日中漢字差集



ここにはぼくが中国で体験した日本語漢字と中国語漢字の違いを思いつくままに列記してゆきたい。中国語をまったく知らない人がかの国に行って新鮮に感じたという、ぼくと同じレヴェルの人とそういうことを楽しみたいというコーナーである。学識のある人には初歩過ぎて馬鹿らしいだろうから読まないでください(笑)。
 ぼくも書きかたとして「これこれこうなのである」と書いたほうが年齢的にも立場的にもかっこいいとは思うのだが、素直に自分の無知をさらげだし、「驚きました。知りませんでした」形式で書くつもりでいる。

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机
これは新鮮だった。日本語の機がすべてこれなわけである。それが日本にない簡体字だとすなおに記憶してゆくのだが、日本字ではしっかりと机の「つくえ」だからタチがわるい。
 たとえば「机場」が「飛行場」という意味だと学び頭で理解しても、なかなか感覚がついてゆかない。「机場……ってなんだっけ、ああそうだ飛行場のことだった」と初めて訪中したとき、何度も思ったものだ。なまじ「つくえの場」と一瞬にして理解してしまうから二度考えねばならない。漢字を知らない白人だとかえってこれはないだろう。

 「精密机器」なども、これは日本語の精密機械なのだが、どうしても「つくえ」とか「うつわ」の感覚を引きずってしまう。それが理解のさまたげになる。いちど「つくえ」と考えてから「ああそうじゃない、これは機械なんだった」と思い直すのである。
 さすがにこの頃はなくなったが、この「机」という字は、初めて中国に行ったとき、日中の漢字の差を感じた思い出深いものになる。



載
この字に関しては日本も中国も差はない。ただし使いかたに違いがある。日本でこれを使うのは「新聞に掲載される」のような形だ。だから「のる」という意味では「雑誌に文章が載る」のように使う。自動車に「のる」の場合は「乗る」である。この二つを取り違え、「電車に載る」のように使ったら教科書的には間違いになるだろう。漢字好きなら一瞬にして獲物を見つけたように注意してくるはずだ。高島さんの影響を受けてから、そんな人がバカに見えてしょうがない。どうでもええこっちゃ。ためしていないが、たぶんIMEもそう指導(?)していることと思う。

 ところが漢字の本場中国では「自動車に載る」なのである。これはもううんざりするほどバスに乗り、そのたびに確認したことだから間違いない。では「載る」と「乗る」はどう違うのか、ということにはぼくは興味がない。この漢字の字義を調べる気もない。それでも「載る」の一部には「車」があるのだから、ご本家の使いかたには筋が通っているのだろう。というか元々があちらのものなのだから、あちらが正しいに決まっている。


ぼくが言いたいのは「漢字を使うな!」でも書いたように、高島さんがおっしゃっている「しょせん日本語と漢字は違うのだから、細かな使用法にこだわることは無意味」ということである。高島さんなら「のるという日本語は〃のる〃であり、乗るも載るも単に異国の字を当てはめただけ」となるだろう。「自動車に載る」や「雑誌に文章が乗る」を間違いと騒ぐことなどくだらんことだということである。なにしろ本家の中国では「自動車に載る」なのだ。
 半端インテリほどこういうことにこだわり、自分の知識と合わない使用法を攻撃したりする。そしてそのつまらない半端インテリこそぼくのようなヤツなのだ。高島さんの意見を読んで赤面しつつ学んでいる筆頭はぼく自身なのである。思えば恥ずかしいことばかり……。

 もちろんぼくはこれからも、日本という社会で生きるしがない売文業者として、しっかりと「新聞に載る」と「自動車に乗る」を使い分けてゆく。でも心の奥では、「こんなもの、どうでもいいんだよな」という気持ちを忘れないようにしたい。
 という話です。(02/2/9)



云
基本のこの字のことを忘れていた。せっかく思い出したのだからと、日曜の朝、寝る直前なのだけれど、がんばってアップすることにした。
 ぼくのホームページのテーマである雲南 は、
あちらの表記では云南である。

 それは字を見ても略字の過程が素直に納得できるし、それでいい。日本の若者でもあちらに旅行すると、すぐに影響を受けて、「云南」と書く人は多い。ぼくの友人のトモキ(三十歳チョイ過ぎ)などもそうだった。あちらから届いた絵はがきは見事に「云南」となっていた。

 が、ぼくらにとってこの「云」という字は、「雲」の略字ではなく、「言う」である。ぼく自身、「言う」の代わりに「云う」を多用する世代ではないが、文字としてはかなり親しんでいる。「云」の字があったら、それは「雲」ではなく「言」の略と思う。だから問題なのだ。
 いや、問題なんかなにもないんだけどね、たんにぼくは、素直に「雲」の略字として「云」を使う気にはなれないというだけの話である。
 だってねえ、「雲の南」の「雲南省」は実にうつくしいイメイジだ。それはやはり「雲」ということば=字にあるのであって、「云」にはないんだよなあ。



初めて妻の実家に行くとき、昆明から何十時間もかかり、山の中へ山の中へと進んで行った。とうとうバスもなくなり、山の中のか細いでこぼこ道を、耕耘機に乗せてもらい、手帳に書いてある妻の実家の住所だけを頼りにひた走る。雲南省の平均高度は1900メートルだそうだが、当然それは平均だから、もっともっと高いところもあるのだろう。妻の家は間違いなく平均よりも高い。
 耕耘機の荷台から雲が見えた。足より下にあった。ほんとに雲が目の下にあるのだ。どれぐらいの高度なのだろう。ぼくの生まれ育ったところは海抜5メートルもないような平坦地だ。関東地方の平野に育ち、いちばん高い山が600メートルの筑波山だったぼくとしては、雲を目の下に見るというのは富士山に登ったとき以来だった。
「ああ、たしかにここは雲南省だ。オレは今、雲南省にいるのだ」と思ったものだった。「雲南」ということばには、未だにうっとりとするような遙か彼方のいい響きを感じる。でもそれを字で書くと、決して「云南」じゃないんだよなあ、ぼくには……。
 という話です。(02/2/24)





小心
これは漢字の差ではなくて日中の意味の差になる。
 小心者としては毎回「小心」という字を見る度にドキっとしている。左の写真なども「滑るのにご注意」という意味だが、初見の時は「小心者は滑るよ」と脅されているように感じた。思わす、滑ったら小心者だと思われるから滑ってはならないと意気込んでしまったほどだ。そんなことを感じるから小心者なのだが。

 こういう違いでいちばん有名なのは「手紙」か。日本では手紙だが中国ではトイレットペーパーである。言われてみると、中国のほうが筋が通っているとはよく言われることだ。中国語で手紙は「信」である。日本語にも「信書」という言いかたは残っている。




湯

中国人が日本に来て愕く漢字の差に「湯」がある。あれは中国では「スープ」であるから、銭湯の「男湯女湯」には本当に愕くらしい。

 中国語で湯は「熱水」である。タイ語もナム・ローン(熱い水)という言いかたをする。英語もHot Waterだ。熱い水に関して、湯という言葉を持っている(漢字を当てはめた)日本語のほうが珍しいのか。そういう日本語の中で育ってきたから、タイ語でお湯はなんて言うのだろうと思ったら、単に熱い水だったと知ったときは、がっかりしたことを覚えている。
 タイ語は滝もナム・トック(水が落ちる)であり、英語のWaterfallと同じである。日本語はいいなと思う。
(02/10/20 景洪)







 麺面については奇妙な気がする。ずいぶんと中国側が手抜きだ。日本語でうどんやラーメンの麺について「面」と書いたならものを知らないと笑われてしまうだろう。しかし上記の写真にあるように中国では「面」である。「名麺」なら瞬時に解るが「名面」では意味がわからない。それどころか「各方面」と勘違いしてしまう。

 さらに「湯」の項にある写真を見てもらうと解るのだが、そこでは「面」が滑るから気をつけろと、日本で言う平面の面としても使っている。昔はどうだっただろう。ともあれ今の中国では、麺は面と書く。本家の堕落の象徴になる。




新聞
 これはだいぶ前から気づいていた。テレビニュースの時に「新聞」と出るのだから「ニュース」が「新聞」であるのだろうとは想像がつく。これまた「手紙」と同じように、新しく聞くことだからニュースが新聞であることには筋が通っている。もうひとつニュースの項には同じ意味として消息が載っていた。これは同じニュースでも噂話程度の社会的なニュースではなく世間話的な意味の時に使うのだろう。この辺は同じ漢字使いだからして日本人には解りやすい。
 日本的な新聞と言う意味での新聞は、こちらでは報である。簡体字はこれとは違うのだが表示できない。手偏になっている。これまた解りやすい。「讀賣報」「産經報」となるのか。
(03/2/9 秦皇島にて)





 房 室に関しては以前から書きたいと思っていた。それがきょう手をつけたのは写真の図柄を昨日見つけたからである。やはりホームページは「絵がリードする」ものなのだ。

 先日ホームページ用に書いた古い文章をハードディスクの中に見つけ(現在は非掲載)、まったくもう記憶にないものだから他人の文章のようで面白く、読みかえしていた。その中のひとつに要約すると、「自分は物書きであり、今まで仕事ではいつも、自分の書いた文章に、編集者が写真を選び、デザイナーがそれをレイアウトしてきた。それが気に入らないことがたびたびあった。ホームページは物書きと編集者とデザイナーを全部自分で出来るので楽しみだ」のようなものがあった。

 この気持ちは今も変らない。物書きとしては書きたいことは山ほどあって毎日いくらでもアップできるのだが、写真との連係、デザイン、Visualに凝りたい。それで始めたようなものだ。字ばかりのものは作りたくない。
 この房と室の項もこの写真がなかったらアップはもっと遅れた。麺も同じ。写真が道行きを決めている。

 さて前置きが長くなった。言うまでもない。中国語の房は日本語の室である。日本語の房も今も房なのだが、メインではない。305号室のように房の意味で室のほうが中心だ。
 中国で室は房である。305号室は305房だ。筆談しても、日本人の意味する「室」や「部屋」は通じない。体験済みである。

 これも私の感覚としては中国のほうが正しいように思う。室は「しつ」以前に「むろ」であろう。それがなぜ房の意味として一般的になったのだろう。日本語の部屋としての房は、刑務所の「獨房」とか、寝室の「閨房」とかに名残を残すだけになっている。えっ?「名残を残す」って重なり使用の間違いか。名残をとどめる、か。赤面。

 二年前、新しく私の担当になった週刊誌編集者が、中国にファクスをくれたとき、正しく「房」を使ってきたので感心した。「305房」としてきたのである。
 帰国しての飲み会で、偉いね、よく知ってるねと褒めた。彼は、文字が通じずに私の手元までファクスが届かなかったら困るから、調べたのだと言い、ちょっとうれしそうだった。二十代半ばの彼はまだ契約社員だった。この精神がある限り、将来は名編集者になることだろう。房のことでは彼のあの心配りを思い出す。
 中国人とは漢字の筆談で話が弾むが、私たちの感覚の部屋のことを「室」と書いても通じない。
(03/2/16 北京)




↑写真は秦皇島の狗肉料理店

犬 狗 も初歩的なことだがけっこう大きい。支那人に犬と書いても通じない。そこで機転を利かせて狗と書けば通じるのだが、なかなか若者でそこまで出来る人もいないだろう。基本は「羊頭狗肉」を知っているか否かになる。あとは「喪家の狗」なんてのもある。知っていれば切り替えが出来る。といって頭が固まっていると出来なかったりする。

 前記の「手紙が中国語ではトイレットペーパーである」なんてのは、かなり多くの人が雑学として知っている。「羊頭狗肉」も四文字熟語として知っている。でも現地で、「おかしいな、犬と書いても通じない。猫は通じたのに。なぜなんだろう」と頭をひねる日本人は意外に多い。こういう人は、「ワンワン」をやってやっと通じ、あちらに「狗」と書かれ、「ああ、羊頭狗肉の狗か」と気づいたりする。
(03/2/26 日本)







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