「弁える」の愚

 Wikipediaにはやたら読みのむずかしい漢字が登場する。頻繁に登場する「弁える」を見かけるたびに、このひとはなぜこんなのを使うのだろうと思ったという話。
 《Wikipediaではやたらに不要な漢字を使うひとが多い。「弁える」はその代表だ。くだらん漢字使用だ。いきなり「弁える」などと出てくると思考が停止する。「弁える=@なんだこれは? ああ、わきまえるか」と、なんとか一応は読めるのだが、停止の瞬間がかったるい。しかも、そもそもその文中に「わきまえる」という日本語が必要とは思われない。奇妙な使用法だ。唐突に登場する。このひとは「弁える」と書きたくて無理矢理ここに使用しているのではないかとすら思えてくるほどだ。》

 というWikipediaの文を批判したテーマをブログに半端に書いたままなので、その続き。



 『お言葉ですが…』の初期のテーマに「全部ベンの話」というのがあった。何巻のどこかまで覚えていないのであとで記入するとして、以下はそのとき覚えた話。ノートに手書きして「ベンの字」を覚えたものだった。漢字は書かないと覚えない。一度覚えると、いまこうしてもスラスラ書ける。勉強は愉しい。それを教えてくれる存在のありがたさよ。先生の御健勝を心から祈りつつ。



 敗戦後、当用漢字制定により多くの漢字が使用停止となり同じ音の字で代用されるようになった。
 「ベン」の字で言うと、

──しゃべるという意味──雄辯、辯護士、

──区別するという意味──辨別

──編むという意味──辮髪

──花びらの意味──花瓣

──とりしきる──辧公室

──冠、帽子の意味


 これらをみな最後の「弁」にした。なんとも乱暴な話である。よって、雄弁、弁護士、弁髪、花弁となった。それで育っている世代なので格別の不満もないが、使い分けていた世代にはなんともたまらない感覚だろう。しかし不満を感じない戦後世代ではあるが、「弁える」なんてのを多用するひとの文に出会うと、こういう不快は感じるわけだ。

 それ以前に「わきまえる」に当てられていた漢字は「」の「ベン」である。もともと「わきまえる」に「辨」を使うことが当て字であり意味のないことなのに、その字が廃止され、まったく意味の異なる「弁える」を使うなんてのは滑稽でしかない。どうしても使いたいなら「辨える」にすべきだろうが、しかしそうする意味はない。「わきまえる」がいいし、話は原点にもどるが、どうにもその文章で「弁える」と使う意味が見えない。ほんとに、「このひとは弁える≠ニ書いてわきまえる≠ニ読むのだ。どうだ、読めないだろう、おれは読めるんだぜ」ということを言いたくて使っているのではないかと疑いたくなる。

 高島先生が漢字に関して一貫して主張しているのは、「やたら漢字を使いたがるひとは無教養、過剰に横文字(カタカナ英語)を会話に入れるひとと同じ」である。渡来語という虎の威を借りて自分を大きく見せようとするのだ。ところが日本人の漢字崇拝というのはまだまだ根強く、
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