小説 チェンマイのさくら

作 【油来亀造 YUKI KAMEZO】




§1.旅立ち


『サクラ』の遠景。1992年。赤い庇の部分である


●縁台将棋
「飛車取り!」
 角を手にしたパンチパーマの男が嬉しそうに駒を置いた。
「あれま、こう来るとこうなって」
 こりゃ参ったと呟きつつ、タバコを一服喫い、六十年輩のやせぎすの男が飛車を逃げる。うひゃうひゃと笑いつつパンチパーマが金を取って角が成る。今度は年輩の男が桂馬で角金の両取りを掛け、どんなもんだいという得意げな顔をした。
「それって」
まあまあまあ」
 スイカジュースを飲みつつ口を出そうとした縁なし眼鏡の男を、冷やし中華を口に運んでいた白髪の中年男が急いで止めた。
「名人戦には口出し無用ですからね」
 アイスコーヒーを口にしながら、どんぐり目の大柄な青年がニヤつく。
 将棋に多少の心得がある者なら一瞬にして読める三手の詰みがある。が、二人はそれに気づかず駒を取り合っては王手を掛け、詰むように逃げても詰まないように追いかけて、熱戦を繰り返しているのだ。

 蒸し暑い夏の午後。大通りの騒音が遠く聞こえてくる。一本路地を入ったここは、喧噪からも逃れ、のんびりとしたものだ。
 間口一間ほどの店構え。店の前は幅四メートルほどの路地。コンクリートの三和土(たたき)の上に出された丸テーブルの上で熱戦は展開されている。将棋盤はベニヤ板にフェルトペンで升目が書かれた手製のもの。駒は手垢のついた安物の書き駒。いくつかの欠けた駒は自家製の木片で代用されている。

 葦(よしず)で編まれた日除けの向こうから、時折ぬるい風が吹き込んでくる。店の奥行きは二間ほど。六人ほどが掛けられる店先に置かれた丸テーブルの他に、店内に同じ丸テーブルが一つ、四人掛けと二人掛けの角テーブルが一組ずつ置いてある。収容能力は、めいっぱい詰め込んで二十人というところだろうか。

 もったりとした熱気の中を、一瞬冷気を伴った涼しい風が吹き抜けた。
「そろそろ来るかな」
 年輩の男が言う。
「そろそろだね」
 店先から空を仰ぎ白髪頭が応えた。涼しい風は雨降りの前兆なのだ。
青空に、薄墨を撒き散らしたような雲が急速に広がりつつあった。
「ぼく帰ります。降りそうだから」
 店の中で漫画を読みつつトンカツ定食を食べていた青年が立ち上がり、「ビーちゃん」と声を掛けた。奥の厨房から眼鏡を掛けた三十歳前後の細身の女性が顔を出す。代金を払うと青年は急ぎ足でバイクに跨った。
「俺達も帰ろう。降るよ、これは」
 冷や奴をつつきながらビールを飲んでいた三人組も立ち上がる。
「マスター、ごちそうさま。また明日」
「はい、ありがとね。いつもいつも」
 将棋を指していた手を止め、年輩の男が立ち上がり、笑みを浮かべて礼を言う。



 彼らが去ってしばらくの後、パラっと大粒の水滴が落ちた。店の前の路地を一粒濡らしたかと思うと、それはトタン屋根を叩くバラバラという痛そうな音を伴って一気にやってきた。
「来た来た来た」
 颱風の到来にはしゃぐ子供のような声をあげて、三和土に居た五人の男が丸テーブルを持ち、店の中に引きずり込む。葦に吹きつける激しい雨は、その隙間からもはじけ飛び、アッという間にコンクリートを濡らして行く。
「ここでもう一度王手ね」
 濡れた髪を拭きつつ年輩の男が言う。熱戦はまだ終らない。

 終い忘れた看板が大粒の雨に打たれている。白ペンキの塗られたベニヤ板には、赤文字で上段にまず「いらっしゃい 日本食あります」とあり、ついでラーメン、チャーハン、オムレツライス、トンカツ定食、冷やし中華とメニューと値段が並んだ後、最下段に「さくらレストラン」と書かれている。ラーメンで二十バーツ、百円弱というところか。レストランというよりは、田舎の食堂といったほうが適切だ。看板の字に大小があって不揃いなのは、マスターと呼ばれた年輩の男のお手製だからだろう。服装はみな半袖シャツにサンダル履き。若者は短パンだ。日焼けした肌は浅黒い。

 一昔前の田舎ならどこでも見かけた縁台将棋と夕立。夏の日の午後という有り触れたこの光景は日本ではない。タイ国チェンマイ市の路地裏のひとこまである。
 マスターと呼ばれた年輩の男、佐藤平吉がこの『レストラン・さくら』のオーナーである。正確にはオーナーでもマスターでもなく、ただの出資者なのだが、その辺の事情は追々述べることにしよう。



●佐藤の生い立ち
 佐藤平吉は昭和四年に神奈川県座間市で生まれた。七人兄弟の六番目になる。実家は中規模の農家だった。旧制中学の時に終戦を迎える。何もかもが一変した街の熱気に誘われるように、佐藤は中学を中退し進駐軍の下働きを始める。米軍払い下げ品の運搬が主だった。より大きな運搬をするための免許は米軍が取らせてくれた。座間キャンプの飛行場にドラム缶を並べた即席の教習所の中を、米軍の教官の指導の元に大型トレーラーを走らせる。それでOKだった。当時取得したおかげで、今でも佐藤の自動車免許は自動二輪から大型、大型特殊まで全てに○がついている。

 当時佐藤が凝っていたのは社交ダンスだった。毎週通い詰め一年二カ月ほどで神奈川県の教師免状を取得する。昭和二十五年だった。今も大切にしている色あせた当時の会員証には、「神奈川県舞踏教師資格認定証 湘南社会舞踏教師会 会長 白井正美」と記された横に、若き日の、いかにも伊達男という感じの佐藤のすました写真が貼りつけられている。

 新宿コマの地下、新橋フロリダ、銀座ミマツ等の都内のダンスホールに座間から通い、踊り明かすのが佐藤の青春だった。ダンス教師である佐藤は教え子やホールで知り合う女性からも「先生」と呼ばれてもてたものだった。子供の頃から佐藤は実家の裸馬を乗りこなしてきた。リズム感の良さは乗馬で得たものだった。馬は三拍子で乗る。三拍子のリズムを持たない日本人はワルツを苦手とする。佐藤が最も得意にしたのがワルツだったというのはあながち乗馬と無関係でもないだろう。何人もの女子大生と知り合い、クラシック音楽のコンサートに招待されたりしている内に、無学を恥じた佐藤は、意を決して慶應義塾大学の聴講生になったりもした。

 ダンサーとしての頂点は、箱根で行われた舞踏教師関東選手権だった。ワルツの部門に神奈川県代表として出場した佐藤は見事二位に輝いている。テーマ曲は「水色のワルツ」だった。

 お茶の水女子大や昭和女子大のガールフレンドに恵まれていた佐藤だったが、初めて心を燃え上がらせたのは、地元の座間のクラブに社交ダンスを習いに来る十七歳の娘だった。楚々とした娘の風情に恋した佐藤は熱心にプロポーズする。警察官の父親が手放さない十七歳の娘を娶るには実績を作ってしまうことだと決意した佐藤は、ダンス帰りの月の夜、麦畑の中で実績を作った。後に彼女が、佐藤の最愛の妻・葉子となる。自宅で式を挙げたのは、昭和二十八年。新郎二十四歳、新婦十七歳の秋だった。既に佐藤の父は亡くなっていたが、家を継いでいた長兄が分家扱いで座間に家を建ててくれる。それが新居となった。



 結婚当時、佐藤の仕事は進駐軍の要人の送り迎えであった。結婚を機に不動産会社へ転職する。葉子のためにごく普通のサラリーマンになろうと思ったのだ。会社の給料は良かった。葉子との日々は楽しかった。結婚後、間もなく麦畑での実績は長男誕生となって現れる。二十代の内に三人の男の子に恵まれ満ち足りた生活の中で、佐藤は次第に仕事に物足りなさを感じ始める。商売がしてみたかった。自分の才覚で浮き沈みのある生活にチャレンジしてみたかった。日銭の入る商売ということで魚屋か青物屋に狙いをつける。魚捌きが出来ないからという単純な理由で青果業に決めた。三十二歳の決断だった。

 座間の家を売却し大和市に小さな店を構えた。不慣れな商売の苦労も葉子と二人なら楽しかった。いや、苦労らしい苦労はした覚えがない。団地の近くという場所にも恵まれていた。笑顔を忘れず腰の低い佐藤に商売の才覚があったのも確かだろう。青物だけで始めた店は、味噌が欲しい醤油が欲しいという注文に応えて品数を増やしていく内に、いつしか何でもありの乾物屋の様相を呈していた。仕入れるそばから売り切れていく程の好調さだった。

「冬の雨の日にお客さんが買い物に来てくれるでしょう。傘を差してねえ。こちらはストーブの前で雨にも濡れず寒い思いもせずにいるのにね。ああ、ありがたいことだ、わざわざウチまで買いに来てくださってありがたいことだって、心の中で手を合わせてましたよ」
 そう素直に言える佐藤には、根っからの商人気質があったのだろう。

 そのころ小学校の同窓会で会った幼なじみに、いま八百屋をしていると言って驚かれたことがある。「だって平吉さんは、わたし達が田植えしている側を、白の背広にエナメルの靴を履いて歩いてた人でしょ」と。

 ダンスに凝っていた伊達男の時代だ。今でもステップは踏める。一度覚えた芸というのは忘れないものだ。だが自分にとっての社交ダンスとは、葉子と出会うための助走路だったのだと佐藤は思う。
「いったいおまえ達は何着学生服をもっているんだ」と、子供達が教師に訝られたことがあった。実際は二着しか持っていなかったが、交代で着せ、毎日アイロンを掛ける葉子のケアがしっかりしていたために、いつも新品の学生服を着てくるのではないかと教師の誤解を招いたのだ。葉子は、夫が子供が自慢する妻であり母であった。

 店は順調に発展しパートの主婦二人を常時雇うほどになる。高校を出た長男は美容師の道を選ぶ。美容学校でのインターンを終え、ロンドンに二年ほど留学した後に店をもたせてやった。次男も兄と同じ道を志す。店を継ぐのは三男になる。三男もそれを了承した。今風のコンビニエンスストアに改築することを条件に。
 何一つ傷のない幸福な家庭だった。

 結婚してからも葉子とはたまに踊りに行った。夫婦でボーリングに凝った時代もあった。二人だけでよく三泊四日ほどのドライブ旅行もした。連休の張り紙を出しスポーツカーで出かける二人は、よく近所の人に冷やかされたものだった。佐藤は七歳年下の妻が可愛くてしょうがなかったと今でものろける。子供達があきれるほどの仲の良い夫婦だった。



 不幸は突然にやってきた。食欲不振を訴えていた葉子が急激に痩せ始めたのだ。胃潰瘍の診断が下され緊急入院となる。佐藤はこの時点で医者から葉子の病名は癌であるという宣告を受けた。うろたえた。生まれて初めて何をしたらいいのか判らなくなり、ただうろたえていた。
 胃のほとんどを摘出する手術の後、葉子は全快する。家に帰り、今までにも増して元気に、妻として母として完璧な日々を過ごした。蝋燭が消える前の輝きという陳腐な喩えを思い出すほど、一度帰ってきてからの葉子は元気ではつらつとしていたと、佐藤は今、不思議な気持ちで振り返る。

 もしかしたらこのままでという佐藤の願いは、一年半ほどで断ち切られる。葉子の顔色が急激に悪くなり体調不安を訴えた。再入院したとき、開腹した医者は既に手術さえ無駄な状況と宣告した。全身に癌が転移していた。葉子は自分の病名を知っていたのだろう。穏やかな微笑みとありがとうという言葉を残し、十七歳で娶った最愛の妻は、四十五歳で旅立って行った。

 長男は既に結婚し子供も産まれていた。佐藤ゆずりの商才で2号店を出すほど経営は順調だった。長男の下で働いていた次男は運送業に転身し、これまた十人ほどの従業員を使うほどになっていた。高校を出たばかりの三男は、店の跡継ぎとなることを了承し、経営のいろはを勉強し始めていた。葉子は子供達の将来を見極めると同時に逝ったようなものだった。

 葉子を失った佐藤には生きるべき道しるべがなかった。とりあえずまだ若い三男が心配だったが、経営を委ねられた三男は母を失った悲しみを仕事で忘れるかのように頑張り、一年も経つと安心して任せられるほどになってきた。

 佐藤のあまりの意気消沈ぶりに、気晴らしをしようと商売仲間が声を掛けてくれるが、とてもそんな気にはなれない。振り返ってみると、二十四歳で葉子と結婚して以来二十八年間、浮気はもちろん風俗営業の店などにも全く縁のない毎日だった。葉子といることが楽しく、子供達が可愛く、浮気などということはおよそ考えたこともない日々だったのだ。一周忌が明けたとき、佐藤は同業者の誘いに応じる。初めて行った風俗店は二十八年間家庭にこもっていた佐藤には、目のくらむようなまばゆい世界だった。佐藤は遊び始める。妻のいない憂さを晴らすかのように、一緒に生きるパートナーのいない寂しさを振り払うかのように、佐藤は懸命に遊び呆けた。

 次男も三男も結婚した。孫にも恵まれた。親戚や近所の世話好きは再婚を勧めるが佐藤に全くその気はなかった。見合い話は全て断り続けていたが一度だけだまされるような形でしたことがある。姉に呼び出されて喫茶店に行くと一緒に女性がいたのだ。亭主とは死別したという。穏やかな美人で、しっかりした性格が読みとれた。話している中に自分には出来すぎの人だとさえ思った。そう思いつつもその女性に興味のない自分を知ったとき、佐藤は居場所のない自分を確認していた。自分の中の妻という部分には今も葉子がいた。それはどんな女性でも入れない聖地だった。残された時間の中を、ひとりで歩いている自分が見えた。子供達も育て上げた。これからが第二の人生だ。だけどもう葉子はいない。葉子のいない人生をこれからもひとりで生きて行くことを考えると、佐藤の前には、果てしない闇が広がるのだった。



 いつしか佐藤は、老後を外国で暮らそうと考え始めていた。いつその考えが浮かんだのかは記憶にない。六十歳になったら日本を出て外国で暮らそうと漠然と考え始めていた。一人の男が妻を娶り夫婦となる。子供を作り育て上げる。そして妻を失った。もう一度娶る気はない。とすると自分は、男としてオスとしてもう用なしなのだろう。かといって家を継いだ三男の家にとどまり、店を手伝い孫と遊ぶ日々を是とする気もない。いい年をして始めて知った風俗遊びも、一時は物珍しさから入れあげたものの、熱が過ぎれば空しかった。まだ五十代の佐藤は、百七十センチの長身に柔軟で頑強な体を誇っていた。当然男としても現役であった。だが既に子育てが終了し再婚する気など毛頭ない日本では、人生をリタイアしなければならないのだ。

 毎日十分に忙しかった。三十代で脱サラし、まったくの新参者として関わった青果業界では、いつの間にか地区の副会長を務めるほどになっていた。町内の自治会長も無理矢理頼まれたとはいえ引き受けている。引き受けた以上は全力を尽くすのが佐藤の身上だ。懸案となっていた町営ゴミ処理場の建設に奔走する。現地視察。陳情。説明会。やるべきことはいくらでもあった。時間はいくらあっても足りないほどだった。しかしそれはかつてのような充足感をもたらすものではなかった。思いきり大空を遊泳はしているものの、家庭という根本から糸の切れてしまった心許なさを常に意識せねばならなかったからだ。

 外国で暮らそうというのは、そういう毎日の中から自然に浮かび上がってきた考えだった。外国に何かを期待しているわけではない。元々海外になど興味はない。商店街の旅行で三度程近場の国に出かけたことがあるだけだ。ただ見知らぬ土地で暮らせば、今の煩わしさからは逃れられる気がした。逃れたい煩わしさとは、現実の人付き合いではなく、自分が既に任務を終了したオスであるという認識からであるような気もしていた。



 老後を外国で過ごす計画というのは当時すこしばかり話題になっていた。新聞雑誌に「シルバープラン」というような名で広告が掲載されたりもしている。何千万円かの入所料を払い、医者等も完備したリゾート地で老後を暮らすという、いわば外国で暮らす高級老人ホームのようなものだった。そういう広告の中から佐藤は、まずはスペインを第一候補に選びパンフレットを取り寄せてみた。

 計画は内緒の内に進めたが、郵送されてくるパンフレットの量と佐藤の態度から、まもなく息子達の知るところとなる。息子達は考えようによっては世間体の悪い、父の選択したこの大胆な計画に、誰一人反対はしなかった。それどころか、父さんがほんとにそうしたいのなら、自分たち三人が必ず仕送りをして、経済的な不自由はさせないとまで約束してくれた。その信頼は佐藤が再婚しなかったことから生まれていた。子供達にとって誇るべき愛しい母がこの世でただ一人であるように、再婚を拒んだ佐藤は、子供達から絶大な信頼を寄せられていたのだ。

 唯一の意見は、長男からの「白人国よりもアジアの国の方がいいよ。なるべく安全な国のね」というものだった。ロンドンとパリで美容師の修行をした経験を持つ長男は、白人の黄色人種に対する差別を経験していた。パリでの修業時代、まだ洗髪専門という見習いの頃、「黄色人種に髪を洗われるのはイヤだ」と拒んだフランス人が多々いたという経験談が、佐藤の目をアジアに向けさせる。すぐに一度だけ行ったことのあるタイが浮かんだ。バンコクとチェンマイを一週間ほどで周遊する有り触れたパックツアーだったが、気候の良さと治安の良さはとりわけ印象的だった。

 早速タイ国大使館の住所を調べ「貴国に永住したいのですが、いかなる手続きが必要でしょうか」という手紙を書く。わずか一週間ほどで数冊の英文の案内書が届けられた。一庶民からの問い合わせに対するこの迅速な応対はタイに対する佐藤の好感を益々深めることになった。封筒の切手代を合計すると二百八十円にもなるのだ。その心遣いが嬉しかった。タイ大使館に丁重な礼状と五百円分の切手を返送した佐藤は、英語で書かれた案内書を辞書片手に読むよりも手っ取り早くと、二ヶ月の観光ビザを取得し、第二の人生を過ごしたいと願うタイ国へと旅立つのだった。


  
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