「快適な生活」という文章を読み返していたら、自分のあまりの事なかれ主義に呆れてしまった。いくらなんでもこれじゃあいかんだろうと思っていたら、そうではない場合の自分が自然に思い出されてきた。人間の心はこういうふうに、落ち込みそうになったら自然にへこんだ部分を補填して、自分の心を護るようになっている。

 もう十年以上も前、日本での出来事になる。北海道をドライヴしていた。札幌から二時間ほどの牧場地帯である。
 同乗していたのは、五十年輩の作家(以下、作家)と奥さん、四十年輩のノンフィクション・ライター(以下、ライター)と、三十代半ばの私だった。運転は作家の奥さんがしていた。作家もライターもそれなりに有名人である。「それなり」とは、その分野に興味のある人なら誰でも知っている有名な人で、人並み以上の収入もあるが、興味のない人は全然知らないというような意味だ。共に何十冊も本は出している。

 ライターと一緒に日高の牧場地帯を一週間ほどレンタカーでドライヴ旅行をし、その帰りに、千歳空港近くにある大きな牧場のゲストハウス(アジアの安宿じゃなくて本来の意味のゲストハウスですね)で、夏休みを過ごしている作家を訪ねたのだった。
 ゲストハウスの一室で旧交を温めた後、作家夫婦が牧場から借りているクルマで附近を走り回った。附近とは言っても北海道のことだから、のんびりと走っているだけで百キロ程度はすぐに行く。私は競馬ファンが高じて競馬文章を書くようになった者である。作家も競馬が大好きだった。ライターは、新しい分野として最近競馬のことを書き始めていた。私たちは楽しい会話を交わしつつ、緑の牧場地帯をドライヴしていた。



 事件はガソリンスタンドで起きた。ドライヴも一息つき、燃料を補給して作家の世話になっている牧場にもどろうとしていた時のことだ。。
 クルマから降りて風に吹かれていた私たちのところに、店長とおぼしき男性が慌てた様子で駆け寄ってくる。あっちの方では女性従業員と作家夫人が言い争っている。何事かと思ったら、ガソリンを入れてしまったのだと言う。クルマにガソリンを入れるのは当然だが、そのクルマはディーゼル車だったらしい。広い北海道には、燃費節約のためディーゼルエンジン仕様の乗用車が多い。ディーゼル車にガソリンを入れた女子従業員は、作家の妻が「ガソリン、満タン」と言ったからガソリンを入れたのだと主張している。夫人は「満タンとしか言ってない」と譲らない。店長は、今からガソリンを抜いて軽油を入れ直すが、非はそちらにあるのでガソリン代五千円は私たちに負担してもらいたいと言う。

 このとき、真っ先に彼らに噛みついたのは私だった。作家夫人が「ガソリン」と言ったのかどうか私は聞いていない。でもそんなことはどうでもいいことだ。私が言ったのは、タンクの給油口にはガソリンか軽油かに関する表示がなされているし、給油のクルマにガソリンを入れるか軽油を入れるかの確認は、ガソリンスタンド従業員の仕事として基本であろう。確認することなく、客にガソリンと言われたからディーゼル車にガソリンを入れたでは通用しまい。確認を怠った従業員にも責任はある。客に言われたから入れたというなら、あなたは、明らかにガソリン車と解っているクルマでも、客が軽油と言ったら軽油を入れるのかと私は主張した。その従業員は、いかにもパートのおばちゃんという感じだった。不慣れだったことは確かである。

 作家は、煩わしいものには関わりたくないとあっちの方に行ってしまった。ひとり、つまらなそうに煙草を喫っている。
 ライターは、私が激しくやりとりをしているのを、にやつきながら観察している。作家夫人は、自分たちの正当性を主張する店長と従業員を相手に、一歩も引かない私も頼もしそうにみていた。

 結局、互いに譲歩し、五千円のガソリン代は、スタンドと私たちが折半することで片が付いた。もっと闘ってもよかったのだが、作家がもうその辺にしようよと言ったので妥協したのだった。
 帰りのクルマの中で、作家夫人が、不正(?)を許さず闘う私の姿勢を好ましいものと褒めそやし、肝腎の時にしらんふりして横っちょに行き、煙草を喫っていた亭主を狡い人となじった。発端が、作家夫人がガソリン満タンと言ったかどうかにあったので、彼女は洞ヶ峠を決め込んだ亭主に怒りを感じていたのだろう。
 私は闘った自分に満足していたし、ライターは笑いながら、好戦的な私の性格をからかっていた。ひとり作家だけが、女房になじられ苦虫をかみつぶしたような顔をしていた。



 今になって、このときの作家の気持ちが分かる。つまり、作家のいた北海道の牧場のゲストハウスとは、私にとってのチェンマイなのだ。

 私はチェンマイで一ヶ月ほどを過ごす自分を、「快適な生活」の中で、「軽井沢に別荘を持てない貧乏人の代償行為のようなもの」と書いた。小銭をだまし取るタイ人と闘わない自分を、「後々の同胞のためにも闘わねばならないと解っているのだが、そんなことで気分を害したら仕事が出来なくなってしまうのである。どうか容赦願いたい」と。

 この作家の牧場暮らしも、まったく同じものだった。彼はそこで一夏を費やしての書き下ろし作品に挑んでいた。見渡す限りの緑の草原、ポプラ並木、吹き抜ける蒼い風、世俗から離れ、作品一本に没頭するために来ていたのだ。自分は運転が出来ないから、牧場から借りたクルマの運転手兼買い出し係と身の回りの世話に、女房を帯同していた。彼はそこそこ売れっ子であり、立派な自宅を神奈川にもっていたが、軽井沢の別荘とはまだ無縁だった。

 そのときの彼にとって最も大切なのは、チェンマイにいるときの私と同様に、不愉快なことを避け、作品に没頭できる環境だったろう。五千円のガソリン代などどうでもよかった。それを負担することで煩わしい言い争いから逃げられるなら、自分が絶対的に悪くないとわかっていても、よろこんで払ったろう。私がチェンマイでの釣り銭ごまかしに寛容なように。
 正義がどちらにあるかもどうでもよかった。肝要なのは、創作に向けて澄みきった心を、何かの出来事で濁さないことだったのだ。



 とまあ、これだけの話なんですけどね。要するに、私のようなどうしようもない事なかれ主義者でも、環境によって精神的餘裕があれば、先頭切って闘うこともあるということです。
 ただこれって、私が一番年下であったということも大きいような気もします。後ろに強い兄貴分が控えてくれているからと、思いっきりデカい顔をするチンピラと同じ心境ですね。男というのは(女性は知らないので)、十五歳でも十歳といれば兄貴分になるし、その十五歳も二十歳の人が来たら、すぐに弟分になります。それはいくつになっても変わらず、そのころ三十代半ばといういい歳の私も、作家とライターの前では、鉄砲玉的戦闘的若手になってしまうのでした。

 今思うのは、女房にぐちぐち言われた作家は、しばらく作品に対するピュアな気持ちを取りもどすのに時間がかかっただろうということです。それこそ、私たちが帰って二、三日は、あれこれともやもやして没頭できなかったのではないでしょうか。チェンマイでの自分を省みると、申し訳ないことをしたなあと反省しきりです。





 私もチェンマイに仕事を持ち込まず、ただくつろぐだけの日々が実現したなら、暇人の暇つぶしとして自分からどうでもいいような問題に関わって行くようになるのでしょうか。そうなってしまうのなら、それはそれでしかたないけど、やはり私は、こだわるだけのものがある生活を望みたいと思います。

 チェンマイに「サユリ」という三十年近く前からある有名なソープランドがあります。その名前は日本の吉永小百合からとったと巷間伝えられています。世界放浪をしたことが自慢の競馬業界の友人が言うには、1970年にチェンマイに立ち寄ったときあったといいますからその歴史はかなりのものです。彼はそのときサムローに乗って見学に出かけたものの懐具合がわるくて関われなかったと今も残念そうに言います。煌々とライトの点いた雛壇には女性が座り、暗い客席との間に間仕切りのマジックミラーがあってあちらからこちらは見えないようになっています。
 そこに昼間から出かけ、ビールを飲みつつ、雛壇に出勤してくる女性や、客が付いたりする様子、さらには一戦終えた客が帰ってくるまでを飽きることなく何時間も見ている日本人がいます。彼らは言います。「冷房が効いていて涼しいし、ビール一本でいい暇つぶしになるんですよ」と。冗談ではなく、本気で言うのです。しかも彼はまだ二十代なのです。私にはこれが解りません。

 若いときに親の遺産をもらい、今まで一度も働いたことがないという年輩の人も、チェンマイにはけっこういたりします。一見理想的な人生のようですが、彼らを見ていると、それって実はすこしも楽しくないことが解ります。やはり人には燃えられる仕事が必要なのです。日本人があまり行っていないようなビルマや中国の奥地に出かけ、それで何かを得たかのように話す彼らを見ていると、まるで今からでも本気で燃えられる仕事を探しているかのように思えます。

 チェンマイに雑文書きの仕事を持ち込み、ちょっと苛つくような出来事があっても、そうならないよう自分をコントロールしつつ、適度に仕事をこなしている現況を、心地よい緊張感として私はけっこう楽しんでいるのかも知れません。
(01/7/31 茨城県 大洗海岸にて)
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