チェンマイ永住断念

後ろ髪を引かれつつ



 チェンマイ移住を断念した。断念することによってまたあらためてチェンマイの魅力が見えてきた。未練たらしくそのへんのことを書いてみたい。

 私が住もうと考えていたのは上掲写真のような田舎だった。これはチェンマイ市内から一時間ほどの田舎、サンパトンの夕暮れである。こういう田舎に家を建て、のんびりと暮らしたいと願っていた。
 当初からそうだったわけではない。最初はまずコンド住まいにあこがれた。下の写真はチェンマイ一の高級コンドミニアム、リンピン・コンドである。階によって値段が違う。もちろん上のほうが高い。現実にどれぐらい払えば住めるのか、所有者から賃貸しで借りて住めるのか、値段はピンからキリまででどれぐらい差があるのか、私は詳しいことは知らない。たしかなのはここに住んでいる知人は800万円で購入して快適な生活を送っていることぐらいだ。言いたいのは、日本人なら私ごときでも決して手のでない値段ではないということである。こういうところを購入して、日本とチェンマイ半々の生活を送りたいと願っていた。私はチェンマイべったりの暮らしは以前も今も考えていなかった。あくまでも半々である。それを夢見ていた。

 それが、中国籍の妻と知り合い、結婚を考えるようになると、冒頭の写真のような田舎の一軒家に住むことを考え始める。田舎者の妻には土が必要だし、いつしか田舎暮らしの長い私も、コンクリート嫌いになっていた。土地を買い、家を建てるにはタイ人の名義がいる。納得出来るだけの一軒家を月一万円で借りられるし、借家で十分なのだが、300万円もあれば建てられるから、なぜか自分の家を持ちたいなどと思っていた。

 すこし考えればおかしいと気づくはずなのだ。私は日本籍、妻は中国籍である。そんな外国人の二人が異国のタイに家を建てて住むなんてのはおかしい。無理だ。妻がタイ人ならともかく。
 なのに私は真剣にそれを考えていた。チェンマイ在住のあいさんに協力してもらったり、早期退職でチェンマイに住むであろうらいぶさん(すでに家持ち)の奥さんに土地の名義人になってもらって建てようとか、まじめに考えていたのである。妻が泰族でありタイ語を話せることから、自分に都合よく解釈していたのだろう。
 永住ではないだろうけど、親しくしてもらっている「チェンマイ通信」の佐竹さん一家のチェンマイ暮らしも心強く思っていた。

 身勝手な夢から覚める。いくらなんでも無理だ。詳しくは「中国口論──中国に住めるか!?」のほうに書くが、妻の精神的安定、万が一の時の身内の協力等いくつもの要素を考慮したなら、私の国に住むか妻の国に住むかの二者択一になる。いくつもの要素を鑑みて、妻の家族のもとに住むのがベストだろう。そう結論し、私はチェンマイ移住を断念した。そうなってみると、チェンマイがいかに住みやすい街であるかあらためてまたその魅力が見えてきた。

 チェンマイの魅力を語るとき、真っ先にあげねばならないのは気候の良さだろう。
 『サクラ』のパパがいつも言う。日本にいたときは多くのヴィタミン剤を飲み(几帳面なパパは立て続けに商品名を並べる。QPコーワゴールドとか)、マッサージに行き、鍼を打ち、健康のためにずいぶんとお金を掛けていた。それでも腰痛に悩んでいた。それがチェンマイに来たら、なにもしなくてもピタリと直ってしまったと。多くの年配者から同じ意見を聞いた。
 チェンマイの気候の良さが、老後を穏やかに過ごしたい人に向いているのはたしかだ。今後も年金生活者がぞくぞくと移住してゆくことだろう。

 モノ好きの私からすると、過不足なくモノが揃うのがありがたい。特に写真の『Lotus』等の大型量販店が出そろってからは(むかしはマクロ、タイ語でメコー一軒しかなく、これは会員証を必要としたりして、ずいぶん不便だった)、万事万端ないものはないぐらい充実している。
 街にいたいとは思わない。田舎がいい。郡部にすみ、週に一度、愛車のピックアップで買い物に来る。欲しいモノをたっぷりと買っての帰宅。いい生活だと思う。もう出来ないと結論を出したから益々光り輝いて見える。そういう生活が出来る人がうらやましい。

 モノ好きの私は実際にモノが好きでこまめに買いまくるのだけれど、実際のそれよりも大きいのは、チェンマイでならば、「その気になれば買える」という安心感があることなのである。たとえば質の悪いボールペンを使っていて(文房具オタクの私の場合、そんなことはあり得ないけど)いらだったとしても、来週にでも良いものを買いに行くかと思えれば我慢できる。まったくストレスにはならない。ところが品がないとなると、気になっていらだっていられなくなる。なんとしても納得できるだけの製品を手に入れたい、それにはどうすればいいだろう、どこへ行けば買えるかと日夜悩み続ける。そんな性格だ。

 雲南に住んだ場合、それは広東まで行かねば解決しまい。景洪や昆明では無理と思われる。チェンマイなら、百キロ以上離れたプラオだとかファンあたりの田舎に住んだとしても、その気になればチェンマイ市内まで走ればなんでもそろう。この差は大きい。「快適な生活」を始め、このホームページの何カ所もで書いているが、私の場合、そういう精神的な安定感がいちばん重要なのである。
 たとえば七味唐辛子が切れたら、どんなにおいしいうどんやみそラーメンを食べていたとしても、それが気になってならなくなってしまう。主食のおいしささえとんでしまうのだ。ディテールにこだわるヤツは最も異国住まいに向いていないと思うのだが、私は典型的なそういう性格である。しかし「明日買える」とわかればそれは治まる。ところがそうでないと、いったいいつどこでどうしようとそっち方面に考えが走ってしまい、何事も手につかなくなってしまうのである。今の田舎暮らしでも24時間営業のコンビニが出来てどれほど楽になったことか。

 考えれば考えるほど雲南に住むつらさが思い浮かんでくる。そしてまたそう思うほどにチェンマイの便利さが見えてくる。年に数回は景洪からチェンマイに飛んで息抜きをするつもりでいる。そのときのうれしさと昂揚感は、いま日本にいて想像してもわくわくしてくるほどである(笑)。いとしいだろうなあ、チェンマイ。

 どんなにすばらしいものも、そこにどっぷりとひたっていたら不満が出てくる。ここ最近の私のチェンマイに関する文章を読んでいると、95%満足しているのに、のこり5%への不満をぐちぐち言っているようなのが多かった。もうチェンマイに住むことはないのだと確認したら、圧倒的に今、95%満足のすごみが押し寄せてきている。これはいまチェンマイに住んでいる人には見えないものだろうなと、負け惜しみで思ったりする。永住できないからこそ、私はこれからチェンマイを愛した日本人として、チェンマイをいとしみつつ生きてゆくのだ。
(03/6/10)

中国口論──中国に住めるか!?




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