08夏

 ひさしぶりに国際免許を取ることにした。6年ぶりか。その間にも何度か外国に行っているが運転の予定がなかったので国際免許は取っていない。

 欧米で運転するとき国際免許を取得して行くのは常識だ。私はもちろん毎回持っていった。アジアの場合、レンタカーを借りて運転する場合は必要になるが、バイクの場合は契約の際に国際免許を求められることはまずない。いやそれどころか免許のない人もみな乗っている。レンタカーの場合も、ハーツとかエイビスのような大手はともかく、チェンマイの町中にあるようなクルマ数台でやっている私的なものでは国際免許どころか普通の免許の掲示を求められたことすら一度もない。パスポートを預け金さえ払えばすぐに貸してくれる。それはまたアフターフォローがないということだが。



 私はいつも渡航前に国際免許を取得し持参した。チェンマイの無免許取締りでは国際免許を持っていたためにかえって揉めたことがある。彼らの取締りは定期的な小遣い稼ぎだ。罰金200バーツ。ノーヘルや無免許もそれを支払えば簡単に許してもらえる。払って明日からもまたノーヘルと無免許で過ごす。半年に一度、運が悪かったら捕まる、という発想だ。取締りのある日、一方通行のチェンマイの通路を逆走してくるバイクがけっこうある。コーナーで取締りをしていると知って避けているのだ。捕まったら運が悪いという遊び感覚である。
 
 そこに外国人(わたし)が引っ掛かる。すみませんと言って200バーツ支払えばそれで済む。そういう定期的な小遣い稼ぎ取締りだ。
 だが私はしっかり免許をもっている。日本の免許と一緒に国際免許ももっている。鮫洲まで出かけ高い金を払って取得したものだ。こんなときでもなければ使うこともない。堂々と差しだす。書いてあるのは日本語、英語、中国語等、彼らの知らないことばだ。しばしやりとりしているうちに「行け」と言われる。国際免許など知らない。見たくもない。英語など話せない。話したくもない。目的は200バーツずつ徴集し、あとでみんなで分けて宴会費用にすることである。どんなもんだと国際免許を出したら心底いやな顔をされた。



 私は律義に必ず国際免許を取得して行くのだが、いまだに欧米でそれをチェックされたことがないのだった。違犯をしない模範運転だから当然ではあるが、(真の意味の)個人主義が確立している欧米では、こまめな取締りなどはしないのだろう。事件も起きなかったのか、とにかく運よく私は今まで一度も海外で検問のようなものに引っ掛かって汗だくになって説明するという経験をしていない。だからチェンマイの交通取締りがどんなものであるかはすでに先輩方に聞いて知っていたのだが、せっかくだから見てもらおうと、たかがノーヘル取締り小遣い稼ぎ検問に、敢えて国際免許を提出したのだった。

 国際免許には返還義務というのがある。有効期間は一年であり、変換せねばならない。さして厳しくはないが、次の国際免許を作るときには必ずそれを尋かれる。私はこれも妙に優等生で、毎回きちんと期限の切れた古いものを変換していた。
 というようなことを書くのは、チェンマイ在住の先輩方には、期限の切れた国際免許を十年ぐらい使っているひともいたからである。年度のところを適当に書きなおしてそのまま使っていた。国際免許を見せろと言われることなど何年に一度もなく、適当に書きなおしたものであっても彼ら(タイの警官)は気づかないからそれで充分ということだった。
 私の場合タイだけではなく欧米での運転もあるので律義に毎年交附を申請し古いものを返却していた。

 日常的だったそれも離れるとやりかたを忘れる。住んでいる地域も違う。今回取得するに当たって、さてどこで取るんだっけ? と考えた。今までに十数回取得したところはみな鮫洲である。今の住まいではどこで取るのだろう。まずそのことを調べることから始まった。こんなときインターネットは本当にありがたい。



 先日、半年間故障したまま抛りだしていたHDDレコーダを修理した。生活の中から録画機器がなくなったのは二十数年ぶりなので当初は淋しかった。それでもテレビとは縁を切りたいと思っていたので敢えて修理に出さず新品も買わず、ない生活を享受した。すぐに慣れた。あんなものはなければないでなんとでもなると知った。
 今回心機一転ということもあり修理に出した。もどってきた。すっかり使いかたを忘れていた。思い出すまでにしばらくかかった。しばらくとは数日ということである(笑)。機器に興味がなくなっているので、予約録画はどうやるんだっけ、と思い1分ほどあれこれいじってみる。どうも違うようだ、だったらいいやとすぐに投げだしてしまう。それで使いかたを思い出し元にもどるまで数日かかった。

 世の中にはビデオの録画予約が出来ないことをおもしろおかしくしゃべったり書いたりする年輩者もいるが、私はその種のものが大得意である。一時はヴィデオデッキ8台を駆使して外国に二ヵ月行っているあいだの見たい番組をぜんぶ録画していた。機械音痴とは違う。でも半年間離れているとそういう私でも操作を忘れるのである。忘れるという「能力」に関しては感心することが多く、特にそれは一度見た映画、一度読んだ本に対して顕著である。あれはすばらしい。あの感動をもう一度、なのだ。まさに忘れることの効用である。しかしそれとはべつに、半年離れていたら機械の操作方法を忘れていたのはショックだった。元にもどったいまだから書けることだが。
 私は国際免許の取り方をすっかり忘れていた。どこに行けばいいのだ。



 ちかくの大きな市の警察署で取れると知る。
 暑い日だった。部屋から駅まで歩くだけで汗びっしょりになる。電車に乗って涼むが、駅から警察までの道がまた半端に遠かった。歩いて15分なのである。最寄りのバス停もすこし離れている。季節のいい時ならよろこんで歩くが佇んでいるだけで汗の噴きだしてくる猛暑の時期だ。タクシーは贅沢。けっきょく歩いた。そのうえ方向音痴。見事に遠回りになり汗を掻いた。警察のちかくは樹木が多く、涼しい風が吹いていた。みんみん蝉の大合唱。しばし聴きほれた。



 国際免許の取得自体は順調だった。規定のサイズの写真もあらかじめ用意してあった。とはいえそれは前回の国際免許のときのものだから厳密には期限切れである。問題なしに通過したから私は六年前とあまり変っていないということだろう。証紙代2700円。

 担当者があまりに愛想がいいので戸惑う。警察もここまでサービスするようになった。たぶん定年引退してひとのシルバー雇用だ。
 でも息がタバコ臭くて閉口した。あれはたばこに健康を蝕まれているからだ。というのは、どんなにヘビースモーカーでも健康が勝っていればタバコ臭くないのである。これは生きていて学んだ真実。

 その愛想のよさは警察官というより物売りのようだった。むかしの威張りちらしている警察を知っている身には気味悪いほど。でもいいことだ。



 愕いたのは「中国では国際免許が通用しないという忠告」だった。この項で書きたいことはふたつ。ひとつがこれになる。その理由は「ジュネーブ条約に批准していないから」とか。その他、ドイツもスイスも入っていないといっていた。私はドイツでこの国際免許で運転していた。もしも検問があったら捕まったのか?

 こんなことは常識でありほとんどのひとが知っていることだとは思う。がまた、関わることがないかぎりまず知らないことでもある。私は今まで国際免許を取得する際に書きこむ「運転予定の地域」に、アメリカ、イギリス、オーストラリア、タイ等を書きこんできたが、いちども注意を受けたことがなかった。ヨーロッパに行くとき、「イギリス」と書きこんだのでなにも言われなかったが、あのときドイツと書きこんでいたら今回のような注意を受けたのだろうか。

 どうも今回の係官が特別に親切のような気もした。それとも数年前からこのことを正確に知らせることになったのか。以前も型通りの説明はしていたのだろう。運転できない地域に興味のなかった私が気づかなかっただけで。

 今回は目的地が中国のみなので親切に説明してくれた。警察側としても、中には「国際免許を取っていったのに通用しなかった。どういうことだ!?」と訴えてくるような輩もいるだろうから自分達を守ることにもなる。

 当然質問する。「それじゃ駐在員のみなさんはどうしているのですか?」と。国際免許には各国語の説明がある。もちろん世界中でいちばん話されている言語(まあ単に人数の問題だが)である中国語の説明もある。もしも日本発行の国際免許がジュネーブ条約に批准していないという理由で中国で通用しないのなら、もっともっと大きな問題になっているだろう。いくら不勉強な私でも目にしているはずだ。
 担当者の説明も、「どうやら通用するらしい。しかし万が一通用しなかったとしても、こういう理由だから」と、なんとなく逃げの説明だ。

 さて、どうなるだろう。なによりまずまともなら、云南の山の中でバイクに乗るだけの私が、日本から持参した国際免許を警官相手に見せる事態は起きないはずなのだが。

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 この項で書いてみたかったもうひとつのこと。それは「免許をチェックされることなどまずない田舎に行くのに、なぜ国際免許を取って行くことにしたか!?」である。



 とんでもない山奥である。舗装されていない泥の道だ。主役は耕運機である。耕作の主役はまだまだ水牛だ。義父によると成長した水牛の値段は8千元(約14万円)で売買されるというから、米やその他の作物の収穫が3千元ほどの農民にとっては今も最大の「財産」になる。日本的に言うといつでも100万円で売れるクルマのようなものだ。動産である。
 今後ますます耕運機が増えて行くだろうが、耕運機に適した平地の田んぼをもつ人はすくない。それは元々恵まれているひとだ。耕地のほとんどが山を切りひらいた傾斜地である。水牛でなければ耕作できない。水牛の価値が落ちることはないだろう。



 物質運搬の一般車もたまには通る。昨日ビール運送のトラックを見掛けた。悪路で立ち往生し、助手がスコップをもって脱出に苦労していた。雨季の悪路で日に二便のバスは止まっている。

 町から妻の家にたどり着くのに私も耕運機の世話になった。胃袋が飛びだしそうな揺れで、バッグの中のPCが壊れるのではないかとそれだけが心配だった。さいわいかなり本格的な専用PCバッグだったので壊れずに済んだ。涙が出るほどありがたかった。ノートパソコンが壊れたらとてもとてもこの地に長居は出来ない。

 と説明を始めるときりがない。先を急ぐ。そんな地であるから少年でもみな無免許でバイクや耕運機を運転している。私の田舎でもむかし、中学生が耕運機を運転しても家の手伝いならいい、と言われていた。そういう地である。田舎の警官は他国の国際免許など見たこともないだろうし、それ以前に、ふつうに暮らしていたら警官を目にすることすらめったにない。

 なのに私が今回持参したのは「嫉妬」が怖いからである。まことにこれこそはどのような未開の地でもある性悪人間の本質だろう。



 妻と電話で話しているとき、近所のタイ族の女と結婚したマレーシア人が逮捕されたと聞いた。そのマレーシア人の素生は知らないが、マレーシアに出稼ぎに来ていたタイ族の娘と結婚し、妻の実家にマレーシアから遊びに来ていた彼は、バイクを購入し乗りまわしていた。それをその家よりも貧しく、バイクを買えない誰かが嫉妬し、警察にちくったのである。「無免許なのではないか」と。

 彼は無免許だった。あるいは国際免許はないがマレーシアの免許はあったのか。詳しくは知らない。しかしこういう形で賄賂社会の世界に紛れこんだら、それこそケツの毛まで抜かれる。だれもが無免許で乗りまわしているようないいかげんな地域である。ところがそれを小金をもっている外国人に適用し、摘発されたとなるとたいへんだ。彼は法外な罰金を払わされたらしい。
 それを聞いていたので、今回まともならまず不要のはずの国際免許を私は取得してきた。



 私も今回バイクを買おうと思っている。どうにもそれがないと動けない。なにかものが欲しくなったら、22キロ離れた町まで行かないとどうしようもないのだ。バイクなら悪路もなんとかなる。

 欲しくなる物、たとえばいまなら「電球型蛍光灯」が欲しい。私が設置した蛍光灯は壊れて撤去され、また元の白熱電球にもどっていた。これが暗くてしょうがない。もういちど蛍光灯を備えつけるのは面倒だ。なにしろ町からもってくるのがたいへんだ。だからショッピングセンターで見掛けた電球型蛍光灯にしようと思う。あれは明るくて良い。すこし高いけれど。

 電池も欲しい。日本から「世界一長持ちするEVOLTA」を必要十分なだけ持ってきたつもりだったが、あっちこっちに挿れていたらすぐになくなってしまった。なにしろ日本の電池は「中国製が三日で切れる、外国製は一週間で切れる、日本製は一ヵ月保つ」と妻に絶讃される逸品だ。妻はタイ族だが中国育ちなので基本は中国贔屓である。私の中国批判にいやな顔をする。しょうがない。毛沢東は神様という教育を受けている。その妻が絶讃するのだからいかに日本製罐電池が優れていることか。こちらも鼻高々で持参する。
 しかしまたマンガン電池でも一年保つ目覚まし時計にEVOLTAを挿れるのがもったいないのも事実。アメリカのデュラセル乾電池(これが海外製ではいちばん普及している)を町で買い溜めしてこようと思っている。

 たとえば、蛇口にはめるアレも欲しい。なんというのか。不純物を取りのぞき水流を弱くするあれである。日本人の家ならどこにでもある。妻の家にはそれがないので蛇口の水で顔を洗うと水が撥ねる。足もとが濡れる。この辺はまだそんなものに金を払う時代ではないのだろうが、町のショッピングセンターなら売っているはずだ。
 というようなことをあれこれ考えている。バイクが届くのはまだまだ先らしく、いまは待っているだけだ。



 この項を書いているとき、「おまえからこんなことを聞いたので国際免許を取ってきた、これが国際免許というものだ」と妻に見せていたら、また呆れる話を聞いた。

 前回ここに来て十日ぐらい経ったときだったか、警官が四人ほど妻の家にやってきた。パスポートを見せろという。今まで一度もなかったことなのでおどろいた。

 中国の警官は横柄なので彼らと接するのは楽しくない。今回もいつもの県境で徹底的に調べられた。それはミャンマーとの麻薬取締りらしいのだが、パスポートを持った外国人は、身分証明書のない怪しいミャンマー人と同じ扱いを受ける。ミャンマー人を別にすればこの地で今まで私以外の外国人を見たことはない。

 防弾チョッキを着て小銃を手にしている連中に囲まれて詰問されるのだから気持ちのいいものではない。おまけに英語の話せるのはいない。毎回そこが近づくとうんざりする。今回も15分も調べられた。その間バスは立ち往生し、苛立った乗客からなぜ出発しないんだ、調べられているのは誰だ? となってくる。私に対する視線が罪人を見るかのように変化するのが如実にわかる。帰りもまたあそこで調べられる。今からもう憂鬱になる。(ぜひともその様子をお見せしたいのだが、そういう場で写真が許されないのは言うまでもない。)

 ある日、四人の警官が家までやってきた。パスポートを見せろと言う。初めてのことなので緊張する。運悪く通訳してくれる妻がいなかった。警察がやってくるなんて初めての経験なので家にいた義父母もおどおどしている。

 けっきょくパスポートも査証も正規のものがあるので何の問題もなかった。ほんの片言だけ英語の話せるひとりとやりとりして、5分ほどで済んだ。
 これもじつは嫉妬だったとつい先程妻から聞いて愕いた。「あそこの家に日本人が来ている。不法入国ではないのか」と近所の人間が電話したらしい。なんだか畑の問題かなんかで妻の家と仲の悪い家だと言っていた。どうしようもない未開の地だがひとの嫉妬だけは共通なのだ。なんとなく薄ら寒くなる話である。
 マレーシア人が捕まり法外な罰金を取られたこと、私の家にパスポートチェックに警官がやってきたこと、すべて「密告」であった。



 いらぬ問題は起こしたくない。それで私は渡航前から妻に言いきかせた。それは「うちの亭主は自動車免許を持っている」「国際免許という世界中どこでも運転できる免許をもっている」ということを近所の連中との茶飲み話で口にするよう命じたのだ。私がこの地に行きバイクの運転をしたなら必ずそれを「あの外国人は無免許なのではないか」と警官にチクるヤツが出る。ならその前に先手を打っておこうと。

 さて今回、私が国際免許をウェストバッグから取りだすことはあるだろうか。そしてジュネーブ条約とかに参加していない中国で日本の国際免許は通用するのだろうか。


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 結果として、私が国際免許を掲示することはなかった。とはいえバイクリヤカーであちこち走りまわったので警官とはずいぶん遭遇した。
 ミャンマーとの国境・芒信に行ったときは、着いてすぐに警官がやってきてパスポート掲示を求められた。パスポートナンバー、ビザナンバーを記録していた。その他にも何度かパスポートを見せろとは言われた。だがなぜか一度も免許証の話は出なかった。

 写真のようなバイクリヤカーで走っていた。この形のものは新型らしく珍しいので、これはどこで買ったのだ、いくらしたのか、とどこでも話し掛けられた。まして運転している私は異国人である。顔は同じようなものでも色が白くメガネを掛けているので一目でそうとわかるらしい。まあ靴を履いているし、雰囲気からして違うとは自分でも思う。

 なのにまったく免許のことを誰何されなかったのは、免許の所持に関しての意識が薄いからだろう。いまやそこいら中バイクだらけなのだが、免許を持っているのは半分もいないらしい。つまり、「まだそういう時代」なのだ。これから規制が厳しくなり、ヘルメット装着もチェックされるようになり、タイのようにその種の摘発が警官のいい小遣い稼ぎになる時代が来たら、それはもう凝り性の漢族だから、異様なほどしつこくなるのではないか。そうなったら異国人の無免許など稼ぎ時には真っ先に捕まるだろう。ともあれ今回はノーチェックだった。


 大通りの昼下がり。まだこんなものである。市場が立つときや朝夕はさすがにもっともっと混雑する。

 とはいえ交通整理はやっていた。まだ信号はない。ロータリー式の交叉点が出来たばかりだ。そこに警官が立ち、摘発を行っていた。その場に差しかかると緊張した。だって次々と停止させられ何やら書類を書かされているのである。国際免許をもってきており、後ろには通訳の妻がいてくれる。不備は一切ない。でも中共の警官と接したくない。警官の立ち姿を見ると緊張した。運転マナーがいいからか、違犯をしない私が停められることはなかった。

 しかし今回の警官の様子、バイクの異常な増え具合、ロータリ式交叉点の増加、何度か見掛けた交通事故から、今後国際免許は必須になろう。
 そして何よりも怖い「嫉妬」がある。油断したら無免許運転で有り金全部取られる。この国に対して気を抜いてはならない。

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 免許の写真

 国際免許は必ず返却をしなければならない。真面目な私はいつもきちんと返却してきた。今夏、部屋の模様替えをし、大掃除をした。その時に写真のものが出て来た。1996年取得である。返却忘れをしたらしい。そういえば1997年に鮫洲に行ってあたらしいのを取得するとき、古いのを持ってこいと注意されたことを思い出す。
 よれよれになっている。このころは諸外国をずいぶんとドライヴした。今さらもう返さなくてもいいか。思い出の一品にさせてもらおう。

08/夏
 航空券話──E-チケット初体験

 電子航空券、通称E-チケットを今回初めて利用した。
 以下、それを初めて利用した少々時代遅れの戸惑い話である。すでに何度も利用しているかたには失笑ものであろうが……。

 智識がなかったので戸惑った。いつものようインターネットでチケット屋に申しこむ。そういやもっと前は「格安航空券」という下川祐治が編集長をしていた雑誌や「ABロード」なんていう旅行雑誌でチケット屋を見つけて電話したのだった。なつかしい。

 インターネットで航空券の予約をする。銀行から代金を振りこむ。電子メールのやりとりで契約は成立した。いつもならすぐに郵送されてくるはずの航空券がなかなか届かない。心配になって催促のメールを書いた。これも初体験である。だいたい私はのんびりしていていいかげんだ。それなのにこんなことをしたのだからいかに遅れていたことか。のんびり屋の私ですら焦るほど届かなかった。
「遅れていて申し訳ない。もうすぐなので2日ほど待って欲しい」のような返信が来る。それでもまだ私はこれを今までの航空券だと思っていた。
 航空券をお届けしますとメールが届いた。しかし紙のチケットは郵送されてこなかった。電子メールで指定されたサイトに行き、そのページを印刷して空港で提出するのだという。E-チケットなるものを初体験した瞬間だ。



 しかしこれって事前情報がなかったらアブナイ。だってまずプリンタがなかったらアウトである。最近ほとんどプリンタを使うことのない私はインクが切れたまま補充してなかったりする。さいわい今回は使える状態にあったので助かった。いやそれ以前に、パソコン好きだがプリンタはもっていない、というひともいるだろう。今どきプリントアウトをすることもそうはない。

 E-チケットの申込書は、まず最初に「E-チケットとは紙のチケットではない」「このチケットを受けとるのはこのような方法になる」と同時に、「そのためにプリンターが必須である。プリンターがないと受けとれない」と明記しておくべきだろう。あったのかどうかわからないが、すくなくとも「すぐに気づく」ようにはなっていなかった。へたしたらチケット屋から「このサイトに行ってページを印刷しろ」と言われてからプリンター購入に走る可能性もあった。便利なものほど怖い。やはりチケットは紙のチケットの手渡しがいちばん安心できる。



 そういえば数年前、航空券を買ったとき、「銀行で代金を振りこんだ証拠として振りこみ領収書をファクスしろ」というのがあった。すでに電子メールでのやりとりが主となっていた私は、以前は複数台持っていたファクス機を処分したあとだった。東京の住まいにはまだあったが、それは茨城の田舎での出来事だった。さいわいコンビニがファクスサービスをしていて事なきを得たが。

 空港へ紙切れ一枚だけもって行くのは、紙の往復航空券を手に向かうことになれている身には心もとなかった。とはいえ日本である。成田空港でその紙切れを差しだすとすぐに対応してくれ、なんの問題もなかった。搭乗券を手にしてからは今まで同じである。私は無事それで北京乗りかえ、昆明着となった。

 深夜の昆明空港で、翌朝発の昆明・思芽便を買う。中共はサービスが悪く無愛想だが、こういう儲け話に関しては熱心である。午前0時を過ぎていたが明日の朝7時初のチケットが無事買えた。現金払いで領収書と引換券をもらう。翌朝のチェックインもスムースに出来た。

▼【後日記】──べつに印刷しなくてもeメールにある予約番号などをメモしてゆけばいいようだ。プリントアウトしてもってゆけとあったので「プリンタのないひとはどうするのだ」と焦ってしまった。
 2013年経験ではもう航空会社の受付に行きパスポートを提出するだけで、それすら言わなくても済むようになっていた。しかしまあ初体験のとき緊張したのは確かである。(2013年夏)





 思芽(スーマオ)市は以前は思芽地区という半端な呼称の中の一部だった。市と町の真ん中ぐらいの立場。それが目出度く市に昇格して数年経つ。

 今回の北京オリンピックを機会に中国は地名整備をした。思芽地区の中に普洱(プーアール)町がある。お茶の本家中国の中でも、云南の普洱はお茶の発祥地として名高い。元祖である。普洱茶は高級茶の名称として世界的に名高く、北京空港でも最高級茶葉として売られていた。高いものは100グラム1万円以上する。

 今回の地名整備で思芽地区は普洱市になった。全面的に普洱を表に出すことにしたわけである。空港も普洱空港になっていた。それが上の写真。前回までは「思芽空港」だった。思芽と普洱では中国国内でも世界的にも知名度が違うから、この改称はよくわかる。



【後日記】──チェンマイで「昆明・普洱」の航空券を買おうとしたら、チケット屋の係員が「普洱空港」がわからない。ヒットしないという。私も空港略称を知らない。たしか綴りはPUERだったが……。
 けっきょく自分のThinkPadで調べて、「まだ空港名は思芽空港 SIMAO AIRPORT」であることを知る。チケット屋に行き「SIMAO」で検索したらすぐにヒットした。(2014年夏)



 そうしてこれといったこともなくあちらで過ごし、「ふつうの航空券」で思芽から昆明にもどり、ホテルに泊まり、いよいよ明日の朝、昆明空港で帰りのチケットをもらうという段になって一気に不安が押しよせてきた。

 なにしろ昆明の空港は「Information Center」と英文字のでかい看板を出しておきながら英語が通じないのである。そのとき私は改装された昆明空港内で迷いドメスティックラインのチェックインはどこだと尋いただけなのだがしらんふりをされた。信じがたい。しかも相手はあの漢人である。三十代半ばぐらいの女だ。根性の悪そうな顔をしている。本当に本当に私は漢人が嫌いだ。「漢だねえ」というバカ日本人のよく使う誉め言葉は私には最大の侮辱になる。

 英語が通じない。それはいい。中国なのだから通じなくて当然だ。中共と漢民族が嫌いで中国語を覚えようとしない私に問題がある。だけどアルファベットで「Information Center」とあったら通じると期待してしまうではないか。そんなものがなければこちらだって会話帳を指差ししつつも中国語を話そうとする。
「どうしてインフォメーションセンターなのに英語が通じないのだ。誰か英語を話せる人はいないのか」と問うと、「おまえが何を言っているのか解らない。どこかへ行っちまえ」というようなことをけわしい顔で怒鳴られた。そのあとその女は憤懣やるかたないという表情で席を外しどっかへ行ってしまった。まるで私が悪者である。これが代表的な漢民族の対応だ。
 この場合は知らない空港ではないから自分でその場所を探して行き、現金購入してあった今までと同じ航空券で問題なく搭乗できたのだったが……。

 しかし今回は紙切れ一枚なのである。しかも文面は最初にわたし用に日本語があり、そのあとは英語の文章があるだけだ。中国語はない。英語で、「これはEチケットであり、これをもってきたものには以下の航空券を発券せよ」と書いてあるだけだ。
 これでまた北京ならいくらか安心できる。さすがに英語が通じるからだ。だがここは昆明であり、最初は「昆明・北京」という国内線であるから、そのカウンターに行かねばならない。英語など通じない。漢人の女に「なんだ、この紙切れは。こんなものじゃ飛行機は乗れない!」と怒鳴られて途方に暮れる可能性は高い。私は昆明の空港で脅えた。いやほんと、E-チケットなんて頼り甲斐のないスカスカしたものはもう二度とごめんだと思った。

 北京行きの飛行機は昆明発朝の八時だった。私はもうほとんど寝ないまま六時には空港に着いた。国内線だからずいぶんと前から出かけたことになる。頭の中に浮かぶのは紙切れのE-チケット引換券が通用せず、途方に暮れるみじめな自分の姿ばかりだった。



 結果は、昆明の国内線カウンターの女はやはり英語は話せなかった。漢人特有の無愛想な女だったが、さすがにE-チケットは知っていたらしく、私の渡した印刷物を見ると、なんやらカチャカチャやって「昆明・北京」「北京・東京」の2枚の搭乗券を出してきた。私はいつも「aisle seat please」と言って通路側を希望するのだがそれを言う餘裕すらなかった。載せてもらえるかどうかの瀬戸際で席の贅沢など言っていられない。さいわい偶然通路側だったので助かった。

 とまあそんなわけで、さいわいにして問題は起きなかったのだが、欧米ならともかく中国へはE-チケットはもう懲り懲りというのが本音になる。行けば行くほど嫌いになるあの国で、こんな不確かなものは使いたくない。

 インターネットで買うチケットはもうみなこれなのだろうか。そして、これからはますすまこれが増えて行くのだろうか。いや増えて行くだろうな、それはわかる。
 とにかく、中国に行くときは以前のしっかりした紙の航空券で行きたい、と切実に願っている。

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