基本中の基本
『美味しんぼ』について含む



ぼくが高島さんを好きなのは思想が一緒だからである。思想なんてことばは使いたくないのだが、適切なものが見つからないのでとりあえずそうしておく。あとでまたいいことばが見つかったら置き換えよう。どれほど高島さんの考えが自分にとってどんぴしゃりであり、触れるたびにうれしくなるものであるかは、なにしろここはそればかりを書こうと設置したコーナーだから、これからいくらでも出てくる。一例を挙げようと思ったがその必要もないだろう。

 ここでは逆のことを考えてみたい。
 高島さんが漢字(近刊では支那文字と言ったほうがよいとの意見だ)や中国文献に関する豊富な知識から、新聞等の奇妙な日本語使いを一刀両断にしてくれることにぼくは快感を覚える。それはその一刀両断の根底にあるものが自分と同じだからだ。
 ではそうではない人はどうなのだろう。高島さんとは思想の違う人である。
 そういう人にとって「『お言葉ですが…』はどんな存在なのだろう。

 『美味しんぼ』を思い出す。


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『美味しんぼ』という食マンガの最高峰(これは間違いない)は、ビッグコミックスピリッツに連載が始まったときから読んでいた。

 ぼくのささやかな自慢に--ほんとにささやかすぎて書くのが恥ずかしいが--本家「ビッグコミック」はもちろん、そこから枝分かれしていった「オリジナル」「スピリッツ」「スペリオール」を、すべて創刊号から読んでいるというのがある。弟分がいくつも出来て本来のビッグはレギュラーと呼ばれるようになった。
 レギュラー創刊は中学生の時だった。オリジナル創刊は大学生の時だった。

 スピリッツは二十歳前後の若者向けとして定着している。いま思えば『美味しんぼ』というのはレギュラーかオリジナル向けのテーマだった。それがスピリッツ連載だったのは、まだ明確な読者層設定が出来ていなかったのだろう。ぼく自身、さすがにいまのスピリッツはもうつらいので読んでいない。こういうのもひとつの卒業ではある。これはまたマンガ論にまとめよう。たしかなのは、これからまたあたらしい弟雑誌が誕生しても、もうそれをぼくが創刊号から講読することはないということだ。

 『美味しんぼ』の原作者・雁屋哲さんの食に関する博識から教えてもらったことは多い。電通勤務だったこの人の原作者デビューは、『週刊少年サンデー』連載の『男組』だった。(註・正しくは最初のヒット作がこれでありデビュウ作ではないようだ。ぼくがこのひとの名前を覚えたのはこれになる。)

 豪邸何軒分もに匹敵する金を食に費やしてきたと豪語する雁屋さんは、その知識を惜しみなく『美味しんぼ』に注ぎ込む。
 このマンガの大成功は、単なる食文化や知識披露のパターンではなく、料理を「水戸黄門の印籠」のようにして、どんなわだかまりも食で一発解決という展開にしたことだろう。

 単行本を全巻揃えている熱心な読者も多いようだ。テレビのバラエティ番組でそう発言しているタレントがいた。ぼくはそんなに熱心ではないけれど、週刊誌連載時に毎週欠かさず読んできたし、昨年セブンイレブンで販売し大ヒットとなった廉価単行本「マイファーストビッグ」も思いつきで買ったりしているから、ほぼ九割方は読んでいる。一般的にはかなり熱心なほうの読者といえるだろう。
 世界各地の日本人たまり場にあるマンガ本としても、『美味しんぼ』は『ゴルゴ13』と並んで双璧である。ついでに理髪店の蔵書でも(笑)。

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初めて読んだときから違和感はあった。これは確かである。『美味しんぼ』の初回っていつだっけ。もう二十年ぐらい経つのだろうか。

 新聞社に勤めるぐうたらな主人公は、平日の仕事中でも、競馬新聞を手にし、いつも耳にイヤフォンを入れてラジオの競馬中継を聴いている。だらしなさの象徴が競馬なのだ。その発想にまず反感を持った。

 誤解されたくないことなので詳しく書く。これは自分の大好きな長年の趣味であり、仕事の一部でもある競馬がそんな扱いを受けていたからとか、そんなことではない。
 ぼくの最も嫌うのは正邪の判断が出来ない盲目的な愛情である。半端に知りもしない人から「競馬っていいですよね」なんていわれることほど気持ち悪いことはない。第一ぼくはこのころラジオの原稿は書いていたがまだ競馬物書きは始めていない。もちろんすでに学生時代から十年以上競馬ファンではあったが。
 自分が競馬を好きだから競馬を庇うというような発想はぼくにはない。人は人、自分は自分で生きてきた。好きなものは世間的評価とは関係ない。今までもそうだったしこれからもそうだろう。

 競馬とかプロレスとかの、世間的にはあまり評判の良くない趣味を、他者の評価とは関係なく何十年も楽しみ続けるためには二つの接し方がある。ひとつは缺点すらも美点にしてしまう盲目的溺愛であり、もうひとつは客観的でクールな視点を持つことである。ぼくは後者だ。前者が誰でも出来るのに対し、後者のようになるためには努力がいる。なにしろなにがあっても揺らがない心があって初めて出来ることなのだ。思えばぼくの人生は、それを築くための努力だけだったような気もする。それはまた別項で書く。

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餘談ながら、『T-thai(定退)』というタイ関係のホームページに関して、ぼくの書いた感想文に抗議をしてきた人がいた。それが溺愛型である。自分の好きなものを批評されるというそのことだけで逆上してしまう人になる。ぼくの書いたのは客観的視点からの評であり、根底には愛情がある。それは作者の青木さんには一発で伝わった。溺愛型もぼくも、『T-thai(定退)』をあいしていることは同じなのだが、溺愛型は自分と同じ形の愛し方しか認めない。認められない。なにが上か下かという言いかたはしたくないが、集合(数学用語のほうですね)の感覚でいうなら、こちらがそれを包括しているのはたしかだ。


チェンマイ雑記帳-『T-thai(定退)』騒動


 男の愛情は、表面には出ないほうがかっこいい。かつて日本人はそうだった。いまはアメリカのように毎日それを確認しないと駄目な時代のようである。ぼくの「あやうさの魅力-『T-thai(定退)』感想文」にケチをつけてきた人よりも、ぼくははるかにずっとタイもチェンマイも『T-thai(定退)』もあいしている。だけど表面的には書かない。チェンマイが好きでたまらないとは書かない。むしろもう飽きた、うんざりだなんて書いたりする。その奥にあるのが愛だ。でもその人にはそれが見えない。ただひたすら愛とは自分と同じ形の愛し方であるべきとわめくだけである。お粗末としかいいようがない。

 日本人の男は、愛しくてたまらない女房を「うちのバケベソ」なんて言ったりする。それは最高ののろけだった。いまは「そんな言いかたは奥さんに対して失礼だ」なんて時代なのだろう。くだらん。

 そういえば『お言葉ですが…』にも、朝日新聞の記者が〃愚妻〃という言いかたにケチをつけるという項目があった。朝日らしい。
 十数年前、東北のテレビに出たとき、そこのディレクターが、自分の嫁が東北大学出身らしく、「いやあ、すごい才媛をもらっちゃって」とのろけていた。バッカじゃねえの、と思った。それは他人に言ってもらうことであって亭主が他人(しかもぼくは出演者というゲストであり初対面だ)に言うことばじゃないだろう。世も末だと思ったものだったが、その後も日本は末に向かって激走しているようだ。

 ぼくが雁屋哲の競馬に対する扱い方に違和を感じたのは、溺愛型の反射的な反感ではない。もうすこしまともな奥のあるものだ。そのことをご理解願いたい。

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この競馬の扱い方で、雁屋哲という人の思想が見えていた。人は誰でも自分の心を自分流に仕切っている。「これはこっち、これはあっちね」と心の物置で整理整頓をしている。その置き場所からその人の感覚が見えてくる。雁屋哲という人にとって、なにが大切か、なにがどうでもいいものか、なにが唾棄すべきものか、それらが見えていた。そのことぼくは本能的な反発を感じたのである。

 主人公が平日の昼間に競馬をやっているということは、物語の舞台は東京なのだから、南関東の競馬になる。だったらそれを毎日実況しているラジオ局はどこなのだとなる。そんなものはありはしないのだ。
 この時点で、雁屋哲というのが美濃部都知事的公営ギャンブル廃止論、いつも泣くのは弱者の女子供だけ、やめてやめてお父さん、ギャンブルはやめて、よおしこの世から悪の根元の賭け事をなくしてしまえ、的発想の人と解るわけである。

 重要なのは「ラジオの競馬中継が毎日行われているかどうかも確認せずに、原作としてそれを平然と書いてしまう神経」である。自分のこだわる食に関しては、毛ほどの雑も許さず迫るのに、興味のないものに対しては、これほど杜撰なのだ。
 しかもそれは悪として描かれている。知りもしないものを悪として設定したなら、知らないからこそ、悪と設定するからこそ、徹底して調べてから書くのが創作者の常識だろう。それをしないのが朝日的文化人の性癖である。それはその後数年間も直されることはなかった。そこにこの人の本性が見えている。

 ある女優がレストランで「割り箸を使うことは森林破壊につながる。だから私はいつも自分の箸を持って歩いている」と箸入れを出して自慢した。だが彼女は豪華なミンクのコートを着ていた。実話である。ここにあるのはそれと同じみっともなさだ。

 まあそうして考えてみると、主人公の勤める会社が朝日新聞であり、敵視する帝都新聞が讀賣であるのも明白だったし、やがて食の話が進むに連れ、戦争責任とやらに触れ始め、中国、韓国、オーストラリア等に関し、自虐史観丸出しの悪臭紛々たるものになるのは、この時から読めていたことではあった。

 食のマンガではあるが、原作者雁屋哲の政治的思想抜きには成立しない。これは当然であり正当なことだ。自分の意見を前面に出さずに成立する作品などあり得ない。だからこれはこれでいい。問題は、そういう作品に対してぼくがどう対応するかである。

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開陳される豊富な食の知識には興味がある。だけど根底に流れる朝日新聞的自虐歴史観にはとてもついてゆけない。いがらっぽい気分になってしまう。どっちを選ぶかだ。
 たとえるなら、美味しいラーメン屋があるとする。でもそこはいつも客が煙草を喫っていて煙い、というような状況になる。うまいラーメンは食いたいし煙草の煙はいやだし、さてどうするかである。
 この場合、ぼくはその店に行かない。どんな美味しいものでも隣から煙草の煙が流れてきたらたまったもんじゃない。うまいまずい以前の問題だ。空気のいいところでカップ麺を食べたほうがずっといい。

 それと同じ感覚で、ぼくは『美味しんぼ』を読むのをやめた。どんなに貴重な食の知識を教えてもらっても、読むたびに底辺に流れる思想に「それは違うよ!」と反感を感じていたのでは、マンガの基本である楽しみがない。まあやめたといっても、今までに出ている何十巻をすべて読んでいるのだが。

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ということから考えて、『お言葉ですが…』はどうなのだろう。
 思想的に高島さんと雁屋さんは対極にいる。読者に問いかける面では同じである。高島さんの博識とうんちくはすばらしい。でも高島さんの文章にも鞏固な思想がある。ぼくがどんなに『美味しんぼ』から授けられる食の知識に感謝しつつも、それ以上に雁屋哲の思想が鼻について嫌ったように、高島さんの場合もそういう人はいるのだろう。
「あの人は博識だ。あの人の漢字の話を聞くと感心することが多い。だけどなあ、あの考えにはちょっとついてゆけないよ」という人が。

 ぼくの場合は、高島さんから教えていただける知識に感動している上に、それを支えている根本的な思想がまったく同じなのだから、これはもう先生と呼ぶしかない。
 高島さんが自分の教授だったらと夢見る。ぼくはゼミに入ってなかったのでそういう先生がいない。ゼミの同窓会をやる友人をうらやんでいる。でもまたそうではないと気づく。学生のぼくには高島さんの思想は理解できなかった。サヨクがかっていた当時では、むしろ反発していたかも知れない。
 うすらばかがなめくじのようにすこしずつすこしずつ前進してきて、やっとたどり着いた場所で出会ったからこそ価値があるのだろう。出会いにおける最もたいせつなことは、タイミングなのだから。


というわけで、基本中の基本は思想である
 よけいな軋轢は起こしたくなかったので、ぼくはこのホームページの冒頭で、朝日新聞的、社民党的な人は来ないでくれと断った。そんな人がここまで来ているとは思っていないが、もしもいまなにかの間違いでここを読んでいたら、さっさと帰って欲しい。あなたが不愉快になりたくないように、ぼくもあなたを不愉快にしたくないのだ。

 感覚の合わない人が論争することは無意味だ。「非武装永世中立」なんて寝ぼけたことをぼくはしゃべる気はない。人は武装し、闘う姿勢を見せることで、始めてたいせつなものを守ることが可能になる。このホームページにおける武装とはすなわち「ぼくはこういう考えだから、感覚の違う人は来ないでくれ」という但し書きになる。

 なかよくやるために、楽しく生きるために、気に入らないものには近寄らないのがいい。それもまた基本中の基本である。
(01/12/13)





《チェンマイ雑記帳-流浪人を斬る》



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