正反対の誤解
ベッドに寝転がり、『お言葉ですが…』B「せがれの凋落」を読んでいた。
 タイトルになった「せがれの凋落」の附記の部分が目にとまった。
『お言葉ですが…』単行本の楽しみは、週刊誌に連載したあとの読者からの質問に応えたり、勘違いを指摘されての手直しであるこの附記「あとからひとこと」だ。さらにこのあと文庫本では、単行本への感想意見からの手直しがあるから目が離せない。連載時では白と書いたものが、読者からの指摘で単行本では黒となり、しかしまた単行本を読んだ読者からの指摘とその後の高島さんの研究で、文庫本では、やっぱり白になっていたりするのである。

 雲南で読んだときから心に残っていたのでぜひとも書こうと思っていた箇所にまた出会った。雲南で読んだのは文庫本の方。タイトルは「明治タレント教授」。
 別項の「著作リスト」であらためて感想を言うつもりだが、「せがれの凋落」と「明治タレント教授」は、共に収められている一章の見出しから来たタイトルである。高島さんは「せがれの凋落」が気に入って本の題にした。文庫本にするとき編集者は「明治タレント教授」の方が世にアピールするとこちらに改題した。知らない人は別の本だと思うだろう。
 文庫本の方が世に広く知られてゆくから、やがて「せがれの凋落」という本来のタイトルは忘れられてしまうかも知れない。意味不明のヘンなタイトルだしね。

「せがれの凋落」の章は、その名の通り「せがれ」という言葉が、以前と比べて使われなくなり落ち目になったという話である。そのきっかけとなった出来事にはかなり呆れる。
 母親の郵便貯金が満期になったと連絡が来たので高島さんがおろしに行く。「貯金窓口の娘さん」に預金者との関係を問われ「せがれです」と応える。すると「証書の裏にせがれと書いて、あなたの名前を書いてください」と言われる。自分のことをせがれと自称することはあっても、書類に書くことはまずないと高島さんは迷う。
 局員がもういちど確認するように「せがれというのはお孫さんですね」と言って来たので(すごいね、これ)、やっと高島さんはこの娘がせがれという言葉を知らないと気づく。
 それで「長男です」と言う。するとその娘は「ああ、せがれというのは長男ですか。では長男と書いてあなたの名前を書いてください」と言う。ここにおいて彼女の中で「せがれ=長男」となってしまった。
 「カンガルー」の話を思い浮かべた。この娘の中では、あらたな単語として「せがれ=長男の意味」として定着してゆくのだろう。

ということから、「せがれ」は「やせてもかれても」の「やせがれ」から来た言葉で、戦国時代には「せがれ」という名詞が文献に見える、といつもの蘊蓄話になって行く。
 せがれは漢字では「」と書く。一般には「」か。まあこれは私でも知っている。しかし正しくは「」なのだそうだ。もちろんうすらバカなのでそこまでは知らない。これって憔悴のスイか。これは中国の漢字で「やつれはてた」という意味だそうで、「やせてもかれても」の「やせがれ」で「せがれ」だから、意味からはこれが正しいわけだ。しかし息子という意味で使われるならニンベンの方がよかろうと「」が使われるようになり、の字が略されて「」が定着したとか。

 私は「せがれ」という言葉を使うことがあっても「せがれ」とひらかなにするから、でもでもどうでもいいのだが、一応豆知識として、本来はだと知ったのは勉強になった。


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さてここからがテーマの「あとからひとこと」の部分。連載の本文で高島さんは以下のように書いた。

《せがれは人間だからリッシンベンよりニンベンがよかろう、というので「」になり、「」はしばしば「」と略筆されるから、とうとう「」になったわけである。もちろんこんな字は使わんほうがよろしい。

 高島さんに私淑している私は、これを「せがれ」という日本語はひらかなで書くべきであり、漢字を当てはめる必要はないと解釈した。

 ところが年配の婦人と思われる人から鄭重な手紙が来て、「せがれは正しく悴と書かねばならないことがよくわかりました」とあったので高島さんはおどろく。このご婦人は、せがれと書くときには「」の字を当てるのが正しく、かってにニンベンにした「」や、まして略筆した「」など使ってはならないと高島さんが言っていると思ったらしい。

 私は、日頃の「和語にはなるべく漢字を使わないように」という高島さんの教えを知っている。なにしろ初めて読んだときから、とんでもなく難しい読めない漢字があるかと思うと(それはその字でなければならないのだから使わざるを得ない)、中学生でも漢字にするような部分がひらがなになっていて(それは和語に漢字を当て字しただけだからひらがなが正しい)、へんな漢字の使いかたをする人だと思った。

 著書を読み進むうちにそれが信念であり、「なぜなら」の部分に惹かれていったのだから誤解するはずもない。原稿のひらがな部分を編集者に漢字に直されたので原稿を引き上げた人なのだ。この文中でも「せがれ」とひらがなで通している。もしもこのご婦人の解釈通りなら、最初から「悴」と使うはずである。そうして、「倅を悴と書くことに違和感を持つ人がいるかも知れないが、実は悴が正しく」と話は展開しただろう。このご婦人は高島さんの文を「」という字の否定と解釈してしまったようだ。そうではないのは瞬時にして解る。
 でもたしかに日本語の感覚だと、高島さんのこの「こんな字は使わん方がよろしい」は「」を指しているようでもある。国語の試験問題だったら悩むか。まこと日本語は難しい。

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そのあとで高島さんは「どうも小生は漢字の専門家でおおいに漢字を使いましょうと主張している男、というイメージを持たれているらしい」と嘆いている。
「小生は漢字の専門家ではないし、またつねに、なるべく漢字を使わないで文章を書きましょう、と言い、自分でも実行しているつもりです」と続ける。「常に」を「つねに」と書くのが高島流だ。自分の文ほどひらがなの多い文はまずないだろうと書いている。
 ほんとにそんな誤解をしている人はいるのだろうか。いるとしたら高島さんの著書を読んでいない人だ。まともな読解力があればまちがうはずがない。私が惹かれたそもそもがそれなのだから、私からすると、そういう人はいったい何を見ているのだとなる。

 中国文学の研究家としてあちらの雑誌を私たちが漫画本を読む感じで楽しむ(楽しめる)高島さんは、自分のことを60%以上中国人だと言ったりする。そういう人が日本語との研究において、漢字はあくまでも借り物であり、日本語とは合わない、早い時点で漢字を借りて和語に当てはめたのは日本語の発展において大きな不幸だった、と言い切るから説得力がある。これが西洋かぶれの日本語はローマ字表記にしようと運動したようなのが言っても説得力はない。

 漢語に通じた高島さんは、英語の方はさっぱりで、ファミレスをホームレスと同種と思ったりする。でもたしかにこの造語は「ファミリーレス」って感じもする。
 一般にそういう人は自分の得意分野の世界に閉じこもり、西洋語を否定してむずかしい漢語を連発したりする。そうではないから高島さんの言葉は重みがある。
 会話の中に英語やフランス語を交えて高尚ぶるのと、四字熟語等を使いたがるのは同じなのだという指摘は鋭い。
 およそ語学力を自慢する輩でまともな人間はいない。それが何語であれ「虎の衣」なのである。要は衣を取ったときの真の自分をいかに鍛えるかだ。私が語学力を自慢する人がきらいなのは、みな衣を剥ぎ取ると心が貧相だからである。

 ということで、逆にとられるんだから、文章ってのはこわいな、が結論。これに関してはまた書くことにして。
 じつは以下の餘談がむしろいちばん書きたかったことになる。

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この件で興味深いのは、このご婦人がそういうふうに高島さんの考えを誤解しているのに直接ご本人に手紙を書いていることである。「週刊誌の文を読んだこの人は見知らぬ著者に手紙を書くという積極的な行動に出た」わけである。一見毎週『お言葉ですが…』を読み、高島さんに心酔している読者であるかのようだ。

 しかしこれは自信を持って言い切るが、この人は高島さんの読者ではない。高島さんはもう口が酸っぱくなるほど「和語を漢字で書くのはくだらない。やめよう。できるだけひらがなを使おう」と言っている。それこそ「取る、録る、撮る、執る」や「写す、映す、移す」などの使い分けも、ただひとこと「くだらん」である。ATOKなどが売りにしている情況によって漢字を使い分けること(筆を執る、写真を撮る等の使い分け)を、「ばっかじゃないの」と切り捨てている。高島さんからすると和語の「とる」は「とる」でしかなく、当て字の漢字を使い分けるなどナンセンス甚だしいとなる。そういう漢字の使い分けをせず、「とる」「うつす」と書いてあるから、高島さんの文はひらがなが多いのである。

 それは『お言葉ですが…』の連載によりメジャになるまえからの主張だった。むしろメジャメディアである『週刊文春』と関わってからはおとなしくなっている。それ以前の本の方が言いたい放題でおもしろい。
 とにかく、高島さんの本を一冊でもきちんと読んだことのある読者なら、この手紙を書いた女性のような誤解はするはずがない。

 ではこの人はなんなのか。推測できることはふたつ。
 ひとつは、この人が新聞雑誌等でなにか気に入ったことがあると、すぐに著者に手紙を書く、そういうマニアであること。
 もうひとつは「年配の婦人」とあるからボケが来ていて読解力に齟齬を来している人の場合。
 わからないのは「鄭重なお手紙」である。高島さんが鄭重と言うぐらいだから、かなりのものなのだ。まあこんな根本的な勘違いをして著者に手紙を書くぐらいなのだから心寂しい環境の人であることはまちがいあるまい。
 いずれにせよ「高島さんの著書をまともに読んだことがない」だけは確実だ。だってそれこそ高島先生が「漢字と日本人」を始め多くの著書で延々と訴え続けている基本中の基本なのだから。
 私には私のような熱心な読者でも決して手紙など書かないのもいれば、ほとんど高島さんのことを理解していないのに、週刊誌で見かけたこんな漢字ひとつのことで「鄭重な手紙」を書く人もいるのだと知ったことが、この件でいちばん印象的なことになる。世の中いろいろである。(2006/4/18)

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《「カンガルー」の話を思い浮かべた。》はもちろん、オーストラリアにたどりついたキャプテン・クックが、カンガルーを見て「あれはなんだ」と尋ねたら、現地人が「わしゃ知らん」と応え、現地語のそれが「カンガルー」だったからカンガルーになったという、小学校の教科書に載っていた話のことである。
 現在ではクック以前から現地でもカンガルーと呼ばれていたらしく、この話はよくできた作り話という解釈が主流になっている。







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