苗字はむずかしい



 ここのところ『週刊文春』を買っていない。あまりに下劣な記事が多すぎるからだ。極力週刊誌を購入する性癖を絶ちたい願っている私としては好ましいことになる。そのことはまた『週刊文春批判』とでも題して書くとして、毎週『お言葉ですが…』だけは欠かさず立ち読みしている。きょう(03/8/28発売号)の『お言葉ですが…』はおもしろかった。旧暦の話である。

 旧暦の魅力を語った本が何冊か出されていて、それなりに人気だという。と高島さんに友人が教えてくれる。高島さんもそれは好ましいことだと喜ぶのだが、それを教えてくれた友人は、それらの本にあまりに間違いが多いと憤っているのだった。その一冊を手にした高島さんも呆れてしまい、そこでいつもの苛烈な高島節が炸裂する。
 俎上に挙げられたその本がいかに、どのように間違っているか、じつに興味深い。それは『週刊文春』をぜひ読んでみてください。いつものよう私の興味はそことはまたズレる。

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 毎度のことながら今回もしみじみと思ったのは、私がその本を読んだなら、なるほどこれはおもしろいとばかりに、得意げにそこで得た知識を開陳していたのではないかという恐怖である。まずその間違いを指摘できるほどの人もそうはいまい。私の周囲を見渡しても、なるほどその本はおもしろいねと一緒に楽しんでくれる人は何人も思いつくが、そこにある著者の根本的な勘違いを指摘できる人はいないように思われる。なにより私たちの世代は旧暦に親しんでいない。この本の著者は私(や同世代の友人)よりも一回り年長なのだ。その人が偶然出会った旧暦の魅力に取り憑かれてこの本を書いている。
 また私はそこで得た知識に対し「もしかしたら別の解釈があるかも」「これはかなり偏った感覚なのかも」と同工異曲の書物をひもといて真偽を確かめるほど勉強熱心でもない。間違った知識を死ぬまで引きずっていた可能性もある。冷や汗ものである。

 高島さんが読者から掲示されたその本に対してまず否定しているのは、その本が旧暦を一種の予言書のように扱っていることである。簡単に引用すると、「××年は冷夏といわれていたが旧暦を知っている私は、この年は旧暦なら閏八月のある年であり、酷暑になると読んでいた。見事にそれは当たり、気象庁も後に冷夏の予測を撤回した」のように、旧暦を知っていると、未来予測が可能になると言っているのだ。テレビゲーム的に言うなら、旧暦をマスターすることが最強のアイテムの入手になるかのような書きかたなのである。

 高島さんはそれではまるでオカルトであると一刀両断し、暦とは人間が自然現象に時間を当てはめて作ったものであり、暦に従って自然が動くわけではないと至極もっともな意見でまとめている。たしかにこれでは旧暦を知ることが、風水とか四柱推命とかあの種のものと同じになってしまう。そのインチキ臭さが学者として許せなかったのだろう。
 また、この本において中国四千年の智慧として同じくオカルト的に大絶讃される「農歴」なるものについても、そんなものがあるはずないと切り捨てている。中国文学者である高島さんからすれば、暦とは支配者のものであり、そんな時代に何種類もが存在していたとは歴史事実に反することになる。

 と、ここまで来るとこの本を読んでみたくなる。旧暦という今では古色蒼然たるものを扱いつつ、それを現代を生き抜くための最強の切り札のように持ち上げた「とんでも本」なのだ。ぜひとも読んでみたい。私はかなりの量のとんでも本を読んでいる。大好きなのだ(笑)。
 しかしそれはメジャーな週刊誌上でここまで一刀両断したものに対する礼儀なのか書名は書かれていなかった。この辺にも時の流れを感じる。以前の高島さんなら書名を書いただろう。丸くなっているのだ。それでも最後に「NHK出版が出しているので信じてしまう人も多いだろう」のような苦言を呈する一行があった。ヒントはNHK出版のみである。

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 この本に対する興味はここで終る。機会があったら探すとして、まずその前に必要なのは私自身の「まともな旧暦の知識」である。いつもの<TSUTAYA>型本屋でこの『お言葉ですが…』を立ち読みした私は、ちょうどいい機会だと前々から思っていた旧暦の勉強をしようとその種の本を探し始めた。何冊か買うつもりである。高島さんのところに御注進に及んだ読者によると旧暦は今それなりにブームであるらしい。感覚としてわかる。江戸の地図が復刻発刊される時代である。いい意味での懐古の流れは実感している。田舎の本屋でも「旧暦入門」なんて新書の二三冊はあるだろうと軽く考えていた。

 ない。あいかわらず欲しいと思う本は揃っていない本屋である。一方でまあ若手タレントの書いた(ほんとは書いてないけど)本がいっぱいあるなあ。これはこれで現実だ。売れる物を置くのは商売の基本である。だいたいが毎日のように来るくせに新書なんて買ったことがないヤツが品揃えに対していっぱしの口をきくのもはばかられる。

 そんな中、それらしき本を一冊だけ見つけた。タイトルは「旧暦はくらしの羅針盤」。おっ、なかなかいいではないかと手にする。新書版でちいさいし値段も手頃だ。最初の一冊としてまずはこれを買うか。
 著者は小林弦彦。プロローグからして興味深い。1973年から77年までバンコクに赴任していた。おお、バンコク沈没組か。ちがうよな(笑)。ちがうけどなんか身近に感じる。そこで在タイ支那人のほとんどである潮州人(広東の一部)と知り合う。おお、台北旅社のあの貧相なジジーも潮州人だった。なつかしいな、バンコク。彼らから代々伝えられる「農歴」を教えてもらったことによって旧暦の魅力を知る。それから世界が変った。農歴? ん? どこかで聞いたような……。
 ある年、気象予測が当たった。気象庁は冷夏と言っていたが、自分は「閏八月があった年だから暑くなると読んだ」 ん? 閏八月? これまたどこかで聞いたような……。
 出版社を見る。NHK出版「生活人新書」。ん? NHK……。

 おおなんということだ、田舎の<TSUTAYA>型本屋にたった一冊だけあった旧暦に関する本は、なんと高島さんが題材にしていたとんでも本だったのである。それを偶然手にしていたのだった。
 これは僥倖であろうか。しばし黙考する。高島さんの文を読み、これがとんでも本だと知っているから冷静に見られる。読める。だから今これを手にすることが出来たのは僥倖である。しかし時代小説を楽しむために旧暦の勉強をせねばとは前々から思っていたことだった。ここは近辺でいちばん大きな本屋である。そこにあった旧暦に関する本はこれ一冊だった。つまり高島さんの文を読まなければ、あるいは今週の『お言葉ですが…』を読み漏らしたなら、私はここに来てこの本を買い、きれーにこのとんでも本に染まっていた可能性は高かった。『作業日誌』に「農歴の魅力」なんて書いていた可能性もあるのだ。これはこれで間一髪である。いやはやほんと、幸と不幸は紙一重。

 著者は1938年生まれ。関西学院大学経済学部を出た後、商社に入り、バンコク赴任中に中国の「農歴」なるものを知り、そこから旧暦の伝道者として以後二十年を過ごしているとか。つまりは素人半可通の生兵法である。旧暦の魅力を知り、それがエスカレートすることにより、いつしかそれを「ノストラダムスの大予言」にしてしまったのだ。

 一線を引いて立ち読みさせてもらったので、彼の熱心に説くことを冷たく突き放して分析できたが、『お言葉ですが…』を読んでいなかったらヤバかったのではないか。ただまあ手前味噌で言えば、私は「中国四千年の歴史」という大嘘を平然と言う人にはもうそれだけで引いてしまうので染まらなかったとも思うのだが。とりあえず購入していた可能性は高い。

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 ともあれ東京の大きな本屋で、旧暦に関するまっとうな何冊かを買ってこなければならない。早く勉強しないと。高島さんがお薦めの著者の名を挙げていた。メモしてこよう。
 小林さんの書いていたことが間違いだらけのとんでも本であるにせよ、それを真っ正面から批判できたのは高島さんであって私ではない。私は小林さん以下なのである。正しい旧暦の知識を身につけてから、自分のコトバで批判出来るようにならねばならない。すべてはそれからになる。
(03/8/28 本屋の駐車場にて)


「ためらわない凄味」





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