オオかダイか!?

「掲示板Mone's World」に以下のような文章を書いた。日附を見ると今年(01)の三月のようである。




●全然わかる!?

 私たちの世代にとって「全然」とは、否定に繋がる言葉であった。「全然」の後に来るのは「全然カッコよくない」のように、「ない」のつく否定でなければならなかった。肯定は「断然」である。「断然カッコいい」と「全然カッコよくない」が常識であり、国語の問題に出てもそう応えるよう指導されてきた。

 ところがいつしか全然は肯定の意味に用いられるようになっていた。「全然カッコいい」なのである。これには戸惑った。
 言葉に関し私は保守的な人間ではない。言葉とは人の使う道具である。道具は時と場合に合わせ変化して行くのが自然であると割り切っている。真に保守的である私の母は、姉の言った「あの人はわたしよりもイッコ上で」という言いかたに対し「年齢とは一歳,二歳で数える。イッコ、ニコではない」と真剣に怒ったりする。こういう時、一応物書きである私も意見を求められるのだが、私は「言葉とは通じることが最善だから、意味が通じていればそんなことはどうでもいい」と姉の肩を持つ。さらには「そういうことを言って話の腰を折る方が問題だ」と言って、私を味方のはずと思っていた母をしらけさせる。

 姉がなぜそのような幼稚な言葉を使うかといえば、娘(小学校教師)が使うからである。学校でもそう使っているのだろう。それが時代の趨勢なら、それに従うのが楽でいい。私はまともな文章では「一歳年上」と書こうと思うが、現実生活では「イッコ上」でもいいと思っている。

 とまあ頑固一徹ではないつもりの私なのだが、この「肯定の全然」にはどうにも馴染めなかった。理で認めねばと思いつつも、感覚がついて行かないのである。それでも数年前、将棋の羽生名人(たしか七冠全制覇で世間の話題を集めていた頃だ)が、「全然うれしいです」のような言いかたをしているのを聞いたとき、違和感を覚えつつも、これはもうそういう時代が来てしまったのだと覚悟を決めたものだった。

 学生時代から今にいたるまでお世話になりっぱなしのM先輩は、放送プロデューサーである。今は自分の会社を作り何人かの若いディレクターを雇用している。先日、久しぶりに先輩と飲んだとき、私はこの問題を相談した。私よりもずっと理知的で、工学部出身なのに国語がいちばん得意という人だから、私の嘆きに賛同してくれると思ったのだ。私は世の趨勢から置いてきぼりにされているようで味方がほしかったのかも知れない。

 なのに先輩は私の意見に笑顔でうなづきつつも、日常として「全然を肯定的に使っている」と言ったのである。またしても時代は私の思っているよりも先を走っていた。好んで使用しているのではないらしい。大事なのは言葉本来の目的である意志の疎通だ。二十代の部下、あるいは周囲の放送局関係者が、全員「全然を肯定的に使っている」のに、自分だけ否定的に使っていたら仕事に齟齬が生じてしまう。万事おとなである先輩は、周囲の使用法に同調しているということのようだった。言葉とはそういうものである。先輩の融合の仕方は理想的とも言える。

 このとき先輩から、『週刊文春』の『お言葉ですが……』で名高い高島俊男さんも、この「肯定の全然」を容認するようなことを書いていたと聞いた。私はその号を読んでいない。外国に居るときのものだったのだろう。いくら尊敬する高島さんがそうだったと教えてもらっても、まだ私には納得しがたかった。
 というのは、高島さんの人気コラムは、今では全国の言葉うるさ型山伏の修験の場のようになっており、一般的レヴェルとはかけ離れてしまっているからである。例えば「汚名挽回」である。これが誤用であることは誰でも解るだろう。汚名を挽回してもしょうがない。「名誉挽回」と「汚名返上」が混同した慣用句の誤用として最も有名な例である。

 ところが高島さんクラスの言葉使いになると、これすらも反対意見が出てくるのである。「汚名返上、名誉挽回をまとめて汚名挽回と言うような言いかたは、××にも記されており、一概に汚名返上は間違いとは言えない」なんつうスゴい意見が寄せられ、それに対して高島さんも、なるほどそれも一理あるなどとやっている。これはもうフツーの世界ではない。私はごくフツーに「汚名挽回は間違い」でいいと思っている。そういう凡人言葉使いである私が、「近頃の全然の使いかたには納得できない」と高島さんのところに駆け込み寺しても、素直に助けてもらえるとは思っていなかった。だからそのこと自体はそれほどのショックではない。期待していた味方が減ったという失望はあったが。



 脱線するが、このときM先輩と「バカチョンカメラ」について話しているので、ついでだから書いておこう。
「バカチョンカメラ」という言葉がある。「バカでもチョンでも使える、取り扱いが簡単なカメラ」という意味だ。この場合の「チョン」とは、チョンマゲなどにも通じるチョンであり、「さしてたいしたことのないもの」という意味になる。十返舎一九の『東海道中膝栗毛』にも「バカでもチョンでも」と出てくる由緒正しい日本語なのだ。今風に解釈するなら、「バカでもチョンでも」は、「バカでもアホでも」とか「バカでもマヌケでも」のような重なり強調になるだろう。

 ところが朝日新聞的バカチョンマスコミと戦後民主主義に毒された日教組により、「このチョンというのは朝鮮人を差別する用語として使われたチョンであり、『バカでも朝鮮人でも使える』という人種差別用語であるから使ってはならない」となってしまったのである。典型的言葉狩りの悪しき一例である。
「バカチョンカメラ」のチョンは、朝鮮人に対する蔑称であるチョンとはなんの関係もない。言葉の成立の時からしてずっと古い。こういう「音にこだわった無意味な言葉狩り」こそ真に唾棄すべきものである。今の世の中でいちばんのバカチョンは、そういう自虐史観でもって日本語を制御し、そのことに酔っている朝日新聞的サヨクであろう。

「パソコン壊れ事情」という拙文に、「気が狂れる」という箇所がある。「狂れる」が辞書になく自分で登録せねばならなかった。精神異常者やその家族に気を遣い、日常の言葉使いを制限することと、日本語IMEからそれらに関する言葉を制作者が削除してしまうのはまったく別問題だと思うのだが。



 閑話休題。「全然」の話にもどる。
 私が全然を昔と同じように否定的にしか使わないこと。先輩が、私などとの交友には使わないが、若者との会話では今風に使いこなしていること。羽生に代表される有名人若者が自然に使っているのを聞いて、私ももうそれを認めざるを得ないと思ったこと。それらはそれなりに釣り合いがとれている。「全然」をどう解釈するかということに関して、私に現実的な問題は生じていなかった。私だって全然が副詞として英語のVeryの意味があることぐらい知っている。言葉は意志疎通の道具だから、私の接する人との間で会話が成立していれば、どうでもいいことなのである。そのはずだった。

 ところがつい先日、私は破綻を経験した。相手は編集者のYさんである。彼は三十代後半になる。彼と電話で打ち合わせをしていた。私は取材旅行の件で早急に彼と会わねばならない状況にあった。でもここ数日の彼が校了間際で、一ヶ月の内でもいちばん忙しい数日であることを私は知っていた。まあ会うだけならできる。でも私の場合、「会う」とは「会って酒を飲むこと」を指している。

 私は訊いた。「きょうあたり、会いたいよね。でも今夜は忙しいんでしょ」と。
 彼は応えた。「全然」と。
 私はそれを「全然忙しくない」と解釈し、「えっ、今夜時間あるの?」と尋ねてしまったのである。そうではなかった。それは「全然忙しい」という意味だったのである。

 「全然」が肯定の強調語として、ブラウン管の向こうから現実の私の前に初めて姿を現した瞬間だった。それまで私は、テレビを見ていてタレントが口にするその使用法に違和感を覚えてきたが、実際に交友のある生身の人間から聞いたことは一度もなかったのである。私は十歳年下のYさんを、私側の人間と思いこんでいた。しかし彼はあちら側だったのである。これは小さなことのようで衝撃的な出来事だった。「肯定の全然」は、M先輩やYさんなど、現実世界に生きる人たちの間では、もう常識になっていたのだ。田舎で花鳥風月を愛し隠遁生活をしているような私だけが、「全然」世間から遅れていたのである。(←おぉ、その気になれば使えるではないか。)

 言葉は時代という旦那に従う芸者である。これから全然は、益々「全然カッコよくない」ではなく、「全然カッコいい」の時代になって行くのだろう。私もまたそういう言葉遣いの人たちとつきあってゆくために、この用法に慣れねばならない。これはけっこうキツいような気がする。だが編集者から仕事を発注してもらって生きている身としては、彼らと会話ができなければ干上がってしまう。慣れねばならない。これはもう全然楽じゃない。いや、こんな使いかたはもう止めねばならないのだった。全然困った。全然どうしよう。全然苦しい。
(01/3/28)





 附記だけどいちばん肝腎なこと──2008/5/5

 上記は2001年の3月である。いまは2008年の5月だ。7年経っている。この間、ずいぶんといろんなことがあった。父が2004年に、母が2007年に死んだ。

 高島先生の『お言葉ですが…』も連載が終ってしまった。「ウェブ草思」でまた始まったので楽しみにしていたが、それも身心不調ということから中断し、草思社そのものが倒産してしまった。

 つい先日、横浜のKさんというかたからうれしいメールをもらった。昨年から高島先生に興味を持ち、熱心に読んでいるとか。ネット検索のどこかで私のこのページが引っ掛かり、来てくれたのだ。熱心に読んでくれたらしい。ありがたいことだ。

 それで今日は、深夜に時間が出来たとき、「《『お言葉ですが…』論考》の中の誤字捜しをしようと思いたった。Kさんが読んでくれて気づいたはずのいくつかを直しておこうと思ったのだ。

 始めてすぐこの「全然違ってた」を、誤字云々以前に未完のまま抛り投げていたことに気づいた。しかもへんにまとまっているから未完であることすらわからないようになっている。でもまともにタイトルから読むと、「全然違ってた」なのに、「なにがどう違ってた」かが書いてないことに気づく。
 ということで、7年ぶりに結論を書くことにする。いや結論は簡単なんだけど(笑)。



 要するに、「私は高島先生は私側だと思っていた」のである。私側とは「全然を否定の意味で使うひと」だ。でもそうじゃなく、髙島さんは今の若者が使うような肯定の意のぜんぜんを使い、否定の意でのみ使うべきという読者から抗議されていたのだった。読みもせず推測していたこととはぜんぜん違っていたのである。
 私は未だにぜんぜんをVeryの意では使えない。



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