中国云南省の山奥で落語を聞く。贅沢な時間だ。
 前回、妻とその事でちいさな諍いがあったことを書いた。妻が私が落語を流していることにイチャモンをつけてきたのだ。妻はそれを私が日本を恋しがっているととったようだった。いわば突然のカンシャクなのだが、そういう女ではないので意外だった。むしろ癇癪持ちの短気は私であって、自分の缺陥に恥じいっている私は、自分とは反対のそうでない女に惚れたのだ。まったく、いまもってあのときの妻のカンシャクは不思議である。

 理詰めで反論した。おまえが日本で中国の歌を聴いていたとき、おれが怒ったことがあったかと。妻は素直に謝り事なきを得た。そのことを覚えていたのかどうか、今回落語を聞いていてもなにも言わなかった。それは何か言いたいのを我慢しているのではなく、ごくふつうに聞きながしていた。理解してくれているのだと思いたい。



 温和で聞きわけのいい妻が理解不可能な癇癪を起こすのはだいたいにおいて、というかほとんどすべて日本の女に関してである。これは異国の女と結婚したかたはみな同じようなことを言うから共通なのだろう。要するに「どうせ日本の女の方がいいのだろう。いつだって離婚してやる。日本の女と再婚すればいい」というようなカンシャクだ。みなそういう不安をもっているのだろうか。

 これは私には不思議な感覚で、私は妻に、タイ族の男の方がいいのだろう、いつでも別れてやる、そいつと結婚しろ、と思ったことは一度もない。思ったことがないからケンカしても言ったこともない。でも国際結婚においては常につきまとうものらしい。
 知りあいにタイの女から愛想を尽かされ離婚した日本人がいる。彼はほんとうにほんとうによくその女に尽くしてやった。貧乏なその女の一族の面倒を見てやった。家まで建てて。しかし不仲になり離婚するとき捨て台詞のように言われたそうである。「次は金なんかなくてもいいから、タイ語の冗談の通じる男と一緒になる。やっぱりタイ人がいい」と。
 たまらんなあ。そういう人種の壁は常につきまとうものなのだろう。私の妻も、自分よりも日本の女の方がいいにちがいないという危機感を常にもっているようだ。私にはまったくそれはないのだが。

 日本人の亭主が中国にいて日本のものに接しているのを見て不快になる気持ちはわかる。たとえば日本女のヌードでも見ていたならそうなってもしかたない。でも志ん生や金馬を聞いていて嫉妬されても困る。
 今回それがなかったのはほんとうに助かった。それも我慢ではなく、自分の亭主はそういう古い話芸が好きなのだと正当に理解してのことなのでありがたい。これはこれで夫婦として一歩成熟したのか。






 このごろ愛聴する落語の演目にかたよった傾向が出ている。ひと言で言うと「端整なものを好まない」になる。大好きな志ん朝も、現役では頭抜けてうまい文珍もほとんど聞かない。うますぎるのだ。整いすぎている。
 しかしまあ毎度言うが、あの「ヤングオーオー」の若手だった文珍がこんなにすごい咄家になるとは思わなかった。そういう意味で言うならシンスケもサンマもすごい出世だが、それはタレントとしてのものであり、予想以上ではあったが予想できたことだった。その点、文珍はタレントしての成功はともかくとして、正統派落語家としてこんなすごい存在になるとは夢にも思わなかった。音曲がこんなに達者な人だとは想像も出来なかった。


 先日、文珍の「落語的学問のすすめ」(関西大学での講義録)を再読した。すると学生時代にグリークラブにいたとあったから、歌はもともと上手かったのだろう。音曲がうまいうえに、滑舌もすばらしく、目にも留まらぬ早口を一瞬もとどまるところなく、立て板に水どころかジェットコースターのスプラッシュさながらにしゃべりまくる。それでいてくすぐりの仕上がりも満点なのだから、いま最強の落語家だろう。

 何枚か買い、あとは新宿図書館を始めとする何個所かの図書館の世話になって文珍のCDをぜんぶ揃えた。しばらく経ったのでそろそろ持っていないのが何枚か出ていることだろう。ひさしぶりに探してみるか。
 そういえばこの種の文珍の本の出版社はみな潮出版なんだな。だから文珍は創価学会と言われるのか。この密着度合からして事実なのだろう。まあ落語に学会臭さが出ない限り気にしない。

 大好きなたい平はまだCDをもっていない。そのうち買うだろうが、今回持っていたとしても聞かなかった。志ん朝の薫陶を受けた彼もまた正当にうますぎて、今の私はそういう落語を好んでいないのである。

【後日記】2009年になってたい平のCDをだいぶ入手した。でも感想は同じ。今の私の聞きたい落語ではない。





 じゃあ誰を聞いているのだとなると志ん生であり金馬だ。言うまでもないが私にとって金馬とは三代目であり当たり前すぎるからあえてそれすらも省く。

 昭和三十年代の夕暮れ、ラジオから流れてくる落語として(実際そういう時間に流れるものとして録音されたものも多いのだが)聞くのが楽しい。云南の夕暮れ、日記を書きながらBGMとして彼らの落語を流しているのは至福の時間だった。

 といって私に映画「三丁目の夕日」や「東京タワー」のような昭和三十年代回顧の趣味はない。ならなぜそんなに好きなのかというと、老成された枯れた感覚が好きなのだ。つまり志ん朝や文珍にある艶っぽさは「今は」いらないということになる。





 故人の大御所はともかく、現代の落語家でも「いまの私」はくずれて雑なのがいい。だから最近よくざこばを聞く。このひと、滑舌はわるいし、よく引っ掛かるし、とてもとても名人の類ではない。端整な落語を好む人は嫌っていることだろう。私もむかしはへたな人だなあと思っただけだった。「ウィークエンダーの朝丸」時代から知っているけど、落語家として評価したことはなかった。

 なのになぜか今の私は彼が大好きなのである。彼の流暢でない部分が流暢でないからこそなぜか好ましい。文珍の上手な音曲やあまりに流暢な語りにはむしろ引いてしまったりする。好みとは変るものだ。本人がいちばんおどろいている。そのうちまた変ってざこばなど二度と聞かなくなるのも知れない。

【追記】──「たかじん」で、ざこばが文珍を批判しているのを聞いた。不仲らしい。関西の落語ファンには常識かも知れないが、まったく知らなかったので新鮮だった。同じ桂一門でも藝風がまったくちがうからさもありなんである。
 むかしの私なら、圧倒的に巧い文珍を評価し、彼を批判するざこばを嗤ったかも知れない。しかし今は、ざこばには文珍に出せない味があると評価しているので、五分である。2012/1/15)








 云南の夕暮れに、金馬や志ん生を聴いたり、別項にある{Youtube}からDownloadした青江三奈や桂銀淑を聴いたりするのは楽しい時間だった。


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