なんとなくヴェジタリアン

(午後7時の夕暮れ)

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 十二月末。雲南にしては信じがたいほど冷え込む夜、私は布団にくるまって毎晩明け方まで読書をしていた。テレビを見終った義父母、妻や子が寝静まる午後11時ぐらいから始め、通常午前4時ぐらいまで続く。興が乗ったときは、それが5時、6時になることもあった。夜明けは遅い。その時間でもまだ真っ暗である。それから眠り、みんなの朝食とは関わらず昼前に起き出すのが雲南での私の生活だった。

 昼近くなって起き出すのはかなりぐうたらなようだが、冬場のこの地は8時過ぎにやっと明るくなり、日が差してくるのは9時、10時だったし、また村の皆々も農閑期であり、さしてすべきことのない季節だった。上昇志向の強い一部の農民は米の収穫が終ったこの時期にも珈琲豆を生産したり副収入を得る努力をしているがほとんどの人はとりあえず食っていける米専業農家に徹していて農閑期は何もせずのんびりしていた。妻の実家もそれだった。

 これが春から夏の明るくなる午前4時には起きて田圃に出るような農繁期だったら私も怠け者の烙印を押されてしまったろうし周囲の雰囲気からそんな生活サイクルはできない。妻も義父母も明るくなる前に起きてはいたが、仕事は水牛の世話や農機具修理とかが主であり、日中パソコンに向かっている私が深夜まで読書し昼前に起き出すことを非難する視線はなかった。

 夏場と冬場の日の出がずいぶんと違う地と知った。いやこの言いかたはおかしいか。違うと言えば日本だってかなり違うし、知っている地で言えばイギリスなんてどうしようもなく違っている。冬場は9時過ぎに明るくなり午後3時には暗くなる。その分夏場は午後9時まで明るかったりする。北欧はもっと極端だろう。云南だけが特殊なのではない。だから、え~と、なんて言えばいいんだ、この地は夏場は朝の4時から日の暮れる午後8時ぐらいまで働き、その代わり冬場は一日中何もしなかったりする農繁期と農閑期の行動が極端に違う場所なのである。そこが一年中あわただしく働いている日本やイギリスと違うところになる。そういう地の農閑期だったので私は怠け者と呼ばれることはなかった。冬場のこの地は夜明けは遅いが日の入りも7時過ぎである。そこがイギリスとは違う。緯度の差か。というところで本題。




 それは毎朝4時過ぎに聞こえてきた。小説は最終章に入り、まだ読みたい未練はあるが起きる時間を考慮してそろそろ眠ろうかという時間である。
「キィーッ」という甲高い叫びだった。気持ちのいいものではない。周囲でドタバタする音も聞こえる。なんなのだろう。
 私の知っている知識で言うなら、それは「敵に襲われたときの動物の悲鳴」だった。野犬に襲われたときのニワトリ、狼に襲われた牛、豚、の悲鳴。といって狼に襲われた牛、豚の悲鳴に現実的に接したことはないのだが、とにかくそれは緊急時の動物のSOSと思われた。
 私は近所の豚舎をそういう野生の動物が襲っているのではないかと思った。悲鳴の主は豚であろう。

 この辺は野生の動物が多い。妻の父は若いとき、狩猟に入った山の中で遭遇した獣と格闘し大けがをしたという。その大きな傷跡は今も頭部に残っていて、それを隠すためか義父はいつも帽子を手放さない。その相手の獣とは妻の話から想像すると山猫のようだ。仕損じた山猫に逆襲されたらしい。
 義父は鉄砲の名人である。むかしの古い鉄砲を手に山に入り、鳥を何羽も取ってくる。貴重な食料である。それが雀ぐらいの小鳥なのだ。たぶん義父の視力は3・0とか、あるいはもっとだろう。身近にあるので何度も手にしているが、この鉄砲がほんとにもう長篠合戦とか桶狭間とかを思い出すようなシロモノなのである。だからこそこれで小柄な鳥を射落とす義父をすごいなと思う。

 先ほどの悲鳴が豚が野生動物に襲われているのなら、それは財産の危機なのだから人間は逆襲に出るはずだ。出ねばならない。怒鳴り声等も聞こえてくるだろう。多少どたばたする気配はあるのだが野生動物の襲撃ならもっと大仰になるはずである。それほどではない。それに毎朝決まった時間のこの悲鳴というのはおかしい。
 やがて私は、あれは屠殺しているのではないかと気づいた。



 あれと同じ豚の悲鳴を今までに一度だけ聞いたことがある。十数年前、チェンライの友人宅に行ったとき、友人(日本人)の奥さん(タイ人)の兄弟が豚を殺してご馳走を作ってくれた。そのとき聞いた豚の断末魔の悲鳴がまったく同じだった。
 日本の家畜処理場では眉間に電気ショックを与えて一瞬で殺すらしい。悲鳴はないだろう。そんなものではなくごく原始的な方法だ。私はそれに立ち会った。
 男ふたりに押さえつけられた全長1メートルほどの豚は、死から逃れようと必死で暴れる。喉笛を切られるとき悲鳴をあげる。そのキィーッという文字通り断末魔の悲鳴と勢いよく迸った真っ赤な鮮血は、都会暮らしに慣れている身には思った以上に衝撃的なシーンだった。
 私は田舎者であり齢も齢だからそういうことと無縁ではない。それでも知っているのは鶏の首を切る場ぐらいである。豚を屠殺する瞬間を見たのはこのときが初めてだった。

 毎朝決まった時間に聞こえてくるキィーっという声は、あのチェンライで聞いたのと同じ、殺される瞬間に豚の上げる悲鳴であろう。
 なら、「毎朝決まった時間」とはどういうことだろう。そこがわからない。この地では、かつての日本もそうであったようにまだ豚肉はご馳走である。毎日豚を潰して食っている家が近所にあるとは思えない。
 細かい事情はともかく、たしかなのは、それが聞いて気持ちのよい音ではないということだった。それどころか充実した明け方の読書時間をぶち壊しにする、なんとも陰惨な悲鳴だった。

 聞きたくもないそれを数日続けて聞かされてから、私はその朝の悲鳴を気にするようになった。
 夢中になって本を読んでいても、午前3時を過ぎると時計を見る。しまった、もう4時だ、と思う。いまいいところにさしかかっている。もうすこし読みたい。でもあと30分もしたらあの悲鳴が聞こえてくる。そろそろ終りにしないと……。でももうすこし……。そう思っているうちにあの悲鳴を聞いてしまい、いやな気分になる。



 今年の云南は特別に寒かった。どれぐらい寒かったかというと、そこまでの寒さを知らない妻の家では掛け布団が足りなくなってしまったほどだ。寒くてたまらない私は掛け布団の上に客用の敷き布団を掛けていた。重くて不快だった。いやそれ以前に私はこちらに着てきたハーフコートを着て寝ていた。異常事態である。その形でも明け方には本を持つ手が凍えた。石油ストーブが欲しかった。しかし常春と言われる云南の家にそんなものがあるはずもない。
 
 以前の家の囲炉裏を思った。知り合った当初の妻の家は義父母が結婚したときに建てたという木造高床式の家だった。階下には水牛がいる。傾いた粗末な家だったがこの家は四六時中囲炉裏に火がともりヤカンが乗っていた。もしもこんな寒い夜、あの囲炉裏があったらと思い出す。私の結納金で今の家を買い引っ越した。広さは倍以上になりかなり奥まったところにあった以前の家と比べると道路沿いになりいくつもの点で便利になった。だがこの漢人の官吏が住んでいた旧い家はコンクリート作りであり、夏は涼しいらしいが、どうにも趣に闕ける。かといって以前の家は限界に達していたし(その後解体してしまった)これしか選択はなかったのだが……。凍える夜には古い家の囲炉裏を思い出した。
 
 早めに読書を終了してサッと寝てしまい、あの忌まわしい叫びを聞かずに済む日もあった。読書を終えて眠ろうとしつつ、ついあれこれと考えていたため、うとうとしつつ聞いてしまうこともあった……。



 明け方の悲鳴を妻に問う。やはり近所の漢人が商売としてやっている豚の屠殺だと知った。
 近場の小学校の庭に毎朝ちいさな市が立つ。
 山に住んでいるハニ族やワ族、ラフー族、アカ族の作った野菜、鶏卵、川近くに住んでいるタイ族が捕った川魚などが並ぶ。現金でやりとりされるが物々交換に近いような原始的な市である。店を出すのが20人、客は総勢で百人程であろうか。あの悲鳴は漢民族の商人がそこに提供する豚肉なのだった。ちいさな市場だから毎日一頭がほどよい提供分なのだろう。

 写真は孟連の街の常設市場。これはなんでもそろう本格的なものだ。近場に立つ市はこんな立派なものとはちがう。小学校の校庭で開かれるもっとちいさくて素朴な市である。
 妻も数日に一度、出かけては買い物をしているらしい。それはちょうど私が熟睡している朝の8時ころの話になる。これは人々が仕事に出かける前の市であるから、農閑期の今は遅いが、夏場は4時、5時の開設になるだろう。となると屠殺の時間も繰り上がるのか。

 その市で妻が鶏卵を買ってくるのが不思議だった。
 庭には放し飼いの鶏が10羽以上いる。それが卵を産んでいる。新鮮な最高の卵である。なのにそれには手をつけず買ってくる。質問してみた。どうやら妻にとって自分の家の卵は孵すためのものらしい。孵化してひよこにする。育てる。というか母鳥の後をくっついて自然に育つ。母鳥とひよこの散歩はいつみてもかわいい。何年か育ったものを潰して食う。妻の家の卵は食用ではなく孵化して鶏にするためのもののようだ。母鳥が温めて孵化する卵を食べてしまうのはもったいないということらしい。

 妻の作ってくれる豚肉と野菜の炒め物などをおかずとして食べていた。鶏肉の煮込みもよく出ていた。鶏はご馳走として私のために潰してくれる。ごちそうである。だが昨日までラーメンの残り汁をあげていた鶏なのだから、それを思うと箸は進まない。いくらか具の残っているラーメンの残り汁を庭に捨てようとすると「わあい、ごちそうだあ」という感じでニワトリが駆け寄ってくる。中のクズラーメンをねらっているのだ。庭に撒くと数少ない野菜やラーメンの残りをねらって争っている。それはそれでかわいいものだ。次の日、その鶏を殺して胃袋に入れるのはなにかと複雑である。

 もともと私はあまり肉好きではないから、自分で作るラーメン(日本からの持参品)に入れるのも野菜や卵で充分だった。肉は要らなかった。
 あまり肉好きではないと言ったら、ここを読んでいるチェンマイで毎日のように日本風焼き肉「すずらん」(タイ語にはZの文字も発音もないので「ススラン」)に一緒に行っていた友人に苦笑されそうだ。毎日焼き肉ばかり食っていた。あれはたまにはあんな時期もあるというだけであって本来の私はあまり肉を食べない。野菜と魚のほうが好きだ。世の中には毎日のように肉を食い、それでいて野菜が大嫌いだという人がいたりする。そのうえタバコ好きで太っていたりする。よく体が持つものだと不思議に思う。

 この地における最大の悩みは山奥ゆえ海魚が食べられないことだ。先日孟連のスーパーでスルメを見つけた。初めて見かけた。ものすごくうれしかった(笑)。この次いったときは、日本から持参する醤油とマヨネーズでアタリメをやってみようと思った。

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(小粒の紫タマネギとカボチャ)

 ある日、いつもと同じよう昼に起き出した私が日本から持参したインスタントラーメンを作ろうとしていたら、妻が今朝いい豚肉を買ってきたから入れたらいいと言った。肉そのものは好きではないがダシとしては好きである。この辺が本物のヴェジタリアンに成りきれない所以なのだが。
 冷蔵庫を開けた。すると確かにそこには今朝妻が市場で買ってきたのであろう新鮮な豚肉があった。だがそれは通常私たちが手にするきれいにスライス処理されトレイに入った肉ではなく、生々しい豚の足だったのである。まさに「今朝屠殺して、鉈でぶった切ってきた豚の足」そのものだった。皮も着いている。なんとも生々しい。血が滲んでいる。私はあまりに生々しいその豚の太股から欲しいと思うだけの肉を包丁で切り取りラーメンに入れるという行為が出来なかった。なんとも軟弱であるが、生きている豚、屠殺される豚、あの悲鳴、そして目の前の生々しい豚の足……。急いで冷蔵庫を閉めた。それが私の現実だった。

 こんなことでは日頃の主張と矛盾する。
 北海道で役者を育てる富良野塾を主催している倉本聡さんは、塾生たちに年に一度電気やガスを使わせず、生きている鶏一羽を与えて「これが今日の食料だ」という試煉を課す。塾生たちは今時の都会っ子だから鶏をつぶしたことなど無い。殺生をしたことがない。生きている鶏を殺し、血を抜き、バラし、かまどで火を熾し、茹で炒めて食料とする体験は、役者を目指している若者たちに、どんな演劇論よりもいい試煉になるそうだ。
 その感覚を支持し、処理されたスーパーの肉しか知らない最近の人を嘆いているのに、自分が血の滲んだ生々しい豚の足で気圧されていては話にならない。


(孟連の市場ではピータンが安いので酒のツマミによく買った。裏庭からとってくるパクチーをまぶして食うとうまい。タイ語でパクチー。中国語では香菜。英語はなんだっけ、コリアンダーか。)

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 この「元の形」、原形というのは今時の日本人なら誰しも気にするだろう。
 白人が好きなようだが、牛や豚、羊の丸焼きなんて食べたくない。丸ごとは鶏でもいやだ。あれは下品だよなあ。これは日本人は肉食の経験が浅いから「今時」と限らなくてもむかしの人もそうかもしれない。

 豚足を好きな人がいる。あれはもろに形が豚の足であり(あたりまえだ)あれを囓る気にはなれない。きれいに洗ってあるとしても、あれは不潔な場所を走り回っていた豚のつま先そのものである。だいぶまえ競馬関係の知り合いに豚足の大好きなきれいな娘がいた。彼女が豚の足を丸かじりしているのを、なんとも複雑な気分で見たものだった。

 云南の市場ではヤキトリの一種として鶏の足を焼いて売っている。ごちそうらしく私の妻もおやつ感覚で好む。しかしこれももろにぶった切ったニワトリの足そのものなのである。足の部分を手に持ち、あの三股に開いた爪の辺りを囓る。妻がアイスキャンディでも囓るようにニワトリの足を囓るのから目を背けたものだ。

 しかしそれは食文化の差である。否定は出来ない。こういう話をするときいちばん適切な例はヴェトナムのホビロンだろう。あの「孵化寸前のアヒルの卵」である。おいしいらしいがあれを食べるのは日本人としてはなかなか度胸がいる。孵化寸前のアヒルが入っているのだから。だがそれが食文化である。

 そういうことを言い始めたら切りがない。私は蛸の刺身が大好きなのだが、欧米の人間がデビルフィッシュとして嫌うように、生きている蛸はかなり気持ち悪いものである。薄地の透明感のあるきれいな刺身として処理されているからポン酢で、紅葉おろしで、酒はやっぱり日本酒とはしゃげるのだ。

 際限のない話なのでこの辺にする。
 それ以降、私は云南で肉を食わなかった。もともとたいして好きでもないものなのに、あのあまりに生々しい豚の足を見たら食慾が萎えてしまったのである。義母が潰してくれる鶏も食う気が失せてしまい、半ばヴェジタリアンのような生活をしていた。なんともはや。




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