08夏


 云南の妻の家に行くたびに、動物のいる暮らしはいいなあと思う。都会のマンションで心淋しい人間を慰めてくれる犬猫との暮らしも価値があるが、田舎での動物との自然な関わりはもっといい。


 出かける私を見送るクイクイ(上)とニウニウ(下)。
 向こうに農作業に活躍する水牛がいる。高額で取引される大切な財産でもある。
 この水牛の左側が広い庭になっていて、ニワトリやガチョウが放し飼いされている。
 それらが逃げださないよう家の廻りは囲われ、出入口も閉められるようになっている。




 庭を駈け巡る鶏を見ているだけで楽しい。雌鶏とそれに着いて歩くひよこはいつ見てもかわいい。歌にしたひとの気持ちがわかる。
 生穀物や野菜の残り物を餌としてあたえているが、いつも不思議に思うのは残飯を喜ぶニワトリの味覚である。鳥の味覚はどうなっているのだろう。駅にたむろする鳩も、ビスケットのかけらとその包装紙を丸めた一見同じようなものを同時に投げても、包装紙には目もくれずビスケットの方に一直線だ。あの識別能力はどこから来ているのか。高空を飛ぶ鷹や鳶のすぐれた眼力、識別能力の能力の高さもよく話題になる。


 鶏にそこまでの能力はないらしく(というか駅の鳩でも日々の慣れから学習したように思う)、嫌いな野菜(たとえば固いカボチャの皮)でも大好きな残飯でも、嬌声をあげて(笑)集まってくる。

 だがうまいものまずいものでその後の態度は一変する。なぜにあのように残飯(炊いた米)が生米と比してうまいとわかるのだろう。鶏の味覚が、固い籾と炊いた飯のうまさを瞬時にして分別することが不思議だ。哺乳類ならまだわかるのだが。



 私は食事中からもうどんぶりに残した飯粒やラーメンの残りを鶏にやることを楽しみにしている。二口分ぐらいの飯粒を残し、湯がいてから庭に投げる。狂喜乱舞して鶏が駈けよって来てつっつく。あの歓びようをみているだけでうれしくなる。

 ここでまた毎度思うのは、鶏個々の頭の差だ。賢いのはもう私がそれをくれると理解していて、私の姿を見ただけで駈けよってくる。一応平等を心懸け、というかもてたい?のだろうが、私はみんなに声を掛けてから飯を撒く。
 私の姿を見ただけで駈けよって来ていたのが真っ先にそれにありつき、それを見て駆けつけてきたのはその後になる。飯の量が少なく鶏の数が多いのでもう間に合わない。私が声を掛けても気づかずみんなの嬌声を聞いて駆けてきたような鈍いのは論外である。

 前回訪問したときより犬と鵞鳥が増えていた。ガチョウもまたかわいい。

♀ ニウニウ 2歳

 こちらが新人のニウニウ。タイ語でニウニウはべたべたするという意味だがそれとは無関係のようだ。こちらの命名センスはわからない。でもクイクイにしてもニウニウにしてもいい名だと思う。

 二匹ともかわいい。以前飼っていて短命だった犬に私が名づけたクロというのがいた。これは愛想のない真っ黒であることはともかく、人相ならぬ犬相が悪く、一応いっしょに散歩に行ったりしてそれなりに可愛がったが、気分的にはイマイチだった。

 ニウニウはメス。オスのクイクイよりも一回り大きい。オスメスを同時に飼っていてはかかってしまうのではないかと心配するのだが(この「かかる」という表現は若い人には通じないかも知れない。でも正しい日本語だ)、貰い手がいっぱいいるので心配ないようだ。まあクイクイとニウニウの子ならかわいいだろう。現実にはクイクイが迫ってもニウニウに相手にされないようだ。躰がニウニウのほうが大きいので無理矢理は出来ない。


♂ クイクイ 3歳

 この二匹が見事に性格がちがい、いい組合せだった。
 ひとまわりちいさいのにクイクイはオスらしく、夜遊びが大好きでどこで女遊びをしているのか、閉めた竹製の門のすきまから這いだし、二、三日帰ってこないこともしばしばとか。一方ニウニウはメスらしく、決して屋敷内から出ようとはしない。ひとで言うなら門限をよく守るいい娘だ。当然家族の評判はニウニウの方がいい。クイクイは遊び人ということで評判が落ちている(笑)。

 しかし私からすると、前回もそうだったが、どこに行くにも着いてきてくれるクイクイがかわいい。冒険心旺盛でどこに行くにも着いてくる。

 一度10キロほど離れた寺に出かけたときは(月に一度のなにかの行事だった)一緒にバイクリヤカーに乗せていったのだが、5キロ地点で脱走した。かわいいメスでも見つけたのか。心配したが寺での祈祷が終り帰ってくると、飛びおりた地点で待っていた。

 別項の「悪路話」にも書いたが、とにかく相棒としてのクイクイは最高だった。
 今回クイクイと別れるのがいちばん辛かった。私が帰国するとき、彼はこちらがまた遊びに行くのだと思い込んでオレも連れて行けとどこまでも追い掛けてくる。義母にうまく台所に閉じ込めてもらってその隙に町に出た。

 このときはふだんは屋敷の外に出ないニウニウまで追い掛けてきて、なんだか私が帰国するのがわかっているかのようで胸が熱くなった。ひととの別れよりものを言えぬ分、動物との別れの方が辛い。

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 さてこの愛玩犬のような二匹、番犬として役立つのかというと、それはそれでしっかりしている。見知らぬ人間が来ると、門の近くに来ただけで、その方向に駈けより吠え立てるのである。見知らぬ人間とは、たとえばハニ族やワ族、ラフー族のおばさんが、筍を売りに来たりしたときである。背中の篭に筍をいっぱいしょって売りに来る。いくらぐらいだったか、それで10元とかそんなものだったか。写真のように笹掻き、酢漬けにすると保存食になるらしい。



 私にはなつき、初見のひと(正しくは初見じゃないだろう。年に一、二回、そういうものを売りに来るから何回かは来ているように思う)には吠え立てる犬をかわいいと思う気持ちはある。だが猫派である私はそういう犬の習性を嫌う気持ちも強い。どうにも御主人様に従う感覚が会社命のサラリーマンに成り切れなかった私にはすっきりしない。
 
 もともとタイ族に番犬を飼う習慣はなかった。ここ何年かの流行りである。その辺を歩いているといきなり犬に吠えかかられたりする。中には禍々しい顔付きの気に入らないのが、いまにも鎖を断ちきって跳びかかってきそうに唸っていたりする。銃をもっていたら打ち殺してやりたいぐらい不快になる。

 この兇悪な犬も、そうなった理由は簡単で、運動させていないのである。ブームに便乗して飼ったはいいが鎖に繋ぎっぱなし。いつでもどこでもいいかげんな飼い主というのはいるものである。



 そういうときもクイクイは私の味方をしてふた回りも大きい犬と闘おうとする。かわいいと思う。しみじみかわいいと思う。そこにあるのは「敵と味方」の感覚だ。私は私の味方をしてくれるクイクイをかわいいと思うけれど、それ以前に私に吠えかかってくる犬が気に入らない。

 ここにある敵味方の感覚とは「会社感覚」である。敵はライバル他社。味方は同僚。そこに在していたなら頼もしい味方であり、憎い敵、という感覚。分別。それがいやなのだ。その点ネコは自分だけの世界で生きる。犬の価値とは組織人のものであるように思う。いやひとりでの行動だとしても、たとえば山に入って熊を追う猟師にとって、一緒に行動する犬は家族以上のものだろう。そういういとしさはわかるのだけれど……。



 二、三日、妻と一緒に町に出ていて帰ってくると、クイクイもニウニウもそれはそれはもう跳びはね、しがみつき、周囲を走りまわり、狂喜乱舞する。かわいい。でも私はやっぱり猫派である。もしも私がそういう犬の忠義がかわいくてたまらず、それを必要とするようになったなら、それは病気をしたり仕事に挫折したりして弱気になったときだろう。それをわずらわしいと思える今を大事にしたい。


◎ガチョウの優雅


 今回初めてガチョウの生態に触れて感心した。
 まずガチョウというのはニワトリのように臆病ではない。悠々と暮らしている。近寄っても逃げない。餌を投げるとやって来る。頭を撫でたり背中を撫でたりするのも自由である。それどころかこどもたちは抱き抱えたり、ときにはそれを空中に投げすてたりして遊んでいた。

 信天翁が、まったく人に警戒心がなく、簡単に捕まることからあほうどりと呼ばれ、絶滅の危機に瀕したことを思い出す。ついでにフルタチイチロー命名の「アルバトロス殺法」(コーナーポスト最上段からのニードロップ)という呼称が大のお気に入りで、「今夜はアルバトロスで決めますよ」などと多用していたキラー・カーンが、アルバトロスとはあほうどりのことだと知って落ちこんでしまったことも思い出した。

 ガチョウはニワトリよりも大柄で強い。こちらが投げた餌をニワトリが取ろうとしても弾きとばしてしまう。

 写真は洗濯桶に水を入れていたらかってに入ってきて水浴びをしているところ。何だかこの辺もあまりに堂々としていて苦笑してしまう。



 これら動物とのつきあいのつらさは、これらが卵を産む家畜であると同時に食糧でもあることだ。ガチョウは一羽の値段も高くこの時点では殺される心配はなかった。それでも妻によると、先日ミャンマーからやってきた知人に、うまそうだ、どうしても食いたいから売ってくれとねだられ、一羽を売ったとか。愛玩動物ではない。それが軟弱な日本人にはちとつらい。

 ニワトリを絞めるのは日常である。
 私はそれを見たくない。いつも餌をあげて育てているのをつぶして食うというのは正当な食物連鎖であり、私がこどもの頃の田舎でも常識だったことなのだが目の前で見たくはない。つぶさずに済むのならつぶしたくない。

 とはいえその分の動物性蛋白質はその他の動物を殺して取るのだからこれは単なる逃げでしかない。それはわかっているのだが。

 今回、毎日のように食卓に豚肉が載っていた。私は「ほとんどヴェジタリアン」なのであまり食べなかった。
 妻によると豚肉は贅沢であり、私がいないときは月に二三回程度の御馳走なのだそうな。それが私がやって来て金が入ったことにより毎日のように食べられ、義父母も妻もうれしいらしい。そう聞けば私もうれしかったけれど、その理由は親しい?ニワトリがつぶされないからだった。
 



 クイクイのためにこの「愛犬しつけ用スナック──おすわりくん」なるものを買い、はるばる日本から持ってきた。たかが「25g×5袋」だが、荷物を撰びに撰び、パンツもシャツも靴下も入れず、そのかわり「チャーハンの素」「かつを削り節」「インスタントラーメン」「ドレッシング」「カレールー」等をすこしでも多く入れるようグラム単位で荷作りに努力している身には、これは充分に大きな荷物になる。

 前回の滞在中、たまに妻と喧嘩し、ふてくされて散歩に出るときも、かわいいクイクイが着いてきてくれたのでだいぶ気が紛れた。
 犬は甘えて御褒美をねだる。こちらもあげたい。しかし適当なものが売ってない。しかたなく私はスナック菓子をポケットにいれてあげていた。それでも白米に野菜の煮汁を掛けたような食事──純粋菜食主義だ(笑)──を食べている身にはごちそうなのか喜んでくれた。

 私はそのとき次回来るときは必ず日本製の犬用スナックを買ってこようと誓ったのだった。誓ったというと大袈裟だけど、こういうことってすぐに忘れてしまい、こちらに来てから「あ、しまった」と思うことが多い。でもこれに関してはただの一度も忘れたことはなく、云南に行くと思うたびに、「クイクイに御褒美を買って行かねば」と必ず思った。それだけクイクイの存在に感謝していたことになる。



 六七年前には猫がいた。私の愛猫と同じ雉子縞猫だった。その猫がいると聞いて日本から写真の餌を持っていった。しかしはるばるそんなことをしたのに、その猫はこれよりも妻の家の粗末な猫まんまを好み、私には懐かなかった。翌年、死んでしまったらしい。

 今回、上の写真の餌の効果は絶大で、私はいつもそれをポケットに入れておき、クイクイとニウニウを呼んで、早く来た方にひとつぶあげたりした。犬はすぐに覚え、私が呼ぶと先を争って駆けてきた。犬好きの気持ちがすこしわかった気がした。犬と比べると猫は気侭だから、犬のような忠誠心を望む人には合わないだろう。私は断然猫派だけれど。

 それでも今回、クイクイとニウニウと遊んだことは楽しい楽しい思い出になった。動物のいる暮らしはいい。


 見送ってくれるクイクイとニウニウ


 悪路探険もクイクイと一緒


 5キロも歩くとさすがのクイクイも疲れ気味

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