそうなっており、誰もがそうなのかも知れない。いずれにせよ私は、タイに行く前に、気持ちよく白人と接する経験をした。このことが良い目に出る。

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★微笑みの国

 初めてのタイ。中華街に行き、あの雑踏と活気に「これだ、これだったんだよ、おれが来たかったのはこういうとこなんだよ」と昂奮したのはタイに嵌る日本人の常。屋台でソムタムを食いメコンを飲み、佛歴にこだわるタイに、「ここには日本が失くしてしまったものがある」なんていっぱしのことを口にするのもまた毎度お馴染みの光景だ。

 列車でチェンマイに行く。やたら白人が目立った。ナイトバザールなんて右も左も白人観光客ばかりだった。白人嫌いだったら、それだけで逃げ出したくなるような光景だったろう。だがそのころ白人国に好意的だった私には、タイの魅力を評価できる同好の士と好ましい存在に思えた。白人を敵視することもなく、気後れすることもなく、ごく自然に彼らと会話していた。ゲストハウスで知り合ったオランダやデンマークの若者と、君らの国に行って来たばかりだと親睦を深められたことも良い方向に出たのだろう。デンマークの若者の「自分たちの国はとても小さいけど、楽しめたかい?」という控えめな意見も好意的に受け取った。とにかくまあ、すべてがいい方向に転がっていったのである。

 二週間を過ごして日本に帰る。帰ったときからもう次の訪タイばかりを考えているのもまたタイに嵌った男の常。時間が自由になるフリーランサーゆえ、早速また出かけて行く。何度もそれを繰り返している内に、次第次第にタイに対する不満が澱(おり)のように溜まってきた。つまり「挨拶というマナー」だ。そしてそれをうまく救ってくれたのもまた、白人の存在なのだった。まったくもって、今こうして思い返してもラッキーだったと思う。

 私は〃微笑みの国〃というタイのキャッチコピーを、「日本人的な挨拶があり、さらにそれにプラスして、微笑みという極上のものが伴う」と解釈していた。どうやらそれは間違いだと知る。タイの微笑みというのは、「お早うございます」「いい天気ですね」「お元気ですか」「また会いましょう」、さらには「どうもありがとう」なども含め、「全ての挨拶の代わり」として存在しているらしいのである。つまり「声を出しての挨拶はない」のだ。それは万能の挨拶語として、時の文部大臣が敷衍したという「サワディ」という言葉が、高々数十年の歴史しかないことからも明白だろう。それまでは、タイ人の「パイナイマー(どこ行ってきたの)」と、中国系タイ人の「キンカーオセットルーヤン(ごはん食べた)」が挨拶の言葉だったらしい。日本と同じような気候や相手の状況をうかがう言葉の挨拶があり、それと同時に微笑みがあると思っていた私に、これは大きな戸惑いの素となったのだった。

 このサワディの発祥については、ガイドブックなどから多くの日本人の知るところとなり、半端タイ通がタイ人を誹謗するのに口にすることが多いので、ここではタイ贔屓として一例を出して反発しておこう。日本人が肯定の意に使う「はい」だって、同じようなものなのだ。「へえ」「さようで」「いかにも」のように身分によって違っていた肯定の言葉を、士農工商制度の廃止により統一しようと、日本政府が中国語の「係」から、「はい」という言葉を作り出したのだって明治以降でしかない。「サワディ」の起源からタイ人を揶揄するようなことは慎みたい。私がここで言っているのは、あくまでも「文化風習の差」ということである。

 私は握手のような肌を合わせる挨拶を好まない。言うまでもなくあれは群雄する多民族の連中が、「手に武器を持っていない」という敵意の否定から始まった挨拶方法である。日本人の、時候の言葉を交わし、会釈をするような挨拶が私にはちょうどいい。
 すべてを微笑みで表するタイ人の挨拶は、それをかの国の麗しい文化と認めつつも、日本人である私にはなんとなく物足りないのである。だって何年も世話になっているアパートのメイバーン達も、何カ月ぶりかでやって来て、サワディ・カップと挨拶しようと、毎朝「サワディ・チャオ(お早う)」と言おうと、夜遅く「ラートリー・サワット(お休みなさい)」と言おうと、すべて無言なのである。あのタイ人特有の、照れくさそうな微笑みがひっそりと返ってくるだけなのだ。それはそれで魅力的ではあるが、なんとなく物足りない。いわばそれは「言葉による愛の確認」のようなもので、現実的なそれを望む自分を不粋とは思うのだが、言葉の全くない挨拶には、なかなか馴染めなかった。いや、今もまだ馴染んではいない。西洋人のように、古女房に毎日あいしてると言わねばならない風習もまっぴらだが、言葉の一切ない微笑みだけの挨拶もまた日本人の私には物足りないのである。

 最初の頃私は、言葉が返ってこないのはメイバーン達に嫌われているのかもと勘ぐったりした。やがて彼女らが、嫌っているどころかむしろ特別好意的に接してくれていることに気づく。まあ私もお土産を持っていったり、帰国するときに電化製品をあげたりとか気は遣っていたつもりではある。他の日本人住人がそういうことを全然しない人達だったこともあり、掃除や洗濯など、ずいぶんと彼女らは私に特別待遇をしてくれていたのだった。でもそれを理解してからでも、それでもやはり物足りないのである。

 そんな時、チェンマイで知り合った白人達との交友は、ちょうどいいアクセントになった。微笑みだけのタイ人と、大げさな笑顔と力を込めた握手の白人の真ん中で、日本人の私はうまくバランスを取ることが出来たのだった。
 もしも私の外国巡りが、当初の筋書き通り韓国から始まっていたなら、私はアジアのどこかで白人のいやらしさ、横柄さに接し、白人嫌いを徹底していたかも知れない。絶対に白人国になど行くものかと頑なに思いこみ、未だに行ってなかったかもしれない。どんな経緯があってもタイはきっと好きになったろうけど、白人の多いチェンマイは、毛嫌いする町になっていた可能性も強いのである。

 以前、後藤さんの掲示板に「『サクラ』のみそ汁には、髪の毛が五、六本も入っているそうだ」と伝聞で中傷を書き込んできた「ファランハンター」というハンドルネイムの奴がいた。意味は〃白人狩り〃である。くだらない。バカの粋がりそのもののハンドルネイムである。実際にバンコクなどでそういうことをしているらしい。だが一歩違えば、私もそういうくだらなさに走っていた可能性がある。
 尚この『サクラ』の件は、そんなことがあるわけもないし、私が『サクラ』に電話をして確認し、後藤さんからこの「ファランハンター」というのに抗議をしてもらった。とんでもない営業妨害である。するとちゃんと本名を記して「たいへん失礼なことをした」と後藤さんに謝罪のメイルを寄越したので、すこしだけ見直した。なんでそんな軽率なことをしたのか理解に苦しむ。

 私は、最初に白人国に行き、良質の白人と接してから、タイに行った。そのことから、チェンマイに白人観光客が多いことがマイナスではなくプラスに作用した。偶然である。その偶然をついていたと思うきょうこのごろである。
(00/9/19 東京秋葉原の喫茶店にて)
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