日記01夏



アサ芸の思い出



日曜の朝。山奥の妻の家。
 景洪(じんふぉん)に出るためにバスを待つ。朝7時と夕5時の二本だけ。それでもなかった頃を思ったらありがたい。ひどい乗り心地だが耕耘機に牛と同乗するよりは快適だ。なにより速いのが助かる。距離はほぼ30キロ。それを約一時間で走る。耕耘機は倍かかる。とはいえ峻険な山道をバスは巨体を揺らしてとばしまくるから落ちたら即死だ。その点、耕耘機なら落ちそうになったとき飛び降りて助かることが出来る。これはこれでよい面もある。

 村の集落の中心部でバスを待つ。先客が二人ほどいた。泰族の民族衣装を着たおばさんだった。ここは泰族の自治区だが、要所の役人はみな漢人だし、その他にも、ラフー族、ハニ族、メオ族、ともっともっといるらしい。詳しくは知らない。わかるのは、漢民族獨自の完全同一政策で少数民族が減らされていること。威張っているのが漢人ということだけだ。

 10分遅れで古くさい中型バスの姿が見えた。スピードをゆるめない。待っている客を一顧だにせず、車体をふるわせ、砂埃を巻き上げて走り去る。満員だ。立ち席なら乗車可能なのだが羊腸する山国の危険な道ゆえ禁止されている。その原則を守っているから、この路線は官制なのだろう。民間なら乗せるほどに稼ぎになるから守らない。警官のチェックのない山道なら積載違反を平然とやる。人間も、さすがに目に附くから立ち席はやらないが、床に座らせて定員オーヴァーをする。

 困った。町に出る耕耘機かトラックを待たねばならない。こんなこともあるからきょうの出発にした。火曜午後に景洪のいつものホテルで東京の『週刊アサヒ芸能』編集部とFAXのやりとりをせねばならない。時間的には月曜朝の出発で間に合う計算になるが、なにがあるかわからない国だから、丸一日早めに出発するようにしたのだ。

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 結局いつものよう、しばらくしてから通りかかった耕耘機の相乗りになった。ガクガクと揺れる山道を、胸にしっかりとパソコンバッグを抱えて二時間弱がんばる。こんなときいつも思うのは「わるいな、がんばってくれよ、おまえだけが頼りなんだ。壊れないでくれよ」というパソコンへの語り掛けである。何台ものノートパソコンが普通より早く傷んでしまうのは、こんな旅先での揺れと埃のせいに違いない。

 山間の道をごとごとと揺られて行く。初めの頃は童心に返ったようで物珍しかったこんなことも、回数を重ねればひたすら耐えるだけの苦痛な行為でしかなくなる。それでも周囲の子供たちはうれしそうだ。「町に出る高揚」なのだろう。
 料金はバスの半額の5元。耕耘機としてはこれはかなり率のいい稼ぎになる。あっという間の50元だ。後に妻に聞くのだが、田植え等、近所の農作業の手伝いが、ひとり一日10元だという。日本円だと150円、タイバーツだと50バーツ。タイの田舎もこれよりちょっといいぐらいだから(八年前60バーツだった)中国のこの奥地としては妥当な額だろう。それと比すと、町に出るとき、こうして載せて行くだけで50元(帰りも客がいれば100元)の稼ぎがいかに率がいいかだ。満員になるとわかっていれば専業でも食って行けるだろう。

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二時間後、町に着く。歩いてバスの発着所へ。
 午前11時発のバスの切符を買う。マイクロバスの運行は網の目のごとく張り巡らされていて、行く先毎にほぼ一時間に1本の割合で発着する。が、満員にならないと間引く。これは官制ではなく個人が自分の所有するクルマを持ち込んでの営業らしいから、それはそれで納得する。空で走るわけには行くまい。とはいえ、午前11時発の切符を買い、午後7時に着いてと到着時間を計算していたら、午後1時になっても出発しなかったりするから焦る。そんなことに腹立っていたらここにはいられない。で、そんなことに腹立つ男なのだ、私は(笑)。

 この町の旅社でFAXの受け取りが出来れば問題はない。ちいさな町だがそれはきっと探せばあるだろう。
 一度、郵便局からFAXを送ったことがある。そこに機械はあったから、頼めば受信も出来るはずだ。思うだけでうんざりするほどわずらわしい手続きをやらされるだろうが(なにしろ彼らもそんな経験はないし、成功しても手柄にはならず、失敗したらミスになるからやりたがらない)、片道8時間かけて市街地まで出かけるよりは楽なはずだ。

 なのにあえて景洪まで出かけて行くのは息を抜きたいからである。孟連は泰族の素朴な田舎町だ。そういう旅が好きな人は、このミャンマとの国境に近いひなびた町がいいだろう。そういう人でない私は、もっとあか抜けた西双版納(しーさんぱんな=景洪)のほうがいい。ひさしぶり(とはいえほんの数日ぶり)に行きつけの店で、冷えたビールと水餃子が食いたかった。中国にいると焼き餃子が恋しくなる。それはない。あれは日本人の発明品だ。贅沢は言えない。それでも景洪にはお気に入りの店がある。
 さいわいにも時間通り11時出発となった。

 こんな感じのバスに乗り、

 こんな経験をしつつ、8時間揺れ、
 
 やっといつもの景洪賓館に着く。
 いつもたまらんと思うのは、これで丸々一日がなくなってしまうことだ。朝の6時に起き、7時から動き始め、着いたのが夜の7時である。丸一日移動に費やしている。もったいなくてもったいなくてたまらない。沢木耕太郎さんは、こういうふうにバスに揺れることを「たとえようもなく幸福で贅沢な時間」と書いていた。まあそれがいつもいう「旅の資質」の有無なのだろう。私にはどうしてもそうは思えない。もっとも沢木さんだって云南の山奥に女房がいたらそんなきれいごとは言っていられないと思うが(笑)。



 もうすっかり顔なじみのフロントのおねーさん(とおばさんのビミョーなあいだ)が、「おっ、またきたか」ってな感じで迎えてくれる。私が来たということは、明日あたり日本から電話があり、FAXが送られてくるなと意識したろう。そのことによって国際電話とファクスの受け取りがスムーズになるはずだ。それがここに泊まる最大の利点になる。

 一週間ぶりの風呂がうれしい。風呂桶がないとだめなタイプなので、シャワーだけでは物足りない。妻の家では、川での沐浴だった。日本から持参したバスクリンを入れて、しみじみとくつろぐ。

 荷物を広げ、早速コンピュータ環境を作る。
 ホテルの近くの店で食事をして、日曜夜10時。火曜の連絡までには丸一日餘裕がある。これで今週もなんとかなるだろう。ほっとする。だいたいが週刊誌に連載を持っているのがこんな山奥の不便な場所に旅行していること自体正気の沙汰ではない。
 すでに原稿は妻の家でほとんど書き上げてある。あとは仕上げだけだ。今夜はゆっくり読書をしつつ酔ってもいい。バーボンの量を確かめる。調子に乗って飲み過ぎないようにと気をつける。心配なのは飲み過ぎによる体調ではない。酒の量だ。ここでは買えない貴重な酒になる。まだ空けるわけにはゆかない。ちびちび飲まないと。
 今週も無事なんとかなりそうだという安心感で、気持ちよく酔い、ぐっすりと眠れた。バスに8時間揺られるというのは意外に疲れるのだ。なにしろ路肩から転落したら確実に死ぬとんでもないバスだから(もちろんガードレールなんてない)乗車しているあいだ、ずっと気が張っている。妻は私に寄りかかって眠っている。あちらには日常でもこちらには非日常の特異な世界だ。
 

 月曜はひさしぶりにいつもの店でまともなものを食い、冷えたビールで酔い、町を散歩して過ごした。この町にいると落ち着く。景洪は、中国という国、云南の中で、いちばんなじみのある町になった。といっても好奇心旺盛でもないから未だに詳しくはない。行動範囲はごく一部だ。

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 火曜、午前11時、アサ芸編集部のSさんから電話が入る。編集者なんてのは毎晩午前様、出勤は午後3時なんて輩が多いのだが、Sさんは珍しい朝型である。いつも午前中に、ひとっこひとりいない編集部に一番乗りしているそうな(笑)。
 日本はまだ午前10時。受話器を取ると相手を確認する前にもう大きな声で「もしもし!」と呼びかける。Sさんを安心させるためだ。たまにフロントから電話がある。それだと見知らぬ発音の呼びかけにあちらが凍りつくのだがそれはどうでもいい。Sさんだったときに与える安心感のほうを優先する。ほっとしたような「ああ、よかった。無事通じて」というSさんの声が聞こえてきた。

 英語が苦手だというSさんはここに電話をするとき緊張するそうだ。通じないこともたびたびあった。そんなときは別のフロアにいる英語が得意な女編集者に頼むのだという。だがここのフロントはSさん以上に英語が苦手なのである。だからその女編集者がどんなに流暢な英語を話してもあまり意味はないと思われる。
 外出からもどってきたら、フロントの受付嬢三人が、黒い受話器を「あんた出なよ」「やだやだあんたあんた」「あたしやだ、あんた」と投げ合っていたことがあった。たとえるなら、熱い焼き芋をあちちあちちと放り投げている風情である。それで曜日的にも時間的にも、また白人客が泊まっていないこともあって、まず私だろうとその受話器を取ると、泣きそうな声でSさんがハロー、ハローと繰り返していた(笑)。そう、彼女らは得手不得手じゃなくて英語なんてまったく知らない。「ハロー」でパニックになるほどなのだ。

 でも前掲の写真を見てもらいたい。おおきくて立派なホテルなのだ。7階建て。部屋数も多い。なのにこの有様である。一応英語の出来るのをひとりだけ雇っていて、彼女がいれは問題ないのだが、いないとこんな騒ぎになる。だからいつもSさんには「ミスター・ユーキ・プリーズ、ジャパニーズ」と大声でそれだけ繰り返したほうが効果的だと言うのだが、Sさんも中堅編集者として周囲の目もあってそこまでは出来ないらしく、本を見つつ「旅行英会話」をやってしまい、よけいに事情を複雑にしている。英語より「リーベンレン(日本人)」を連呼するのがいちばんいいかもしれない。今までここに通算で100泊以上しているが一度も日本人には会っていない。假にいたとしても日本から電話が来たりFAXが来るのは私だけだろうから簡単に通じるはずである。

 まだ想定出馬表はSさんの元に送られてきていないと言う。これは連載陣のひとりであるサンスポの水戸記者が担当している。まだ出走予定馬が確定していないのだろう。
 ファクス送付は午後2時ぐらいになるからよろしくとのこと。この午前の電話は私がここにいることの確認である。すこしSさんと世間話をする。週に一度の日本語会話だし電話代が会社持ちなので気にせず話せるのがありがたい。電話代は、ホテルだとどこでもそうだが市価の3倍は取るから高い。街中だとだいぶ安くなり公衆電話からテレカでかけるとSさんと5分ぐらい世間話をしても千円前後で足りる。ただしうるさい街中の公衆電話と室内ではくつろぎ度合いが違う。部屋で気楽に話せるのはありがたい。
 階下に降りて、午後2時頃日本からファクスが来るので受け取ってくれと頼む。最初は彼女らの手際が心配でホテルにいるようにしたが近頃は信頼できるようになった。

 町を散歩する。始めてきた頃は物珍しく、買いあさったりしたこんなものにもすっかり飽きてしまった。今はふつーのティーシャツがいい。

 ホテルにもどるとFAXが届いていた。公衆電話からSさんに無事届いていたと連絡をする。

 中国の公衆電話の普及率はめざましい。といっても日本のようなボックスではない。街角にある新聞や雑誌を売っているキオスクのような店はもちろん、普通の雑貨屋や酒屋にも店頭に公衆電話がある。店の人に申し込んで掛ける形式だ。この手数料はいい儲けになるのか、とにかくありすぎるというほどそこいら中にある。写真はすこし見づらいが雑貨屋の店先にある一台である。


 このごろは街中に、プリペイドカード式の電話機も増えてきた。これがすばらしいのは、日本はイラン人に代表される偽造カード対策として国際電話を禁じてしまったが(街にあるグレー電話で国際電話が掛けられるのは10台に1台あるかないかだ)、ここでは自由に掛けられる。オペレーターを通さねばならず、しかも値段も高いホテルの電話よりも、いきなり直通で掛けられるこの電話ボックスのほうが、外に出てくるという手間暇を考慮しても、便利で手早い。

 これがそのテレカ。29元で1元サーヴィスなのだが、日本的に30元で1元サーヴィスのほうがまともと思うが中国的には現金で1元返ってくるからこのほうが得した気分になるのだろう
。お国柄である。



 ホテルはFAX1枚に対し受信料を40元取る。2枚で80元。日本円で千円ちょいだが物価差を考えるとまともな値段ではない。5千円にはなる。高級ホテルなみだ。と、こんなことに関しては庶民感覚で計算してもしょうがない。受け取れるだけでありがたい。ただこれはまだ滅多にないことだからこんな値段設定をしているのであり、時代とともに変るだろう。単に受け取るだけの紙代だけだから4元と十分の一の値段にすべきだ。
(後年、このホテルは自由経済波及と競合激化のためいきなり宿泊代を半額にする。一泊140元がいきなり半額の70元になった。ありがたかった。でも利用者のいないFAX受信料は下がらなかった。宿代70元と比して相変わらずのFAX受信料40元がいかに不適当かお分かりいただけるだろう。)

 こんな感じで2枚送られてきた想定出馬表を見ながら予想をする。紙に△が目立つが、一番上にあるそれは、「出否五分五分」の編集者からの印である。そのしたの◎や○▲がぼくの予想。

 この「想定出馬」というのが不安定だ。きょうが火曜日だから今週の日曜のレースかというとそうではない。来週の日曜のレースなのだ。ほぼ二週間前である。ここに登録した馬が出てくるのではない。まずは登録して、これらのメンバーを見て、調教師は出走か否かを考えるのである。勝ちたい馬、というか人は、ここに強い馬が登録していて、とても勝てそうにないと判断したら回避する。勝てそうな違うレースに回る。勝てそうだと出たくても賞金順で出られない馬もいる。だからGⅠのような負けてもいいから出たい特別なレースでない限り、一番強い馬を本命にして、二番目、三番目に強いと思われる馬に印をつければいいとは単純にいかないのである。

 それを予測して、一番強い馬を本命にし、二番目三番目に強い馬は回避するだろうと読んで無印にするというのは、出走馬が確定してから印を打つならありえないことだが、週刊誌の予想だと常道になる。他にゆこうにも適当なレースがなく、それらの馬もしかたなく出てきて、結果は、一番目、二番目、三番目と強い順に順当に収まったりすることもある。そうなると、こんな簡単な予想を外したコイツはなんなんだ、となる。かなりの確率で出ないのではないかと読むその二番目三番目に強い馬も無視は出来ない。競馬のレースの登録料は安いので、調教師は掛け持ち登録をする。受験で言うなら複数校に願書を出し、受験者の質と倍率を見てどこを受けるか決定するようなものである。

 最悪の場合、一番強い馬を軸にし、(印の数は限定されているから)二番目三番目は回避するだろうと読んで無印にし、中穴を狙ってより格下の馬に重い印を打ったら、なんと直前になって一番強い馬が体調が悪くなって回避し、喜び勇んで出てきた二番目三番目の馬の一騎討ちとなったなんてこともあった。抜け目の2頭で1、2着である。当日に出走馬を見ながら予想するファンからしたら、いったいどういうセンスなのだと笑われそうだけど、こちらは二週間前に、「出るか出ないか」を考慮して苦吟しているのだ。

 よって、ひとつのレースを予想するだけだが、同時に他のレースとの重複登録も考慮しなければならない。その辺はSさんに電話で問う。××は△△賞に登録しているかと。このころになるとSさんも慣れたもので、私のためにそれを調べておいてくれる。他の予想者はスポーツ紙や競馬専門紙の記者だったりするから自分で情報を拾えるが私はそうではない。まして云南の山奥にいるのだから荷は重い。

 そういう二週間も前の情報で予想するのが週刊誌の競馬記事だとはほとんどの読者はわかっているし、私の場合は最初から読み物コラムとして始まっているから気楽ではある。それでいて編集部は的中率をきちんと集計しているから(笑)あまり安穏としてもいられない。三年も続いたのはそれなりに的中率がよかったからである。私の的中率は軸馬が回避することの少ないGⅠが格段によい。Sさんは予想陣の中で一番よかったろうと言っている。そこまで集計はしていないが、ただこういう形だと大穴を狙いようがなく(狙っていたら当たっていたというのがいくつもあった)好配当を的中できなかったのが悔しい。

 夏と冬の重賞のない週がいちばんつらい。これはまあ私だけに限らない。みな共通だ。ひどいときには上記の表に13頭の馬が並び、11頭が出てこなくて、出てきた2頭はどうでもいい馬、上位獨占は表にない馬ばかりというレースがあった。あたりまっかいな、そんなもん。想定出馬をした水戸さんが申し訳なかったと言っていたと連絡があったが、50頭、60頭から10数頭を選ぶのだからそんなこともあろう。

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 左が刷り上がった原稿。いつも日本から用紙を持って行くのだが今回は忘れてしまい、町の文房具屋で探した。適当なものがなくて、スケッチブックを買った。右端のギサギサはこのあとハサミで切った。
 ごく普通のA-4用紙を入手するのに苦労したりする。云南の田舎町は文房具類の質が悪いので気をつけねばならない。ボールペンなんてひどい品質だ。まあこれに関しては私は文房具オタクと言えるぐらい文房具類が好きなので問題はない。ウェストバッグの中にはいつでも世界最高品質の日本製筆記具が複数入っている。
 いま中国は食料と衣類が豊富だ。家電製品も溢れている。しかしボールペンや鉛筆の品質はひどいものである。豊かさとは、こんなところに出るのではと思う。これから一気に充実してゆくだろう。衣食足りてから文房具である。大きな都市だと日本製の100円のジェルボールペンが倍の値段で売っている。

 ヨーロッパ、タイ、香港、中国、オーストラリアと一緒に世界中を飛び回ったかわいい相棒のCANONプリンタ。同じ機種デザインの三代目である。数字は微妙に変っている。これは80V。初代が35V、次が50V、そして80になった。いや50Vを2台買っているから、これは四代目になる。最新型はまた数字が違っていた。いくつだったか。

 CANONのプリンタとのつきあいは長く、全面的に信頼している。EPSONやHP(ヒューレットパッカード)、富士通、Alps等にも浮気をしたが、やはりCANONに落ち着いた。どこも壊れていないので捨てるに捨てられずとってあるBJ(バブルジェットの略)の初代はBJ-10だった。これ最初期のパブルジェットプリンターだと思う。当時は脅威の新技術新製品プリンターだったが、いま思うと遅かった。なにしろ往復ではなく片道印刷である。いまは複数行往復印刷だから速いのなんのって。

03年のいま愛用しているのはBJ-530である。ずいぶんと品番数字も大きくなった。写真のこれは3万5千円で、それでもこんなちいさくて便利なものがこの値段でと飛びついたものだった。いま据え置きの高性能品が2万円以下で買える。プリンタは安くなった。おどろくほど。



 プリンタを必要とせず、パソコンからいきなりファクスする「FAXソフトウェア」はだいぶ前に普及しており、これまたソフトウェアオタクだからして「まいと~くFAX」とか、いろんなものを購入した。Windows2000になるともう附属してきたのだったか。実際に印刷しなくてすむから楽だし、なにより受け取り側のファクスがきれいであるという。字がつぶれないらしいのだ。日本にいるときは活用していたが、やはり外国からは──オフィスを利用できる商社マンでもあるならともかく──私のようなフリーランスの物書きにはこれはまだ無理があった。パソコンを電話線に繋いで日本に送信とやるよりは、荷物になろうともこういう小型プリンターを持参して印刷し、ホテルのファクスから送ってもらうほうが安くて確実だったのである。ヨーロッパやオーストラリアでもそうしていた。チェンマイや云南からはこの方法だけが頼りだった。



02年にはもうすべての原稿がメイル送信になった。格段の便利さだった。コンピュータが苦手なSさんも原稿をメイルで受け取るようになり、その勉強に苦労していたっけ。今じゃもうファクス原稿のやりとりなんて過去の思い出だろう。



 そうしてできあがった原稿はこんな感じのものになる。

人馬往来──油来亀造

■認識
 来年の夏から3連複馬券が発売になる。当初は16頭立て以内の発売に限るそうだ。フルゲート18頭のGⅠでは発売されないことになる。なぜそんな半端なことをするのか理解に苦しむ。
 JRAには未だにひとつの未練がある。「大口購入お客様幻想」だ。それは馬単よりもワイドを先に発売したことでも判る。馬単を発売したらファンが高配当狙いになり少額馬券を多点数買うようになる。多点数買っても合計額はたかが知れている。それよりも低配当本命馬券にどんと大金を注ぎ込む人を尊重し、馬連よりも的中しやすいワイドを先に発売したのである。
 商売としては正しい。百万円買う客ひとりは千円買う客千人に匹敵する。大口購入者を大事にするのは商いの定理である。
 だが現実のワイドはどうだろう。馬連の本命馬券を百万円買っていた人がワイドならより確実だからと二百万円買うようになっただろうか。そうではない。ワイドは人気薄2、3着馬を狙う穴党の少額遊び馬券になっている。ここでも競馬会の思惑とファンの感覚とのズレが明白である。
 遊びはなにごとも「覚えた頃の記憶」が優先する。馬券は千円単位で買うものと覚えた私は、仕送り三万円の時代から八大競走は常に千円単位で買ってきた。収入が増えたら万単位、十万単位で買ってきた。馬券とはそういうものだと思いこんでいた。一方、馬連時代に百円単位で遊ぶものと覚えたファンは、お金持ちになってもそのままである。事実私の若い友人は年収何千万円という成功を収めても馬券はいまだに百円単位で遊んでいる。彼にとって馬券とはそういうものなのだ。そして私のような愚者ももう無茶はしなくなった。感覚を新たにした。時代は変ったのだ。
 JRAは未だに高級宝石店のつもりでいる。だが現実は百円ショップなのだ。しかも周囲にはtotoを始めとする強烈なライバル店が豊富な商品を並べている。そのことを認識すれば3連複は16頭立て以内などというこだわりがいかに笑止な時代錯誤であるかに気づくはずなのだが。
 さてクイーンS。懐かしい名前も散見され気を引かれるが、順調に使われているハッピーパスを軸にしてみた。


◎ハッピーパス
○ヤマカツスズラン
▲ムーンライトタンゴ
△サイコーキララ
△ティコティコタック
△アスクコマンダー
△ジェミードレス
△ダイヤモンドビュー

※S様
 無事着きましたら着いたとFAXをください。なにか問題があった場合、これから外出しますが、そちらの午後6時ぐらいには帰宅しますので、それから再送稿します。


 この原稿、最後の予想の部分以外は妻の実家でもう書かれている。短いものだが本人としては何度も推敲した全力投球のものになる。
 これを妻が郵便局に持っていって日本に送ってくれる。

 ←景洪の郵便局。

 このホテルのファクスは今回壊れていた。それが受信は出来るが送信は出来ないという、なんだかよくわからん壊れ方をしていた。でも助かる。逆だったらたいへんだった。ファクスの受信が出来ないならこのホテルに泊まる意味はない。

 壊れていなくてもこのホテルのファクスを使う気はなかった。以前ひどい目にあっている。とんでもなく遅いのである。初期のファクスってああだったのだろうか、私はあんなひどいものは見たことがない。スキャナーのような読みとり式なのだが──まあもともとファクスとはスキャナーのような読みとり式だけれど──見た目が日本のファクスとは違ったスキャナーのようなものなのである。いま私が使っているCANONの製品に見た目は酷似している。初めて見たときは高性能の新製品かと思ってしまった。

 透明なガラス番の上をプラスチックの上蓋がスライドして読みとって行く。それがまあジリジリと、そうほんとにジリジリと音がするようなミリ単位の移動なのである。最初壊れているのかと思った。そうではないと係員の女が言う。彼女も係員ではあるがほとんど使ったことがないので外国に送れるのかどうか半信半疑である。
 壊れていないと言われて目をこらすと、ナメクジの這うようなスピードではあるが、その上蓋はたしかにスライドしていた。「こりゃ電話賃がかかるぞ」と思ったら案の定、1枚送るのに3000円ぐらいかかってしまった。ホテルは通信費は市価の倍以上取るが、国際電話であれだけ時間がかかったら高くもなるだろうという遅さだった。
 ファクス2枚の受信料だけでも1000円ぐらいは取られていたから決してボったわけでもないのだろう。この送信料の高さに腹が立ったというのは実はずっと後のことで、このときはかなり切羽詰まっていたから、「送れてよかったあ!」と大感謝だったのである。時が過ぎてから「いくらなんでもあの値段は」と、その遅いファクス同様にじりじりと腹立ってきたのだった。



 やがて街中の郵便局から送るようになり、それが実費らしいとわかる。妻と出かけて行き、あれやこれやと交渉して(あちらも外国に送った経験などない)、どうやら1枚29元(450円)ぐらいで送れると知る。ファクスなんてものを見たこともなく、未体験だった妻も、やがてこの「送信係」を自分の仕事として飲み込み、私が書き上げるとひとりで郵便局に出かけて送ってくれるようになった。お蔭で私は、一足早くバーボンで仕事完了の乾杯が出来るようになる。

 そういえばあまりのこの通信費の高さにおどろき憤ってしまった妻に(だって平均月収1万円の国で1枚送信に3000円である)、その姿勢を当然として好ましいものとしながらも、こういうコラムはこれ1枚でウン万円ぐらいの原稿料をくれるからだいじょうぶだと諭したことがある。そのことによって私は初めて妻から尊敬を勝ち得たような気がする。たった1枚の紙切れに文章を書くだけでそれだけの金を稼ぐ男なのだと初めて認めてもらったのだ。向こうもわからない世界の話だし、こちらもわかってもらおうとは思っていないから、そんな話をしたことがなかった。ストレートな数字が説得力を持つことを思い知ったものである。事実、金額を知ってから前掲したスケッチブックを破いて印刷した私の原稿に対する妻の態度が変ったのである。丁重に扱うようになった(笑)。

 妻もまた送信係という亭主の仕事の一翼を担っていることに満足していた。相棒としての存在価値である。そういう点からも云南でのこのアサ芸の仕事はわすれられないものになった。毎週苦労するSさんには迷惑を掛けたし、時には「金が足りなくなったから送金してくれ」なんてこともやったのだった。Sさんは赤坂にある中国銀行まで行き、妻の口座に送金してくれた。そこからしか送れないのだから、もしもSさんが体調を崩していたりしていて行けないとなったらどうなったことか。今も足を向けて寝られないほど感謝している。いい形で始まり、納得して終った最高の仕事だった。
《云南でじかめ日記──アサ芸の思い出》(完)──(03/8/17)





 毎週田舎の家まで『週刊アサヒ芸能』(以下、アサ芸)が届く。「人馬往来」と題された(あちらが名つけた)丸三年の連載が終ったのが去年の七月一杯(原稿掲載は旧盆前まで。旧盆前、正月前の特別号が連載陣変更の区切り目になる)だったから、丸一年贈呈してくれるのだろう、律儀なことである。某月刊誌など十年近く連載したのに半年しか来なかった。もっとも届いても封も切らずに捨てていたから来なくなって助かったが。
 もうすぐ連載終了から一年経ち縁が切れる。その前に「アサ芸の思い出」と題して云南でのことをまとめておきたかった。

 さて、連載が始まったのはいつだっのか、ほんとにボケてきていてサっと言えない。指折り数える。今が03年の7月で、連載終了が02年の8月。始まったのはその三年前。三年前は、01,00,99だから、99年の8月から連載が始まり、丸三年続いて、02年の7月一杯で終ったんだな。よし、だいじょうぶだ、ほんとに指を折って数えたから間違いあるまい。

 これから書くのはその当時のことになる。この「日記01夏」に「更正と輸入」があり、そこには中国銀行でダイナースカードでキャッシング出来ず、出版社の友人に日本から送金してもらったとある。その人がぼくを担当してくれたSさんだった。まったくアサ芸にはいい思い出ばかりである。
(と実はこの後書きのようなものを最初に書いたのだった。7月初旬である。そうしてやって全体を書き終ったいまは旧盆明けの8月半ばだ。よって話が前後している。)

 せっかく贈呈してもらっていたのにこんな言いかたもなんだが、あまり読むところがなく、毎週毎週楽しみに読んでいたとはいいがたい。『週刊文春』や『週刊新潮』は気になる記事があると数週間取っておいたりしたがアサ芸は読み終ると確実に毎週捨てていた。
 特にぼくがやめてから在日朝鮮人のサイヨウイチという映画監督(「月はどっちに出ている」)のサヨク丸出しの極めて不快な連載が始まったりして、元来上揚の写真にあるような惨殺事件とか性風俗に興味がないほうなので、送ってもらっても数日間封を切らないような時期もあった。サイの後も現在のイヅツというのが同じ路線で書いている。不快感は変わらない。

 しかし考えてみると、アサ芸というのは元々そういう路線だったのではないかと思いついた。
 ぼくがアサ芸を認めたのは、二十数年前の競馬コラムで、ヤマグチヒトミのことを真っ正面から批判したものを読んでからだった。それまではアサ芸とは週刊実話と並ぶヤクザ専門誌だと思っていた。当時の評価としてそれも間違ってはいまい。いまはヤクザよりも、より売れるエロ路線を選んでいると、これは内部の人がいっていた。
 当時ヤマグチは新潮社の編集者二人を引き連れ、競馬水戸黄門気取りで全国の地方競馬場巡りをやっていた。本人は水戸黄門のつもりだったし、競馬会を始めとしたファン層も、それをありがたがっていたのである。「ヤマグチ先生ほどのかたが競馬ごときを応援してくださる。ははあ、ありがたや」と。

 そのころ地方競馬場に日参してハンパギャンブラーの道を邁進していたぼくは、彼の文を読むたびに腹が立ってならなかった。なにしろこの黄門様、新潮社の編集者二人を両脇に従えて、新幹線グリーン車からいきなり地方競馬場の理事長室へ直行なのである。もちろん前々から行くことは連絡してあり、理事長や広報が全員勢揃いでお出迎えだ。最初から葵の印籠出しまくりなのである。それじゃ黄門様じゃないだろうが。それでその合間に競馬場内をちょこっと歩き、それで地方競馬場がわかったようなことを書かれたのではたまらない。こんな権力見せまくりの悪臭紛々たる駄紀行文なのに、なぜに競馬ファンはそれを喜ぶのかとなさけなくてたまらなかった。それだけ競馬ファンが競馬ファンであることに自信をもてない時代だった。

 後にぼくは自分の単行本で、假名ながら誰もが解る方法でこのことを批判する。もしも競馬文を書くことがあったら絶対に書かねばと思っていたテーマになる。そのときに登場するのがアサ芸なのだ。実話として、このヤマグチの印籠出しまくりという醜い競馬紀行を正当に批判したのは当時のアサ芸の競馬コラムだけであった。敵中にただひとりの友軍を見たようなあの時のうれしさはわすれない。確実に、たとえ一万人にひとりでも、同じ感覚の人はいると思えたのは勇気凛々だった。筆者はたしか当時創刊されたばかりの『日刊ゲンダイ』の競馬記者、森本さんだと記憶している。
 ヤマグチのこの紀行は「草競馬流浪紀」と題されて単行本になり、愚かな競馬ファンの中には「競馬ファンのバイブル」なんぞと褒めそやすのまでいた。権威を盲信する明き盲である。

 それから二十数年の時を経て、ぼくはそのアサ芸の競馬コラムを書くことになったのである。しかも営業したわけでも何でもないのに、あちらから舞い込んできたのだった。後日、橋本さんという副編集長がぼくの単行本を読んで、この人にやってもらおうと強烈に推薦してくれたと知る。

 チェンマイ通い、云南通いが生き甲斐だったぼくに(いや、べつに云南は妻さえいなければ行きたくないところだったが)週刊誌の仕事は無理だった。M先輩とやっていたラジオの仕事も、二週に一度の録音時に立ち会うのが条件なのに、一ヶ月以上もチェンマイに行っているから無理となり降板したほどだった。いまこうして考えるとチェンマイ狂いで失ったものは多い。ずいぶんと世間を狭くした。懐も寂しくした。
 他社だったら即座に断っていたのだが、あの思いこみのあるアサ芸だけに、なんとしても受けたかった。それで正直に担当者のSさんに、年の半分近く日本にいない状況を話し、それらの問題点に協力してもらえるかを打診した。それまで前任として連載していたSさんともぼくとも親しいK君(《インターネット論考──双方向の一方通行》に登場)がいたこともさいわいした。万が一チェンマイや云南でうまく連絡が取れないときは、予想の部分だけK君に書いてもらうように頼んだのである。長旅に出るときはコラム原稿だけは事前に渡して行くからと約束した。そうして双方ともおっかなびっくりで連載は始まった。

 この連載が始まった99年の8月は、出走馬が流動的ないいかげんな地方重賞だったから、開始早々早速原稿だけを日本で渡して行き、予想部分をK君にやってもらっている。波乱の船出だった。
 その後もSさんには迷惑をかけ続けた。彼も、まさか競馬コラムの連載で言葉の通じない外国に電話を掛けまくるというこんな苦労を背負い込むことになるとは思いもしなかったろう。時が過ぎればいい思い出になるはずだ(笑)。ってぼくが言っちゃいかんな。
 
 すこし論点がずれてしまったが、つまり当時からアサ芸というのは、誌面の姿勢として、反体制反権力の視点だったのだろう。といってサヨクなわけでもない。「小泉政権がんばって改革を推し進めろ!」ではなく「改革なんかより不況で困ってるんだ、酒も飲めねーぞ、バカヤロー!」の庶民憂さ晴らし路線である。サイやイヅツが特殊な登用ではなく、もともときっとああいう路線だったのだ。ただしサイの場合は完全なサヨク剥き出しで、アサヒじゃなくて朝日に行けよと言いたくなったが……。
 今後またここに絡むことはないだろうし、この週刊誌を購入することもまずないだろう。それでもこれは、表面的なことよりも、ヤマグチヒトミを通じての競馬因縁として、生涯忘れられない仕事となった。
 結びにもういちど、Sさん、いろいろご迷惑を掛けました。本当にありがとう、三年間、楽しく仕事が出来ました。そのうちまた、一杯やりましょう。Sさんにこれ読んでもらいたいけどな、どうしたらいいのか。印刷して送ろうかな。
(03/8/18)

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 アップの前に。
 意識したつもりはないのだが、掲載したような日本から送られてきたファクスや、印刷した原稿、プリンターの写真が撮ってあった。このテーマの原稿を書こうと思い、いい写真はあるだろうかと云南の写真フォルダを覗いたら、こんなのがあったのだ。当時からいつかこれを書くときがあり、その日を意識して撮っておいたのだろう。たすかった。ファクスや原稿の写真のあるなしで仕上がりイメージがまったくちがってくる。今からそれを撮れといってももうない。日本でわざとらしく再現するのもへんだ。これらの小物写真のお蔭で満足できるものになった。よくぞ撮っておいたと自分を褒めてやろう。
(03/8/20)

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