苗字はむずかしい
 私がこの問題に初めて直面したのは「世論」だった。読みかたは「よろん」か「せろん」かである。中学から高校にかけての頃だ。どうやら本来は「よろん」が正しいらしいと知るのだが、「せろん」でもいいのだのような意見もありどうも釈然としない。ことばに関しては「通じればいいのだ」が基本と思っているから、会話で通じさえすればどっちでもいいと思う。ただ子供心にこういう混乱があるのは日本語の缺点だなと思ったものだった。

 次に覚えているのは退廃だ。習ったのは中学生時代か。この字で覚えたからこう書く。辞書もそれを支持している。しかし二番目に必ず「頽廃」とある。私は昔も今もめんどくさがりだから画数の多いむずかしい字をきちんと書いたりするのは嫌いだ。いつも「退廃」と書いていた。高校生の頃である。しかしリッパな小説はみな「頽廃」だし、大学になってから手紙を交換する有識の連中(文学部なんぞに行っている物知り)はみな「頽廃」と書いてくる。
 次第に私もそう書くようになるのだが、それは「そっちのほうが歴史があるらしい」「みんながそう書いているのに自分だけ簡単な漢字で書いていたら軽んじられる」程度の感覚で違いについてはよくわかっていない。「退廃」と「頽廃」と字の違う同じ意味のことばがあり、「退廃」も正しいのだと思っていた。実際学校の漢字の試験じゃこれでよかったわけだし……。

 やっとおとなになってから「『よろん』とは本来『輿論』であり、その輿の字が当用漢字外になったから、と読めるを当てはめたもの」と知る。「世界の論」は関係なかったのだ。起源を知ればあきらかに日本語として「せろん」は間違いになる。輿論をせろんと読むはずはないのだから。
 そういうことを学ぶのが学校であり、それを教えてくれるのが先生だと思うのだが、残念ながら私は国語の時間にそれを教えてもらえなかった。同じく「退廃」も「頽廃」の「頽」の字が使えなくなったから単なる意味のない当て字なのだと知る。これまた「退く」は関係なかった。「タイ」という音からの当て字である。すべては「当用漢字」という名の漢字制限による弊害だった。

 ひどい話だなあと憤り、それ以後は気づくたびに本来のまともな字を使うよう心がける。しかし無知ゆえ、また現実の軽薄なものかき業のルールもあり、なにもかも本字(旧字ではなく!)にするわけにも行かない。それでも当用漢字が作り出した意味不明な新語はなるべく使わないようにした。三十歳前後か。そう思いつつもたいした進歩もなく不勉強なまま十年経過。
 そうして『お言葉ですが…』に巡り会う。

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 『お言葉ですが…』を手にせずにいくつか思い出せる、高島さんが憤っていたもの。
 「抽籤」の言い換えである「抽選」。これは「籤=くじ」がなければ意味がない。同じ音の選を当てるなんてのはひどい話だ。そのことを自覚し、かといって籤の字はむずかしいので、近頃では「抽せん」と書く表記も増えてきた。これはどう解釈すべきだろう。抽選よりは良心的(?)とすべきなのか。籤の字は画数が多い。高島さんは「抽籤」なんて言葉にこだわらず、「くじ」と言えばいいと言っている。

 銓衡選考。これなんか両方とも違ってしまった。こうなると造語とか当て字クイズの世界である。でも本来の銓衡の意味から言えば「選んで考える」はどう考えてもおかしいのである。

 交差点。これも交叉点の字が選に漏れたので差の字を当てたという。差の字は叉と音が同じなだけで叉の意味のクロスするとは無関係である。まったく意味不明なことばになった。高島さんは交差点なんてわけのわからないことばは使わず四つ辻や十字路を使えばいいという。それはそうなのだけれど、当用漢字を見直して叉の字を復活させるのが先のように思う。


 しかしまあなにがおどろいたといって、高島さんに教えてもらった「当用漢字の意味」ほどあきれたことはない。私はそれを「当面誰もが使用する漢字一覧」と解釈していた。中学の頃は「当用漢字表」でよく読み書きの試験をやらされたものだった。長じて当用漢字に不満をもつようになっても基本として好意的だったのである。

 ところがこれは「そのうち全面禁止する予定の漢字っつう古くさいどうでもいいものの中で、とりあえずいまのうちだけ使用する(当面使用する)ものを決めた漢字」の意なのだそうだ。

 アメリカが、気の強いチビである日本が二度と自分たちに逆らわないよう、精神的礎を取り払ってしまおうと考えたことのひとつ、漢字全面使用禁止から発している。それに洗脳された「日本語ローマ字化」を提唱する連中、そういう漢字禁止の風潮の中からとりあえずと制定されたのが「当用漢字」なのである。

 前提が「そのうち全面禁止する漢字」なのであるから「当用漢字」を制定した連中に漢字に対するいつくしみの心などあるはずがない。もしもこれが戦勝国からの命令であったとしても、漢字をこよなく愛する人たちが「日本人が当面使用する漢字」として「漢字を護ろう、日本人の漢字文化を廃らせるな」と熟考の後に制定したものなら、もっとちがった形になったろう。輿論を世論、頽廃を退廃、銓衡を選考、交叉点を交差点とするようなことは起きなかったに違いない。私のような戦後生まれが意味のない当て字漢字で混乱し、戸惑うことも起きなかったのである。つまりはこれ、人災である。

 では今、人災が収まりつつあるかというとそうではなく、大手新聞の煽動により火勢は拡がっていると言えよう。それへの抵抗が蟷螂の斧でも、この姿勢は保ち続けたいと思う。なにより、この姿勢だと、言葉を学ぶことの満足感がまったく違ってくるからである。
(『お言葉ですが…』を読み返したり、日常の中で気づいた言葉があったらずいじ補足してゆく予定。)
(03/9/1)





 そういえば「付属」の話があった。高島さんがゲラチェックを忘れたために附属中学の附属が付属になってしまったということから始まる。
 これまた当用漢字の罪である。付と附はまったく意味の違う漢字であり、附属とか附録を付属、付録にしてしまうのはひどい話であるという。そうなってしまったのも附の字が当用漢字から外されたからなのだ。

 そのことから注意して世間を見てみると、名のある附属中学の金属プレート等はみな附属と書かれていると気づく。またあたりまえだがまともな単行本類でもみなこの種のことは附属と書かれていた。というか古い本には付属なんて言葉が見あたらない。間違いであり存在しなかったのだから当然だろう。書き取り試験で「付属学校」と書いたらバッテンだったわけである。

 しかし漢字というものを当用漢字で学んだ私は「付属」と習っている。そう書いてきた。辞書にもそう載っている。また当然当用漢字から作られているワープロ類(=IME)も、ふぞくは付属と変換する。よってネット上の文章はまず付属だ。
 この種の辞書に関していつも思うのだが、なぜそれを教えてくれないのだろう。広辞苑を始めとする身近な辞書はみな、ふぞくを引けば「付属・附属」と並列表記し、付属学校、付属品と書かれている。付と附の使い分けなんてもうどうでもいいのだろうか。当用漢字の罪は重い。





 総選挙。各党党首、幹事長の論争。共産党の志位書記長が「セロン」を連発するのが印象的だった。48歳だったか。
(03/11/3)






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