08夏

 写真は今回云南の山奥まで持っていった本の一部。約半分。衣類のまったくない旅行バッグの荷物の半分は本。あと半分が食糧。前回食い物がなくて苦労したので今回はレトルトカレーやドレッシング、醤油、ソースなど嵩張り重いものも持っていった。その話は別項として、とにかく荷物は「本と食い物」。つまりそれが私にとって最重要物資になる。



「二十歳の火影」「命の器」「錦繍」──宮本輝
 宮本輝の初期の作品は本当に好きだ。というか初期の作品のみが好きだとも言える。出発前「泥の河」を読みかえしたところだったので、これらを古本屋で買いあつめて持ってきた。
 あらためて買わなくても押しいれの中の段ボールには確実に入っている本だ。「幻の光」は妻の家のどこかにあるのではないか。要するに私の好きな宮本輝は「川三部作」「錦繍」「幻の光」と、この二冊の随筆集、あと何冊かの短篇集に限られ、それをなぜか立派な装丁の単行本ではなく文庫本、しかも古本屋の文庫本で、何度も読みたくなるたびに買っているのである。一部の本に限られるが、それなりに熱心な宮本輝の読者と言えるだろう。

 アンチ宮本の言う「創価学会臭が強くて読めたものではない」も理解できるが、私はこの初期の作品の「衒い」が好きである。「夢見通りの人びと」になるとそれが鼻についてくる。以降のヨーロッパ系の作品は受けいれられない。

 今回初めて随筆集にある戦争と平和に関する意見に違和を感じた。またいつも巧みだなあと感心するだけの作品にいくつか矛盾を感じる箇所があった。それはそれで私の成長なのだろう。そりゃ三十前後のときに書いた作品だものねえ。そのことはまたべつの機会に書くとして。


 
 この云南の田舎において私の最高の娯楽は読書である。よって滞在時間を考慮しつつ読みすすめねばならない。いちばん怖ろしいのはまだ何日も滞在するのに読む本がなくなってしまうことだ。最初のころ、それが怖かった。いまは妻の所にそれなりのストックも出来た。今回持参した本を読みつくしてしまったとしても、かなりの時間は保てる。たとえば浅田次郎の大好きな作品「プリズンホテル」が全4冊置いてある。大事に読めばこれだけで一週間は保つ。船戸与一の「蝦夷地別件」がぶ厚い上下巻である。これでまた一週間。一冊もストックのなかった最初と比べればいまは餘裕綽々である。なにしろ自慢じゃないが読んでもすぐに忘れる(笑)。「蝦夷地別件」なんて完璧に忘れている。三年ぶりに読みかえせば新刊と同じだ。

 ということもあって今回は持参した本を読むペースはかなり好き放題。以前のような自粛はない。前回までは深夜に夢中になって読んでいて、まだ眠くなく、もっと読みたいと思っても、その後のことを考えて諦めたりした。今回は日本と同じように眠くなり目がしょぼしょぼしてくる限界まで読んでいる。時間を掛けて構築した読書環境(って言いかたは大袈裟だが)によって、すこしだけ餘裕が生まれつつある。うれしいことだ。



 旅先での読書は「勉強」と「娯楽」の二本立てである。勉強の方はいつものよう高島俊夫先生の本の読みかえし。「漢字と日本人」は今回も何度も読みかえした。あらためて名著と確認。勉強に髙島先生の本が最適なのは、ひとつのサジェストを受けると、そこからこちらの発想が拡がり無限大になることである。ほんの数ページ読んだだけでサジェストに反応し自分の意見を書きはじめてしまう。書きたくてたまらなくなるのだからしかたない。ということで一冊で百冊分の価値がある。

 娯楽の方はしばらく読んでいない「東野圭吾まとめ読み」をした。山奥の退屈な生活には刺激的かもと思い馳星周もいっぱい持っていったが失敗。なにも残るものはなかった。火薬大量消費のハリウッド映画に興味がなくなったように、この種の暴力的人殺しものにはもう興味がないようだ。記録しておくのは東野圭吾だけになる。



●東野圭吾まとめ読み

 えーと、何を読んだのだったか、「手紙」「時生」「分身」「白夜行」「殺人の門」か。みな長篇なので毎日楽しませてくれた。帰国してから「白夜行」の続篇と言われる「幻夜」と「さまよう刃」を読んだ。以前読んだのは「秘密」ぐらい。出世作の「放課後」も直木賞受賞作の「容疑者Xの献身」も読んでいない。「容疑者X」は近日中に読む予定。もっとも直木賞の場合、受賞作というのは賞をあげるきっかけであって必ずしも受賞作イコール傑作とは限らない。とはいえ「容疑者」は評判が良いようなので楽しみだ。




白夜行」はおもしろかった。

 ちょうど同時に複数冊もっていった馳星周がこの作品の文庫本に解説を書いていた。
 その出来のよさに「嫉妬する」とし、「今度銀座で思いっ切り高い酒を奢らせてやろう」と結んでいた。

 こういう形の解説はつまらない。つまりそれは《自他ともに「ノアール小説」なるものの第一人者であり、他人の小説にはまったく興味のない馳星周(くどいほど本人がそう書いている)ですら嫉妬した出来の良い作品》という持ちあげかただ。馳星周作品の信奉者ならその褒めかたに酔うかも知れないが、そうでないひとには鼻白んでしまう切り口である。まして最後に個人的な親しさを強調し「銀座で高い酒を奢らせてやろう」は白ける。ま、そんな解説の感想はともかく。

 この作品がおもしろいのは(作品の肝腎の仕掛けであり、さんざん感想として語られていることだが)主人公二人の心象風景が一切語られないことだろう。
 もうひとつは二十年に及ぶ時の流れを世相的に追っていることだ。主人公二人の小学生時代、中学生時代、高校生時代、大学生時代、社会人時代と、そして今、と語られる短篇を繋ぎあわせた長篇だ。当然そこには世相があり、それは後から語ったいわゆる「後付け」になる。それがまた楽しい。
 始まりの昭和四十八年はオイルショックの年である。



 同時に読んでおもしろかった「時生」も、現在から「息子が独身時代の父のもとに飛んで行く」というタイムスリップ物。同じく「後付けの時代回顧」が出て来て楽しい。

 主人公時生(トキオ)も沢田研二の「TOKIO」から来ている。まだチンピラの父親23歳と時を飛んできた息子(18だっけ? 二十歳の他人の躰を借りている)が出会っての話。金を作るためにダービーでカツラノハイセイコの単勝を買ったりする。これは昭和54年か。昔にもどって結果の知っているレースを買って大儲けしたいというのは競馬ファン共通の夢だ(笑)。



「白夜行」の仕掛けで個人的に最も楽しめたのは、黎明期のパソコンの流れだった。
 ヒロインとそれを支える陰のヒーローの少年がいる。二人は悪事をこなし、のし上がって行く。そのためには金が要る。その少年がヒロインを助けるために稼ぐ金の方法が黎明期のパソコンを使っての悪事なのである。ゲームソフトのプログラムを盗んで通信販売したりする。といって今のような大掛かりなものではない。むかしのゲームセンターにあった潜水艦もの。海上の駆逐艦が落としてくる爆弾をかいくぐり魚雷で撃沈するような単純なゲームだ。あるいは一時大きな社会問題になった銀行のキャッシュカードの偽造。ATMのごみ箱に捨てられた引きだし明細書から暗証番号が判ることが問題になり、捨ててはならないと言われたりした。その種のデジタル的犯罪が時を追って登場する。

 記憶媒体としてカセットテープが出て来る。私はカセットテープが記憶媒体である時期のバソコンはいじってないのだが、初期のシンセサイザーの記憶媒体として利用している。ピーガリガリガリというやつで、まちがってラジカセで再生したりするとラジカセを壊してしまうあぶないものだった。
 このあとフロッピーディスクが登場し、主人公が「あれはすごい。これからはフロッピーディスクの時代だ」と語ったりするのが楽しくてたまらない(笑)。私がパソコンに関わるのはちょうど5インチのフロッピーディスクから3.5インチか主流になるあたりである。あのころもう『一太郎』はあったのだから古いソフトだ。信じがたいほど低機能だったけれど。

 パソコンショップを経営している彼らが、PC88の時代に「これからは98の時代になる」と言ったりするのも楽しい。16ビットパソコンの98は最新鋭機なのだ。まあそれを喜ぶひとが読者にどれぐらいいるか知らないが、私にはたまらなかった。

 そういえばオウム真理教も秋葉原でパソコンショップを経営し、信者が路上でビラを配っていたものだ。あの白の上下の教団服で熱心に活動していた。そりゃあ狂信しているのだから熱心だ。値が安いので気を引かれたがさすがに買わなかった。店に行くのが気持ち悪かったし。あれはサリン事件の二、三年前か。

 そういう後付けで語る世相がたくさん出て来る。オイルショックや宮崎勤事件等。そんな中、私はこのパソコンを語る流れがいちばんおもしろかった。

 これは「ヤング島耕作」のおもしろさ(あるいはズルさ)にも通じる。「ヤング島耕作」も若い頃の島耕作のことを描く「後付け」である。どんな事件が起きるか何が発明されるかもすべてわかっている。だからズルい。だけど大好きなキャラの中沢部長(後に大抜擢で社長)が個性的な課長として登場したりするのはなんとも言えない魅力だ。



 「未来から息子が、若き日のダメオヤジを助けに来る」というのが他にもあったなあと思っていたら、映画の「バック・トゥ・ザ・フューチャー」を思い出した。あの映画も楽しみは、まだ誕生していないロックンロールを演奏したり、それをチャック・ベリーがパクるという仕掛けがあったりする「現代人の過去しったかぶり優越感」だ(笑)。


「バック・トゥ・ザ・フューチャー」の第一部は特に日本では評価が高いのだとか。それはきっと「過去いじり」が両親の恋愛やいじめっこ対策等、こぢんまりとしているからだろう。「Allways 三丁目の夕日」等にも通じる感覚だ。こぢんまりが悪ければアットホームと言い直すか。カルバン・クラインのパンツから名前を知るあたりの笑いも秀逸だ。私は他人の名前の入ったものを欲しいとは思わないので共感する(笑)。

「TOKIO」も「白夜行」も本格的な映画にしたら「タイムマシンもの」としておもしろいだろうなと思った。「白夜行」はテレビドラマ化されたが、予想通り時代設定がずっとあたらしくなっていたとか。
 私にとってPC関連の進捗状況が一番興味深かったように、この小説のおもしろみは時代背景だ。だけどそれを再現しようとしたら金が掛かる。テレビドラマでは無理だったろう。
 映画だったらNECに協力を仰ぎ、PC88や98,それにディスプレイ等も当時の状況にして、「これからは98の時代ですよ」なんてセリフも活きた。視聴者もしみじみと、「三丁目の夕日」の昭和三十年代とはまたちがった時の流れを懐かしんだことだろう。見たかった。


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《着想について》──浅田次郎作品より

 今回読んだ東野圭吾作品に関する感想の総論として、「着想が表に出すぎている」と感じた。
 着想は小説の基本であり、その思いついた瞬間を、浅田次郎は「天使が舞いおりてきた」と表現している。すべてはそこから始まるのであり、それは否定できるものではないが……。
 ただその思いついた瞬間の着想が読者に伝わりすぎるのはよくないことだろう。前面にそれが出てしまい見えすぎると読者は白ける。

 たとえば浅田次郎の短篇に「ババコン」ものがあった。容姿学歴職能、あらゆるものが完璧であり、もてるのに結婚しない優秀な男がいる。なぜ結婚しないのか謎だ。むろん同性愛者ではない。
 その理由が、実は彼はとんでもない年上の女好き、いわゆるババコンであり、同年齢の主人公の母親(未亡人。年齢は推測すると男が40代、女は70代)と相思相愛になるという話。

 これなど浅田氏の担当編集者である東大卒独身中年の人物と、同居している浅田氏の母をモデルに、「結婚しないことが謎と思われているあの有能な独身男性が、もしもババコンだったら」という「着想」から書いたことがあまりに見えすいている。失敗作だ。「薔薇盗人」の中の「佳人」という作品だったか。



 一方で名作と言われる短篇「ラブ・レター」がある。単行本「鉄道員」収録。
 ヤクザが中国人売春婦来日のために50万円で籍を貸す。偽装結婚。一度も会ったことのない名前だけの妻。それがある日死んだと連絡が来る。千葉の娼館で売春をしていたらしい。顔も知らない妻の葬式に向かうヤクザ。遺品の中に残されていた自分に対する切々と綴られたラブレターに涙する、という話。

 これはエッセイ集「勇気凛々ルリの色」で着想を得た瞬間が書かれている。千葉県千倉の出版社の保養施設にカンヅメになっているとき、すぐ近くにそういう外国人娼婦を置いている店があったのだという。
 ここで浅田氏に天使が舞いおりる。「あの種の女性、日本人との偽装結婚、顔も知らない妻が死んでしまったら。そして残された手紙……」。
 この作品が名作と言われるのは、着想という土台の上に建てられた建築物が見事だからだろう。美麗に堅固に建てられた家が不粋な土台を隠している。失敗作は、剥きだしの土台が丸見えと言うことか。



 ただし個人的なことで言わせてもらうと私はこの作品に納得していない。涙を流して読みつつ、ずっと「こんな中国人売春婦いねえよ」と思っていた(笑)。
 漢民族はドライである。それは彼らの起こす残虐な犯罪を見ても判る。私の場合はそういう世間的な智識以上に、妻が中国籍少数民族なので、中国に頻繁に行くことから現代漢民族(過去は知らないので一応現代と限定する)のガサツな面に接し嫌悪していた。日本でもそうだ。この作品は中国にあこがれる浅田さんの生んだ幻想である。うつくしい物語だ。泣ける。小説なんて幻想でいい。だけど現実を知っていると納得できないこともある。

「ラブ・レター」の中国娘は心が美しすぎる。どこか鄙びた農村にならあんな感覚の娘もいるかも知れない。漢民族の強さからはそれすら想像するのは困難だが、まして大金の前借りをし、日本で一旗揚げよう、一、二年我慢すれば家が建つ、と割り切って日本に乗りこんでくる漢族の娘である。その気概はすごいものだ。あんな健気なうつくしい心の娘はいない。もっと強い。それこそ家族のため、家を建てるために泥沼の中に身をひたすのだ。やると決めたらずっぽりと泥沼の中に潜る。あれは漢民族崇拝者の浅田氏の造りだした幻影だ。それは姉妹編の「見知らぬ妻へ」にも共通している。

 でもそういう幻想で造りだすのが小説である。漢民族崇拝者の浅田氏にはあれは当然であり、そういう「幻想」が、フィリピン女やタイ女では紡げなかったのだろう。
 私だったらよく知っているタイ娘にする。フィリピン娘は知らないので書けない。それにもタイ娘に厭な目に遭ったひとには「こんな女いねえよ」と思われるかも知れない。それでも中国娘よりまだタイ娘の方が現実的と思う。まあこれはどこも同じだけど、むかしのだまされて連れられてきた一部の娘はともかく、来日するようなのは基本的に海千山千だからこんなきれいな話は綴れないか。(一昔前のだまされて連れられてきたのですら一山当てようという山っ気はあったわけで、好きなひとと地道に田舎で暮らせればいいというタイプではない。よって……と話はいくらでも続くが不粋になるので止めよう。しかしいくらなんでも浅田さんの中国贔屓極端すぎる。)

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 今回読んだ東野圭吾のいくつかの作品にもその「着想が前面に出すぎ」を感じた。

 「手紙」は「犯罪を犯して刑務所に入った兄からの手紙。兄が殺人者であることで世間から疎外される弟」の話である。こういうのは着想の時点で八割方完成である。あとはいかにそれを読むに耐える文学に仕上げて行くかだ。

 ストーリィに、歌手としての才能抜群の主人公(弟)がバンドでデビュウする直前まで行くが、兄が犯罪者であることがバレたら世間的にまずいと直前になってプロダクションから断られ、メンバーから外される話がある。むろんアイドルバンドではない。ロック系である。

 私からするとこれなんか不自然だ。だれもが刮目するほどの独自の歌唱力を持っているのだ。抜群の才能なのである。この才能で大儲けするために、むしろプロダクションはそのヴォーカリストの実兄が殺人犯で服役中とマスコミにリークして話題を作るだろう。話題騒然喧々囂々。それがきっかけとなりCDは爆発的に売れるだろう。ワイドショーでも毎日取りあげるはずだ。今の世の中、そんなものだ。そのことで「殺人犯の弟が芸能人やってんじゃねーよ」というバッシングもあろうが、それ以上に日本の人権主義は「弟は無関係」と彼を庇う。話題になったもの勝ちである。この辺の東野氏の感覚は古い。

 まあそれと全編のテーマ曲としての「イマジン」にも私は白けた。バンドのメンバーに誘われ(この時点で主人公は彼らとは無関係。ただの知りあい)、主人公はいやいやながらカラオケでジョン・レノンの「イマジン」を歌い、そのあまりの凄さにロックバンドの連中、及び取りまきの女(いまはグルーピーとは言わないのか?)が圧倒されるのだが、「イマジン」てのはそんなタイプの歌ではないと思うのだが(笑)。
 ただこの物語は「最初にイマジンありき」だから、どうしても主人公はイマジンを歌わねばならないし、BGMとしても全編に流れているのだけれど……。

 そういう音楽話はともかく、これは着想が表に出すぎている作品。文芸評論的には「だからこそこれを読める作品にした東野圭吾はすごい」となるのだろう。

 その他の作品もそういう「着想」が表に出ているものが多かった。そういう中、「白夜行」や「時生」がおもしろかったのは、着想が見えていても、「白夜行」は二人の悪の進路でぐいぐい引っぱるし、「時生」の、「未熟な父親のところに未来から息子が飛んできて助ける」という設定の魅力だった。



 着想が前面に出てしまうということでは真保裕一作品のいくつかにもそれを感じる。「繋がれた明日」が典型か。しかしそれを言うなら傑作「ホワイトアウト」だって着想は誰でも想像できる。でもあれだけの圧倒的な作品になっている。

 小説における着想というものは、そこがすべての始まりなのだから、どんな作品でも常にその存在を主張しているのだろう。
 数字的にそれを假に30とするなら、その上に築かれたものが30以上なら気にならない。70あれば一切見えない。傑作と呼ばれるものはこれぐらいあるのだろう。
 30以下ならそればかりが見えて駄作となる。浅田氏の「佳人」はその代表例になる。失礼ながら私はあの大傑作と讃えられる「蒼穹の昴」も、「稀代の悪女とされている西太后を好ましい人物に描く」という着想(あるいは小説家的野心)が見えすぎて楽しめなかった。「中原の虹」にいたってはもう……。

 しかしまた「手紙」のように、着想が丸見えのものを、着想が霞むほどの文学的作品に仕上げようという挑戦も作家的野心なのだろう。



 好き勝手なことを書いてしまったが、云南の田舎で日々東野作品を読んで楽しい時間を過ごせた。
 さて次回は誰を持って行こう。なにしろ辺疆の旅先であるから読んでつまらないから交換とはゆかない。選ぶのは真剣勝負である。

 小物話──ヘッドライト


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 薬がわりの藤沢作品

 書きわすれたので急いで補記。
 「勉強」と「娯楽」の他にもうひとつ「情」があった。大嫌いな中共にいると心が渇いてくる。ぎすぎすしてくる。そんなとき日本を偲び心をうるおす薬がわりの作品だ。藤沢周平の短篇集を数冊持っていった。常備薬である。
 人後に落ちない藤沢ファンだが、熱心なファンであるからこそ作品にも好き嫌いがある。いちばん好きなのは「市井物」と呼ばれる人情話だ。あまり好きでないのは「評伝」の類になる。

 短篇連作「橋ものがたり」は何度読んでもほっとする。庶民の職人である男が身を持ち崩すのが博奕と決まっているところが我が事のようですこし辛いが、まああの時代、堅気が身を持ち崩すのは女か博奕だ。女は男が好色なわけで、これでは恋女房との物語は紡ぎにくい。とするなら博奕だ。「腕のいい職人。おんなあそびせず女房との仲もいい」という設定で、「それがある日、ひとが変ってしまった」とするなら、「同僚に誘われてついつい手を出してしまった丁半博奕」しかない。
 それがつらいのだが、考えてみると私も馬券さえやらなければ極めてまともな男だから、通じる部分はある(泣)。



 今回、心が渇いたときの薬がわりの大好きな短篇集と一緒に、まだ未読だった「一茶」を持っていった。俳人小林一茶の物語である。案の定、読破はしたがつまらなかった。
 私は一応「藤沢周平全集」を読破している。とはいえ、つまらなそうな作品は飛ばし読みした。これもそのひとつだった。どんなに好きな作家でもつまらないものはつまらない。これらは藤沢師が作家としての幅を拡げるために挑んだ分野なのだろう。それを高く評価するひとがいることも知っている。私も代表句をいくつか知っているだけの一茶の生涯を詳しく知り勉強にはなった。しかしそれと大好きな藤澤作品の味わいはまた別である。
 今後はいくら好きな藤澤作品とはいえ、剣豪ものや武家もの、市井物に絞って行こう。

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