『文藝春秋』2009年4月号に、

と題した高島さんの文章が載っていた。

期待通りの快作だった。その感想。

 下は『文藝春秋』の写真と特集。残念ながら、この看板特集である「日本最強内閣」というのはアホらしくて読めない。最強内閣でノナカヒロムが官房長官になっていたのには嗤った。いかにも文春らしい(笑)。

 小林よしのりも『SAPIO』で批判していたが、「秋篠宮が……」もくだらなかった。文春はなんでこんなことになってしまったのだろう。
 高島さんのことを書くコーナーなので、それはまた別にするが……。





---------------

 髙島さんの文章は後ろの方。もくじ的にはこんな感じ。隣に朝青龍の話がある。村上春樹のインタビューもあり、750円の価値は大あり。『諸君』が廃刊になってしまうので、これから私も『文藝春秋』を読む機会が増えるのだろう。



---------------

 さて、例によって本文は『文藝春秋』で読んでもらうことにして、早速個人的な感想に入る。まずは昨今ボロ儲けが問題となった「漢字検定協会」に対する私見である。この協会、正しくは「財団法人 日本漢字能力検定協会」と言うらしい。



 公益法人としては「もうけすぎ」と指摘されている財団法人「日本漢字能力検定協会」(京都市下京区)の大久保昇理事長が「謝りたくないので会見はしない」と評議員会で発言していたことが分かった。所管する文部科学省の実地検査が協会に入って9日で1カ月。漢検受検者は今や小中高校生らを中心に年間270万人にのぼるが、協会は説明責任を果たさぬまま、だんまりを決め込んでいる。

 協会を巡っては、1月下旬以降、もうけすぎや約6億7000万円に上る邸宅購入など、問題が次々と報じられた。協会関係者によると、大久保理事長は問題の表面化から約2週間後の2月6日、京都市内であった評議員会の席上、「記者の態度が悪い」とマスコミを批判。「いろいろな記者会見を見てきたが、どれも最後には必ず謝っている。私は謝りたくないので会見はしない」と話した。
3/9 毎日新聞



 私はそもそも試験というもの(試験される、試験を受ける、受けねばならない、すべて)が嫌いなので、漢検なんつうくだらんものとは無縁である。「他人に運命を左右されるのなんて真っ平だ」と思う。たとえば「目標の大学があり、二浪しても三浪してもそこを目ざす」なんてひとがいるが、私にはわからない感覚である。私は大学なんてどこでもよかった。自分でそこそこ納得できるものなら、あとは自分次第である。つまり、私が大学を選ぶのだ。大学側に選ばれたくない、と思う。誰かの作った「試験」で、文字通り試されるのなどごめんだ。そいつに「ダメ」と言われたくない。だから確実に受かるところしか受けなかった。当然みんな受かった。

 こういう感覚が正しいと思っているわけではない。逃げていると批判されればそうかもしれないとも思う。何浪しても行きたい学校に行くのも人生だし、なんとしても入りたい会社に受かろうと、あれこれ手を回すのもそれぞれの生きかただ。そういう目標の大学で学び、働きたい会社に入ったひとは、そういうことに興味のない私なんかよりもずっと大きな満足感を手にしているのだろう。それはそれですばらしいと思う。言いたいのは、私にはそんな感覚がないということである。

 私が、生きるためにしかたなく受けた試験は自動車やバイクの免許試験ぐらいだ。こういうのですら受けたくないが受けて合格しないと運転できないのだからしかたない。当然ながら「資格」なんてものもひとつもない。そういうことが嫌いなのだからあるはずもない。いやハッキリたまに会う「資格」を自慢するひとを侮蔑している。

 そういう生きかただから、「漢字検定試験」なんて何のために受けるのか意味不明の試験に関わるはずがない。他人の作ったそんなもので自分の能力を確かめて、それがなんだというのだ。くだらんと思う。関わりたくない。無縁の世界である。



 と、この姿勢をすべてにおいて貫いていると我ながらなかなかのものだと思うのだが、そこはそれ、気弱な俗物にそこまでの根性もなく、本屋に行くと、たまに「おれって何級ぐらいなんだろう」と漢検の本を手にし、問題を解いてみたりしている。なさけない。でも現実。

 やらずもがなのそんなことをして思うのは、「くだらねえなあ、こんなので何級だとか認定されて、それがなんなんだ!?」という反感、「くだらねえと思いつつ、なんでおれ、こんな本を手にして自分の能力を確かめようとしたんだろう」という自己嫌悪。
 そして毎度思うのは、級毎にぎっしりと平積みされた問題集の「つまらん本なのに高いな」であり、その量と売れゆきから、「この漢検てのは儲かるだろうなあ」だった。



 無から有を産みだす小説作品のような苦労をしているのではない。誰でも出来る漢字に関する問題を並べているだけだ。その級数も自分達で決めている。八級から一級まで並べ、しかもうまくそれらのあいだに「準」なんてのも設定したりしている。こりゃ儲かるわ。うまい商売だ。この種のことが大好きな連中がくらいつくいてくる。上記漢検受検者は今や小中高校生らを中心に年間270万人とある。試験料金でも儲かるし、これらの問題集でも儲かる。笑いが止まらない。親方は6億の豪邸も建てられるだろう。

 というのが「漢検ブーム」と「儲けすぎの漢検協会」に対する私の感想である。
 私に「(財団法人なのにこんなに儲けて)けしからん!」という思いはない。まったくない。むしろ「上手な商売だなあ」と感心している。よくいえば向上心、わるくいえば劣等感の裏返し、そういうのが強い連中をチョンチョンとつっつくと、そいつらは本を買って勉強し、金を払って試験を受けに来る。うまい商売だ。大勢から金を集めるのが銭儲けの秘訣である。まして財団法人であり、漢字という文化的なかほり(笑)がする商売だ。これほどうまい方法はない。

 今回の儲けすぎウンヌンの問題も、正直「こんなものに金を貢ぐヤツがバカなんだ」と思っている。漢検協会は批判しない。この考えをあらためる気は毛頭ない。

---------------

 漢字ブーム

 今回の問題が起こり、文春編輯者が髙島先生にこの件を論じてもらおうと企劃した。小難しい無意味な漢字の使用に批判的な髙島さんは喜んで出座したことだろう。仙人みたいな暮らしをしていて俗世間の流れに疎い高島先生は、この漢字ブームの流れに首を傾げているので、その種のことにだけは詳しい俗物がそこを解説したい。

 昨今の漢字ブームは、テレビのクイズ番組が作ったものである。クイズ番組が好きでよく見ていたので、この流れはよくわかる。
 クイズ番組は制作費が安い。それらの中でも取材映像を使うもの(「世界不思議発見」的な)は高いが、スタジオでの問題形式は安くあがる。中でも漢字遊びはいちばん低額で制作できる。これに飛びついたのがテレ朝。制作費が低額なのに日本中の漢字好きの興味をそそりそれなりの数字を稼ぐ。元「日本教育放送」としては最高の流れである。他局も後を追い、ひねくれた当て字遊びが横行している。まことにまことにくだらないと思う。特に今は同工異曲の番組が多すぎる。それでも根強い人気なのは、日本人はこういう漢字パズルが大好きであり、PTA的な組織からもこどもに勧められる「良質番組」と思われるからだろう。たとえば「百足」がムカデ、「五月蝿い」がうるさいのような「あそび」は、好奇心の強い世代には受けいれられる。私もそういう時期なら喜んでみていたろう。いまはもうどうでもよくなってしまった。むしろその制作のあざとさが見えて不快である。特にインテリタレント軍団などと言って学歴から紹介されるのを見ると、つまらんなあと思う。

 でも、矛盾するようだが、こういう番組があってもいいだろう。私も自分は嫌いだが、その年ごろのこどもがいたら見せるように思う。ふぐはフグでいいし、なまこはナマコでいまの私はいいのだが、「河豚」「海鼠」を覚えることが必要な時期もある。



髙島さんの文章から

 肝腎の髙島先生の文章に触れないままだが、それはここを読んでくれるようなひとはみな『文藝春秋』を読んでいるから必要ないだろう。
 一応すこしだけ触れておくと、一例として先生は「方に」に怒っていた。漢検のふりかな問題にこんなのがあったらしい。「まさに」と読むのが正解とか。先生は「方に」に「まさに」と読むことはないし、また漢字にもその意味はない、あえて当てるなら「将に」であろうか、とし、なぜこんなことをするのか、それに何の意味があるのかと怒っていた。

 日本語と漢字の複雑にからみあった関係だから、落とすために用意された日本の大学入試の英語の問題がむずかしくて、というか今は使っていないような古い表現が使用されていて英語の本国であるイギリスの大学生が解けなかったという笑えない事実があったが、漢検もそんな方面に走っている。ふつうに読める程度の問題ではだれもが出来てしまう。それでみんな1級にしたら儲からない。よって解けない問題を無理矢理造りだす。「方に」はまさにまったく意味のない出題になる。こんなものを金を払って受け、「方に」は「まさに」と読むのだと的中し自慢しているひとがいるとしたらお笑いだ。いや現実の出来事として、こういう問題が有料の試験に出されているわけだから、「方に」を「まさに」と読めたと自慢するひと、勉強が足りなくて読めなかった、くやしいと思っているひとは、いるのだろう。そういうひとたちに支えられているのが漢検だ。



 結論として主張とちがうことを書くけれど。
 私はそういうものはそれはそれであってもいいのだとは思っている。
 友人Gさんの奥さんはタイ人だ。日本語がうまい。字の方も勉強している。漢検三級を受かったとかGさんが誇らしげに言っていた。もちろん最初はひらかなさえ書けない状況から努力したわけだ。たいしたものである。三級だともう新聞から小説まで不自由なく漢字が読めるだろう。

 私がこの事で「いいなあ」と思うのは、奥さんの努力の進路に、明確な目標として漢検が存在していたことだ。異国から嫁ぎ、夫の世話、子育て、それしかない生活の中で、奥さんは8級から7級、7級から6級と、それを日々の目標として励んだことだろう。幼稚園から小学校へと進むこどもにも漢字を教えられただろうし、タイ人なのに漢字に詳しいことは対外的にも大いに役だったことと思う。

 私は漢検をくだらないと思う。だけどこういう形で接するひとには、それは日々の目標であり大げさな言いかたをするなら生きがいといってもいいぐらいの価値があったことになる。そのことをすなおに認めるのである。

 私も妻に漢検をやらせてみようと思っている。私の妻はタイ族だが学校は中国だったので漢字が書ける。タイ文字しか書けないタイ人よりは遥かに適応性があり楽だろう。
 妻も日本で暮らすようになったら、日々の生活の中で学問的な目標はなくなってしまう。漢検を提示して勉強させることは彼女のためにもいいことのように思う。

 それが私のいまの結論になる。とはいえそれはそういう形での評価であり、私は漢字パズルに興味はないし、その種のテレビも見ないし、まして漢検を受けることなどぜったいにない。髙島先生が批判されたように、むりやり漢字を当て字で読ませる感覚には吐き気をもよおすほどである。
 しかしまた、妻が来日したら漢検を受けさせ、彼女の日々の励みにしてやりたいと思っているのも事実なのだ。

---------------

 2009年上半期ベストセラー


出版取次大手の日販とトーハンが09年上半期ベストセラーを発表した。総合1位はいずれも出口宗和著『読めそうで読めない間違いやすい漢字』(二見書房)。asahi.com 2009年6月7日


 これは前記のテレ朝の漢字クイズ番組でたびたび「この問題はこちらから出題されました」と紹介されていた本である。こういう紹介がなかったらここまでは売れなかったのはたしか。地味な実用書を出している二見書房がベストセラーを出したのは初めてだろう。著者の出口さんもたまげたろう。どこに宝の山が転がっているかわからないとみな再確認したはず。
 あらためて今の時代「テレビがすべてを作るのだな」と感じた。

 TBSの作り物「大家族青木家」を誰がいま覚えているだろう。だがあの長女が本を出したら(もちろん書いていない。ゴーストによるヤラセである)一週間で20万部を突破したのだ。最終的にどれぐらい行ったかは知らないが、講談社エッセイ賞を授章した立川談春の「赤めだか」が一年ぐらいかけて「10万部突破」と高らかに宣言しているぐらいだから、テレビの力とはしみじみおそろしい。

 テレ朝が「この本から出題しています」と毎週繰り返せば、出口さんという誰も知らないひとの本でも、二見というじみ~な出版社の本でも、中身は今までにもそれこそ何十冊、何百冊と出ている内容のものでも、史上空前の売りあげを記録できる。しかも内容は秀でた小説とかではない。同類が山と出ている単に「漢字の読みかたを書いた本」である。ほとんどの本を捨ててしまいほとんど蔵書の呼べる物のない私でも、同じような内容の本を何冊か保っている。それほど有り触れた企劃であり中身の本だ。だがブームという波に乗れば、テレビで押してもらえれば、こんなことが起きる。いやはやなんとも感に堪えない。そんなことがあるとは考えたくないが、毎週「この本から出題しています」とテレ朝のPにやってもらった二見の社長は、それはそれはあれこれ貢ぎ物をしていることだろう。
 ベストセラーもテレビが作る時代なのだ。



 敬愛する髙島先生の時間を掛けた良書が初版4千部という現状もあれば、こんな誰でも書ける漢字の読み方のありふれたものがテレビで取りあげられれば「2009年上半期ベストセラー」なのである。なんとも口惜しいが、それが現実であり、本なんてのはこんなものだ。

---------------









inserted by FC2 system