クィクィと遊ぶ──2005年暮れ
 三日がかりで妻の家に着く。相変わらず遠い。
 犬がいた。小型犬である。
 猫派なのでどうにも犬は好きになれない。なにより帰属意識の明確なのが性に合わない。
 私が妻の家に行くようになって、犬猫は三代目である。たぶん近年までこの辺の泰族(正しくは泰の字の隣にニンベン)に犬猫を飼う習慣はなかったから妻の人生でもそのはずだ。

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なぜ泰族は犬を飼うようになったか!?
 そういう習慣のなかった泰族がなぜ犬を飼うようになったのかというと漢人の影響である。
 漢民族の政策は現在のチベットへの侵攻圧政でもわかるように、他民族の排他、粛正、漢民族の血による純血支配である。これは漢民族に限らず古今東西行われてきた最も効率的な支配方法だろう。
 有史上唯一それを行わなかった稀有な例が日本の朝鮮半島支配になる。どのような形であれ支配下に於かれた民族の人口は激減するのに、日本の支配下にありながら朝鮮民族は人口が増え続け、教育水準があがるという稀有な例になった。



 少数民族が固まって暮らすこの地にも役人をはじめとして続々と要所要所に漢人が送り込まれ同族化が勧められている。金と権力のある支配者階級である。それが泰族の庄屋の娘(美人で高等教育を受けている)のようなのを嫁にもらう。政策のみの結婚ではなく、気の強い漢人の妻をもらうより泰族の娘は気だてが良く亭主を立ててくれるから男としても好ましい(らしい。風聞)。泰族の庄屋としても政府関係の仕事をしていてクルマももっている金持ち支配者階級に娘を嫁がせることに悪い気はしないのだろう。順調にこの路線は進んでいる。
 ふつうの百姓娘も同じ百姓に嫁いで汗を流すよりホワイトカラー(?)の漢人に嫁いで楽をしたいと願う。器量のいい娘は次々と漢人と結婚してゆく。泰族の百姓のあいだにももう日本の農家のように嫁不足現象が起きている。よってますます泰族(をはじめとする少数民族)は要所要所から漢民族化され、共産党の支配が効率的に浸透してゆくことになる。



 私の妻も私と知り合わなかったら漢人の商人とでも一緒になっていたろう。その時点では百姓を嫌い一旗揚げたい(?)と思っていたようだ。
 ところが逆に私と知り合うことにより、パスポートを取り、飛行機に乗り、北京に行き、査証を取って来日し、あれこれと先端的な部分に触れることになった。なにしろ近隣何十キロ四方でパスポートをとって外国に行ったなんてのは妻しかいないのだから、いかに特殊なことをしたかである。外国以前に北京に行ったことのある人がまずいない。省都の昆明に行ったことがあれば自慢できるレヴェルだ。(もちろん密入国でタイやミャンマーに行ったのはいくらでもいる。)
 都市生活の乾いた部分を知ったことから、妻は今ではすっかり百姓仕事を好きになり生き生きと父母を手伝っている。これは結果的にひょうたんから駒だった。私はそれを望んでいたから。

 妻の友人の高等教育を受けた娘もみな漢人と結婚している。遠からず泰族に限らず漢人の血の混じっていない少数民族はいなくなるだろう。モウタクトウを神様とした教育は、なにも知らない少数民族にも確実に浸透している。すなわちそれは日本を敵視させることであり、日本人の私は居場所を狭くする。そこから妻子を脱却させたい私としては、というか、そこに染まっていないからこそ妻に惚れた身としては、一日も早く妻子を再来日させねばと焦るばかりである。

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 と、最初から脱線してしまった。肝腎の点をまとめる。
 「のどかな泰族の村の要所要所に支配民族として漢人が入ってくる→消費生活の流入→人心の荒廃。盗難の多発→漢人が番犬を飼っている→泰族も真似て飼い始める」という流れで、犬を飼う泰族の家が激増中なのである。

 現実問題として、妻の家でもつまらんものが盗難に遭っている。たとえば「火つけ木」である。
 これにはまず説明がいる。「火つけ木」とは、油がたっぷりと染みこんだ特殊な木である。見ただけでもう木肌にジュクジュクと油が浮いている。においは松ヤニである。戦争末期、敗戦間近の日本は石油不足に陥り、これで飛行機を飛ばした。物量的に勝てない戦争だった。勝っているときに講和すべきだった。だが負けたことのない神国神話が引き時を失う。
 今回こちらに置いてあった浅田次郎さんの随筆を読んでいたら、多摩丘陵に新居を構えて犬と散歩していたら、戦争中にその松油を採った傷跡のある松の大木が倒れていた話があって感じ入った。

 これがすごいのはマッチ一本で松明のように火が点くことだ。現実に目にしないとこの感動は伝わらないかも知れない。成人男子の腕ほどもある生乾きの無骨な木が、マッチ一本で明々と燃え上がるのである。まるでたっぷりと石油を湿らせておいたかのように。
 かまどで煮炊きをするとき、これにマッチで火を点けて燃え上がらせ、そこに他の木を乗せてゆく。
 火をおこす順は、こどものころの経験で言うと最初は新聞紙だった。マッチで新聞紙に火を点け、それに落ち葉やちいさな枝を乗せたりして次第に火を大きくしてゆく。今もボーイスカウトなどの実習はこれだと思う。それがここではこの「火つけ木」で一気にやってしまう。便利だ。生活の智慧である。いや自然の恵みというべきか。不勉強にして知らないが、この木は日本にもあるのだろうか。すくなくとも私の田舎にはなかった。
(マッチ一本で火がつく炭や煉炭があることは知っている。でもそれは文明の成果だ。自然の恵みのこれとはそもそもが違っている。)

 当然それは貴重品になる。成人男子の腕ほどのものを4等分して使う。四分の一が一日分。それで四日分になる。早朝、これで火を点ける。あとは一日中、かまどから火が落ちることはない。かまどの火はあたたかい。
 山に入り、めったにないそれを見つけては日々のために蓄えてゆくことになる。重労働である。妻の父はそれを見つけるのがうまいらしく、一年分ぐらいを物置に蓄えておいたらしい。ある日それがごっそりやられた。盗むという味を覚えてしまった堕落した人々にとって、山の中に入って探し回るより、隣家の物置から盗んだ方が手っ取り早い。
 あきらかに近隣の人間の仕業とわかっていても、警察に訴えるほどでもなく、また現物に印がついているわけでもないから物証も難しい。泣き寝入りになる。そこで番犬の需要となる。

 盗難といえば、妻が日本から買っていった下着を盗まれたことがあった。といってそれは格別に色っぽいとかそんなものではない。ごくふつうの地味なものだ。それでも日本製は縫製がいいから上物であることがわかる。洗濯して干しておいたらそれだけがなくなっていた。あきらかに盗難である。
 しばらく後、近所のおばさんが身につけているのを妻は見かけたそうだ。つまり性的な事件ではないのである(笑)。純粋な物品泥棒だ。これは「セクシーとはなにか!?」とでも題して別項にまとめよう。

 この二件の盗難に関して、すでに妻の家に犬はいたのだから、現実問題として盗難予防にはならなかったことになる。それでも怪しい動きには寝ている人間が充分目覚めるだけの吠え方はするから気休めにはなるのだろう。ある程度の予防にも。

 それと、「犬を飼うことがファッション」である一面も否定しがたい。そういう習慣がなかったからこそ、近所で飼えば我も我もとなる。それがクルマやバイクだと先立つものが必要だが、動物だと親しい家からもらってくればいい。物々交換のように礼はするようだが、たかは知れている。
 犬と比して猫が極端に少ないのは、猫は純粋な愛玩動物であり、この泥棒撃退のような役割がないからだろう。まだまだ動物に対してキッチリと一線を引くこの辺では、同じ寝所に動物を入れる感覚は受け入れがたいようだ。

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初代から三代目まで
 初代は真っ黒な犬だった。私がクロと呼び、それが名になった。一見私の命名が通ったようだがそんな話でもない。この辺では犬はイヌ、猫はネコと呼ぶのだ。固有の名などもっていない。クロは安易な名ではあったが名前をつけられただけエリートだった(笑)。

 険しい顔をした品のない犬だった。この辺の犬は、ろくな食い物ももらえずかわいがられてもいないのだが、なぜか犬の仕事には忠実で、見知らぬ人間が来たら狂ったように吠えたてる。うんざりする。
 クロも初対面の私に対して今にもひもを引きちぎらんばかりに吠えたててきた。悪相の貧弱な犬だった。どうにも犬は好きになれない。
 それでも餌をやり、散歩に連れて行ったりしていたら数日でなれた。一転してすりよってくる。この辺の変わり身もまた嫌いだ。

 クロは散歩に連れて行ってくれるからと私の顔を見ると甘えた声を出すようになる。なにしろ犬を運動不足だからと散歩に連れて行ってやるなんて習慣はない。むかしの日本だってなかった。犬のための朝夕の散歩はずいぶんとあたらしい習慣である。
 そうして親しんだクロだったが2年も生きずに死んだ。ある日、悪いものを食って吐き、そのままお陀佛だったという。死体は川に流す。これもこの辺の習慣だ。下流に流されてゆく間に腐敗し、魚が食う。いい形だと思う。





 メコン川を源流からレポートした番組があった。そういう冒険をしているチームがあって、新聞とテレビがタイアップしたようだ。そのときの新聞記事にあった「川は生活を潤すと同時に、大きなゴミ捨て場でもある」は印象的だった。決してきれいごとではない。でも残飯や糞尿や死骸を流して、それを食って成長する魚、その魚を捕って食う人間、もまた食物連鎖の実態であろう。

 この話をするといやがる人がいるのだが、私の田舎ではむかし、エビをとるのに撒き餌として人糞を使っていた。人糞はエビの大好物なのだ。そんなものである。水屍体を引き上げると何匹も食らいついている穴子とか。

 トイレの基本は川だ。それは「厠」の漢字からもわかる。ヴェトナムやカンボジア、ミャンマーでも川でしてきた。西原理恵子のアマゾン紀行にも、トイレで用を足していると魚が尻に飛びついてくる話が登場する。
 妻のところもこのあいだまで川だったのだが、ここ数年でいわゆる「汲み取り式」になった。私はむしろ川が恋しい。



 クロの写真がないのは、毎日散歩に連れてゆくぐらい親しんだが、基本的に好きではなかったからだろう。どうにも悪相の、頭の悪そうな犬だった。

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 2匹目はネコ。これは私が愛猫のしまを失って落胆しているのを見て妻がもらってきただけにかわいかった。客観的に見てもきれいな猫だった。
 種類でいうと「雉縞」になる。

 気の荒い雌猫(ネコはメスの方が気が荒い)で、生後数ヶ月の時期でもあったことから、警戒心が強く、妻以外にはなつかなかった。
 妻のベッドで寝ていた。私が行くようになってからは当然同じベッドになる。妻の向こう側から新たな侵入者である私を警戒していた。これが犬だとあたらしいご主人様かと理解するのだが、猫の場合はいつだって自分が主人公である。
 しかししょせん子猫であるから、いつしか勘違いして私に抱かれて眠っていたりする。のどを鳴らして寝ているうち、そのことにふと気づいて、しまったとばかりに、ふっとんで逃げるのがおかしかった。

 このころの私は云南に一ヶ月いても、山奥の妻の家では退屈してしまい、ほとんどは景洪のホテルで暮らしていた。週刊誌の仕事をしていたので原稿送付があり、それが必然でもあった。
 妻の家にはその送稿のあいまに、最長でも四、五日しか滞在していない。とうとうこのネコをなつかせることはできなかった。名前もネコ(メーオ)のままだった。妻が来日している間にこのネコも死んでしまう。これまた2年半の短い生涯だった。もちろん死骸は川に流されたらしい。

 云南デジカメ日記──2002年冬「ネコという名の猫」

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三代目はクィクィ
 さて三匹目となるこの犬、名前はクィクィ。珍しく名前が付いていた(笑)。生後二ヶ月でちいさいが、これはチワワのようにおおきくならない犬とか。初代のクロとちがって愛らしい。立ち上がって甘えるのがうまい。レッサーパンダの風太くん(笑)を思い出す。

 犬猫屋で見かけた犬ころをサラ金で借金して買うかどうかと分別盛りの中年男が悩むサラ金のテレビ宣伝が好意的に話題になる国だったら高値で売れるだろう。(←我ながらなかなかいい皮肉である。)

 子犬のチビでも犬は犬。見知らぬ闖入者である私を見て狂ったように吠えかかってくる。それが初日。
 二日目にビスケットをやり、つまみにしようと買ったハム(どうもこちらのハムはうまくない。失望した)をあげたらもう隷属。ご主人様とすりよってきて一日中離れない。かわいくはあるが、手のひらを返したような対応が気に入らない。でもそれが犬。とはいえ彼からしたら、自分が飼い主と認めている人間と私が親しく話しているから、いやその飼い主が一目置いている相手と認めたから、という理由はあろう。

 この辺では犬も猫も同じで、飯は人間様の残飯である。ちょうど昭和三十年代の日本ぐらいだから、肉はめったに食べられない御馳走だ。ということは、彼のご飯は「冷や飯に野菜スープかけ」なんてのが多く、これはヴェジタリアンではない彼には辛かろう(笑)。

 いきおい、こちらで買ったビスケットに日本から持参したカマンベールチーズを乗せてツマミにしている私にまとわりつくことになる。中国製のまずいビスケットだって残飯と比べたら御馳走だ。町で買ってきた乾き海老だって珍味になる。ましてときおり思いつきではあるがサラミソーセージを一片くれたりする。妻や義父母があきれるほど私になついたのは自然だった。単なる食い物の魔力。畜生なんてそんなもの。

 かといって自分が犬ころに好かれていると勘違いしてはならない。この場合、自分の意のままになると格下に見ている場合も多い。実際、四六時中私につきまとっているが、義父が呼ぶと飛んで行く。義父にはしつこくまとわりついては、けっ飛ばされたり、部屋に入ったら怒鳴られて叩き出されたり、あきらかに畜生として扱われているが、決してさからわない。犬は序列を大事にする。彼にとっては義父こそがご主人様なのだろう。犬とはそんなものだ。



 私のやっていることはルール違反だ。これは反省せねばならない。
 一部白人国や今の日本を除いて、多くの国では人間と動物に明確な一線を引いている。友であり下僕であるが同時に食料でもあるという割り切りだ。私がいちばん心ふるわせたのは植村直己さんのソリ犬の話だった。極寒の中をともに旅し、生きるか死ぬかを支えてくれる命綱であり、親友なのだが、同時に食料としても殺して食う。あれは出来ない。昨日までの盟友をきょうは食料とする。それを日常とするのだから、冒険家とは(よくもわるくも)すごいものだ。

 どなたかのタイ随筆(出版物)に、「食事中に犬猫に料理を与えていたら、同席していた娘に『それは人間の食べ物なのに、なぜあなたはそれを動物にあげるのか』と泣かれた」という話があった。そのとき私はまだタイ初心者だったのだが、のちに同じ経験をする。
 食に窮する家族を救おうと娼婦になった娘にとって、娼館に遊びに来た客が、肉野菜炒めの肉を犬猫に投げ与えている光景は耐え難かったのだろう。





 市場で美味そうなソーセージを見かけた。日本から持参したサラミソーセージは一本だけだ。貴重品である。たまに食べるようにして、その間の代役が欲しい。見た目が美味そうだったのでいそいそと購入した。ほんとにうまそうだった。しかしまずい。豚肉のハムというより、日本の魚肉ソーセージに近い味だ。魚肉ソーセージもときには珍味としていいものだが、うまい豚肉ハムとして買った物がそれではしらける。
 それを時折一切れ二切れ切ってクィクィにあげる。おおよろこびだ。そのまずいハムでもこちらでは人間様の食う(それこそ貧乏人は買えない)高級品だから、こんなことをしてはならない。へんに舌が肥えてしまうクィクィにも迷惑だろう。父母や妻には見られないようにして、あげた。クイクイと私だけの秘密(笑)。

 町に出たとき、ドッグフードを買おうと探した。菜食じゃ犬ころがかわいそうだと思ったし、かといって貴重品のハムやビスケットをあげてばかりもいられない。安い大袋のドッグフードを買ってきて食わせてやろうと思った。
 町で一番の高級スーパーに行ったのだがなかった。北京上海は知らないが、まだまだそんな時代のようである。そりゃむかしの日本にだってそんなものは売ってなかった。犬猫は人間の残飯を食うのが掟だった。
 この次来るとき、確実にドッグフードを抱えてきそうである。犬に好かれようとしている自分がいやらしい。

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 いかにも日本のCMに出てくるチワワみたいなかわいい犬なのだが、番犬としてはけっこうがんばっている。見知らぬ客人が来ると義父母がとめるまで激しく吠え続ける。

 数日前の深夜、小雨の降り続く真っ暗な虚空に向かってクィクィが激しく吠えたてた。
 みんなでテレビを見ていた。午後10時を過ぎており父母はもう寝る時間だった。いったい何事かとそろって表に出る。義父は怪しんで懐中電灯で庭を照らした。クィクィは闇に向かい激しく吠え続ける。それはいかにも「人の目に見えないものに向かって吠えているよう」だった。
 妻が、「三日ほど前から父の親戚の老人が危篤状態になっている。きっと最後に父に会いに来たのだろう」と言った。義父も「そうだな」とうなづいた。数分後、クィクィは鳴きやみ、またもとの静かな夜にもどった。
 すなおに納得する。こういう話が好きである。



● 弱いクィクィ
 庭には、大柄の雄鳥一羽、雌鳥が四五羽、ひよこが20匹ぐらい放し飼いになっている。そのために家屋敷を出られないように囲ってあるから、クイクイにも紐がない。放し飼いを満喫している。

 クィクィは写真の雄鳥に適わない。ちいさな雌鳥を追いかけていい気分になっていると、この雄鳥に脅され追いかけられて必死で逃げていた。なさけない(笑)。
 写真は愛妾を従えた王者。なかなかの風格。



 クイクイ、ニワトリと戦闘モード。相手は小柄な雌鶏。これぐらいだとなんとか五分に戦える(笑)。でもあちらも子連れだから楽勝とはいかない。子のいる雌は強い。まあ笑わせてくれる犬である。

 気の毒に(笑)
 妻が私の送ったお金を受け取りに思芽の銀行まで出かけることになった。以前は近くの町に外国からの送金を受けつける中国唯一の銀行である「中国銀行」があったのだが、今年の夏に閉鎖してしまったのである。どうもこの辺にも中国のバブル景気に怖いものを感じるのだが……。

 最寄りの中国銀行のある思芽まで行かねばならなくなった。これが遠い。一日がかりである。送金手数料を5千円取られて送り、私が到着している今頃受け取るのではなんのための送金かとなる。しかも今回の長距離バス代だってバカにならない。往復3千円はかかるだろう。中国の3千円だから少なく見積もっても日本的には5倍の金額になる。

 家を朝7時半に出発して、あちらで用事が済んだのが午後4時過ぎ。まともにもどってこられたのは瀾滄まで。そこからタクシーでなんとか深夜11時半に孟連に着く。迎えに出ていた甥のバイクとなかなか会えず気を揉んだが、なんとか午前1時近くに帰宅できた。たいへんなイベント(?)である。

 12月の雲南は寒い。これが今回最も意外だったことだ。かなり冷え込む。
 バイクの冷気で冷えた甥と妻が寒い寒いと駆け込んでくる。義父母と私が迎える。ほんとにホッとした。今はほとんど酒を飲まない義父が自らビールを取り出したぐらいだから、いかにみんなで心配していたかだ。
 妻はポットの湯をたらいに入れ、温湯にして手を暖めていた。それほど冷え込んだのだ。なにしろ私なんか寒くて寝られず、毎晩ズボンを履いたまま、セーターを着て寝ていたぐらいだ。

 深夜に帰宅した妻をクイクイも家族の一員として狂ったように喜んで迎える。妻の脚もとにまとわりつく。日本的には最も犬の忠実さが発揮される瞬間になる。それこそマンション住まいの室内犬であったなら、抱きかかえてほおずりされ、なんてかわいい子でしょ、となるシーンである。クィクィだって写真にあるようにかわいい小型犬なのだ。でもここは他人様と獣に明確な一線のある雲南。外でひとり寝せねばならないクィクィ(番犬なのだからあたりまえ)は、「こらこら、こんなところに来ちゃだめ」とすぐに居間からつまみだされる。なんか哀れ(笑)。

 とはいえ私は、M先輩のところの大型室内犬をはじめ、犬の溺愛路線にはうんざりしている猫派なので、この線引きは気分がいい。もっともそのクィクィを抱き上げてほおずりしたりしていちばん溺愛しているのはかくいう私なのだけれど。
● なさけねえ~
 クイクイ、生後三ヶ月程度なのだが色気づいてきたらしい。水牛の脚にしがみついて腰を振っていた。しかも水牛は牡(笑)。
● 我が友クイクイ──雲南で落語
 妻とケンカして散歩に出た。クルマかバイクがあれば気分転換に町に出るのだがないので出来ない。かといって同じ部屋にいる気にはなれなかったので散歩することにした。相棒はクイクイである。

 ケンカの原因は、パソコンからスピーカーに出力して聴いていた落語に、妻が「そんなに日本が恋しいのか!?」とケチをつけたからだった。妻としては私が楽しく過ごせるように精一杯気を遣っているつもりであり、その私がパソコン日記をつけつつ、落語を聴いているのは日本恋しさの表明であり不愉快だったらしい。

 私としては、今回初の雲南山奥一ヶ月暮らしのために万全の用意をしてきた。中でもCD100枚分をHDDに入れてきた落語は切り札だった。案に相違してせっかく取りつけたパラボラアンテナではNHKが見られないし、なんとか活字の方は用意してきた文庫本でまかなっているが、こういう日記をつけたり日本から持参した「サッポロ一番味噌ラーメン」を食べたりするとき、BGMとして聞く落語は格別なのだった。

 三日に一度ぐらいしか聴かない。なのにそのたびに妻は「うるさい」とか「そんなに日本が恋しいのか」とケチをつけてきた。嫉妬である。深読みなのだ。見当違いの。
 これで落語を聴きつつ私が雲南の田舎はつまらないと愚痴り、早く帰りたいと言ったなら妻の意見も意味を持つ。でも一ヶ月楽しく暮らすのだと割り切ってやって来た私は、なにひとつ愚痴を言わず、落語すらも三日に一度のように過剰にならないように割り振り、日々を笑顔で過ごしていたのだ。妻の言い分は明らかなイチャモンである。私がきっと雲南はつまらない、日本が恋しいと思っているに違いないと考えすぎているのだ。

 言われるたびに毎度不快になったが我慢していた。でもとうとうこの日で切れた。私は激しい口調で自分の正当性を主張し、妻に「おまえが日本にいるとき、テープやCDで中国の音楽を聴いたが、そのときただの一度でもおれがそんなことを言ったか!」と叫んだ。
 妻はすなおに「ごめんなさい」と言った。私は結婚当初から過ちを認めてごめんなさいを言ったらそれ以上怒らないと約束している。実行もしている。これ以上は怒れない。それに妻が私が雲南暮らしが楽しくないのではと気を揉んでのひとことであることも判っている。
 とはいえ波立った心はそう簡単に鎮まるものでもない。まして私はよくいえば繊細、正しくは狭小な男である(笑)。憤慨して家を出た。

 ということで散歩に出た。といってもろくに行くところもなく、乾期の今、土の道はトラックが走り抜けたりすると前が見えないほどの白煙になる。耕耘機やバイクですらかなりのもので、私が外出しないのはそれが原因だった。
 写真は雨期のものなので湿っている。乾期は埃だらけになるし雨期はぐちゃぐちゃになるし、まことにたちが悪い。とはいえ乾期の埃だらけはクルマが走るようになったからで、むかしのように人と牛しか歩かない時代はいいものだったろう。要するにクルマ社会に移行しつつあるのに、いわゆるインフラがついて行ってないのだ。昭和三十年代の日本の田舎がそうだったからよくわかる。

 私は中学生の自転車通学だったが、未舗装の道路ばかりだったので、ダンプカーやバスと擦れちがうと前が見えないほどのホコリが舞いあがった。学生服は埃まみれだった。当時既に鋪裝率100%というイギリスをうらやんだ。
 いま田舎の道もみな舗装され、北海道の山奥などひとっこひとり通らない路が、広々ときれいに舗装されている。しかし人も車も通らないから、間近に見るとアスファルトを割って草が生えてきている。まことに自然は強い。
 石原国土交通省大臣が「人よりも熊の方が多く渡っている」と北海道の整備された道路を揶揄したらスズキムネオが血相変えてかみついたことがあったが、あれは事実だ。大の北海道好き、北海道ドライヴ好きの私は、そんな道路をいっぱい知っている。

 家から300メートルほど歩いたとこにある橋まで行く。ここまで行き、河原に降りるとそこそこ楽しいのだが、それまでにも何度かクルマとすれ違い埃をかぶってしまった。

 時刻はもう6時過ぎ。野良仕事のおばさんも帰路に就くころである。写真。
 今の時期、この辺は、朝の8時を過ぎても薄暗く、その代わり午後は7時過ぎまで明るい。これは広大な国なのに時差を用いていないからだろう。中国全体が日本との時差は1時間だ。タイですら2時間である。中国は広い。この辺は日本との時差を3時間と考えるのが適当と思われる。

 そう解釈すると、朝6時過ぎに明るくなり、夕6時に暗くなると、ごくふつうにつじつまが合ってくる。
 もっともこの辺の人はみな自分の体内時計で動いていて、明るくなれば活動し、暗くなれば休む。「朝の8時なのにまだ暗い。午後8時なのにまだ明るい」とこだわっているのは、時計というものに縛られている私だけの感覚だ。これは反省すべきだろう。

 私が主催した父の米寿の祝いの引き出物「電波時計」がこちらにある。時計台からの電波を受信して自動で時刻あわせをする目覚まし時計だ。最初の来日からもどるとき妻に土産としてもたせた。裏に父の米寿の祝いと日附を刻印したプレートが貼ってある。私にとってもひとつしかない宝物になる。
 当時も今も律儀に日本の電波を受信して日本時間を表示している。この家で時計に縛られているのは私だけだ。私と妻の腕時計を除くと、この家に時計はこれしかない。



 橋の下の河原でクイクイと遊ぶ。ふだんクイクイは屋敷の中で飼われている。この家はどれぐらいの広さだろう。
 私の田舎の家が330坪だったから、300坪弱ぐらいか。そこをきっちりと囲ってニワトリを放し飼いにしているので、クイクイも屋敷からは出られない生活をしている。その分、以前のクロとちがって紐がついてないから自由だ。それでもたまにこんな形で外出できると、それはそれはもう大喜びである。
 飛び跳ねるようにして河原を駆け回る。呼ぶと飛んでもどってきて飛びつく。あげるのが湿気たビスケットしかないのがもうしわけない気がする。この次来るときは必ずドッグフードを買ってきてやるからな。

 とまたあちこち脱線した文になったが、このクイクイとの散歩で私は初めて「犬と散歩する喜び」を知ったのである。クイクイと走り回り、抱き上げたり、溝を跳び越えようとして落ち、泥だらけになったのを救助したりしているうちに、いつしか妻とケンカしたことなどすっかり忘れていた。
 クイクイの天衣無縫さに救われた一日となった。



 それ以来、夕暮れのクイクイとの散歩は私の日課となった。
 この辺の地形には、「川の向こうの河原」のようなのが多い。そんなときは私がクイクイを抱きかかえて、膝まで水につかって渡河し、向こう岸に着いたら降ろしてやることになる。
 クイクイのほうも、誰よりもよくオヤツをくれるのが私なので、よくなついている。
 帰国の日、クイクイとの別れがつらかった。

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