雨季が明けず、相変わらず道路はいたんでいる。バスは止まったままだ。町に行くまで何個所かのひどくぬかるんだ場所があり、そこでは最強の耕運機もスタックしてしまう。
 町に行く耕運機は荷物を積み、ひとも八人ぐらい載せている。泥の中で動けなくなった耕運機はハンドルを烈しく左右に切って脱出を試みる。泥濘から抜けだそうと藻掻く耕運機は、黄土の海で怪物に絡まれ、断末魔の叫びをあげる獣のようである。
 この悪路に差しかかったとき、みな荷台から降りて道路の端の比較的ぬかるんでいない道を歩く。みな自分達の乗物を心配げに見まもっているが、悪戦苦闘しつつ、どうやら自力脱出は不可能のようだと見きわめると、次々と粘土の中に飛びこんで耕運機を押し始める。最初に若者が手を貸し、次ぎにいかにも働き者という健康に太ったおばさんが飛びこみ、それでも力が足りないと判ると、しわしわの老人も泥濘に踏みこんで行く。黄土の中で耕運機は右に左にハンドルを切ってもがく。声を合わせて押すひとの力がかさなり、機械と人間が協力し合って脱出が叶う様は美しい。
 私はそれを写真に撮りここに載せたいと思った。乗客八人の中には老若男女、タイ族、ハニ族、ラフー族と民族も三種類も混じっている。幅15メートル、長さ30メートルほどの黄土の海で挌闘する耕運機、それを支えるひとの力は感動的だった。これほど写真を撮りたいと思うこともめったにない。
 だが胃袋が飛びでるような悪路を二時間も行くのであるから精密機械のデジカメを持ってきているはずがない。谷底に振り落とされないよう耕運機の荷台の鉄枠にしがみついているだけで精一杯なのだ。さらにはいつ豪雨に襲われるかわからない。デジカメどころの話ではない。残念ながら写真は撮れなかった。




 と思いつつ別のことも考えた。私はこの種の力仕事、汚れ仕事には骨身を惜しまないので、いつもなら踝まで埋まる黄土の中に真っ先に飛びこんでいって耕運機を押している。そういうことが好きなのだ。ところがこのときは町からバイクを持ち帰る予定もあったので一張羅の革靴を履いていた。出遅れた。だからこそ道の端から「いい絵だなあ、写真に撮りたいなあ」と客観的なことを思ったのだが。
 ふだんの私なら真っ先に泥の中に飛びこんでいるのでそんなことを考える餘裕がない。耕運機が脱出したとき、泥の中に飛びこんでいかなかったのは、私と、これから町に出るために精一杯のおしゃれ着に身を包み、白い靴を履いていた若い娘のふたりだけだった。泥にサンダル(むかしのビーチサンダルのような最も原始的な形のもの)を取られて転んだ若者が笑う。みんなのいい笑顔を見ていたら参加しそこなった自分が恥ずかしくなった。

 上掲、耕運機の写真は十数年前の物。こんな形で移動する。今回は撮れなかった。みんなで泥だらけになってがんばっているとき、それを写真に撮っている日本人がいたら気分を害するだろう。ここでまた私がただの旅人だったら自分の写真を優先させてもいい。だが私は旅人ではなく「タイ族の妻の夫」だった。みんなががんばっているとき、ひとりだけ足を汚さず写真を撮っていたら、妻の評判が落ちる。だからできなかった面もある。

 しかしやはり考えてみるに、もしも私がただの旅人であったとしても、私はその写真を撮れなかった気がする。みんながしているそれは「苦労」である。これが祭のような「歓び」であったり「楽しみ」であるならまだしも、私には他人が苦労している姿を写真に撮ることは出来ない。

 戦場写真を見るたびに思う。かの有名なヴェトナムの母子が川を渡ってくる写真。必死の形相。私にあの母子にカメラを向ける感覚はない。その前に手を差しのべてしまう。
 そこまでは行かなくても、今までにも何度も私なりのシャッターチャンスというのはあった。「様になるな」と思う。その写真を撮り、ここに載せたら、きっといい評価を得られる。だがそれはどうなのだろう、ひととして。
 云南のごくふつうの写真でも、たとえば偶然撮れた近所のこどもの写真がある。両親が怠け者でとても貧しいらしい。薄汚れている。おそらく風呂(なんてものはないので、こちらでは川で水浴びだが)にはもう長いあいだ入っていないだろう。服もあちこち破れ、穴が開き、ボロボロである。ゴミである。近所に石切場があり、そこの写真を撮っていたら、近くに住む家のこどもがこちらに興味を持ってやってきた。カメラを向けても無表情。知らないのだろう。シャッターを押していた。後で見ると、とてもふだんの私では撮れないような貴重な写真だった。雲南奥地の貧しさはこの写真一枚でわかる。男の子と女の子。ふたりともきれいな顔だちをしている。こういう育ちをしたこどもたちが、「夢の国タイ」を勘違いし、出稼ぎ売春に出かけるようになる流れも一目瞭然である。
 だが私にはこの写真をホームページにアップすることは出来ない。今までも出来なかったしこれからも出来ない。たかがみんなが泥だらけになって耕運機を押している写真ですら撮れないのだから、出来るはずがない。
08/夏

 買ったその日に壊れ、さすが中国製と思わせてくれた荷台着きバイクの運搬でへとへとになって数日後、悪路の写真を撮りに出かけた。今回の最大の事件なのでなんとしても写真に撮っておきたい。



 バイクを買ったその日の事件だった。町から妻の家まで22キロ。町で契約してから十日後、やっと昆明から届いたとバイク屋から連絡がある。朝早く耕運機に乗って受けとりに出かけた。
 残金を払い、領収書をもらって颯爽と走りだしたバイクリヤカーは、悪路の昇り路を悪戦苦闘しつつも何とか快調に走りつづけた。妻とふたり、楽しい道行きだった。
 それが10キロ附近でいきなり壊れた。後輪の片方が空回りして動かない。クランクシャフトが外れたようだ。折れたのか。路は登り坂。時刻は午後三時。日暮れの七時まではまだ四時間ある。



 私はバイクをここにおき、通りかかる耕運機に載せてもらって家に帰るしかないと思った。すると妻がそれでは確実に盗まれるという。新品だ。あっと言う間に盗まれて明日来てもここにはないだろうと。こんな国に盗難保険などあるはずもない。じゃあどうする。こんな山の中なのである。

 妻はもうすぐ下り坂になると言う。頂上まで行けばエンジンが動かなくてもくだって行ける。ということで押すことになった。妻の言ったことは正しく、その地点は頂上間近だった。下り坂になるまで1キロほどだったろう。だが1キロの登り坂をこのバイクリヤカーを押して登るのは大変だった。50メートル進むたびにひと休みする。大汗を掻き、息が切れた。なんで買ったその日に壊れるのだと中国製品のいいかげんさを憾んだ。

 それでも一時間後、下り坂に入った。エンジンはかからないがバイクリヤカーはのろのろと自然にくだって行く。これでなんとか近く、家まで3キロぐらいのところまでは行けるか。妻は通りかかった知りあいの耕運機にSOSを託していた。うまく伝われば妻の甥(二十歳)が、友人を連れて助けに来てくれるだろう。

 そうして、このあとの写真に出て来る悪路の難所までなんとかやってきた。
 ここに乗りいれるとバイクリヤカーはもう私と妻のふたりの力ではピクリとも動かなかった。粘土の海に捕まった生贄である。
 妻がバイクリヤカーで待ち、私が3キロ先の家まで助けを求めに行くことになった。先程の耕運機にSOSを託したが誰も助けには来ない。おそらくまだ野良仕事に出ていて家に帰っていないのだろう。
 とぼとぼと歩いているとバイクに乗ったふたりの青年が話し掛けてきた。ことばはまったく通じない。だが彼らは熱心に何かを私に話し掛けてくる。それで気づいた。彼らは私と妻が町から走りだしたとき、途中の山道で私達を追いぬいていった青年だった。こちらが目新しい珍品の三輪バイクに乗っていて、運転しているのはメガネを掛けた異国人らしいし、荷台には女房らしい女が乗っているので、何か話し掛けて追いぬいていったのだ。バイクリヤカーはどうした、女房はどうした、なんでおまえひとりで歩いているんだ、と言っているらしい。
 彼らと一緒に妻の所にもどる。彼らはハニ族の青年だという。家から耕運機をもってきて助けてやろうと話は進んだ。もちろん有料である。妻が交渉し50元となった。ほっとする。耕運機にこのバイクリヤカーを積みこみ、50メートルほどの悪路を突破すれば、あと3キロはゆったりした下り坂だからなんとかなるだろう。やっと光明が見えた。

 ところがまたここから一頓挫あるのである。まったくいつまで続くぬかるみぞ、だ。






 妻を畑で下ろし、そこから歩く。写真に撮りたいのは悪路の中の悪路、最大の難所である。そこに行くまでにも何個所か悪路があり、そこでスタックしたら困る(助けてくれる人が誰もいない)ので、荷台着きバイクは妻のいる畑において行くことにした。

 思ったよりも距離があり疲れた。3キロ近くあったろう。陽ざしが強く肌が痛い。それはもう痛感しているので長袖を着てきた。わずか三日でむきだしの両腕は真っ赤になり、一部はもう皮が剥けている。まるで海水浴にでも来たかのよう。平均海抜2000メートルの高地でこんなに日焼けするとは思わなかった。

 上掲の写真のような道を黙々と歩いてゆく。歩けども歩けども目的地に着かず、なんとしても悪路の写真を撮るのだという意気込みは、つまらんことをしに来たとすこし悔いが生じはじめていた。

 助かったのはクイクイが一緒だったこと。軽やかな足どりで付きそってくれる犬がいると悪路をひたすら歩くだけの不興も紛れる。
 先を行き、道端に遊び、後れたかと思って振り返ると、しっかりと足もとにいる。あらためて犬はひとの友だと感じた。ひとっこひとりいない山道で、一緒にいることが心強くもある。こんなちいさな生き物なのに疲れも見せず、悪路も軽々と跳びこえて行く。
 見知らぬ山道を深夜に走っていると、しみじみとクルマを相棒としていとしく思うことがある。クルマという機械ですらそうなのだ。またぎにとって、ともに山中で行動する愛犬がどれほどいとしい存在であるかを実感する。



 こんな悪路が何個所もあり、いま朝夕二便の定期バスは運行を中止している。この悪路でもたいへんなのだが、それでもこれは写真からもわかるように、バイクは両端を行けば通れる。真ん中のぬかるみも耕運機なら右に左にハンドルを揺さ振ってなんとか脱出できるのだ。その耕運機でさえも脱出できず、七八人掛かりで押すことになる最悪の悪路が一ヵ所ある。

 やっと最大の難所が見えてきた。真ん中に青いものが見える。トラックの後ろ姿のようだ。今日も早速魔の道はいけにえを呑みこんでいるらしい。バイクも往生して止まっている。とにかくひどいところだ。
 他人が動けなくなって困っているところにカメラを向けられない私は、誰もいない真昼にそっと悪路だけを撮ろうと思ってやってきた。困った。トラックの運転手は立ち往生し苦しんでいるはずである。そこを写真に撮るのは気が引ける。でも私もこのためにだけ家を出て、途中に荷台着きバイクをおいて3キロを歩いてきたのだからここは行くしかない。



 この悪路である。両端にも道はなく、いまバイクは二人がかりで幅30センチほどの道を押している。四輪車は真ん中のわだちに突っこんで行く。だがトラックも4WDもみなここにのめりこんで動けなくなる。



 完全に脱出不可能だ。先日助けたISUZUの4WDは合計8人で押して脱出した。私の荷台着きバイクでも、ここからの脱出に5人は必要だった。このトラック、いったいどうして脱出するのだろう。運転手はひとりのみ。ちかくの山岳民族の村に行って助けを乞うのだろうか。もちろん有料。ひとり20元で10人頼んで200元とか、そんな感じになる。200元は3千円だが貨幣価値を考えると2万円ぐらいにはなる。運転手も泣きたいだろう。



 目的を達成したので帰ることにする。カメラマン(わたし)の足もともこんな感じ。





 木陰で進むクイクイ。大活躍のクイクイもさすがに5キロ以上を歩いたので疲れ気味。



 その後、別方向も探索し、けっきょくこの荷台着きバイクや自動車では、近くにある三ヵ所の町のどこにも行けないと確認した。通じる道にみな走行不能な悪路がたちふさがっているのだ。頼みはバイクと耕運機のみである。いわば孤立したのだ。さいわい食物があるからいいようなものの怖い話だと思う。補給路が断たれているのだ。山奥のガソリン屋(ふつうの雑貨屋が兼業している)のストックが切れたら耕運機さえ走れなくなる。もっともそれはそれで儲け時だ。町で1リットル6.3元のガソリンを山奥では一律10元で売っている。1リットル160円、日本的に言ったらどんなに安く見積もっても700円にはなる。狂乱物価だ。日本の200円が安く思える。
 近くの町といってもみな20キロ前後あり、写真のような山道だから、耕運機で2時間はかかる。胃袋が飛びでそうなその苦労といったらたとえようもない。ちかくの幼いこどもが病弱らしく、2日3日にいちどのわりあいで町の医者まで通っている。耕運機に揺られて行くだけで衰弱してしまうだろう。気の毒だ。

 今年の降雨は、期間も量も異常であるらしい。なんとも異様な体験だった。

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