08夏


◎小型スピーカー話

 ノートのHDDは160GB。パーティションをOS用、データ用、音楽用にそれぞれ、40GB,20GB,100GBに切り、mp3音楽を約2000曲ほどを挿れていった。もっと挿れられたし、デスクトップには1万5千曲ほど入っているのだが、さすがに毎日聞いていれば自分の傾向はわかる。最近の私は器楽曲しか聴かない。いわゆる「歌」をまったく聞かなくなっていた。

 今回持っていった音楽はジャズとクラシックだが、ジャズもヴォーカルモノはない。クラシックもアリア類はまったくなし。弦楽が中心だ。聞きもしないロックやポップスをもっていってもしょうがない。とはいえ旅先で音楽に餓えるのもせつない。HDDに餘裕があるのだから万が一のことも考えて十二分に入れて行こうと思った。スムースジャズを中心に撰び、「確実に聞くであろう」と思われるものを中心に撰んでいったら2千曲で充分だった。
 雑に撰んだので聞く予定のないダイアナ・クラルのヴォーカルナンバーがあったりして、これはこれで楽しめた。すこしぐらいは歌があってもいいようだ。

 それと、これも大切だ。「現地調達が可能なものは焦る必要がない」。コピー天国の中国では私の滞在する田舎町でも欧米のヒット曲は簡単に手に入る。しかも安価だ。今の私はそんなものはまったく聞かないけれど、聞きたくなったとしてもそれに関しては安心なのである。マライア・キャリーとかボン・ジョビとか。
 要は現地調達が出来ない愛聴曲を漏れなく持って行くことだ。Acoustic Alchemy,Brian Hughes,Chris Botti,Keiko Matsui,Norman Brown,Peter White,Paul Brown,Spyro Gyraあたりをたっぷりもっていった。



 海外に出るようになってから常に「窮極のウォークマン」を模索してきた。
 最初はカセットテープを30本ほど持って行きカセットウォークマンで聞いた。30本ではとても足りず現地で買い足した。それもそれで楽しかった。このころから私はもうイヤホンは嫌っており、現地でラジカセを買い、それで聞いていた。空中に流れてこそ音楽と思うようになっていた。いちばん楽しかったのは異国をドライブ旅行し、カーステレオで聞く音楽だった。

 MDウォークマンの時代を経てmp3の時代が来る。思えばMDの天下は短かった。小物機械大好きの私にとっても、最も活躍期間の短かったものになる。だから2台のMDウォークマンはいまも新品同様である。だってmp3に慣れたらもうCDウォークマンやMDウォークマンは使えない。

 当初はパソコンにmp3CDを挿れて聞いていた。日本でmp3音楽を撰び自分用のCDを焼いたりした。これはCD1枚で600曲ぐらいあったから画期的だった。やがてそれをパソコンのHDDに挿れて聞くようになる。ここにおいて私の旅先での音楽環境は満足の行く環境を構築できるようになった。やっと「窮極のウォークマン」が完成したのだ。旅先にもってゆくふたつのバッグの内、ひとつのほとんどがカセットテープという時代を思うと夢のようである。

 世間的にはiPodの出現で達成されたことになる。私も一応iPod nanoを買った。今回も持っていった。でもさほど活躍はしていない。
 私の場合「窮極のウォークマン」といっても、すでにもう20年前からそれは「ホテルで流す音楽」になっていた。常にスピーカーが必要だった。小型スピーカーもずいぶんと経験している。当初は日本で買うソニーやPanasonicの5千円前後のものが主だったが、ここのところ云南で買う中国製の千円以下が中心になっている。

 これが今回の音楽環境。ノートパソコン横の小型スピーカーは市場で10元(160円)で買ったもの。別項で書くが、いまの中国はとんでもないインフレだった。「さすが安物天国中国」と納得できる買い物はほとんどなかったのだが、この10元は前回と同じでうれしかった。とにかく衣類を中心として物価が高度経済成長期の日本と同じようにとんでもなく高くなっている。

 上掲2枚の写真はともにソニーの小型スピーカー。電池でもACアダプターでも動くが旅先だからもちろん電池を使う。能力的には満点なのだがいまは嵩張るので持参しない。それとこれが大切なことだが、スピーカーはステレオに限る。上掲のようなSONY製品より、上の写真のようなPCの左右に設置したものの方が音質音量共に劣ろうとも、音楽を聴く環境としてはずっとすぐれている。これもスピーカーを持参しなくなった理由のひとつになる。
 とはいえそういう安物スピーカーだからアンプはない。実にちいさな音しか出ない。当然だ。しかしそれでいい。しっかり音楽を聴きたかったらインナータイプのイヤフォンを差す。これでiPod感覚で聴ける。私は空気中にほんのりとBGM感覚で音楽が流れていればいいのだ。あまりいい音で流れると今度は聴きほれてしまって文章を書けないから、ちょうどそれぐらいでいいのである。


 そういう小物が好きだから行くたびに買っていた。雲南旅行のひとつの楽しみでもある。上の写真のスピーカーはデザインはよかったが音は良くなかった。



 すっかり忘れていたがこんなのも買っていたと写真を見て思い出す。


 これはアンプ附きである。それなりの値段もし(といってもあちらの値段で千円ぐらいか)音量もあったはずだ。なのにまったく覚えていない。それにこれ、どうなったのだろう。景洪の旅社暮らしをしていた2000年ころの話。帰国するとき妻に預け、妻が家に持ち帰ったのだろう。だが妻にも同居している甥にも使い道はないし、だったら私が行ったときに残骸を見掛けているはずなのだが……。

 餘談ながら、残骸と言えば私が妻にあげた電子機器(ウォークマン、ゲームボーイアドバンス等)が文字通りの残骸となって妻の家にある。これを見るのは辛いものだ。妻以上にその甥(知りあった当時10歳、いま20歳過ぎ)がいじくりまわして壊してしまうらしい。雑な扱い方をする連中である。というか、生きている環境自体が大ざっぱで埃っぽい。何が言いたいかというと、何万円もするSONYやPanasonicのウォークマンのような製品はもったいない、ということ。ちいさくてすぐれた精密機械であるからこそ、埃っぽい環境で手荒く扱われるとすぐに壊れてしまう。こういう環境では、それこそ2千円程度のいちばん安いウォークマンもどきでいいのだ。数ヵ月で壊れたらまたそれを買えばいい。このことは以前も書いたけれど、愛用のPanasonicのウォークマン(私は機器を丁寧に扱うからいつだって新品同様である)が、手垢だらけ、ほこりだらけになり、動かなくなったからと捨てられているのを見たときは本当にかなしかった。

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EVERGREEN Edifier MP210
高級感溢れるコンパクト

上位機種に採用されるMDF(一般の木材よりも堅く密度が均一な集合木材)を採用。ピアノのような光沢を放つ表面加工と厚さ5ミリの肉厚アルミフロントパネル。

ノートPCサイドにも最適

電源は一般的なACアダプターのほかに、ほとんどのパソコンに搭載されているUSBポートからの給電も可能

 ところで、スピーカーと言えば、今回秘密兵器?を購入していた。秋葉原のいつもの店(ちいさくて良品を置いている店。カードは通用しない。現金のみ)でHDDを探しているとき、狭いごちゃごちゃした店内にいい音で音楽が流れているのに気づいた。どこから流れているのだろうと見まわしたら、棚に飾られているミニスピーカーのひとつから流れているのだった。それがこれ。EverGreenのMP210。写真だと大きさがわからないがひとつが拳大のミニミニである。ところがこれ、手にしたらずっしりと重い。なるほどミニではあるがアンプも附いているし、材質に凝っていい音を目ざしたのだ。惹句にあるように、前面は厚さ5ミリの肉厚アルミで、実にしっかりしたいい造りだった。思わず買ってしまった。4980円。だいたいにおいて私の場合、こういうのはデザインに惚れて買ってしまい後で後悔するケースが多いのだが、今回は最初に音ありきだから満足である。
 帰宅して、坐卓の上にノートパソコンを拡げ、早速これを繋いで音楽を再生した。満足の行く音である。いやもちろんデスクトップのローランドスピーカーの方がずっといいが、このスピーカーなら携帯できるし、その種の物としては最高級だろう。私は云南に持参し、このスピーカーで音楽を聴く自分を想像してうっとりした。

 結局荷物の関係でもって行かなかった。だいぶ迷ったが断念した。何度も書いているけれど、なにしろほんのすこしの隙間にも、まるで緩衝材のように「削り節パック」を詰めこんだりするほど持参品を選択する極限の荷作りをしている。このスピーカー2個分の重さと量はあまりにもったいなかった。その分、日本食を持って行きたかった。



 云南で買った安物スピーカーの音が物足りないとき、もってくればよかったかと悔いたことも数回あったが、本と日本食の価値を考えたら、やはり我慢して正解だったように思う。
 この「物足りない」では新発見があった。深夜、ベッドの上で文章を書きつつ音楽を聴く。妻の家にいたときは同じ寝室なので出来なかった。妻は許してくれるかも知れないが私の気持ちとして寝ている妻の横で音楽は聴けない。今回後半の旅社暮らしはベッドルームがふたつある部屋だったのでそれが出来た。それで知ったのだが、物音のない深夜は、このちいさなスピーカーの音量でも充分すぎて音を絞るほどだった。物足りないのはいろいろな生活雑音がある昼の話なのだ。これは大発見だった。深夜、ほどよい音量でHDDに挿れてきたSmoothJazzを聴きつつの作業は楽しかった。

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 帰国してから同じ事に気づいた。私のPC作業は常にデスクトップ中心である。深夜はそれこそスピーカーの音量を2ぐらいにしぼって聴いている。どこからも苦情は来ないけれど自粛している。まあそれぐらいの囁くような音量で充分でもある。
 先日ひさしぶりにベッドに寝ころがり腹の上にノートを載せて音楽を聴いたら、日本でも(当たり前だけど)深夜はノートのスピーカー音量で充分だった。ただ私のノートのスピーカーはあまりに音が悪いので外附けのちいさいので聴いたが。
 ここのところ{Youtube}で漫才やコントを見るのを楽しみにしているが、それも音量を絞らねばならないほどだった。昼と夜がこんなにちがうことにいまさらながら驚いている。


 云南で聴く演歌

 HDDに{Youtube}からDownloadした演歌のヴィデオを挿れていった。20曲ぐらい。
 ここのところやっと演歌のよさがわかるようになり聴くようになっている。
 ところでこの件に関して「じじいになって演歌が好きになったか(笑)」と思うひとがいたらまちがいである。私は幼少時の歌謡曲から始まり、フォークやロックを通り抜け、三十代でやっとJazzがわかるようになった。このときの歓びは何度も書いている。それまで他人だったJazzが聴きつづけていたら、ある日すっと心の中に入ってきたのだ。クラシックも同じ。ここ十数年は聴く音楽のメインはJazzとクラシックである。
 そういうたゆまぬ努力?をしている私は、やっとこの年になって演歌がわかるようになったのである。だからこれは後ろ向きの話ではなく進歩や上昇の話になる。



 演歌がわかるようになり好きになったけれど、だからこそ気に入る曲は限られる。はっきり言って演歌と呼ばれる分野に駄作が多いのも絶対的事実である。演歌が好きになったけれど、99%の曲は嫌いなのである。だからたとえば有線の演歌局が聞けたとしても聞かないし、どなたかが誰か演歌歌手を薦めてくれたとしても聞くことはないだろう。モーツァルトやバッハ、マイルスやビル・エヴァンスと一緒に聞く音楽なのだから、演歌の中でも最高級の一握りになる。

 極めてパターニックなジャンルだから佳曲が出て来ることの方がむしろ珍しい。千の内、ひとつの名曲と999の駄作の世界だ。畢竟時代を超えた過去の名曲が光りつづけることになる。
 今回HDDに挿れていった{Youtube}映像は、歌手でいうと、青江三奈、八代亜紀、キム・ヨンジャ、桂銀淑等。テレサは別格として参加。その他、三橋美智也、春日八郎あたりも挿れていったが別になにも感じなかった。同じく吉田拓郎の「春だったね」あたりも持参したのだが無感動。

 云南の昼下がりにノートパソコンから流し、しみじみ「ああ、いいなあ」と思ったのは、青江三奈、キム・ヨンジャの「あなたのブルース」。これ、本家の矢吹健のはファルセットの気味悪い女コーラスが前面に出すぎていて不気味である(笑)。矢吹の歌はいいのだが。
「わかってください」なんて歌は嫌いなのだが、桂銀淑があの嗄れ声で歌うとまったく別物になって光り輝く。
 都はるみの「好きになった人」はいつ聴いてもいい。いやむかしはなんの興味もなかったのだが。

 青江三奈と桂銀淑の「東京ブルース』を聞く。桂銀淑のは羽田健太郎がアレンジして洒落たブルースアレンジになっていて微笑ましい。これ「題名のない音楽会」だろうか。貴重な映像である。日本のこの種のブルースとタイトルのついている曲は本来のアメリカのブルースとは何の繋がりもなく、Blues好きの私は日本のこの種の音楽をコバカにしていた。こういう演歌を正面から向きあって聴くと、一応ベースは4ビートになってるいるようだ。このマイナーペンタトニックスケールの演歌を「ブルース」と名づける発想は、いつ、誰が始めたのだろう。

 本家エド邦枝とキム・ヨンジャの「カスバの女」を聞く。いいなあ。本家は齢を取って声量が落ちているからキム・ヨンジャのほうがいい。

 キム・ヨンジャ、本家チョー・ヨンピル、桂銀淑の「釜山港に帰れ」を立てつづけに聴く。すばらしい。朝鮮人の天性の歌唱力にうっとりする。

 この三人の圧倒的力量声量の前には声質は太くないからさすがの天才テレサも影が薄いかと思いつつ聴くと、テレサはそれでも負けない。自分流の「釜山港」でこの三人とも堂々と渡りあう。しみじみ天才だとあらためて驚嘆する。

 桂銀淑というひとは魅力的な歌手だ。あのハスキーヴォイスはたまらない。でも彼女のオリジナル作品は好きになれなかった。この辺に私の演歌好きの基本がある。好きな曲、すぐれた歌手の二本柱が確立されていないと好きになれない。

 阿久悠作詩の八代亜紀作品(「舟唄」等)は私にはまだ生臭い。もうすこし寝かせたい。本家青江三奈の「池袋の夜」がなかったが代わりに八代のそれを聞く。



 ところで。美空ひばりの「川の流れのように」あたりを好きなひとと私の好む歌は違う。そういうひととは話は合わない。このことは主張させていただく。ああいうアキモトの意図が見え見えの作品と、心に染み込んでくる演歌の底力はまったく別物である。まあこの辺は、わかるひとはわかってくれるだろう。

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