§6.それから




●それから

 午後五時半、店の前にワゴン車が停まった。
 そうだ、今日はその日だったのだと佐藤は立ち上がる。月に二回、隣町ランプーンの工業団地からやって来る連中だった。『さくら』では見かけることの珍しい、ワイシャツにネクタイ姿の男達が、ぞくぞくとワゴン車から降りてくる。

 トランプ博打に行ったビーはまだ帰ってこない。あれほど一時間だけと言ったのに、もう二時間になる。やっている場所は知っている。ごく近所だから呼びに行けばいいのだが、佐藤は意地でもそうしたくなかった。賭事に熱中し本分を忘れた彼女は自力で気づかなければならない。

 手伝いの女の子は、まだ店に来て一週間ほどに過ぎなかった。作れる日本料理は何もない。このワゴン車の団体客が来るとビーと二人でもとんでもない忙しさになるのに、佐藤一人ではどうなるのだろう。
 チェンマイの隣町ランプーンには日本企業二十五社が集う工業団地がある。三年ほど前から操業を始めた。村田製作所、旭硝子、保谷硝子等が輸出用電子部品を製造している。仕事を指導する日本人は、単身赴任者や家族を含めて約二百人が滞在している。

 彼らの中の単身赴任者が、月に二度、金曜日の夕方に、十人ほどで『さくら』に来るのだ。今日がちょうどその日だった。いつものよう店の中央にテーブルを集め、貸し切り状態にする。二週間ぶりに『さくら』に来て、冷や奴をつまみにビールを飲める顔は、みな嬉しそうだ。

 豆腐はタイにもありタイ語でも「トーフウ」という。日本から伝わったのだろう。『さくら』の決め手は日本から持参した削り節と醤油だ。トーフに乗せた刻みネギと削り節にキッコーマン醤油を掛けると、タイの「トーフウ」が日本の「冷や奴」に変身する。お新香、自家製チャーシューをつまみに出す。その間にギョーザを焼き、グリーンサラダを作る。孤軍奮闘の佐藤は目の回るような忙しさだ。ビールは勝手に冷蔵庫から出して飲んでもらう。ほどよく酔いが回り、みんながほんのりと赧くなるころ、街に陽が落ちる。

 仕上げのラーメン、チャーハン、冷やし中華、トンカツ定食を思い思いに注文し平らげると、彼らはまたワゴン車に乗って帰途に着く。「ありがとう」「うまかった」「これでまた再来週まで我慢か」等のことばを聞くと、佐藤は頑張った甲斐があったとしみじみする。そのひとことが聞きたくてこんな商売を始めたのだ。

 だが本来の店の主人は、経営者はビーなのだ。佐藤は非常時の応援に過ぎない。
 開店当初はあんなに頑張っていたのに、小銭がたまるとすぐにこれだ。彼女もまた、明日のことまでは考えるが、明後日のことは考えられない楽天的発想のタイ人女性なのだろうか。佐藤の胸にやりきれない思いがくすぶる。



 午後七時。ポツポツとまた常連が集い酒を飲み始める。
 「今日はランプーンの連中が来たろう」と言われる。店主が忘れることでさえ常連は覚えていた。貸し切り状態になるから、その時間に来るのを避けていたのだという。
 ビーが帰ってきた。けっきょく四時間も遊んでいたことになる。しょんぼりしているのは佐藤に対する申し訳なさよりも、トランプ博打に負けたからだろう。「パパ、ごめん」とひとことだけ言って厨房に引っ込んだビーを無視して、佐藤は何も言わなかった。




 その夜、ビーを詰問した佐藤は、彼女のトランプ博打狂いが想像以上に深刻だったことを知る。この一ヶ月、ビーはほとんど毎日二、三千バーツが動く賭けをしていた。日本的尺度でいうと、月給三十万円のサラリーマンが毎日十万円を賭けていたことに匹敵する。
 夢中になるだけあって彼女はそれなりの博才に恵まれていたらしい。たいした損はしていなかった。しかし本業を怠けてまでの遊びを佐藤は厳しく叱責する。特に客商売の人間がお客様をほったらかしにして店にいないということは、商人として生きてきた佐藤にとって絶対に許せないことだった。

 これ以上こういうことが続くならパパはビーとは別れる。店はあげるから一人で頑張りなさい。ビーと別れてパパは……、チェンライにでも行く。店を大事にして博奕をしない女性を見つけて、また食堂でも開くよ。
 彼女と知り合って以来、佐藤がこんなに厳しくビーを叱ったのは初めてだった。
 ごめんなさいとひとこと言ったまま、また黙ってしまった彼女を見ながら、佐藤は「ビーと別れてパパは」と言った後、飲み込んだ言葉を反芻する。「日本に帰るよ」と言おうとしたのだ。ビーがいつまでもトランプ博奕に凝ってるなら、パパは日本に帰るよと。すんでの所でその言葉を飲み込み、「チェンライにでも行く」に切り替えた。

 日本に帰る? 自分は日本に帰りたいのだろうか。気まずいその夜、ビーと背中合わせに眠りながら、佐藤はその事ばかりを考えていた。忘れたはずの日本が、最近心の中でまた大きく膨らみつつあった。



 二カ月の観光ビザで訪タイしている佐藤達定住者は、ビザの期限が来ると一度国外へ出なければならない。一番近場で頻繁に利用されているのがマレーシアの観光地ペナンである。ここに出国して、また二カ月のビザを取り再入国するというのがタイ国在留邦人の常套手段だった。いつもペナンばかりでは飽きるので、香港に行ったり、最近ではスリランカに行ったりする人も増えてきた。チェンマイの日本領事館によると、チェンマイ県には在留届けが出ているだけでも三百人もの日本人定住者がいるという。

 佐藤は毎年一度、六月に帰国する。店を継いだ三男の所に帰り、保険の書き換えやら年金やらの書類仕事をこなし、親しかった連中と旧交を温める。最初の帰国の年は一年間留守にしていた佐藤を珍しがり、部屋に入りきれないほどの友人が集まって盛り上がった。二年目になるともうとんと人気がなかった。三年目以降は誰も来なかった。去るものは日々に疎しという格言をしみじみと佐藤はかみしめる。ここではもう自分は過去の人間なのだと確認することは、帰るべきチェンマイがあるとはいえ、やはり心寂しいものであった。一応三週間の予定で帰国したが、一週間もすると手持ちぶさたになりチェンマイに帰りたくなったものだった。

 今年の帰国時には事件があった。折からの不況で次男の運送屋がにっちもさっちも行かなくなったのだ。全てに順調だった子供達が直面した最初の挫折と言えるかも知れない。土地を担保に借金し負債を肩代わりした。すまないと頭を下げる次男に親子じゃないかと肩をなでつつ、佐藤は自分と葉子の間に出来た子供の愛しさを改めて感じていた。会社を畳んだ次男は今までのように仕送りが出来なくなるが、その代わり来年からは年金が下りる。上手くできているものだと佐藤は苦笑する。好き勝手なことをして暮らしていても、チェンマイでの生活費は十二万円もあれば十分だった。過分な息子達の仕送りは貯金してある。

 あの日、自分に頭を下げて詫びる次男の肩を抱きつつ、佐藤は、末期の水はこの子達にとってもらいたいと考えていた。三週間の予定で帰っても一週間もすればやることがなくなってしまい、チェンマイが恋しくなるということに変わりはない。なのに自分はチェンマイでは死なない。体が動かなくなったら帰ってくる。自分の建てたこの家で、子供達に見守られて葉子のもとに旅立つのだと、たしかにあの日佐藤はそう考えていたのだ。



 ビーの不安を自分は考えたことがあるだろうかと佐藤は思う。父親ほども年の離れた日本人と一緒にいる三十二歳のタイ人女性。『さくら』は順調に経営されている。しかし佐藤の「妻」であるビーに、結婚したり子供を作ったりする自由はない。そっと覗いたビーの貯金通帳には、二十八万バーツ(百四十万円弱)という数字が記入されていた。家が建てられるほどの大金である。自分と出会った頃、通帳さえもっていなかった彼女の頑張りが、そこに数字となって証明されていた。

 小島の女房であるレックと、梶山の「現地妻」であるレックが、共に二人目の子を妊娠した。佐藤も先のことなど考えず子供を作ってしまえば、元々が浮気者の亭主などどこかに行ってしまい、片親のもとで育つ子の多いタイのことだから、子供はビーの生き甲斐となって元気に育っただろう。そのためのお金ぐらいはやれるはずだ。解ってはいるが、潔癖な佐藤にはそのへんが割り切れない。

 経済的に恵まれながらも満たされない時間。自分をシンデレラにしてくれた男は、この地に骨を埋めるのではなく、いずれ故国に帰る気でいる。それがいつなのかビーには分からない。それまでの間、彼女は縛られているようでいて自由で、自由のようでいて不自由なのだ。きっと今ビーのいる世界は、葉子を失った当時の自分のように、悠々と大空を舞いながらも、地上と糸の切れてしまっている不安をいつも引きずっているのではないか。彼女は自分の稼いだ金でギャンブルという夢中になる時間を作り、一時だけでも不安を忘れようとしていたのではないか。そのことを誰が責められよう。自分は葉子を失った寂しさを、タイ人女性の人生の時間を買い取ることで埋めようとした卑怯な男なのではないか。ベッドの上で悶々していた佐藤の論理は、次第に自分を責める方向へと向きつつあった。

 佐藤に叱られたビーは、翌日からトランプ博打をぴたりと辞めた。それは彼女の佐藤に対する精一杯の誠意であったろう。だが一時の気の迷いではなく、心に揺れる不安を抱えている以上、それはまたいつか形を変えて再発するに違いない。仕送りの残金を貯めた通帳を、いつの日か帰国する日が来たなら、ビーに全額渡そうと佐藤は考えている。今の佐藤には、それ以上の誠意は思いつかないのだ。いつ体が動かなくなり帰郷したくなるのか分からない。せめてそれまで、日々を憂えるよりは楽しく暮らそうと居直るだけで。





 そして『さくら』はいつものように、平穏なチェンマイにある。
 店頭の丸テーブルで、佐藤と石田がヘボ将棋を指している。
 今井がヨミウリを読んでいる。吉岡がバイクでやって来た。芦川はスイカジュースを飲んでいる。
 ベトナム帰りだというバックパッカーの青年が店内に揃えたられた日本のマンガを読んでいる。これからミャンマーへ行くのだという青年がみんなから情報を集めている。
 季節と共に、回遊魚のようになじみの顔が現れ、現れては消えて行く。
 誰がやって来るかで日本の四季が分かる。
 ここだここだという声を挙げて、ガイドブック片手の学生風ペアが店に入って来た。
 隣の洗濯屋では甲斐甲斐しくタイ人女性が働き、ひっきりなしに泡水が流れ出している。
 小島は『宇宙堂』で相変わらず昼寝をしている。店内では二人連れのブロンド美人が、ペーパーバックを手に何事か話している。
 梶山が自分にそっくりの子を抱いて顔を出した。
「あの、こちらが『さくら』ですよね」
 旅慣れていないのだろう、いかにもサラリーマン然とした中年が、おどおどした声で顔を出した。
「やあ、いらっしゃい」
 初めての顔に、佐藤が明るい声で立ち上がる。
(「小説 チェンマイのさくら」完)


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