それはさておき閑話休題
 ネットで見知らぬかたのブログを読んでいた。テーマは将棋。いい内容だった。
 全体の三分の一ぐらいまで進んだとき、「さっそくながら閑話休題」とあった。「ん?」である。どう考えても「閑話休題」の使いかたがヘンだ。特に閑話休題の前に「さっそくながら」はあり得ない。閑話休題とは、本筋の話を進めているとき、ちょいと餘談を入れ、その餘談を終らせて本筋にまたもどるときに使う言葉である。このひとは閑話休題の意味をとり違えている。さてそれを適確に説明するにはどうしたらいいだろう。
 そういえば高島先生がこれを取りあげたときがあったなと思い出す。

 ちょうど第二巻「週刊文春の怪」がテーブルに上にあった。たしかこれに「それはさておき」があったはず。先日読んだ気がする。調べる。あった。

 ところで、高島先生は本のタイトルのつけかたがヘタである。といったら叱られるか。高島先生獨特の異能センスというのか(笑)、高島先生の感覚でいいと思うものが編輯者にはあまり評判が良くなく替えられたりする。編輯者はもちろん一冊でも多く売るためにいいタイトルにしたい。高島先生のつけたタイトルでは売れないと判断している。私淑している私の感覚は、これはもう言うまでもなく編輯者と同じである。私が担当編輯者だったとしても異を唱えた。すばらしい内容なのだ。ひとりでも多くのひとに読んでもらいたい。そのためにこのタイトルではだめだと、先生と気まずくなろうとも主張したろう。売るためには今風のコピー感覚が必要なのであり、仙人みたいな先生はその辺の感覚がすこしズレている。
 そもそも『お言葉ですが…』という絶妙のタイトルも編集長がつけたものだとか。高島先生に任せていたら相当奇妙なものになったろう。なにしろ「本が好き、悪口言うのはもっと好き」というタイトルをつけるひとなのだ。それに近いことを言ってきたに違いない。『週刊文春』はそれを許容しなかったろう。



 単行本は先生の望むタイトルがつけられるようだが文庫本になると編輯者が口を出してくる。この第二巻の単行本タイトルは「それはさておきの巻」。これじゃ売れない。目を引かない。どういう内容なのか想像できない。文庫ではタイトルを替えて「週刊文春の怪」。これはうまい。同じように第四巻「猿も休暇の巻」が文庫では「広辞苑の神話」。これなら売れる。目を引く。「それはさておき」「猿も休暇」という先生のタイトルじゃ中身が想像できない。先生にとっては『週刊文春』や『広辞苑』なんてのをつけることは、ぶら下がり商売みたいで邪道なのだろう。というか、先生は「猿も休暇の巻」なんて御自分の命名が気に入っていて、それがどうしてよくないのか理解できないのだと思う。すぐれた学者先生のこすっからい世の中とはズレた感覚がじつに好ましい(笑)。



 閑話休題。(←これが正しい使いかた。『お言葉ですが…』第二巻の中の「閑話休題」の中身について書くべきなのに、高島先生のタイトル命名感覚に脱線したのが「閑話」であり、それを止めて本題にもどる、という意味になる。「閑話休題、言帰正伝」)

 第二巻の「それはさておき」の章で、近ごろの閑話休題の使いかたに触れていた。
 どうやら昨今では本来の使いかたとはまったく逆の「ここらで一服楽しい雑談」のような意味で使われているとある。どこかのサヨク新聞に「閑話休題」というタイトルのコラムがあり、それはおかしいのではないかと読者から手紙が来たことが発端だったらしい。つまり「コーヒーブレーク」のような意味で使っているのだ。たしかにへんである。でもその他にも高島さんが読んだ単行本でもそんな使われかたをしたものがあったとか。

 なるほど、そういうことなら上記のブログの「さっそくながら閑話休題」という文の意味も解る。そのひとは最初から文章のテーマである将棋の本筋のことを書いていた。なのにそこに「さっそくながら閑話休題」と出て来たので私はこんがらがった。なにより「さっそくながら」がヘンだが、とにかく「閑話休題」と出て来たのだから、今までのは本筋とは関係ない餘談だったのかと思う。だけど最初から餘談もおかしい。餘談は真ん中で入るものだ。そうじゃなかった。このひとは「本筋を語り、そこから餘談をして、また本筋にもどるときに使う閑話休題」を、「本筋からズレた餘談に入るときのコトバ(前置き)として使っていた」のである。そういうときに使うことばと勘違いしていたのだ。それなら「さっそくながら」もわかる。「本筋からズレて早速餘談です」の意味だったのだ。だけどこれは明らかな誤りである。

 が、すでにこの時点、『お言葉ですが…』第二巻が書かれた1996年にもう高島先生も、「世の流れがその様だからそうなってしまうのだろう」と書かれている。それから14年経っている。なら、何歳ぐらいかわからないけど(たぶん三十代)、この将棋ブログの書き手がこんな使いかたをしたのも自然なのか。内容はいい文章だったのでいくつものコメントが寄せられていたが、誰もみな内容を誉めるばかりで「閑話休題」の使いかたに疑問を感じていないようだった。

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 みみざわりは耳りであり耳に不快なことである。だが今では「耳ざわりがいい」は普通になり、「耳り」と書いたりして、快適の意味にも使うと載せている辞書まであるとか。先日「耳障りがいい」と書いている文章を目にした。この表記はないだろう。それこそ「障害」の障である。漢字の意味とぶつかっている。せめて「耳ざわり」にしてもらいたい。目障りだ。

 ともあれ私は、世の中の流れがどうなろうと、閑話休題や耳障りの使用法は本筋に従って行きたい。姑息、なしくずし、憮然も同じく。

 NHKの閑話休題──誤用はここまできている
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