日記-02冬 (2002/1月2月)


磯部巻きでい!

旅先ではその地のものを食うべきである。それが旅の基本だ。旅先に日本の食い物をもってゆくような奴を心底軽蔑していた。その心底軽蔑する奴に自分がなってしまいました(笑)。
 いくらなんでも妻の田舎は田舎過ぎる。私は妻と町の旅社で過ごしたい。食住ともそれがいちばんいい。でもそれでは心ない噂をする奴がいて妻や妻の家族が傷つく。彼らの名誉のために、今回は妻の家でずっと過ごそうと決意した。そのとき「日本の食い物を持って行こう」と決めた。それがどんなにみっともないことであろうと、私は妻の家での食事では満足できない自分を知っていた。妻の家で十数日を過ごし、近所に私が妻の亭主であることをアピールすることのほうが大事だ。

針金とペンチで
真っ先に思いついたのは餅だった。季節がそういう時期でもあったし、私は比較的餅好きでもあった。そしてもうひとつ、旅先で食べた餅に感激した思い出があったことだ。
 もう何年前になるだろう、チェンマイで知り合ったMさんは、つきあっている彼女のために日本からあらゆる食物を持参しては気に入られようとしていた。彼女が生牡蛎(以下カキ)が好きだと知ると日本から広島の特選カキを冷凍パックに入れて持参したりもした。残念ながらその大振りのカキは、下記に記した雲南の猫がキャットフードを喜ばなかったように、ぜんぜん彼女には喜んでもらえないのだった(笑)。むずかしいものである。小振りなタイのカキなんかより遙かにおいしいものだったが。



網を作る
そのMさんが日本から持参し、私もご相伴に預かったものに餅があった。
 サラリーマンであるMさんがチェンマイに来るのは、五月の連休、八月の旧盆休み、正月と決まっている。その正月の時、彼女のために彼が持参した切り餅のお裾分けに私は預かったのだった。前記したように、私は異国に日本の食い物をもってくるなんて人をコバカにしていたのだが、この時食べた磯辺捲きは涙が出るほどおいしかった。しかも二個だけという限定だったからよけいに心に残った。またも残念ながら肝腎の彼女にはぜんぜん受けてなかったが。

 まあ異国に持って行く食料といっても限られている。誰もが最初にやるのはカップ麺だ。嵩張るけれど。もちろん私もラーメンは持参した。食器は妻の家にあるのでカップ麺ではなく普通のラーメンにした。
 私はチェンマイで食べたあの味を思い出し、非常食料としてはもちろん、純粋にかの地で食べる食品としても、ことさら楽しみにしたのだった。
 尚、Mさんは、あれこれと紆余曲折はあったものの、無事その時の彼女と結婚し、娘に恵まれ、日本で今しあわせに暮らしている。とはいえ結婚までには、そのMさんの彼女に横恋慕する日本人が現れたり、また二人の間も波瀾万丈で、おもしろい話もいっぱいあるんだけど、それはまた別の機会に。


妻の家で家族と一緒に、中国籍泰族農民の普通の食事を何日か食して、いよいよ舌が飢えてきたときに、私は満を持して餅を取りだした。それまでももう「のりたま」や「そばめしふりかけ」は使っていた。それはそれで効用があり、食を進ませてくれたが、あくまでもそれは補助食品である。今回はメインディッシュ(随分と貧相なメインディッシュだこと)なのである。
 まずは「網」がないことで挫折する。それで前掲写真のように針金を用意してもらい、ペンチでねじ曲げつつ網らしきものを作った。


あとは妻に任せた。これ以上でしゃばる必要はあるまい。竈の赤い熾きの上に網を敷き、餅を乗せた。香ばしい匂いがしてくる。たまらない。この辺にも餅米文化あるが「餅」という習慣はないようだ。さいわいだったのは──ものすごくケチくさいことを言うが──誰も餅に興味を持たなかったことだ。もしも家族がみな興味を持ち、よだれを垂らしそうにして見ていたなら、いくらなんでも自分だけで食うわけには行かない。誰も興味を示さないので内心万歳しつつ、私は自分ひとりで雲南山奥餅三昧をしたのだった。





単に餅さえあればいいとうものではない。もちろん「丸大豆キッコーマン醤油」に「海苔」、緑茶は深蒸しのいい奴を用意していった。右はその出来上がりの図。うまかったなあ。

 私はこの日、認めたくない自分を認めねばならなかった。それは、外国に長居できない自分である。私は私の知る限り、普通の旅人と比べて我慢強いほうである。最近は我慢をする必要がないし、する気もないので好き放題をやって暮らしているが、きちんと我慢をしたこともある。そういう過去の実績を見ても、日本食なんてのは一ヶ月、二ヶ月なくても平気だった。そういう自分に自信を持っていた。
 だけどそれは「ここは異国であり、今は旅の途中である」という認識があるからなのだと、この餅の一軒を通じて知った。いざ異国に住んだなら、日本食へのこだわり、調味料、お茶ひとつとっても、私はこだわり型だった。まあそりゃ当然なんだけどさ。

これらのことから学ぶのは、海外で暮らせない自分だ。結局私にとって海外旅行とは、海外に不向きな自分を確認する行為だったように思う。
「旅好きは味音痴」というのは嫌われるのを覚悟で毎度言っていることだが、これはもう絶対に間違いない。それは、チェンマイあたりに生息するおじさんにも言える。味にうるさい人がチェンマイなんかに住めるはずがない。「私は食通であり、味にうるさい」という人と何人も親しくなった。それで思うのは、本人がそう思い、思うことに美意識を感じているだけで、実際はぜんぜんそうではないということだった。たとえは大阪から来て在住しているおじさんが、「××の店はまずくて食えんね、私は味にうるさいからどうしようもない。その点、△△は味つけもきちんとしていてうまい」なんて飯を食いつつタバコを喫い、ヤキソバの中に灰を落としつつ熱弁している。こんなのばっかしである。タバコ飲みというのはニコチン、タールの毒で舌の味蕾がボロボロになっている。味を語る資格などないのだ。写真であれを見たならタバコ飲み自身も納得するだろう。盲が風景を論じるようなものだ。
「キッチンハッシュ」のような並の味の店も、チェンマイだからおいしいのであって、日本の中にあったらありふれた町の定食屋レヴェルだろう。御朋園の何々がおいしくて、何々がまずいなんて話している人を見ると、やはりおかしいと思う。全部不味いわ、あそこ。すくなくともあの味のラーメンと餃子を日本で出していたら客はひとりもこない。すぐにつぶれるだろう。「御朋園の餃子がおいしいから食べに行こう」と何人もの人に誘われたが、この人は普段どんな餃子を食っているのだろうと不思議でならなかった。
 かといってこれはタイ料理が不味いと言っているのではない。タイ料理はおいしい。問題としているのは日本の味に対するこだわりレヴェルである。

 食通で外国に住んでいる人っているんだろうか。いやもちろんいるんだろうけどね、ロンドンという食い物が不味い最悪の街も、インド料理屋中国料理など、異国料理店にはそれなりのものが揃っていて、それはロンドンに駐在せねばならなかった人が水準を引き上げたと言われている。でもチェンマイとか雲南には食通はいないだろう。先日、昆明の語学学校に留学していたって人と食事したが、腐ってない人なら何でも食うというような味覚音痴の人だった。でも言うことはデカい。彼は自分を食通だと思っているようだった。そんな人に「中国は味の本場で」と講釈されても納得しがたい。
 私は自分の味覚感覚を並だと思っている。「並」の私が満足できないところに「上」がいられるはずがない。でもいる。実際にいる。だからそれは、自分のことを「上」だと勘違いしている実態は「下」レヴェルの人なのだというのが今の私の結論になる。
(02/10/12 景洪 永盛賓館にて)



ネコという名の猫

←はるばる日本から持参したキャットフード

これは正解だったのか不正解だったのよくわからん。ギリギリの荷物の中でこの猫の餌はけっこう場所を取ったのである。悪路を揺られてやっと着いた後、私は妻の両親へのあいさつもそこそこにこれを取り出し猫にあげた。「好かれたい」という一念である。いやらしいとも思うが、たしかにそんな気持ちだった。猫好きではあるが猫にも好かれたいと思っている。

 しかしそれは思ったほどの効果はなかった。おそれていたとおり、こんなものを食ったことのない妻の家の猫は、いつもの残飯のほうが好きだったのである。ショックだった。ぎりぎりの荷物を整理し、せっかく日本からもっていったのに……。私は「この味音痴め!」と悔し紛れの捨てぜりふを吐いた。

さらにはこいつは私を見るとパニックを起こしたかのように死にものぐるいで逃げ回るのだった。それでいて夜中に胸が重いなと気づくと私の上で寝ていたりするのである。なんだかよくわからん。

 生後五ヶ月の雌猫だからイタズラ盛り。きかなくて困った。ご存じのように、猫は雌のほうが気性がきつい。それは今までの経験でよくわかっている。猫もライオンと同じで(ライオンは猫科だ)怠け者の雄はなにもしない)すべてを雌がせねばならないから、どうしても気性のきついしっかりものになるのだろう。タイ人に似ているか(笑)。
 ただ猫好きとしてはこいつがいてくれただけで毎日ThinkPadで仕事をする背中の当たりに、明るい旋律--ショパンの「子犬のワルツ」のような--が流れているような気分で楽しかった。

こいつの名前だが、ネコと呼ばれていたので笑ってしまった。泰族なのでタイ語の「メオ」である。その前の死んでしまった犬も「イヌ」と呼ばれていた。いいかげんである。犬は後に「クロ」と名が付いたが、それは私が黒いからクロと名づけたのであって、あのままだと一生「イヌ」という名だった。



この猫の名前には関わらなかった。妻は私の失った猫を写真で知っていて、私のために同じ毛色のものをもらってきた。分類では「雉縞」と呼ばれる。私にとって猫は最愛の動物であると同時に、未だに十五年共に暮らした息子を失ったような哀しみから立ち直っていないので、矛盾するようだが、抱きしめたい愛しさと同時に見たくもないとも思う存在なのである。自分の猫を思い出すような名前をつけようとは間違っても思わなかった。この猫が妙に私に懐かなかったのは、その意味ではありがたかった。猫を思い出して雲南の山奥で泣きたくはない。
(02/4月)
【附記】
 妻が来日している04年夏、云南からこの猫が死んだと連絡が入る。
 妻は気落ちしていた。わずか2年半の短い生涯だった。ただ、云南の山奥で生まれ落ちた猫としては充分にかわいがってもらえたほうだろう。(04/10)

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