§2.移住計画


●チェンマイへ



 タイ国は日本の約一・四倍の国土に五千万人強の人々が住んでいる。首都バンコクの人口は公称で八百万人、スラムに住む不確定住民の数も加えると一千万人を越えると言われている。「タイという国の中にもうひとつバンコクという国がある」と言われるように、GNPの半分以上を稼ぎ出す工業国バンコクと、その他大勢の農業国タイと考えた方が解りやすい。実際バンコクとその他の市の格差は、日本における東京の一極集中などという比ではない。バンコクだけが大都会。後はみな田舎町なのである。

 チェンマイ市はタイ国第二の都市ということになっているが、チェンマイ県全体の人口で百八十万人、チェンマイ市の人口は十八万ほどに過ぎない。チェンマイに、バンコクというアジア有数の大都市に次ぐ「タイ第二の都市」というイメージを抱くと、その小さなたたずまいに落胆することになる。とはいえ近郊の農村から見たら、チェンマイ市が何でも揃う憧れのシティであることには変わりない。やはりバンコクが特別な怪物と考えるべきだ。バンコクから北へ八百六十キロ、直通バスで十時間、汽車で十四時間、飛行機で一時間ほどの場所にチェンマイ市は位置している。

 「北方のバラ」と称えられる美しい街並みは、街の四方を囲むチェンマイ王朝時代の崩れ掛けた城壁と堀、その外に発展した新市街で構成されている。市の概要は分かりやすい。まず真四角を書く。これが城壁と堀である。そこに十字の道路を入れる。道路と城壁の交わる地点にはそれぞれ名のついた門がある。四角の右外に縦に一本線で川を描く。これがチェンマイを流れるメーピン(ピン川)になる。四角の真ん中を左から右に走る道路が川を越えた所が鉄道駅。城壁の中は旧市街。四角の右下外部がナイトバザール等で有名な現在の繁華街になる。

 チェンマイは観光都市である。「北方のバラ」と呼ばれるチェンマイ市が観光地であるのはもちろんだが、ビルマとの国境への旅や山岳民族部落へのトレッキング、ゴールデントライアングルと呼ばれる麻薬密造地域への観光拠点として、チェンマイ県全体が大きな意味での観光地なのだ。

 街中には老若男女取り混ぜた白人観光客が溢れている。子育てを終えたフルムーン旅行らしいアメリカ人老夫婦、ヨーロッパ各国から未知の国アジアへ冒険に来た白人男女ペア(彼らは必ずトレッキングに参加して象に乗る)、腕に入れ墨を入れ両脇にタイ人女性をぶらさげた青年(彼らの好む女性の容姿は明らかに日本人とは感覚が違う)、短パンにタンクトップ、ノーブラという挑発的な姿で街を闊歩するブロンド女性、この地に来ても走らずに入られないジョギングマニア。チェンマイは白人で溢れている。

 タイ国への日本人観光客は昨年度の統計で年間五十四万人である。ほとんどがパタヤビーチ、アユタヤ等のバンコク周辺やプーケット等のビーチへの観光だが、その約一割がチェンマイへ流れてくると言われている。

 が、街中で日本人を見かけることは滅多にない。それは団体ツアーで押し掛けた日本人観光客は、集団で移動し定期的なルートで行動するからだ。だから日本人観光客御用達のホテルやカラオケ店に行くと、毎日のように日本人団体客が大騒ぎをしている。

 チェンマイというと年輩の人間は、二十年ほど前の玉本某の事件を思い出すだろう。日本人中年男性が複数のタイ人少女と同居し、ハーレムを築いていたという事件だ。あれは諸処の事情を無視し、単にスキャンダラスに騒ぎ立てた報道に問題があった。だがタイのチェンマイという一地方都市が、日本人に記憶されたのはあの事件からだし、今も一面においてそういう街であることも真実である。



 佐藤は六十歳を目前にしてタイ国にやって来た。始めての海外一人旅だった。タイ語はもちろん話せない。英語もおぼつかない。それでもなんとかなるものだ。まずはバンコクで一週間過ごした。バンコクは猥雑なエネルギーに満ちた街だ。有り余る若さと好奇心を持て余している若人なら、世界で一番魅力的な街かも知れない。だが老後を穏やかに快適に過ごすという場所ではない。
 チェンマイに飛ぶ。以前の旅行で一泊二日だけ来たことがあった。すこしは土地勘もある。

 中流のホテルに泊まり精力的に街を歩き回った。ここだと思った。街の穏やかさ、賑わい度、物価、治安、すべてが理想的だった。息子達はそれぞれが月十万円ずつ、三人で計三十万円の仕送りをしてくれると言っている。それが生活資金になるはずだった。六十歳からは年金が下りるが、市役所で「そんなに元気なんだから六十五歳からにしなさいよ。その方が得ですよ」と言われてそう手続きしてきた。蓄えもそれなりにある。この街で暮らすにはそれほどの費用もかからないだろう。中流のホテルは一泊五千円ほどだが、日本の二万円クラスの設備だった。ホテル暮らしという訳にも行かないが、アパートを借りるとしたらどうしたらいいのか。補償金とか敷金なんてのはどうなっているのだろう。月に十五万円あれば十二分な暮らしが出来るように思えるがどうか。チェンマイを一人で歩きながら佐藤は計算する。
 目標のなかったこれからの人生に、小さな明かりが灯りつつあった。



 あっという間の一ヶ月の旅を終えて帰国する。住むべき街はチェンマイに決めていた。後は生活設計だ。精力的には動き回ったが、それはまだ街の大まかな探訪に過ぎず、調査と呼ぶにはほど遠かった。

 チェンマイは魅力的な街だった。不夜城と化すナイトバザールには、溢れるほどの商品が並んでいた。言葉の通じない売り子の娘と、指を立てたり首を振ったりして値切り合戦をやるのは、青果業時代の符丁を思い出させた。古い小さな写真をルーペで覗きつつ、驚くほどの精密な絵として復元させて行く絵描き達の前で、魅せられたように何時間も過ごしたこともあった。長男の勧めでアジアを選んだが、確かにここで得られる安心感には、同じ色同じ顔をした者同士だけが感じられる同胞的なものがあった。

 問題は食事だった。タイの料理は純粋日本料理好みの佐藤には辛すぎる。嫌いではないが毎日では耐えられない。日本食の自炊は可能だろうか。チェンマイに住んでいる日本人がいるはずだ。その人に当面の事を教えてもらうのが良い。どうしたら会えるだろう。たしか日本国領事館があった。そこで聞いてみるか。日本語の看板の店もあって入って見たが、日本人観光客向けの店で経営者は日本人ではなかった。

 半年間の準備期間を置いて、佐藤はタイ国へ三度目の旅立ちをする。土地勘もついていた。一人旅にも自信があった。ワクワクしながらの異国への旅立ちというのは、葉子を失くして以来始めての昂奮だった。二カ月の観光ビザでの訪タイだが、うまく居場所が決まればビザを延長し、好きなだけいようという決意を胸に秘めていた。タイに飛ぶ。バンコクで国内線に乗り継ぎチェンマイへ直行する。
 今から三年半ほど前の出来事である。



●小島との出会い

 何としても今回は日本人定住者と知り合い、それなりのノウハウを伝授してもらうのだと決意していた。積極的に日本語の看板を探しては飛び込んでみる。成果はあっさりと挙がった。ナイトバザールの近くに、『ゲストハウス・コジマ』というカタカナを見かけて入ってみると、一階が喫茶店になっており、明らかに日本人と解る、それもかなり旅慣れていると思える連中がたむろしていた。「どうも、はじめまして」という挨拶にみんなが笑顔で挨拶を返してくれた。
 短パンにサンダル履き、真っ黒に日焼けした長髪の青年が、やさしい笑顔で椅子を勧めてくれる。小島と名乗るこの青年がゲストハウスの経営者だった。

 小島誠は当時三十三歳。四国愛媛県の出身。東京での生活に飽きたらず、世界一周というよくある冒険を試みたが、出発点となるタイで途中下車したまま現在に至っている。何度かの東南アジア旅行を繰り返しつつ、本格的にチェンマイに移住を決め込み商売を始めたのはタイ人女性と結婚したからだった。十歳年下の女房であるレックはナイトバザールで売り子をしていた。冷やかしで店に通う内に片言の英語で恋愛が始まり、同棲から妊娠、正規の入籍に到る。

 タイ人女性と日本人の結婚は、女性が十代の場合は両親の承諾を必要とするが、二十歳を過ぎていれば本人同士の決断で実行できる。小島はレックの戸籍原本を英訳し、バンコクの外務省で確認した後、日本に持ち帰って市役所に提出した。書類さえ完備していれば簡単だった。「現地妻」のような形でタイ人女性と同居している日本人は多いが、タイ国と日本の両方に正規に入籍した小島のような例は珍しい。

 異国で商売をやってみたいという願望を持ち、父の遺産でそれなりの資金も用意してあった小島だが、思い切ってその道に踏み出したのはレックと出会ったからである。タイ人女性は小柄でかわいらしく、働き者ではあるが、同時に計画性のない楽天的な性格でもある。レックは違っていた。幼い頃、中国人の商家に養子に出され、商売の忙しさ、おもしろさを目の当たりにしていたということもあるのだろう、自分で店を経営するということに並々ならぬ熱意を持っていた。

 タイで商売をするために必要なのは、パートナーである。観光ビザで入国している異国人に経営は許されないから、実質的には金を出しているオーナーでも、書類上はタイ人の経営者を決めなければならない。全権をタイ人に委託するのだから、裏切られたらおしまいだ。日本人のたまり場となる喫茶店や、古本屋をやってみたいと思いつつ、もう一歩小島が踏み切れなかったのは、パートナーに対する信頼不足だった。何人ものタイ人と知り合い友好を深めたが、どうにも彼らはちゃらんぽらんである。まず時間にルーズだ。一時間や二時間の遅刻は当たり前だし、「雨が降っていたので行かなかった」というような言い訳が堂々と成立する。直情径行でもある。プライドを傷つけられカッとなると見境がつかない。陽気でいい加減な彼らは、気楽な友人としては最高でも、こと経営を委任すると考えると、どうにも不安になるのだった。

 レックはパートナーとしての経営的資質を有している上に女房であった。これ以上のパートナーはいない。入籍をきっかけに、彼女の熱望していたゲストハウスの経営を始める。異国人のパートナーとして女房ほど信頼できるものはない。一泊百バーツ(邦貨約五百円)ほどの、安ゲストハウスとしては平均的な値段の部屋を二十室用意した。階下は小島の希望でオープンスペースの喫茶店にした。資金は百万円でおつりがきた。

 レックは想像以上に優れたパートナーであり経営者だった。率先して仕事を取り仕切り従業員に指示を出す。白人に混じって日本人バックパッカー達も集い始め、ゲストハウスは繁盛していた。彼らにとってもチェンマイにやっと待望の日本人のたまり場が出来たのだ。生き生きと働くレックに時折指示を出される髪結いの亭主のような状況で、小島は今度日本へ帰ったら、古本屋巡りをして本を集めようと考えていた。日本人旅行者の文庫本や、白人旅行者のペーパーバックを買い取り流通させて行けば、趣味と実益をかねたなかなか良い商売になるのではないかとかねてから思案していたのだ。

 最近の小島の懸念はもうすぐ生まれる我が子にあった。入籍する時から覚悟していたものの、現実に二つの国の間に子供が産まれるという事は、やはり複雑な思いがする。自分は相変わらずタイ語は片言だし、レックは日本語を話せない。生まれて来る子は日本語とタイ語のバイリンガルになるのだろうか。これで自分はこの国に骨を埋めることになるのだろうか。いくつもの想いが小島の胸を駆け巡る。



 ゲストハウスに泊まるには服装も年齢も不似合いな佐藤が、おずおずと小島の店に顔を出したのは、ちょうどそんな頃だった。



  

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